仏教の経典はそれぞれ内容が異なっているように見えるが、殆どは物事を見る角度が違ったり表現方法が異なるだけ。
実際は内容が異なるように見えても、どれも語られてることはその角度から見れば適切。
違いや優劣が生じるのは様々な解釈上にすぎない。
エッセンスは同じ。

そんなことも分からずに、仏教の教えを一方的な解釈から優劣を絶対化しているのが日蓮やその後継。
仏教のエッセンスは、空、縁起、唯識、無常、無我あたりに集約される。
ここが分かっていれば、仏教を優劣や正邪で区分する愚かさは犯さない。

日蓮、日興、日蓮正宗、創価の流れは文系脳なんだよな。
飢饉や災や盛衰といった一時的な目の前の事象のみを捉えてそれに執着することしかできない。

あらゆる事象は、気やプラーナとでも例えられるようなエネルギーの変容で生じている。
このエネルギーは常に変化し、止まることがなく、あらゆるものを包み、時間や空間を持たない。
この生命エネルギーを人間は制限された感覚器官で捉えるが、制限されているゆえに変容をとらえきれずに物と勘違いする。
そして、物と物との距離や移動を空間や時間に変換する。
実際は永遠の今ここのみしかない。
時間や空間は人間の脳が作り出している。

物質的現実なんてものはないし、正邪はないし、優劣はないし、南無妙法蓮華経などという還元される生命のリズムなんていうものもないし、個人としての人間はいない。
あらゆるものはエネルギーの戯れ。
そのエネルギーの変容や浮き沈みが、一時的に個人や物質として凝固しているように見えてはまた消える。

瞑想や呼吸法を使うと、人間の感覚器官を研ぎ澄ませて気やプラーナなどの流れを気づかせやすくする。
エネルギーを物質と勘違いする誤りに気づきやすくなる。
瞑想や呼吸法慣れしていたり理系脳の持ち主であれば、空や縁起や無常は理解しやすい。
エネルギー基準で物事を認識出来るから。

文系脳は、脳で考えて物の無実体性が理解できずに現実という幻想に囚われる。
その現実という幻想の中で、幻想から逃れようと正邪や優劣という区分や南無妙法蓮華経などという絶対基準を作り出す。