私は常々思っていた。
法華経中の不軽菩薩の行動には多元性が示される。
そこで私は、不軽菩薩の行動原理としての多元性と
ライプニッツの多元システムの逆説性と再帰性には
補間(compasation)するアイテムは必要だが
一体何を包摂すべきなのか?
そもそも、包摂関係が成り立つのか?
と考えては面白がっている。

当然、宗教だから論理性の飛躍はある。
知性の低い馬鹿にも、ある程度分かり易い方便なのだろうが
その言語論理の飛躍にも、飛躍の幅という物はある訳で
私はどういう訳か、そこにこそ興味が惹きつけられる。