脱会させる責任以前に誰にもその資格はないと思う。
何故なら宗教はいち個人のもので、その信仰心に他人がズカズカと踏み込んでよいものではないというのが一般社会の大前提であり常識だ。
脱会者はその常識的で一般的な感覚を取り戻すことのほうが必要で、そうすることが社会にとっても有益なんじゃないかと思う。

つまり創価攻撃、学会員攻撃はもういいから、普通に社会生活送って大事な人や快いと思うことに、その人生の時間を使いなさいなってこと。
他者を尊重しつつ、自分を保つことはこの社会を生きる上でとても大事ことだから。
それに脱会者が普通でいることが、学会員の脱会へのハードルが下がることにもなるんじゃないかな。