鯛焼きブログシニフィエさんとの対話
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>>178
>>179
レスありがとうございました。
難しいので考えてから、改めて質問させていただきます。 >結局は、何も無いし、誰もいないし、人生に意味なんて無いし、確実なものはなにもなく
>ただそのまま、ってことが私が言いたいことです
それ実は妙法蓮華経の後半に同じ事が書かれているんですよ。
でも創価学会員の誰もが、そこを読めないんですよね。
だから私は「法華経を読んでよ!一度で良いから法華経を読んでみてよ」
と創価学会員である私が「創価学会員」の仲間達に常日頃言ってます。
なんか変な話でしょ? >>182
私は分かったような偉そうなことをわめいていながら、その法華経をじっくり読んだことのないけしからん一人です。
あらすじしか読んだことがなく、元創価学会員でありながら法華経のなんたるかを知りません。
御書もそうですが、表現が古くさかったり押し付けがましくスラスラ読めない。
御書も同様にまともに読んだことがない。
仏教書よりも現代に近い哲学本の方がよっぽど仏教の真髄に近くて分かりやすい気がして、経典類からは直接学びませんでした。
話が脱線しますが、自分は廣松 渉という哲学者が好きで、御書を読まない代わりに廣松渉の書物を読んでいました。
彼は直接仏教は語りませんが、内容は仏教そのものという感じがしていました。
なんか分かりませんが、廣松 渉さんの本を読んでいると、内容は仏教に言及しないないのに勝手に仏教のエッセンスが身に付いているような感じ。 行方不明の2歳児を助けた、もと魚屋の78歳おじいさん。
「学歴もない自分が生きながらえた事への恩返しでボランティアを始めた」。
宇宙とか哲学ってなんやねん。 >>184
良かったよな
あのスーパー爺さんの行動力に感動した 表サイトでは、公明党に投票しなかったら成仏から外れるだろうか?
誹謗にあたらないだろうか?と
大の大人がマジに対話してるゾ。
宗教団体が政党作って、会員に支援しろってのは権力が欲しいからに決まってるだろが。
他に何があるってのさ? >行方不明の2歳児を助けた、もと魚屋の78歳おじいさん。
>「学歴もない自分が生きながらえた事への恩返しでボランティアを始めた」。
>宇宙とか哲学ってなんや
あなたも、おじいさんも
目を大きく閉じて生きて下さい。
そして、幸せな人生をお送り下さい。 >>187
あなたも、口を大きく開けて
ホーホケキョーとさえずって
生きて下さい。 世の中、人殺しもあれば人を助ける行為もある。
生命は生まれては死ぬように見える。
生命は各自分離しているように見える。
生命は具体的な経験を欲します。
もし生命は一つだとしたら?
生命は経験を実現するためには多様性を作らねばなりません。
なぜなら、経験とは対象を必要とするからです。
手拍子をしたいと思えば、手が一つなら手拍子ができない。
手拍子をするなら、手は叩く対象となるもう一つの手が必要。
大きい手拍子と小さい手拍子をしたいと思えば、大きい手と、小さい手が必要。
そうすれば手は4つ必要になる。
こうやって、元は一つの生命が、経験をするために自分を分割していきました。
細胞分裂のように。
分裂した生命達は、更なる経験を欲し、お互い役割を分担するようになります。
自分が叩く役割になるから、君は叩かれる役割になってくれ。
演劇の台本のようなものです。
こうやって、様々なペアのダンスが生まれ、そのダンスが生命の分割と共に世界中に広がり、無限の多様性の経験を編み出していきます。
演劇は、配役があり、台本があり、喜劇があり、悲劇があり、始まりがあり、終わりがある。
演劇は、終われば新たな台本が作られ、別なる演劇が展開される。
様々な経験をするために。
一つなる生命は、自分を分割した生命を使って自作自演の無限なる多様な演劇を創り出している。
無限の経験を味わうために。
分割された個人の生命は、演劇を繰り返し、演劇の役に成りきっていくうちに、役と同化する。
そして、本当の自分の出生を忘れ、本当の自分の目的を忘れてしまう。
「人間とはなにか?」「自分の生きる目的はなにか?」
どんな役や演技をしても、自分の本当な由来とは違うような気がして満足できない。これが、自己の実存への希求。
分割されたものは、分割されたままではない。
源から離れすぎたものは、源を希求したがる。
なぜなら、分割されたように見える生命の故郷は愛であり、一体であり包括だから。 様々な役を演じ、幸せや苦しみの体験をした。
乞食の役もやった。
その時の惨めさを挽回しようと思って今度は王様という役を選び、天下をとる絶頂の体験もした。
でも、なぜか本当の満足は得られない。
一時的な満足しか得られず、絶えず不幸になる不安に苛まれる。
でも、自我は言う。
悩んでいる暇はないぞ。
お前が頑張らなければ家族は困ってしまう、クラスの友達はお前を必要としている、世界は平和を求めている、お前は利他を実践して菩薩のような生き方をしなければならないんだ。
分割生命の継続、つまり個人としての演劇の繰り返しは、本当の母体から離れているうちに別の人格を作り出す。
その、母体とは別に作り上げられた架空の人格は、まるで独立した生命のように独り歩きを始める。
○○をしなければならない、○○であるべき、親や社会を絶対と見なして社会で生き残るために自分を律する人格。
この人格をフロイトは超自我と名付けた。
母体から分割された生命は、あまりに故郷から離れ本当の自分に帰りたいと願ったとき、この超自我が邪魔を始める。
超自我とは、演劇の繰り返し過程から生じた、舞台上でうまく立ち回るために規範を守ろうとする独立人格。
超自我とは、舞台上の架空の演劇内でしか存在を保てない。
分割生命が母体に帰ろうとして、母体との一体を取り戻そうとすると、超自我は居場所を失って消え去るしかないのだ。
あなたは葛藤する。
今迄頑張って生きてきたが、なにかが違うような気がする。
古代の聖賢達の教えが私を大切なものに気がつかせてくれるような気がする。
でも、社会で立派に生きなければならない。困っている人達が沢山いる。
自分だけつまらない悩みにこだわっているのは自己満足だ。
超自我は常に勝利する。
超自我は自分の生き残りをかけて、自分の寄生先であるあなたである肉体を常に支配しようとしている。
超自我の策略とは、常に外面に問題を作り上げる事。
寄生先の肉体が外面に目を向けていれば、超自我は自分の存在に気づかれることはない。
超自我の存在に気づいて超自我を消し去るには?
自分の内面に深く潜って、井戸を掘り起こして、常にそこにあった母体の泉を味わうこと。
母体への、故郷への望郷の念、希求の強さがあなたをそこへ導く。 なかなか私の理解が追いつかずせっかく説明して頂いてるのに申し訳ないです。
自我の増大が苦しみを助長させているのは、よくわかります。自我や欲、この世に執着する限り苦しみは消えない。
それでも、この欲とやらを手放すのは難しいですね。だって、小さな欲であれ大きな欲であれ、それを持ち続けてしまうのが人間だし、それが叶えられるからこそ幸せを感じられる。
お腹がすけば何かを食べたいとい動物的な欲求もあれば、2歳の命を助けたいという人間らしい欲求もある。
この欲求を否定することは、生きていくことさえ否定していくようで、難しいです。
うーん、それとも、欲があることも苦しみや幸せを感じることもすべてそのままに受け入れていくと言うことでしょうか? >>193
まず、私はたえちゃんの疑問に答える能力がありません。
というのは、私の興味は自我を消し去ることであり、また、その方法を求める上で私が導きだした答えは「自我はなんてものは元々存在しないい」だからです。
地に足をつけた表現を心掛けると申し上げたにも関わらず、人を煙にまくような表現になってしまい申し訳ありません。
私の自我に関する関心の先にあるのは、解脱に至ること。
たえちゃんの自我に関する関心の先にあるのは、自我とうまく付き合ってよりよく生きる処世術かな?
同じ自我の話題でも、目的の違いがあります。
この件につきましては、処世術には疎い私にはギブアップです。
私は極端な人間で、悟るためには肉体の崩壊も厭わない的な出家オウム信者のような危ない傾向の持ち主です。
たえちゃんの役に立てるとしたら、創価学会に自我を当てはめて説明することくらいでしょうか。
私は、創価学会とは、救世主コンプレックスタイプの超自我が、集団的に集まって形成されている組織だと見なしています。
だから創価学会は、正義中毒が集まり、正義を追求したがり、正義の元に活動したがるんですけどね。
たえちゃんの話題から離れてしまい申し訳ありません。
この創価学会と超自我の関係は、創価学会とは何かという側面を掘り下げる上で説明をしておかなければいけない部分だと感じています。
このスレが許せば、別の機会に記述する予定です。
私が処世術的な自我の扱いに関して云えることは、自分の欲に従って生きる上でもし罪悪感を感じるなら、そんな必要はないってことくらいです。
自我は悔恨を非常に好みます。
行動の結果に執着しなければ、自我の傾向は弱まってあるがままに近くなり生きやすくなります。 >>193
12色全部入りの絵具セットなら“自分次第“で何色でも表現できますよ。
“自分は緑が好き“、といっても緑色1ダースなんて誰も買わないしw
すべての人は最初から完全だった“無作三身“ということ。
その観点で否定する要素は何もありません。
必要な物が最初から全部あって完全です。欲望も善行もね。 ニーバーの祈り
神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ
変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ
自分は自我とエゴとは別物だと思う。
自身の欲望に駆られて苦しい時というのは、できない事を悔やんだり、できる人に嫉妬してしまうエゴの心。
そもそも、人は誰も賜物が与えられているのだから長所短所、得手不得手があるのは当然であり、大半の人々は自分より優れたものを持っているはず。
だから、大半の人は自分の教師でもある。
また自身も他の人には無い賜物を持っており、それは自身を励ます力。
変えられ無いものを追い求めるのでは無く、賜物を分かち合う知恵を育てたいものだ。 結局私が自我が嫌いな理由は、人間が輪廻転生してしまう理由が自我だから。
自我は、言い換えれば自己保全願望ゆえに、肉体が死しても次なる肉体を探して生まれ変わろうとする。
それゆえに、一時的に人生の一部で自我を抑圧して生きられたとしても、自我が残っている限りは転生してしまう。
自我があるかぎり、ありのままにいきられることはあり得ない。
ありのままとは全体の流れに身を任せることだけど、自我は個別性なんで自我は己の流れを守ろうとする。
自我ってものは、幽霊みたいなもんです。
自我は肉体維持機能なので、肉体をリアル化すれば自我が付属物として必ず現れる。自我の存続は避けられない。
言い換えれは、肉体を実在するものと見なせば必ず自我は存在する。
あの世を信じる限り、幽霊は現れてしまうように。
しかし、あの世は幻想と見抜けば、自我という幽霊は消える。
私が自我は存在しないというのは、神の視点では肉体は想念で作られた幻影であり、それゆえに自我も幻想でしないからです。
そんなこと言われても現実生活では全然役に立たない、と怒られてしまいそうです。
自分の記憶上で、神との対話では自我に関してどういった表現をしていたか思い出してみました。
自我とは直接関係ないけど、自分の印象に残っていたのは以下の部分です。
G:あなたがた自身の人生は、あなたがたのせいで、そしてあなたがたが行なった選択、あるいはしなかった選択のせいで、今のようにある。
N:しかし、私はそのトラックにぶつけられることを選択したのではありません!私はその強盗に襲われることを、あるいはその狂人にレイプされることを選択してはいません。人々はそう言うでしょう。世界にはそう言える人々がいるのです。
G:あなたがたはみんな、根本的に、強盗に盗む欲望、あるいは必要性を生じさせる状態の原因となっている。
あなたがたすべてが、レイプを可能にする意識を作り出している。 自分は、輪廻を信じていない。
人は死ぬと土に帰ると思っているから。キリスト教的だが、それが一番しっくりくる。
永遠のものも変わらないものも無い。
しかし、ある僅かの間でも愛や慈悲に出会えた歓び、その愛の思い出を抱いてこの世から消えてゆくのだろうと思う。
自分は、もうそれで充分だと思っている。 神の言葉は容赦ない。
人生で起こること、例えば事故を起こされるとか、レイプされるとか、不条理なこと。
これは、人間の観点からすれば決して望んでいない体験のはずで自分は被害者。
しかし神は、それはあなたが意識して選択しているという。
これはありのままの生きる観点からすると、
バスにひかれようがレイプされようが、自分が選択したと受け止めなさい
ということになる。
神のあるがままとは、
人生で起こることは自分で選んでいるんだから、必然として受け止めなさい
ということになりそう。
この内容は、自分は納得しています。
。
この内容は引き寄せの法則というものに近いような気がします。
ちなみに私は引き寄せの法則のことは詳しくありません。
自分の納得の理由は、人間は前の人生から次の人生に転生する際、いわゆる中間世という期間で、次の人生の青写真を決めているんですよね。
その青写真とは、魂のグループ員同士が演劇の台本を決めるような感覚で、各々が最良の経験を出来るような役割と出来事を決めて生まれてくる。
レイプは非常に悲惨なことだけど、それは既に人生の台本に書かれてあること。
人間は、映画や舞台を観劇するのに劇的な物語を求めます。
スリルや悲劇や喜劇など、刺激や興奮が強いものほど満足する。
平凡でスリルがない映画や舞台は、興味を持たれず誰も見に来る人がいない。
だから人間は、魂レベルで戦争や大虐殺など刺激的な悲惨なことを自分で意図していてもちっともおかしくない。
人生で起こることを自分が決めた台本通りだと受け止めなさい、というのが神との対話における神のあるがままのようです。
自分はそんな神は嫌いで、そもそも台本を演じる人生の繰り返しから卒業したい。
だから、これらの営みを創り出している神の夢からおさらばしたいという心境です。 仏教的に言うと、輪廻転生を終わらせ成仏したい、ということになるのでしょうか。
>>199
この世は本当に夢のようですね。
一瞬だけ現れて、一瞬で消えていく。
苦しいときは苦しいけど、でも愛おしくてたまらない。
私は今が幸せなので、あー永遠にこの幸せを感じていられたらいいのに、とわがままにも思ってしまいます。 >>201
たえちゃん、私もたえちゃんの年くらいの時はそう思ってました。
今が幸せ過ぎて、何も失いたく無くて年を取るのが死ぬ事が怖くて怖くて(笑)
今にして思うと、大人になれない、苦労が足りない、人に期待し過ぎ。
しかし口では自由が大事、自立が大切だと力説して。
なんの事は無い、実態は回りに依存して甘えていたたけなんだなと今は思います。
一山、二山越える度に大人になってゆくのでしょうね。 鯛焼きさんブログにおてもやんがコメント入れてます。
さすがの内容ですが、天敵アイスティも出てきましたな。 >>202
頭に色々な知識や色々な見方を身に着けても、心がそれについていっていない実感があります。
人が自分をどう思おうと関係ない、それは変えようがないことなんだから、と頭で分かっていても、いざ否定されると心がざわついてしまうように。
死生観なんて特にそうですよね。いろんな見方を知っても、心がそれに納得しないと意味がない。経験を積んだり時間が経過したりするごとに、色々と受け入れられるようになるのでしょうかね。 なんで自然科学(等)を追求しないのかが不思議。
ま、俺も研究者ではないけど。
真っ直ぐではないけど進歩して行く学問、色々な分野、色々な研究者から突っ込みを受ける
学問の方が、より洗練されて行くでしょう。
結論は出てなくて当然。
真理なんて現代の人間が使ってる言語で表現できるのかも怪しい。 >>201
伝統仏教は成仏を誤解しているところがありまして
伝統仏教の成仏解釈を改めさせてもらうと、成仏とは仏に成ることではありません。
あらゆるものは仏の顕現なので、改めて仏に成ることはできない。
なので正確に言うと
成仏、つまり自分は元から仏であったことに気づく。
それゆえ自分は個人であるという勘違いが消えて、輪廻をする必要がなくなる。
という感じです。
私がこの世は幻想だといい続けるのは、あらゆる物事は一繋がりの全体しかなく、分離して見える宇宙や個人は幻影でしかないからです。
人間の幸福っていうのは、たえちゃんが読んだことのあるクリシュナムルティの概念を使うと、条件付けされたものってことになります。
人間の幸福とは純粋な幸福ではなく、クリシュナムルティ的に解釈すれば、幸福でない状態が怖いとか様々な条件付けの元に、一時的な安寧を幸福と見なしていることになります。
なので、クリシュナムルティは自分の行動のあらゆる条件付けを観察して、条件付けを取り払えって教えます。
それは言い換えれば、常に心が行っている価値付けをやめて、偏見を取っ払って純粋に見ろ、ってことなんですけど。
これは極めて難しい。
価値付けとは自我が行う行為なので、言い換えれば条件付けを見抜くとは自我の働きを見抜くことにもなります。
自分はなぜ今を幸福と思うのか?
夫が優しいからか、子供が可愛いからた、それを失いたくないからか、姑から離れているからか。
幸福たった一つが、無数の条件付けから成り立っています。
クリシュナムルティは、これらの条件付けを全てやめれば対象をあるがままに見る事ができて、自我に汚されない純粋な経験が生じるとしています。 ただ、クリシュナムルティの言葉でさえも、実践出来なければただの理屈になってしまう。
私自身これらのことをできないから、クリシュナムルティの言葉を噛み砕くことなくただ引用することしか出来ません。
心とは習慣付けで成り立っています。
心とは、過去の経験の蓄積の元に、その経験から今を最適に生きる方法を見いだそうと働きます。
それゆえに心は、過去の経験の蓄積と異なる出来事に出くわしたら、否定したくなるのも当然です。
たえちゃんが過去にクリシュナムルティを読んだ事があるというのは、こういった心の傾向を見抜いている部分があったからだと思います。
普通の人は気がつかない。
「自分は人より経験が多いんだから、自分の判断に間違いはない」
このように思い込んだままの人が大半です。
まずは、そのような内省が主発点だと思います。
内省がより深くなれば、自ずと自己の客観的な観察が進んで、対処方法もより自分の傾向にあった具体的なものが見いだせるのではないでしょうか? /::::::::-、:::i´i::|/::::::::|
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*⌒) (二二二 二二つ *
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(⌒*☆*⌒) ( ノ (⌒Y⌒(⌒*☆*⌒)
(__(⌒Y⌒) > Y_/ (⌒Y⌒)*☆*⌒)__人__)~
Y⌒)(⌒*☆*⌒) 〈_/ ノ (⌒*☆*⌒)人__)~(⌒Y⌒)
上 級 バ カ 夫 妻 アイスティは、今のHNは海。対話ブログではモニカと言って、シニフィエ氏の片腕のような存在の極アンチだった。
しかし、やたらめったら新参者に「なりすまし、工作員」認定を乱発して、揉めて対話から撤退。
その後、アンチブログを書いていたが、そこにコメント入れたおてもやんに冷たい仕打ちをする。
そして仲が良かった他のコメンテータとも揉めて絶縁状態。
さらにはアンチ掲示板を何度も批判して、5チャンとも揉めた。
今は、「珈琲一杯分の話」というブログで対話ブログの内容をやたら批判している。 ああーモニカさんかあ
説明してくださってありがとうございます >>212
「創価学会やめたるぞ」というブログ見て下さる?
これモニカだと思うんだが。 アイスティー=モニカ?
自己顕示欲が強いのは似ている。
信者、元信者は一度創価脳に染まると
皆が皆ではないが抜け出せないんだな。
指導者が裏切者は攻めて攻めねけとか
地獄に堕ちるとか等々
題目を唱えるてる人間が言う言葉かね?
ケツの穴が小さい、人間が出来てない
指導者がこれだから信者も信者だな >>214
うん、モニカは今は海だが自身の「珈琲一杯」ブログで、鯛焼きさんブログにアイスティのHNで書いてると言ってるよ。 モニカ氏は創価脳とは別物の、ある種の個性的人格だと思う。 お前らモニカ話題するなら、違うスレ勃てしろや
ここはシニフィエと鯛焼きスレ 鯛焼きさんブログ、それなりに盛り上がってるね。
書き込みしてる信者さんは、少しは創価に疑問を持ってるらしい。
シンパブログに比べて、遠慮しつつも本音が見え隠れしてる。
そこへ時々、脱会者が来て外部も納得する矛盾がない正論の書き込みが清々しい。
鯛焼きさん達は、悪意はないんでしょうが典型的な詭弁のオンパレードなんだよね。 >>213
久しぶりに創価板を覗いてただけなので、他のブログはもういいや(ありがとさんです)
>>220
おっす、おら悟空
ほなまた消えます >>222
便りが無いのは、元気な証拠。
また、どこかで.,.バイ 半端な教義論争をするとめんどくさいだけ。
日蓮の個人的私信を「金言」とノタマイ都合よく切り取る。
坊主の決めた寺内ルール(教義)を正しいとか間違いとか、どうでもいい事だ。
20年も30年も「宿命転換するぞぉ!エイエイオー」ってw
いつまでやったら転換するの?って。それだけでいい。
「信心が足らん」と言ってくるので「そんなあなた方は
そのザマァですか?」と笑えばいい。
「仏教は勝負」ですよね?人生かけて負けまくっとるw
それがすべてです。 >人生で起こることは自分で選んでいるんだから、必然として受け止めなさい
ニサルガダッタさんの書き込みは興味深い。
どの様な信条なのか?というラベリングは抜きとして。
浄土真宗の「歎異抄」にこんな話があります
親鸞「お前は私を信じるか?」
弟子「はい」
親鸞「では今すぐ人を千人殺してこい。そうそればお前を極楽浄土へ責任を持って連れてってやる」
弟子「しかし上人様、私にはそんな事は出来ません。私はその器では無いのです」
話を整理します
・弟子は親鸞上人を尊敬している
・親鸞は弟子に千人殺してこいという
・その代わり極楽浄土へ行ける事を約束する
・弟子は出来ないと否定する
・弟子は自分の器では出来ないと釈明する
大乗仏教に詳しい方なら親鸞の言う「悪人正機説」の誤解を解く為の問答だと分かる。
親鸞は暗に「縁起説」を極端な例え話で弟子に伝えた。
残念な事に弟子は直ぐには理解出来なかった。
人間は社会の中で「共感ゲーム」(常識とか道徳とか)にコミットして生きている。
そのコミットメントを一旦忘れなければ「縁起」という物は理解できず
超自我がそれらのコミットメントから離れる事を深層心理下で拒絶している。
人間の多くは怖がって共感ゲームの中へ引き返し、安心し、安住する。
故に「縁起説」や「悪人正機説」を本当に理解する人は少ないと言っているのだろう。 ニサルガダッタさんに、ちょいと質問
OSHO(旧・バグワン・シュリ・ラジニーシ)についてお詳しいでしょうか?
ご存知無ければ返答は無くても結構です。
失礼いたしました。 >>226
パグワンは明らかに私の方向性なんですが、パグワンは悟りの深さよりも理知が勝ってしまっている印象で私は相性が合いませんでした。
自我が燃え尽き切れていないという印象です。
でも、過去の無数の叡知を悟りという観点から光を当て直して現代に甦らせた点は、先駆者であり革命家であったと思います。
私はどうも大乗仏教が苦手で、大乗仏教は学んでいません。
縁起思想にしても、港間に流布している説明はなんか平板で満足できないものばかり。
廣松渉の事的世界観を学んだあとに改めて縁起思想を学んだんですけど、仏教書による解説よりよっぽど廣松の方が縁起の本質を仏教知識を一切使わずに理解・表現できていると思いました。
クリシュナムルティの思想も、彼は仏教を意識していませんが、内容は仏教以上に縁起の本質に辿り着いています。
そういう経緯で親鸞さえも私は全然知りません。
大乗仏教は頭に入ってきませんが、インドのアドヴァイタ思想はがんがん頭に入ってくるタイプなので、運命論に関してはバガヴァッドギーターにおけるカルマヨーガ思想が私の土台です。
バガヴァッドギーターでは、神であるクリシュナは王子アルジュナに敵を皆殺しにしろと命令します。
王子アルジュナは、敵の中に親類の姿を見て戦意を喪失して、弓矢を戦場に投げ捨てます。
それでも神であるクリシュナは、アルジュナに戦士としての戦意喪失の愚かさと与えられた義務を成し遂げる重要さを説きます。
そして、不殺生の教えはどこへやら、神と王子は敵を蹂躙して殲滅を成し遂げます。
ここでは語り尽くせませんので細かい解釈はやめにしますが、ひょっとしたら歎異抄の紹介部分と本意は同じかもしれないと思いました。 >ここでは語り尽くせませんので細かい解釈はやめにしますが、ひょっとしたら歎異抄の紹介部分と本意は同じかもしれないと思いました。
非常に興味深いですね。
浄土真宗には「種」という記号と概念があります。それぞれの宗派も呼び方は違えど伝えるべき事は伝えているようです。理解出来るかどうかは別として。
私が所属する創価学会では「宿業」と言ったり、原始仏教では「無明」と言ったり、禅宗などは「機縁」とか。
卵があります。ただの一つの卵です。
・お湯に入れるとゆで卵が出来ます。
・フライパンに落とせば目玉焼きになります。
・箸でかき回せばスクランブルエッグ
・ご飯にかければ卵掛けご飯
・お湯に落とし込めばポーチドエッグ
お湯もフライパンもご飯も箸も無ければ
ただの一つの卵です。 モニカと創価やめたるは文体が全然違うし他人じゃないか?
どっちもねちっこい感じだけど、珈琲一杯はもっとどぎつくない? >>230
>>231
そっか。そもそも、モニカとシドは同じ人と言う認識の人もいたからな。
不自然な程、芝居がかってたしょ。 学会はジジババの溜まり場
シニフィエブログもジジババの溜まり場
2世・3世スレにも提灯で完全覚醒して2世・3世がまったく書き込みをせず全員脱会 対話ブログはアンチとしては頑張ってるし、そこには敬意を示すが、
菅野完の主張を掲載するのは、如何なものか。
極左活動家で婦女暴行罪で罰金刑、米国でも2度の婦女暴行でただ今、逃亡中。
本人も認めている。
籠池氏に接近して、反安倍批判に加担させその見返りに「韓国民団」から4000万円の裁判費用捻出を約束(籠池長男証言)。
もちろん、菅野が書いた「日本会議の研究」は嘘八百。
日本会議のメンバーが一番びっくりしている「俺たちそんなに凄いの?」。ガバナンスも適当なサークル活動並の団体なのに。
問題なのは、この程度の情報なんて簡単に取れるのにそれさえ認知バイヤスが効いてるのか、検証もせずにアンチブログで反安倍の主張を繰り返す○○○○さん。
それに同調する主催者。
とっくの昔に創価を止めてるのに騙された経験が役に立ってないなぁ。 菅野完のこと何も知らないんだと思う
籠池の息子のこととか
創価の次は左翼メディアに騙されて ちょこちょこ見てるのですが頭がついていかなくなりました^^;笑 たえちゃん落ち着いてね
あせらなくても大丈夫!(^^)! >>233
創価学会が警察から池田氏の動静と内部情報を収集されている立場の団体であるとか
創価がこのまま嫌がらせを止めない場合、会員と幹部らが逮捕されるという話を知って
どうもその影響で他人が一気に減ったっぽい
スレから書き込みが激減したのってそこら辺だから
本当にその少し後でみたままつりが起きたので、これが止めになったらしい >>237
本当にそうかに戻るって地区部長に連絡したん? >>240
あれは冗談です^^;笑
あーそう、創価がすべて正しいですよ、私はすべて間違っていますね!って腹が立って…。 >>238
ありがとうございます(T_T)
普段は平気なのですが、数カ月に一回くらい、ものすごく腹が立ったり、悲しくなったりして、どうしようもなくなります。 家族も友人も活動家で、『創価が正しい』『創価を信じていてよかった』『創価を信じられないやつはかわいそう』
といった内容を耳にすると、どうしても憤りを感じます。
でも、本人を前に、『創価がやってることは金儲けだ』とは言えず、『何を信じようと自由だろう…』と自分に言い聞かせては、孤独感に襲われます。 >>243
創価の会員さんでもマインドコントロールが強烈に掛かってる人には論理は通じないよ
下手に相手にすると、相手にした側が精神をやられる 人生の本質を理解することは難しい。
それは理論が難しいとか言葉が難しいというのではない。
難しい原因は、従来の考え方の土台を放棄して、新たな考え方のp土台を作り直さないといけないからです。
世の常識では、物事は勝手に自分の手の届かないところで起こっています。
だから、悪いことが起きればあれのせい誰のせい自分のせい。
困ったり悪い出来事に翻弄されないように、保険に入ったりお金を貯めたり正しい対処方法を身に付けたり自分を責めなければいけないということになってしまう。
しかし実際は正反対です。
物事は自分や自分の所属するソウルグループ、究極的には人類の共同意識が物事を起こしています。
だから偶然はない。
全ては必然。
悪い出来事も正しい出来事もない。
それらは人類の共通意識がスーパーコンピューターよりも正確に作り出した、人類全体の意思を平等に叶えるための宇宙史というシナリオです。
これがありのまま、あるがままです。
そうすると、自分を守るためにする必要のあることなどありません。
確かに肉体は傷つけられるように見えることもある。
しかし魂は永遠。
人間の肉体とは、人生というシナリオを演じる為の役作りであり、永遠には存在しない一過性のもの。
自分は肉体ではなく、それは一過性の役であり、自分の本質は演じられる役を全て包括する永遠不滅の総合舞台と知る事が、新たな思考の土台の作成となります。
この土台の作成は、今まで拠り所としていた正邪という逃避先は邪魔になります。
この土台の作成は、正邪の先にあります。
自我が作り出したあらゆる価値観や条件付けの放棄が新たな土台の作成に必要であり、これはあらゆる人生の困難の中で、最も困難な作業と言えるかもしれません。
なぜなら、これが解脱に向かってあらゆる事を成し遂げた後に残る、最終的に立ちはだかる自分の思い込みという最難関の関門だからです。 >>243
回りが創価ばっかりなのは、しんどいね。
ぼちぼち、新しいコミュニティに参加するのもあり。
自分も創価兄弟と絶縁して、3年経つけど昔の友人とまた遊ぶようになったり子供が結婚して新しい親族ができたり。
巡り合わせってあるよね。 >>245
>究極的には人類の共同意識が物事を起こしています。<
これも、あなたの思い込みでは?
肉体の人間の欲は様々で、意識の強弱も人それぞれではないのですか。
より強い意識が他を排除して物事を作り出しているのでは? 仏教も哲学もあまり関心が無いけど、しっくりする言葉がある。
なるようにしか成らない。
縁がなかったんですね。
なんていうか、ファジーなんだけどそう言われると納得できるのよね。 ネットの情報を
鵜呑みにしてる奴はバカ、と言う人の殆どが
テレビ、新聞の情報を元にモノ言ってる。
バカは一体どちらでしょう?
偉い人オセーテ。 運命とか因果とかを好むのは不安だからだと思う
全て偶然と考えるのは勇気がいるからかね なるようにしかならない、って、心から思えたらいいんですけどね。
創価どっぷりの友人も、家族も、創価さえ絡まなければいいのに…。
特に家族とは仲が良くて、みんなで誕生日会開いたり、独立したあとも集まってわいわいしたり、本当にいい家族なのです。
そんな家族や友人から離れたくない。
でも、創価が絡むと、急に頭がおかしい人に見えてしまう。
ちゃんと話が通じていたのに、急に通じなくなってしまう。
この悲しみや怒りをなかなか受け入れられません。大好きで、大切なのに、でもどうしようもできない。
なるようにしかならない、って思いたいなあ。
どうしても、なんとか変わってほしいと思ってしまう。 鯛焼きさんと話していてもそう思った。
すごくいい人だけど、そこでわかり会えない。
創価だけが正しく他は間違い。
みんな知らず知らずのうちに創価じゃない人をかわいそうって見下してる。
なんで?創価じゃないとだめなの?
創価でもそうじゃなくても、みんな一生懸命生きてる。なぜ優劣をつける? >>252
テレビでも新聞でもネットでも、鵜呑みにするやつは全員バカ。
したがって、逝去新聞を鵜呑みにするやつはバカ。 たぶん私の書いていることは極論だと感じるのは当たり前で、その理由は、肉体の知覚機関や認識機関とは本来のありのままを知覚するのに極めて制限がある代物で、また意識の伝導に極めて時間がかかる劣った代物だから。
幽体離脱とか臨死体験でもすれば、言葉など必要でなく一発でこの感覚が分かるんですけどね。
肉体の鎖から離れれば、肉体の知覚・認識機関の制限から外れるので、時間を必要とせず、また空間という制限を受けずに相手が何を考えているか伝達し合えてしまう。
意識とはエネルギーだと考えると分かりやすいんですけどね。
こんなこといくら書いても肉体の制限下にあれば理解できる事ではないのでやめにします。
そんなことよりも、人生を考える上で、「じゃあなぜ人間は、肉体などという意識の伝達に制限がある乗り物にあえて憑依するのか?」という問いが重要です。
霊の意思伝達のスピードが光だとすれば
、肉体の知覚・認識機関の意思伝達のスピードはローカル線と言えばいいでしょうか。
人生とは、すでに起こっている、すでに生じている神の可能性一端を辿り直す旅路です。
こんなこと書くと頭おかしいと言われるでしょうが、以前書いたコンピューターゲームに似ています。
コンピューターゲームは、ゲームを始める前に、ゲームで生じるあらゆる内容が既にプログラミングがなされています。
ゲームプレイヤーは、キャラクターを使用してそのプログラミングの切れ端を辿って行きます。
時間のかかる作業ですね。
そのゲームの全プログラミングは、私はコンピューターは詳しくありませんがエンジニアにとってはゲームのキャラクターなど使用せずに解析出来てしまう。
でもゲームプレイヤーはそんなゲームのカンニングのようなことはしません。
ゲームキャラクターを使って、一つ一つの場面を時間をかけて、あらゆる展開を経験をする事をのぞみます。
ローカル列車の旅のように。
人生も同じです。肉体とはその為の乗り物です。
光の速さで通りすぎては経験できない場面を、肉体を使って、人生の困難のあらゆる機微をスローモーションで体験するための手段です。
なぜそんなお互いの意思伝達に時間がかかる、お互い誤解を生みやすい、食い違いやすい、理解を生みにくい苦しいことを人間は敢えてするのか? ここに答えがあります。
なぜ人間はコンピューターゲームなどという、クリアするのが困難で時間がかかることを敢えてするのか?
そして、なぜそのようなことに喜びを感じるのか?
人生の旅路とは、自分を知る旅路です。
神が、人間の共同意識が作り上げた宇宙史という旅路をお互い味わい楽しむために、肉体というローカル線を使って辿り直す旅路です。
人間関係も全て同じ。
人間関係で生じる喜怒哀楽は、以心伝心が出来てしまうと生じません。
喜怒哀楽とは、コミュニケーションに障害があって初めて生じます。
意思伝達に制限があってこそ、感情に様々な様相が生じます。
この様相を神、あるいはあなたは、相手という対象を使って表現し表現されようとようとしているのです。
自分を知り尽くすために。
苦しみとは、この旅路において肉体という乗り物に成りきり過ぎて、目先の物事にのみ執着してしまった結果生じます。
言い換えれば、ゲームプレイヤーがゲームをクリアできないキャラクターに成りきってしまっている状態。
旅路全体を見渡せれば少しは楽になると思います。 鯛焼きくんはとても創価学会の人には思えない。
アンチブログと同じだよ。およげたいやきくんのように店のおじさんとケンカしてネットの海に逃げ込んで難破船を住処にしているね。もうそっ閉じ。 鯛焼き君ブログはアンチの痛いところをうまく突いてると思うけどな
たぶん誰も答えないが内心はギクギク感満載でしょう シニフィエ氏は、信者に創価が詐欺団体だと気づいて欲しい。そして創価が崩壊して欲しい。
これが唯一の目標なんだと思う。
鯛焼きさんや対話批判者と争う事では無いと思うよ。
そりゃあ、人間だし強い怒りを抱えているんだから、たまに創価脳をコテンパンにしてやろうとしたり、見下すように投影して優越感を持ちたい時もあるだろう。
本人は、ブラックと評しているが、
これは誰にでもある心理であり極々、普通の人の範囲だ。
私など外部は、もっと真っ黒スケ。
3年間対話を読んできて、自分にはシニフィエ氏が理解し難かった。
6年間も対話形式のアンチブログを続ける意味が。
常に新参者に対応しながら信頼性のあるブログにまとめなければならないし。
1円のお金も貰えない(笑)
家族全員辞めたのだから、もう創価の事は忘れて前を見て生きて欲しいと思った事もある。
人様の事を解ったように言ってしまうのは、とても僭越なんだけど今はこんなふうに思っている。
50歳過ぎての2世の覚醒というのは、人生の半分以上創価人間だった訳だ。
それくらいの年になると何にしても簡単に頭が切り替わらない。
加えて、彼は非常にピュアな人。
ピュアだからこそ、50年以上も気がつかなかったとも言えるが。
若い頃、結婚まで考えていた彼女と創価の為に別れてしまい、
何の落ち度も無い外部の彼女の人生を変えてしまった過去のトラウマも大きい。
シニフィエ氏が言うとおり、彼が一番許せていないのは彼自身なんだろう。
創価問題に取り組み続けていないと人生の帳尻が合わないんじゃないかな。 対話にも外部なのにわかったような事をコメントする人がいる
あれ何なんだろうな
あんたに一体何がわかるんだ?と思いながら読んどる 暇そうな支部長さんだなwww
統監数も200弱って少なくない?
地区数、ブロック数がどれ位で
何処の都市かも分からんが
統監数が本当なら衰退しているのは読み取れる >>259
そうそう、仕事もしてる支部長なんて自分の回りの学会員の事や打ち出しでいっぱいいっぱいじゃないかな?
ブログまで作って内部アンチや脱会者と関わっても信者として何の得にもならないし、上手くいかないものは題目で解決しようとするんじゃないかな? 友好期間も終わり、今日から
殆どの所では夜、地区協議会あるでしょう
友好期間中のエピソード、新聞啓蒙
党関連等々大変だと思います。
各担当者がいますが、友好期間中のエピソードを
読むだけでも大変ですよ。
後、支部総会または地区総会も控えてますからね 〇焼き氏の正体は、壮年部だと言っていたので、事実であれば元広宣部活動家の幹部だよ
幹部としての肩書は恐らく嘘で、総県か総級の幹部、信濃町の指示を受けて、シニフィエ氏のサイトを閉鎖に追い込もうとした
シニフィエ氏のサイトへのクレーム攻撃が失敗に終わったので、第二弾として仕組んだ攻撃が〇焼き氏の突撃だろう 267だけど、幹部だったらブログやってる暇はないとか、そういう書き込みがあったので指摘しておいた
〇焼き氏の活動は広宣部の活動の拡張版だから、あそこが現役会員に牙を剥くのも珍しいからね
だから思い至らなかったのかも知れないけど、彼の素性はそれ
あるいは年齢偽ってて、本当は広宣部の活動家で役職持ちの幹部か >>258
ニサルガダッタさんの創価批判は、素晴らしいのですが宇宙の話になると心に入ってこなかったです。
般若心経の「空」に近い気がするんですが、日常生活の中では殆どの遭遇しないので距離感がありました。
しかし、今回の人間関係の話は少しだけ心に入ってきました。
自分の解釈では、人間関係の不協和は相手や自分を知ろうとする行為ではあるが、自分の心がかってに造り上げている産物でもある。
自分が造っているものなので、自分でコントロールできるものでもある。
アドラー的には、「あなたしだい」
。その一つ一つに執着しないでもっと大きなものの見かたで心を解きほぐそう。
と言う事かなと凡人は少し考えました。 >>268
支部長では無いということで良いのでしょうか?
総県の幹部は、普段どんな事してるんですか?
F取り、新聞啓蒙、家庭訪問しないのならネット工作する時間はあるんですよね。 >>264
なんでそのハンネにしてるん?
他人が使うハンネやめとけよ >>271
>>268は糖ストって呼ばれてる人じゃないかな >>270
支部長でもF取り、新聞啓蒙、家庭訪問しますよ。
地域によってでずが婦人部から支部幹、地区協議会で
成果を出してから話し(挨拶、指導)をしろと言う方が
います。突き上げがキツイ所があります。
全部が全部ではありませんが。
総県、県幹部で人気のある方は会合に良く呼ばれ
会合で挨拶、指導を良くされています。
座談会に呼ぶのに大変です。携帯にかけても
繋がらない時が良くあります。
人望のない方は呼ばれません。
時間はたっぷりあると思います。 >>272
♪───O(≧∇≦)O────♪キター
アイスティー乙 >>272
何故>>264が他人のハンネとわかるの?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
不思議でんがなまんがなwww >>269
横レスごめんなさい。
ニサルガダッタさんの書き込みは私は楽しんで読んでるし理解もしています。
ただ理解と言っても字面そのものを直接的に肯定しているのでは無く、ニサルガダッタさんが書き込む行動原理を伺って理解しています。
これは聖教新聞や大白蓮華などにも見られる事象であり、その受け取り方は様々です。
先日の聖教新聞の寸鉄に「日蓮のように法華経を広めよ」という文言がありました。
これ、字義にとらわれずに一度考えて見ましょう。
1・法華経を自習して他者に広めよう。なのか?
2・創価学会の機関紙の文言をそのまま頭にインプットし第三者にアウトプットしろ。なのか?
3・よく理解出来ないけれども法華経が素晴らしいという教義なんだらか何も疑わず考えず適当に信じてろ。なのか?
ここで、よく比較して見てください。
創価学会の機関紙は法華経や御書を引き合いにして話をします。
ニサルガダッタさんはアドヴァイタやカルマヨーガを引き合いにだすけど
よく読むとニサルガダッタさんは、それらの原理主義では無い。
文字では表せない事を、あえて言葉にしようとする真性を感じられる書き込みがほとんどです。
これらは「疑似相関」という誤謬をひきおこします。もっと正確に言うと
多くの人々はそこまで知性的で無い故に、「疑似相関」という間違い自体を常識だと思い込んでいます。
>>269さんの仰る「執着しないでもっと大きく、、、」の言葉は間違いではりません。269さんにとっては真実です。
間違いなのは、または間違いになりそうなのは269さんの書き込みを見て、どのレベル、どの抽象度で咀嚼するか?
という受取手にあると思います。
「日蓮のように法華経を広めよ」のたった1センテンスには何千何万もの解釈があります。
その聖教新聞に「相関関係」と「因果関係」の区別が記されていないという所が問題であり
ニサルガダッタさんは、その低次元、抽象度の低い思惟からの脱却を教えようとしていると私は見ます。 (続き)疑似相関には色々な形がありますが。一つだけスレに即して書かせていただきます。
1・夏は暑い
2・夏はアイスクリームの売り上げが伸びる
3・夏は水難事故が多い。
1と2には因果関係が存在します
1と3には因果関係が存在します
しかし
2と3では因果関係は全く存在しません
これらを考えて下のセンテンスを読んで見てください。
「アイスクリームがよく売れる時期には水難事故が多い。よって水難事故を減らす為にアイスクリーム販売を規制する必要がある」
今までのTVで取り上げられた全ての宗教団体は、少なからず疑似相関という砂上の楼閣を
理論武装の「説明一切不要」の暴力的原理主義を持っていました。
色々な宗教団体事件を思い出して下さい。 >>276
あっ、でんがなまんがなさんだ!
そうすね、彼女は古くから5チャンの常連さんだもんね。
本人は、「5チャンには1度も書いた事無い。」と大嘘ついてるけど住人は分かってるでんがなまんがな。(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています