人間は神や仏と同じ性質を持ち、神や仏が人間という器を通して気付いているんだが、人間の無数の生命は散弾銃の弾のように広がりすぎて、神の性質が薄くなって、私はバラバラの断片、つまり個人的生き物だと思い込むようになる。

こっから人間は自分は神の子だというこという意識が極限まで弱まり、個人としての生の冒険が始まる。
この個人としての冒険には常に次のような心理が付きまとっている「神は我を見捨てた」あるいは「我は神の元から離れた」。
これが人間の原罪の意識を作り出す。「我は神から捨てられた」あるいは「我は神の元から離れた」だから自分は駄目で救われなければいけないという根本的な罪悪感、あるいは神への敵意を。
しかし、これは事実ではない。
神の記憶が薄くなっただけで、神は人間という器に常駐して、常に気づき続けて自分である人間を通して常に自分自身を経験している。

しかし、人間はそんなことには気づかない。
神から見捨てられ分離したんだったら、人間という独立存在として逞しく生きていかねばならない。
それゆえに闘争が始まる。
生きていくためには弱肉強食が必要だ。
人生なんて一度きりだ。
あるいは生まれ変わるかもしれないが、生まれ変わるんだったらとにかくカルマを作らないように良いことをしなければ駄目だ。

こんな感じで、人間は獲得という利益を得て、勝ち残るために勝負に勝つという、生存本能に根差した生き物になっていく。
この独立的な生き方が、神や仏と同一という意識から完全に離れた分離意識、つまり自我を誕生させた。

人間は、ここから自我を発達させて生きていくことを主眼とするようになる。