スチールカンさん。

 愚人は、法華経編纂者達には、

 誰かある一人の衆生のためにだけでさえも説示したり、あるいは語ったりする人は、如来によってなされるべきことをなすひと(法師品/植木訳)

との大いなる自覚があったので、自分達が「嘘をついている」という自覚は無かったと思います。

 また、

 説一切有部の小乗涅槃経には、第三者から聞いた教えを仏説か非仏説かを判断する基準として、「法性に違わない」ければ仏説と判断して良いとの記述があり、(筑摩選書刊 平岡聡著 『大乗経典の誕生』119頁)

 『大毘婆沙論』の冒頭にも、

 ブッダの説であれ弟子の説であれ、法性に違わなければ仏説として受持してもよいとブッダ自身が認めた(『大乗仏教の誕生118頁』)

との記述があることから、法華経の編纂者達は「一切衆生本来皆菩薩/一切衆生皆成仏道」とのブッダの本性を説いているとの自負があったでしょうから、「嘘をついている」との思いは無かったと思います。



 不軽菩薩は「菩薩」でありますから、その行は、「仏道無上誓願成」という「自利」と「衆生無辺誓願度」という「利他」であるとおもいます。苅谷定彦氏も、

 「あなたはぼさつ行を行じなさい。仏になります」という“呼びかけ”は、まさに自利にして、しかも、利他のぼさつ行であることが知られるのである(『法華経〈仏滅後〉の思想』516頁)

と述べています。