>>165
@その引用の後には以下の文が続いている。

>こうした方法でストゥーパ(塔もしくは塚)をつくって拝むに値するのは四種の人々で、その四種とは
>『如来、尊敬されるべき人、正しいさとりを得た人』、『独りでさとりを得た人(独覚)』、『如来の弟子(声聞)』、『転輪聖王』であり、
>どういう理由でストゥーパの建立に値するかというと、――
>「これは、かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いたひとのストゥーパである」と思って、多くの人は心が浄まる。
>かれらはそこで心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の世界に生れる。
>また『独覚』『声聞』『転輪聖王』についても同様であることを述べられます。

このようにストゥーパを立てて供養する対象は基本的に「悟りを得た聖者」であり、
それで供養する功徳は心が浄化されることを通じて得られるものであると説かれている。
これは日蓮教の現世利益じみた外道のオカルトとは自ずから次元が異なる。

A日寛の言説は日蓮の主意に違背しているというのか?