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元史料は『吾妻鏡』文治2年正月2日条です。この日、源頼朝は鶴岡八幡宮参拝をします。関係部分の読み下し文は、

そもそも今日御神拝の間、供奉人等廟庭の左右に相分け着座す。しかして胤頼父常胤と相対し着す
〈いささか座下方に寄るうんうん〉。人甘心せず。これ仰せに依りこの如きとうんうん。
常胤父たるといえども六位なり。胤頼は子たるといえども五品なり。官位は君の授けるところなり。なんぞ賞せずやの由仰せ下されるうんうん。
この胤頼は平家天下の権を執るの時、京都に候とえども、さらにその栄貴諛わず。
遠藤左近将監持遠の挙によりて、上西門院に仕え、かの御給従五位下に叙す。また持遠の好みにつきて、神護寺文覚上人を師檀となす。
文覚伊豆国にある時、同心せしめ、二品に示し申すの旨、遂に義兵を挙げ給うの比、常胤に勧め最前に参向せしむ。兄弟六人の中殊に大功抽んでる者なり。

です。
すなわち、胤頼が父常胤と相対して着座したのを他の御家人達が感心しなかったを感じた頼朝が胤頼は5位、常胤は6位と、天皇より授かった位階を尊ぶのは当然と言います。
さらに、頼朝か反乱に立ち上がった時、父常胤反乱参加を勧めており、兄弟中で最も功績がる者だ、と激賞しています。