0001少考さん ★
2024/01/25(木) 09:27:02.28ID:RYjMLQebhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/305015
2024年1月25日 07時14分
夏目家で飼われた生きものを供養するための石塔「猫の墓」。左は説明する漱石山房記念館の亀山綾乃さん=いずれも新宿区早稲田南町で
日本文学史上、最も有名な「名もなき猫」だろう。明治期を代表する文豪、夏目漱石のデビュー作「吾輩(わがはい)は猫である」の主人公、いや主猫公か。そのモデルは実在した。元々は野良の黒猫。正確には黒ずんだ灰色で虎斑(とらふ)があったそうだ。1904年夏、当時千駄木にあった夏目邸に迷い込み、漱石の妻、鏡子が猫嫌いで追い出したが、何度も戻ってきては「ニャン」。あきれた漱石が「置いてやったらいいじゃないか」。それで居ついたという。
「吾輩は-」には猫がネバネバの餅を食べようとしてもがく「猫踊り」の場面がある。これは実話で好奇心が強く、いたずら好きな猫だったようだ。新宿区立漱石山房記念館の学芸員、鈴木希帆(まほ)さんは「布団の上に粗相をしたり面倒を起こすことがしばしば。怒られても動じない猫でした」と言う。擬人化を思い付かせるには十分な大物だったのだろう。
当時、漱石はロンドンへの留学を終え、東京帝国大学の講師になったばかり。留学時にストレスで患った神経衰弱がまだ治っていなかった。俳句仲間の高浜虚子から「気分転換に小説を書いてみては」と勧められて書いたのが「吾輩は-」。絶賛され、その後に「坊っちゃん」や「こころ」を書いて大作家となった漱石だが、猫が居つかなければデビュー作は生まれず、歴史は違っていただろう。
夏目家は07年9月、今は同記念館や漱石公園のある早稲田南町に転居。その1年後に猫は物置の中で死んだ。恩義を感じていた漱石は庭で「埋葬の儀」を挙行。数人に死亡通知を書いた。同記念館に残る通知は「『三四郎』執筆中につき会葬には及ばず」と漱石らしいユーモアで結んでいる。虚子は「ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ」と電報を打ち、朝日新聞には「夏目氏の猫死す」と訃報が載った。
漱石山房記念館に展示されている「猫の死亡通知」のはがきの複製
漱石山房記念館に再現された漱石の書斎(県立神奈川近代文学館と東北大学附属図書館の協力により再現)
ところで、猫が迷い込んだ千駄木の夏目邸。(略)
(略)
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