0001坊主 ★
2018/10/18(木) 16:58:18.22ID:CAP_USERhttps://www.sanspo.com/geino/images/20181015/sot18101516310004-p1.jpg
1951(昭和26)年12月に開かれたクリスマス会。右端が井上成美・元大将、左端は都築淑子さん(都築淑子さん提供)
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井上成美(しげよし)大将といえば、旧日本海軍で最後に大将になった軍人=1945(昭和20)年5月=として知られ、終戦の国内工作をひそかに進めていた人物でもある。一方で海軍兵学校長を務め、敗戦後は神奈川県の三浦半島の片隅で近在の子供たちに英語を教えていたことも有名で、優れた教育者としても評価されている。近隣の大人たちから「大将さん」、子供たちからは「ミスター井上」と親しまれた井上元大将は、敗戦後の日本を担う子供たちに何を残したのか。健在の元塾生に「最後の海軍大将の教え」を聞いた。
「Good Afternoon,Mr.Inoue.How are you」。横須賀市長井の集落を外れた高台にある、2本の煙突が特徴的な洋館から、子供たちの元気な声が流れてくる。
「教室はいつも英語であいさつをすることから始まりました。発音は厳しく指導され、教室では英語だけでしたが、先生は分かりやすい英語で話してくれました」
横須賀市に住む都築淑子さん(83)は「井上英語塾」の塾生の一人だった。指導は特徴のあるものだった。
「辞書は英英辞書を使うようにいわれ、授業の時にはリンゴなどの実物が置かれていて、耳で聞いて目で覚えさせていました。黒板をノートに写すときも、必ず絵を描くよう指導されました」
英語漬けは徹底していた。遅刻者は理由をきちんと説明するよう求められたが、その際ももちろん英語。
「でも英語で理由を話すのがいやで、遅刻する子はいなかったです」
道で会ったときのあいさつも英語を使うよう教えられた。あるときのこと。
「ある生徒が朝、道で会ったときいつもの癖で『グッドアフタヌーン』と言ってしまったことがあって、井上先生は『失敗はいい。少しも恥ずかしいことではない』と言っていました」
子供たちには優しい先生でもあった。教室が終わると、井上元大将自らオルガンやアコーディオンを奏で、皆で合唱した。
「『オールド・ブラック・ジョー』とか『峠のわが家』や『アロハオエ』も歌いました。琴も上手で海軍大将というイメージではなかったです。帰りも子供たちを門のところまで見送ってくれました」
都築さんは中学生の3年間を塾に通った。井上元大将は長井に建てていた洋館に敗戦後、住むようになり、1945(昭和20)年の暮れごろ、隣家の住人の求めに応じて細々と英語を教え始めた。翌年春には、自らチラシを作るなどして生徒を集め、47(昭和22)年ごろには生徒の数が増えて本格化した。
都築さんが通ったのは毎週日曜の午後で、1回2時間ぐらい。生徒は5〜6人の「Bクラス」。学年やレベルで数クラスに別れていた。53(昭和28)年に自然閉鎖されるまで、のべ13クラス、130人ほどが通ったようだ。
教材は井上元大将が近くの海岸でテングサを採取して寒天を作り、それにインクを付けてわら半紙に自ら印刷したものだった。
「ただ、『シンデレラ』だけは英語で書かれたものを買うよう言われました」
「シンデレラ」は50(昭和25)年に60円で売り出されている。51(昭和26)年の12月、近くの市立長井中学校の講堂で生徒らの手によりクリスマス会が行われた。その際、生徒らはこの教材を元にして英語劇「シンデレラ」に取り組んだ。
井上元大将について書かれた書物としては、作家の阿川弘之氏の「井上成美」や井上元大将没後、海軍関係者らが中心になった井上成美伝記刊行会による「井上成美」などが知られている。都築さんは刊行会に協力した以外、塾のことは積極的に話していなかった。しかし2016年に夫の勉さんが亡くなったことがきっかけで、再び塾との関わりが生まれた。
都築さんは高校卒業後、海上自衛隊の術科学校(神奈川県横須賀市、現在の第2術科学校)で働き始めた。そこで知り合った勉さんと結婚する。
勉さんは今から約30年前に2佐で定年になるまで護衛艦たかつき副長、横須賀水中処分隊長などを務めた。
サンケイスポーツ 2018.10.15 16:31
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