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会津プロパガンダQ&A

Q:会津が京都守護職に就く際に天皇直々の指名があったのは本当ですか?
A:嘘です。そのような史料文献はありません。天皇が直々に朕を守って欲しいと指名したのは水戸の徳川家と萩の毛利家です。

Q:会津は天皇を守っていたんですか?
A:会津は京都市中の警備の元締めであり天皇の身兵ではありません。誇大解釈してるだけです。

Q:会津の武士は真面目、勤勉、実直ですか?
A:北越、北関東、東北、道南で蛮行三昧でした。長州の捕虜を虐殺した記録もありますし国土を外国に売却しようと企てた証文もあります。密貿易もしてましたし偽金も造っていました。

Q:会津戦争は恭順を示している会津に薩摩・長州が雪崩れ込んだのですか?
A:まず会津は恭順をしていません。戦争に躍起でした。政府の交渉人を拉致して会津から攻め行ってます。政府の主力軍は薩摩・長州ではなく薩摩・土佐です。長州の木戸や大村は会津攻めに反対していました。

Q:白虎隊は勇敢に戦いましたか?
A:薩摩兵に蹴散らされて逃げました。

Q:白虎隊は少年ですか?
A:元服を終えてるので青年です。

Q:白虎隊は城が落城してると勘違いして自刃したのですか?
A:飯沼貞吉の回顧録にそのような話は出てきません。自刃した人数も20名ではなく6名です。

Q:会津兵の死体を見せしめの為に野晒しにしたのは本当ですか?
A:嘘です。政府の命令はどの死体にも触るなというものです。死体は会津降伏後に埋葬されました。

Q:戦後会津人は差別されましたか?
A:されてません。むしろ政府は会津復興に尽力してます。長州の木戸や伊藤も個人的に義援金を出したりしてます。長州の前原を中心に会津人の救済も行われました。特にこの前原は会津人と仲が良かったようです。白虎隊の飯沼も長州で暮らしていました。