鈴鹿市の戦争遺跡について語る浅尾さん(右)
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掩体作りに動員された経験を語る名村さん
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二つの軍飛行場巡り指摘

 太平洋戦争中、鈴鹿市にも特攻基地があったのではないか――。「鈴鹿市の戦争遺跡を保存・平和利用する市民の会」世話人で元中学教諭の浅尾悟さん(62)は2日、講演会でこんな指摘をした。参加した約60人の市民らは熱心に聞き入っていた。(南条哲治)

 講演会は同会が市制75周年を記念し、同市深溝町の深伊沢公民館で開催した。同市は日米開戦から1年後の1942年12月1日に14町村が合併して誕生。合併の背景には町村域をまたいで巨大な兵器工場を建設したい海軍の意向があったとされる。戦時中、軍関係施設は市域の約9%を占めた。

 浅尾さんは戦争の推移などを紹介しながら、同市広瀬町と亀山市能褒野町にまたがっていた北伊勢陸軍飛行場について、飛行訓練用の基地だったが、戦局の悪化で飛行機を特攻機に改造した、と説明。さらに、敵機から航空機を隠す掩体(格納庫)について、「この飛行場の掩体はコンクリート製で屋根つきの有蓋。有蓋掩体は県内ではここだけ。なぜ有蓋なのか記録が残っておらずはっきりしないが、北勢地方の中心的な特攻基地を作ろうとしたのではないか」と話した。

 北に約4キロの鈴鹿市追分町には東西2キロ、南北1・7キロの滑走路を持つ「陸軍椿秘匿飛行場」という施設があったという。浅尾さんは「両飛行場は誘導路でつながっており、一体だったと思われる。椿秘匿飛行場では無蓋の掩体跡が76基確認され、他の飛行場と比べてもかなり数が多い」と指摘。「本土決戦に備えていたのだろう。椿秘匿飛行場は実際に稼働はしなかったが、飛行場自体としては完成していた。戦争が長引いていたら、ここから特攻機が飛び立っただろう。戦争遺跡として後世に残す必要がある」と訴えた。

 掩体作りに動員された経験のある地元の名村一義さん(90)は「土を高さ1・5メートルほどに盛り上げて作った。もっこで土を運ぶなどほとんど人力だった」と証言した。

読売新聞 2017年12月03日
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