2017.4.30 20:01
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見つかった主な忍術書のタイトル。これ以外にも、鉄砲の砲術書や馬術、居合術、呪術書などもあり、忍者がさまざまな分野の技術を習得していたことがわかる
http://www.sankei.com/west/amp/170430/wst1704300051-a.html

 滋賀県甲賀市で平成12年に見つかった江戸時代の古文書「渡辺家文書」に、毒薬配合や夜襲方法などを記した忍術書17点や、諜報活動をする
「御忍役人」として仕えた尾張徳川家に「有事にはすぐに駆け付ける」「秘密契約のため、父子兄弟や友人にも話さない」と記した誓約書が見つかったことが30日分かった。


 17点のうち古い4点は江戸時代初期の1670〜80年代に書かれていた。甲賀と伊賀の忍術を辞典のようにまとめた忍術書
「万川集海」(1676年)と内容が似ている部分はあるが、甲賀で代々、忍術が継承されていたことを示す貴重な史料という。

 渡辺家文書は約150点で、甲賀市の元会社員渡辺俊経さん(79)宅で発見され、昨年から市が解読していた。

 古い4点は「忍次之火巻」「忍法行巻」など。毒薬としてハンミョウやトカゲを丸焼きにして粉にし、井戸に入れるとあった。ハンミョウは当時、毒があると信じられていた。
「ネムリ薬」では「クソムシの抜け殻やタバコなどの粉を火であぶると、煙で敵は眠る」と書かれていた。

呪術書も存在…多彩な技術習得

 「夜討之事」の項目では「敵の門外から手火矢や毒玉を打ち込み、敵が外に逃げ出したら、毒を含む手火矢で攻撃する。手火矢の火が消えても、
その煙にまかれると危ないので、すぐには近寄らないこと」と記していた。手火矢は、火矢や手榴弾(しゅりゅうだん)のような武器とみられる。

 忍術書以外にも、鉄砲の砲術書や馬術、居合術、呪術書などもあり、忍者がさまざまな分野の技術を習得していたことが分かる。

 御忍役人としての誓約書は写しで、1700〜1829年までの10枚が見つかり、代々尾張藩に提出されていた。
渡辺さんの先祖は農民だったが「御用之節ハ、早速致参着」とあり、尾張藩に緊急事態があれば、駆け付けるとしている。

 甲賀市教育委員会の伊藤誠之資料調査員によると、甲賀出身の木村奥之助という人物が渡辺家を含む甲賀の5家をまとめ、年に1人5両で御忍役人として秘密裏に尾張藩と契約。
江戸時代の甲賀忍者は在宅・非常勤だったことが分かるという。平時は年に1度尾張藩に赴き、表向きは鉄砲指南役として砲術を指南していた。

 文書は近く刊行される予定。

足利将軍をゲリラ戦で襲撃

 甲賀忍者の活躍の起源は、1487年、室町幕府9代将軍足利義尚が、近江の六角氏を攻めた「鈎の陣」とされる。六角氏側の甲賀衆はゲリラ戦を得意とし、義尚側の陣に火討ちをしたり、夜襲をかけたりしたという。

 1585年、羽柴(豊臣)秀吉が和歌山の太田城を水攻めした際、甲賀衆に任せた堤防工事に不備があったとして、秀吉が多くの甲賀衆を追放する事件「甲賀ゆれ」が起きる。多くは武士身分を失い、甲賀で農民や町民となった。

 ただ、一部は徳川家康に登用され、江戸城の警備を担当した。また、江戸初期の島原の乱では、甲賀から幕府軍に参加した甲賀者が、敵城に忍び込み、城内の状況を報告したとされる。

 尾張藩に仕えた「御忍役人」も実績がある。

 1723年、大和郡山城(奈良県)の本多家に跡継ぎがなかったため、改易される際、本多家が籠城するとの情報があった。
尾張藩から情報収集を命じられた御忍役人は城に忍び込み、情報を藩に提供。褒美として1人銀2枚を受け取った。

 一方、甲賀ゆれで帰農した人々の子孫は武士身分に戻ろうと、忍術書「万川集海」を幕府に提出、忍術が広く知られるきっかけに。忍者は歌舞伎などの人気の題材にもなり、黒装束で手裏剣のイメージが形成されたという。

 尾張藩に年1度しか現れない御忍役人は藩役人には気になる存在だったようだ。渡辺家文書の中に、さんざん、家筋や忍術の由緒について質問された揚げ句、
「忍術の元祖は誰か」と聞かれた際、御忍役人が「元祖は聖徳太子だが、そう言えば、役人から『本当か』と、また根掘り葉掘り聞かれるから、答えるのをやめた」と記した文書もあった。