検察べったり、無理矢理有罪に…元裁判官が告発する裁判所の恐ろしい真実
http://lite-ra.com/2015/02/post-875.html

 足利事件、東電OL事件、袴田事件――ここ数年、最高裁で有罪が確定した事件が
冤罪だったことが証明され、長期にわたり収監されてきた “無実”の人間が釈放されるという
事態が続いている。これらの事件に共通するのは警察による杜撰な思い込み捜査、検察に
よる強引な起訴である。しかしその責任は捜査をした警察や検察だけにあるのだろうか。
 いや、それは大きな間違いと言わざるを得ない。杜撰な思い込み捜査があったとしても
最後の砦である「裁判所」において有能で公正な「裁判官」が真実を見極めてくれる。多く
の市民はそう期待するだろう。しかし裁判所は真実を見極めるどころか、不当な捜査をした
警察や証拠を隠蔽する検察を疑うことなく全面的に擁護し、一審、高裁、最高裁と3度も
有罪判決を導き出した。冤罪を後押ししたのが裁判所だったと言っても過言ではない。
 それだけではない。有罪が確定した後にも無罪を訴えて再審を求めても、裁判所はろくな
根拠もなく撥ね付け続けた。
 例えば、足利事件では1997年に弁護側が行ったDNA鑑定が犯人とされた菅家利和さん
と不一致だったにも関わらず、最高裁はこれを無視。その後の再審も退け続けた。菅家さん
の再審が決定し、釈放されたのはそれから12年後の2009年だ。袴田事件でも、不自然で
杜撰な証拠や物証を問題にせず、1980年に死刑判決が確定。再審が決定したのは、
なんと30年以上も経った2014年だった。
 なぜ裁判所は間違えるのか。冤罪を作り出してしまうのか。『ニッポンの裁判』(瀬木比呂志
/講談社)によると、裁判所は摩訶不思議な魔界のような場所らしい。著者の瀬木自身、
31年間にわたり裁判官を務めた元判事であり、その経験をもとに裁判所と裁判官の腐敗を
告発した前著『絶望の裁判所』(講談社)は大きな波紋を呼んだ。本書はその第二弾に当
たるが、そこには恐怖とも思える裁判官たちの実情が描かれている。
 本書ではこんな大前提が突きつけられる。
「国民、市民の自由と権利を守ってくれるといった司法の基本的な役割の一つについて、
日本の裁判所、裁判官にはほとんど期待できない」
「明日はあなたも殺人犯、国賊」
 なんともセンセーショナルだが、一体どういうことか。例えば、あなたがデリバリー・ピザのチラシ
をマンションにポスティングするバイトをして、逮捕されるなんて考えられるだろうか? 常識で
考えればあり得ないことだ。しかし実際にポスティングしただけで、逮捕起訴された挙げ句に
有罪となってしまった例が存在する。

 2004年、当時、社会的に大きな感心を呼んだのがイラク自衛隊派兵だった。これに反対
するため、3人の市民運動家が集団住宅で反対ビラをポスティングした。場所は立川の
自衛隊官舎だ。実際に派兵される自衛隊の家族に対しその実情を訴えたものだったが、この
3人は住居不法侵入で逮捕、起訴された。通称「立川反戦ビラ事件」だ。
 デリバリーのチラシで他人の敷地に入ることはOKだが、政治的な主張、それも時の政権に
反対するビラは、住居不法侵入で逮捕、有罪。明らかに権力による嫌がらせであり、思想
弾圧とも言える事件だった。
 しかし、裁判所は捜査側の恣意性を考慮することなく、いや、権力に寄り添うように有罪
判決を下した。本書では08年に下された有罪判決について、近代民主主義国家の水準に
達していないとこう批判している。

「およそ憲法論と評価することなど困難な代物である。まともな憲法論を展開すれば、
ポスティング一般が処罰の対象とされることはない中でのこのような狙い撃ち起訴を正当化
することは難しいので、実質的な理由を一切述べないことによって、何とか体裁を取り繕っ
ているのであろう」
 著者によればこの判決は「都合の悪いことには一切触れないのが、あるいは、都合の悪い
部分を省略するのが、「切り捨て型」のレトリック」であり、「未だ社会にも政治にも裁判にも
前近代的な残滓を色濃く残す国のそれ」とまで徹底批判している。
 さらに本書では冤罪は構造的に作られてきたとして、その前提に取り調べ段階の「人質
司法」(裁判所が簡単に勾留を認め、弁護士の立ち会いもなく、苛酷な取り調べから逃れ
られない)や検察の権限が強大でそのチェック機関もないことを指摘。その上で裁判所の
問題をこう記している。