【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
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私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から
拒まれた顔だと思つてゐる。しかるに有為子の顔は世界を拒んでゐた。月の光りはその額や
目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れてゐたが、不動の顔はただその光りに洗はれてゐた。
一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒まうとしてゐる世界は、それを合図に、
そこから雪崩れ込んで来るだらう。
私は息を詰めてそれに見入つた。歴史はそこで中断され、未来へ向つても過去へ向つても、
何一つ語りかけない顔。さういふふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの
切株の上に見ることがある。新鮮で、みづみづしい色を帯びてゐても、成長はそこで途絶え、
浴びるべき筈のなかつた風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として
曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へ
さし出されてゐる顔。……
三島由紀夫「金閣寺」より 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせつてゐるあいだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から
身を引き離さうとじたばたしてゐる小鳥にも似てゐる。
鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終つて
しまつたあとなのである。
金閣はおびただしい夜を渡つてきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、ふしぎな船は
そしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委せ、夜が来ると周囲の闇に勢ひを得て、
その屋根を帆のやうにふくらませて出航したのである。
私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。
三島由紀夫「金閣寺」より 父の顔は初夏の花々に埋もれてゐた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きてゐた。
花々は井戸の底をのぞき込んでゐるやうだつた。なぜなら、死人の顔は生きてゐる顔の
持つてゐた存在の表面から無限に陥没し、われわれに向けられてゐた面の縁のやうなもの
だけを残して、二度と引き上げられないほどの奥のはうへ落つこちてゐたのだから。
物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。
対面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
屍はただ見られてゐる。私はただ見てゐる。見るといふこと、ふだん何の意識もなしに
してゐるとほり、見るといふことが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、残酷さの
表示でもありうるとは、私にとつて鮮やかな体験だつた。
三島由紀夫「金閣寺」より 私といふ存在から吃りを差引いて、なほ私でありうるといふ発見を、鶴川のやさしさが私に教へた。
私はすつぱりと裸かにされた快さを隈なく味はつた。鶴川の長い睫にふちどられた目は、
私から吃りだけを漉し取つて、私を受け容れてゐた。それまでの私はといへば、
吃りであることを無視されることは、それがそのまま、私といふ存在を抹殺されることだ、
と奇妙に信じ込んでゐたのだから。
戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思ふまい。美といふことだけを
思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。
人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。
三島由紀夫「金閣寺」より 京都では空襲に見舞はれなかつたが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を
持つて、大阪の親工場へ行つたとき、たまたま空襲があつて、腸の露出した工員が担架で
運ばれてゆく様を見たことがある。
なぜ露出した腸が凄惨なのだらう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆つたり
しなければならないのであらう。何故血の流出が、人に衝撃を与へるのだらう。何故
人間の内臓が醜いのだらう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質の
ものではないか。……私が自分の醜さを無に化するやうなかういふ考へ方を、鶴川から
教はつたと云つたら、彼はどんな顔をするだらうか? 内側と外側、たとへば人間を
薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に
見えてくるのであらうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、
しなやかに飜へし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……
三島由紀夫「金閣寺」より 敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の
焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、
永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するといふことを
語つてゐる永遠。
天から降つて来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまふ永遠。
この呪はしいもの。……さうだ。まはりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの
呪詛のやうな永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまつてゐた。
私にとつて、敗戦が何であつたかを言つておかなくてはならない。
それは解放ではなかつた。断じて解放ではなかつた。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに
融け込んでゐる仏教的な時間の復活に他ならなかつた。
三島由紀夫「金閣寺」より この少年は私などとはちがつて、生命の純潔な末端のところで燃えてゐるのだ。燃えるまでは、
未来は隠されてゐる。未来の燈芯は透明な冷たい油のなかに涵つてゐる。誰が自分の純潔と
無垢を予見する必要があるだらう。もし未来に純潔と無垢だけしか残されてゐないならば。
雪は私たちを少年らしい気持にさせる。
肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より 滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。
そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在してゐないといふ贅沢な不満から生まれる
ものではないのか。
世界は永久に停止してをり、同時に到達してゐるのだ。この世界にわざわざ、
「われわれの世界」と註する必要があるだらうか。俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙を
一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつかうとする迷蒙だと。
三島由紀夫「金閣寺」より 戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によつて保たれてゐたと思はないかね。
死刑の公開が行はれなくなつたのは、人心を殺伐ならしめると考へられたからださうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けてゐた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしてゐた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、
和やかにするんだのに。俺たちが突如として残虐になるのは、たとへばこんなうららかな
春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れてゐるのをぼんやり眺めてゐる
ときのやうな、さういふ瞬間だと思はないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はさういふ風にして生れたんだ。
三島由紀夫「金閣寺」より 隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、
私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で
人生に触れることは不可能である。
禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち見性だと
いはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して
極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、
どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。かくて
鶴川のやうに、そこに存在するだけで光りを放つてゐたもの、それに目も触れ手も
触れることのできたもの、いはば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪はれた今では、
その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもつとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無の
もつとも実在的な模型であり、彼その人がかうした比喩にすぎなかつたのではないかと思はれた。
三島由紀夫「金閣寺」より それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就するその短かい美は、
一定の時間を純粋な持続に変へ、確実に繰り返されず、蜉蝣のやうな短命な生物をさながら、
生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、
同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかつた。
私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美を官能とを同時に見出すところよりも、
はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、……肉を乗り超え、……不惑の
しかし不朽の物質になり、永遠につながるものになつた。
三島由紀夫「金閣寺」より 総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥まで
つづいて、新たに会ふ事物にも過去に見た事物の影がはつきりと射し、かうした相似に
みちびかれてしらずしらずに廊下の奥、底知れね奥の間へ、踏み込んで行くやうな心地がしてゐた。
運命といふものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、
日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をゑがいて、その幻に親しんでゐる筈だ。
音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
音楽はそのどちらだらうか、と私は考へた。とまれ音楽は、この二つのものを、時には
逆転させるやうな力を備へてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。
それはこのやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より 蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。
金閣を焼かなければならぬ。
三島由紀夫「金閣寺」より 老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。何故なら
よし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から
現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。人間は自然の
もろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、繁殖するに
すぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。
私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では
人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却つて
滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することができないのだ。
そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに
気がつかぬのだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より 認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、さうして永久に変貌するんだ。それが
何の役に立つかと君は言ふだらう。だがこの生を耐へるために、人間は認識の武器を
持つたのだと云はう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐へるといふ意識なんか
ないからな。認識は生の耐へがたさがそのまま人間の武器になつたものだが、それで以て
耐へがたさは少しも軽減されない。それだけだ。
「世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない」と思はず私は、告白とすれすれの
危険を冒しながら言ひ返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
三島由紀夫「金閣寺」より 君は今や南泉を気取るのかね。……美的なもの、君の好きな美的なもの、それは人間精神の中で
認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。君の言ふ『生に耐へるための
別の方法』は幻影なんだ。本来そんなものはないとも云へるだらう。云へるだらうが、
この幻影を力強くし、能ふかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。認識にとつて
美は決して慰藉(いしや)ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰藉ではない。
しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが
生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。
世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。
「美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ」
どんな認識や行為にも、出帆の喜びはかへがたいだらう。
私はたしかに生きるために金閣を焼かうとしてゐるのだが、私のしてゐることは
死の準備に似てゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より 鞘を払つて、小刀の刃を舐めてみる。刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、
遠い甘味が感じられた。甘みはこの薄い鋼の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに
照り映えてくるやうに舌に伝はつた。こんな明確な形、こんなに深い海の藍に似た鉄の光沢、
……それが唾液と共にいつまでも舌先にまつはる清冽な甘みを持つてゐる。やがて
その甘みも遠ざかる。私の肉が、いつかこの甘みの迸りに酔ふ日のことを、私は愉しく考へた。
死の空は明るくて、生の空と同じやうに思はれた。そして私は暗い考へを忘れた。
この世には苦痛は存在しないのだ。
「人の見てゐる私と、私の考へてゐる私と、どちらが持続してゐるのでせうか」
「どちらもすぐ途絶えるのぢや。むりやり思ひ込んで持続させても、いつかは又途絶えるのぢや。
汽車が走つてゐるあひだ、乗客は止つてをる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねば
ならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息ぢやさうなが、それだとて、
いつまで続くか知れたものではない」
三島由紀夫「金閣寺」より 『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢みられ、
私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだらうか。もはやそれは
無駄事ではあるまいか。
柏木の言つたことはおそらく本当だ。世界を変へるのは行為ではなくて認識だと彼は言つた。
そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだつた。
そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、
ひとへに、行為をしなくてもよいといふ最後の認識のためではなかつたか。
見るがいい、今や行為は私にとつては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、
私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のやうに、私の前に在つて始動を待つてゐる。
その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないやうだ。ここまでが私であつて、それから先は
私ではないのだ。……何故私は敢て私でなくなろうとするのか。
三島由紀夫「金閣寺」より
みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??
もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになつてゆく。
かつてあつた、といふことと、かくもありえた、といふことの境界は薄れてゆく。
夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似してゐた。
乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから
立ち現はれ、手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に
揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、
会ひ、又、離れて、空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに
見えるのだつた。
三島由紀夫「奔馬」より そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことが
なかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の額の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……
三島由紀夫「奔馬」より 『喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだりする人間』
と本多は考へてゐた。それこそ裁判所の支配下にある人間だつた。まかりまちがへば
いつでも被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。
三島由紀夫「奔馬」より 悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ。
壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、
褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。血も花も、
枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。だからこそ、血と花は名誉へ
転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。
三島由紀夫「奔馬」より 忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で
握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が御空腹でなく、
すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、
ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんで
その握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、
草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、
握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。飯はやがて
腐るに決まつてゐます。これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。
三島由紀夫「奔馬」より 私の申し上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に
生きてゐながら、何もせずに生き永らえてゐることがまづ第一の罪です。その大罪を祓ふには、
涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、
即刻腹を切ることです。死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、
左すれば罪、どのみち罪を犯してゐることに変りはありません。
同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。思想などではなく、もつと遠いところから来る或るもの、又、もつと明確な
外面的な表徴であつて、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、
それこそが同志を作る因(もと)に相違ない。
三島由紀夫「奔馬」より 存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。
思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の「英姿」は、
今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、今では、
個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内側の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に
滑稽の塵が降り積つたにすぎぬのだらうか。
三島由紀夫「奔馬」より 灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。そつと指を
触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに青みを残してゐる茎を
離れるにちがいない。それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、
不朽のつややかな百合がそこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。
しかし依然として、そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。
かつてここに注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。唇と百合とが、まるで黎明と屋根とが触れるやうに
触れ合はねばならない。
三島由紀夫「奔馬」より 勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思つた。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』
あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。
こちらはいよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)の
やうになつた。それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど
信じがたいものにしてしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向ふ側のグロテスクな
現実性に源してゐた。奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、
そのときはじめて世界の修理固成が可能になるだらう。
三島由紀夫「奔馬」より 勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと察した。
人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。
左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。
恋も忠も源は同じであつた。
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。
野蛮人が病気よりも医薬を怖れるやうに。
三島由紀夫「奔馬」より 法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのは
たしかに穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも
知らないで人生を送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。
ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く
同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。
三島由紀夫「奔馬」より 夏の午睡の女の喜びは曇らなかつた。肌の上にあまねく細かい汗をにじませ、さまざな
官能の記憶を蓄へ、寝息につれてかすかにふくらむ腹は、肉のみごとな盈溢を孕んだ帆の
やうである。その帆を内から引きしめる臍には、山桜の蕾のやうなやや鄙びた赤らみが射して、
汗の露の溜まつた底に小さくひそかに籠り居をしてゐる。美しくはりつめた双の乳房は、
その威丈高な姿に、却つて肉のメランコリーが漂つてみえるのだが、はりつめて薄くなつた肌が、
内側の灯を透かしてゐるかのやうに、照り映えてゐる。肌理のこまやかさが絶頂に達すると、
環礁のまはりに寄せる波のやうに、けば立つて来るのは乳暈のすぐかたはらだった。
乳暈は、静かな行き届いた悪意に充ちた蘭科植物の色、人々の口に含ませるための毒素の
色で彩られてゐた。その暗い紫から、乳頭はめづらかに、栗鼠のやうに小賢しく頭を
もたげてゐた。それ自体が何か小さな悪戯のやうに。
三島由紀夫「奔馬」より 一寸やはらげれば別物になつてしまひます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、
一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、
もはや私たちの思想ではなくなるのです。
あそこに太陽が輝いてゐます。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、
太陽に源してゐることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いてゐる筈です。
その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に浴びれば、民草は歓喜の声をあげ、
荒蕪の地は忽ち潤ふて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおほふて、その光りを遮つてゐます。天と地はむざんに分け隔てられ、
会へば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔さへ相見ることが
できません。
三島由紀夫「奔馬」より 天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か
決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を
賭(と)さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
私は人を殺すといふことは考へませんでした。ただ、日本を毒してゐる凶々しい精神を
討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとふてゐる肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。
さうしてやることによつて、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還つて、私共と
一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちに
いさぎよく腹を切つて、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を
捨てなければ、魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんとする
ことだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ入るのです。
三島由紀夫「奔馬」より ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。
三島由紀夫「奔馬」より
みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。あの夕焼の
花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふたはごとも
忽ち色褪せてしまひます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちてゐます。
何がはじまつたのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。
三島由紀夫「暁の寺」より 社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だつた。
時として、広大な人間性に、法といふ規矩を与へることほど、人間の思ひついたもつとも
不遜な戯れはない。
何かにつけて青年が未来を喋々するのは、ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしてゐない
からにすぎない。何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。
天変地異は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに見える事柄であつても、
実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進まぬ気配を伴ふのである。
三島由紀夫「暁の寺」より 日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを
怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、
古風なアジア主義たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、
ムッソリーニとではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話と
ローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。
一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人はおのづから、別の生の存在の
予感に到達するのではなからうか。
酒がすこしづつ酢に、牛乳がすこしづつヨーグルトに変つてゆくやうに、或る放置されすぎた
ものが飽和に達して、自然の諸力によつて変質してゆく。人々は永いこと自由と肉慾の過剰を
怖れて暮してゐた。はじめて酒を抜いた翌朝のさはやかさ、自分にはもう水だけしか
要らないと感じることの誇らしさ。……さういふ新らしい快楽が人々を犯しはじめてゐた。
三島由紀夫「暁の寺」より 純粋なものはしばしば邪悪なものを誘発するのだ。
阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に
奔逸し激動してゐるのである。
世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。
世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
しかし、なぜ?
なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされる
からである。
現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、
同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交はる一点に
存在するのである。
三島由紀夫「暁の寺」より 唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……
生きてゐる人間が純粋な感情を持続したり代表したりするなんて冒涜的なことです。
この世には道徳よりもきびしい掟がある。
不安こそ、われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。
生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられてゐるやうなものだつた。
そして人間存在とは? 人間存在とは不如意だ。
知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの
極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。
三島由紀夫「暁の寺」より 真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ生れる。
停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう。
…怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。
必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみじんもなかつた。
嫉妬の想像力は自己否定に陥るのだ。想像力が一方では、決して想像力を容認しないのである。
丁度過剰な胃酸が徐々に自らの胃を蝕むやうに、想像力がその想像力の根源を蝕んでゆくうちに、
悲鳴に似た救済の願望があらはれる。
ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと望んだからだ。
身の毛もよだつほどの自己嫌悪が、もつとも甘い誘惑と一つになり、自分の存在の否定自体が、
決して癒されぬといふことの不死の観念と一緒になるのだ。存在の不治こそは不死の感覚の
唯一の実質だつた。
三島由紀夫「暁の寺」より 自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら
思はれる。お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺が
たのみもしないのに、その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない
綱渡りを強ひたのだ。陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を
家財道具に換価させ、美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を
流刑に処し、異端を病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。それは、
膿盆の上の、血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、
そのたびごとに、老いも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。
三島由紀夫「暁の寺」より 人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで成功するなどと思はれてたまるものか。
覗く者が、いつか、覗くといふ行為の根源の抹殺によつてしか、光明に触れえぬことを
認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。
今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。
裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。私一人をいつもじつと
見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず手取り足取り指図して下さる
神様でなければ。その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、
何一つ羞恥心を持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう。
どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へ
そそのかす力も、全く同じ源から出、同じ予兆の動悸を伴ふ。
三島由紀夫「暁の寺」より 海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか
名付けようのないもので辛ふじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、
この豊かな、絶対の無政府主義。
刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐる
などといふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より >>145訂正
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか
名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、
この豊かな、絶対の無政府主義。
刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐる
などといふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より 堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、
家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。今まで一度も
出会はなかつた永遠、すなはち海に。もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、つひに
人が死に直面することができないやうに。
見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、
物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや見ることが
認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。
微笑は同情とは無縁だつた。微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、
弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。
三島由紀夫「天人五衰」より 女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、女にとつて
侮辱はないわ。
美の廃址を見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖い。
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのでは
なかつた。これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、
しかし石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。
一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあつた。
欲望を抱かない限り、この目の透徹と澄明はあやまつことがなかつた。
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
三島由紀夫「天人五衰」より 私たちは一人のこらず、同じ投網の中に捕へられた魚なのですね。
人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷蒙なら、
それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝やかしい肉を以てする肉体とでは、
勝負にならない。人間にとつて本筋の美しさは、肉体美にしかないわけさ。
本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうなものが
実は自分の願望だ、といふ説には、首肯しかねるものがあつた。それより自分以外の何者かが、
いつも自分を見張つてゐて、何事かを強ひてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。しかし自分の
意志にかかはりなく、夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。この世の中には、
どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言ひなりになつてやるんだ。
さうしてゆつくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に
出るためには、こちらも十分力を蓄へ、敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。
三島由紀夫「天人五衰」より 純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。奴らの戦ひが
有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。奴らは僕らが本当に
膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手をゆるめないだらう。
だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければならない。むやみに
突張つて、踏絵を踏まなければ、殺されてしまふんだからね。さうして一旦踏絵を踏んでやれば、
奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。でもそれまでは、自分の心の中に、
よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね。
醜さも、ひとたび不在になれば、美しさとどこに変りがあるだらう。
……遠いところで美が哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向こうで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが
宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 自然は全体から断片へと、又、断片から全体へと、たえずくりかへし循環してゐた。
断片の形をとつたときのはかない清洌さに比べれば、全体としての自然は、つねに不機嫌で
暗鬱だつた。
悪は全体としての自然に属するのだらうか?
それとも断片のはうに?
自分に向けられる他人の善意や悪意が、悉く誤解に基づくと考へる考へ方には、懐疑主義の
行き着く果ての自己否定があり、自尊心の盲目があつた。
退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだ。
世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。氷が割れるとわかつてゐたら、
誰が滑るだらう。また絶対に割れないとわかつてゐたら、他人が失墜することのたのしみは
失はれるだらう。問題は自分が滑つてゐるあひだ、割れるか割れないかといふだけのことであり、
本多の滑走時間はすでに限られてゐた。
三島由紀夫「天人五衰」より 一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。
老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は失はれてゐる。
意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。もちろん賤しいのは
意志のはうだ。
或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
……詩もなく、至福もなしに! これがもつとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしか
ないことを俺は知つてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より 「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。
「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。
一寸ばかり育ちがいいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で
『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけのこと
なんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、
世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
さう言ひながら、本多が勲を思ひうかべてゐたことは疑ふべくもない。勲はおそらく
洋食の作法などは知らなかつた。勲の高貴はそんなこととは関はりがなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より 世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の何ものでもない。
世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。
スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
――大人しい透に向つて、かうして執拗に説き進めながら、いつしか本多は、目の前に
清顕と勲と月光姫を置いて、返らぬ繰り言を並べてゐるような心地にもなつた。
彼らもさうすればよかつたのだ。自分の宿命をまつしぐらに完成しようなどとはせず、
世間の人と足並を合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれてゐればよかったのだ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。翼は危険な器官だった。飛翔する前に自滅へ誘ふ。
あの莫迦どもとうまく折合つておきさへすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰へるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 老人はいやでも政治的であることを強ひられる。
この世には実に千差万別な卑俗があつた。気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、
鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、
帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは
卑俗の劫罰だつた。そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。
この世は不完全な人間の陽画(ポジティブ)に充ちてゐる。
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ。
三島由紀夫「天人五衰」より 「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に何かの
変質をもたらすものだ。
人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短かさだつた。
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにして
おきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、
誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に
叩き込んでくれる筈ですわ。
三島由紀夫「天人五衰」より 精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に
何のちがひがあらう。老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が
不治の病だといふことは、人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは
何ら存在論的な病ではなくて、われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。肉体の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれて
ゐることに他ならなかつた。
生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた。
われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。…そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。
三島由紀夫「天人五衰」より もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質のものであつたとしたら、
一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。糸を切つて一旦卓上に
散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ落ちた
ビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には
今や思はれた。我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より 狐はすべて狐の道を歩いてゐた。漁師はその道の薮かげに身を潜めてゐれば、難なく
つかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることがわかつてゐながら狐の道を歩いてゐるのが、
今の自分だと本多は思つた。
劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ。
自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、ゆくてに
それ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと本多は思ひ返した。
希望を抱くふりをして。印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに
永いことあがいたのだ。
それも心々ですさかい。
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より ↑ 毎日 毎日 大変な労力 ご苦労さんです。
みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??
コピペ貼るだけの馬鹿は死ねばいい。
三島由紀夫「天人五衰」より 全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの
安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。
自由やと? 平和やと? そないなこと皆女子(おなご)の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。
男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。
三島由紀夫「絹と明察」より 若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、
自然をつくりなす目にみえぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るやうに思はれ、
彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮(うしほ)の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れと
調べを合はせてゐるやうに思はれた。
悪意は善意ほど遠路を行くことはできない
新治が女をたくさん知つてゐる若者だつたら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎の
むかうに立つてゐる初江の裸が、まぎれもない処女の体だといふことを見抜いたであらう。
決して色白とはいへない肌は、潮にたえず洗はれて滑らかに引締り、お互ひにはにかんで
ゐるかのやうに心もち顔を背け合つた一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐へる
広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげてゐた。
三島由紀夫「潮騒」より 「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはゐるが、清らかな弾んだ声で言つた。裸の若者は躊躇しなかつた。
爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまつしぐらに飛び込んだ。
次の刹那にその体は少女のすぐ前にあつた。彼の胸は乳房に軽く触れた。『この弾力だ。
前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』と若者は感動して思つた。二人は
抱き合つた。少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」
と少女が言つた。
三島由紀夫「潮騒」より この乳房を見た女はもう疑ふことができない。それは決して男を知つた乳房ではなく、
まだやつと綻びかけたばかりで、それが一たん花ひらいたらどんなに美しからうと
思はれる胸なのである。
薔薇いろの蕾をもちあげてゐる小高い一双の丘のあひだには、よく日に灼けた、しかも
肌の繊細さと滑らかさと一脈の冷たさを失はない、早春の気を漂はせた谷間があつた。
四肢のととのつた発育と歩を合はせて、乳房の育ちも決して遅れをとつてはゐなかつた。
が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎはの眠りにゐて、ほんの
羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましさうに見えるのである。
男は気力や。気力があればええのや。
三島由紀夫「潮騒」より 私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきであつた
姿しか、私にとつては重要でない。鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、
肉体のうちに失はれかかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべきであつた姿に
押し戻す働らきをした。
あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。
英雄に対する嘲笑は、肉体的に自分が英雄たるにふさはしくないと考へる男の口から出るに
決まつてゐる。
私はかつて、彼自身も英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、
英雄主義に対する嘲笑がひびくのをきいたことがない。シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か
過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛へられた筋肉と関係あるのだ。
なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊との
コントラストに帰するからであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より 敵とは、「見返す実在」とは、究極的には死に他ならない。誰も死に打ち克つことが
できないとすれば、勝利の栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。
私の文体は対句に富み、古風な堂々たる重味を備へ、気品にも欠けてゐなかつたが、
どこまで行つても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で通り抜けた。
私の文体はつねに軍人のやうに胸を張つてゐた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、
膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振つたりしてゐる他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。
しかしそれは他人に委せておけばすむことだつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より 私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして敗れることも、
ましてや、戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる
戦ひといふものの、芸術における虚偽の性質を知悉してゐた。もしどうしても私が戦ひを
欲するなら、芸術においては砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。
芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においてはよき戦士でなければならぬ。
「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の
花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する
二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに
謎はなく、謎は死だけになつた。
私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点に
あるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる
世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。
われわれは「絶対」を待つ間の、つねに現在進行の虚無に直面するときに、何を試みるかの
選択の自由だけが残されてゐる。いづれにせよ、われわれは準備せねばならぬ。この準備が
向上と呼ばれるのは、多かれ少なかれ、人間の中には、やがて来るべき未見の「絶対」の絵姿に、
少しでも自分が似つかはしくなりたいといふ哀切な望みがひそんでゐるからであらう。
もつとも自然で公明な欲望は、自分の肉体も精神も、ひさしくその絶対の似姿に近づきたいと
のぞむことであらう。
三島由紀夫「太陽と鉄」より 七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡素な遺書は、
明らかに幾多の既成概念のうちからもつとも壮大なもつとも高貴なものを選び取り、
心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする
矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし
既成の言葉とはいへ、それは並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる
格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつてわれわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。
私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。
肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い
水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の
液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、
ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇性が必要だつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より 私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を
嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる
最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます
遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。
私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を
寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は
浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。
三島由紀夫「太陽と鉄」より 地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて
歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、
したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で
宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。
酸素マスクといふ仮面を。
精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで
会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔を
あらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ
舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。
二人揃つて来なくては受け容れられぬ。
ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、
かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。
三島由紀夫「太陽と鉄」より 晩年に最高傑作の戯曲を書いてますから、それはないです。
↑ じゃぁー どうして 自殺なんかしたんですか?
老骸を晒したくないから? それが 三島美学??? コピペ貼るだけの馬鹿は市ね!
ブログでやれよクズ!!!!!!!!!!!
三島由紀夫「太陽と鉄」より 苦悩や青春の焦燥を恥ぢるあまり、それを告白せぬことに馴れてしまつて、かれらは極度に
ストイックになつた。かれらは歯を喰ひしばつてゐた。実に愉しげな顔をして。
この世に苦悩などといふものの存在することを、絶対に信じないふりをしなくてはならぬ。
白を切りとほさなくてはならぬ。
世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。
詩才の欠如は人の信用を博する早道である。
どんなに辛苦を重ねても、浅い夢しか見ない人は浅い生をしか生きることができない。
狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、自分が
嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真個の特質なのである。
三島由紀夫「鏡子の家」より 人体でもつとも微妙なものは筋肉なのである!
筋肉は厳密に個人に属しつつ、感情よりもずつと普遍的である点で、言葉に似てゐるけれど、
言葉よりもずつと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。
僕は詩人の顔と闘牛師の体とを持ちたい。
真に抒情的なものは、詩人の面立(おもだち)と闘牛師の肉体との、稀な結合からだけしか
生れないだらう。
この世は必ず破滅にをはる。しかもその前に、輝かしい行動は、一瞬々々のうちに生れ、
一瞬々々のうちに死ぬ。
芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、世俗的な
人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは
多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。それに生れつき身にそなはつたものだけで
人生を経営してゆくことは、女や貴族の生き方であり、市民の男の生き方ではなかつた。
三島由紀夫「鏡子の家」より 会社のタイム・レコーダアを莫迦らしいと思はない人が、どうして結納の三往復を
莫迦らしいなどと言ふことができよう。
女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。
神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。
人は信じた思想のとほりの顔になる。
どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに据つてゐるのを見るものだ。
権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。
芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、実は
それ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、
超時間性に他ならないのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より ……そこでは毎晩刃傷沙汰が起り、悲劇が起り、本当の恋の鞘当、本当の情熱、――ええ、
どんな俗悪な情熱でも、あなたがたの物知り顔よりは高級ですもの、――さういふ本当の情熱、
本当の憎しみ、本当の涙、本当の血が流れなくちやいけませんの。
男の精神的天才が決して女に理解されないやうに、男の肉体的天才も、女に理解されない
やうにできてゐる。
ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の
感じ方ね。世の中が、人間らしい感じ方、人間らしい考へ方をさせないように、みんなを
盲らにしてしまつたんです。
愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間にならうとするのには至当の
理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようとするのである。
金でたのしみが買えないと思つてゐるのは、センチメンタルな金持だけです。
三島由紀夫「鏡子の家」より 天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造型する人であつた。
かういふ手がかりが正にあの喜悦であつて、美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて
生誕の讃歌のやうなものなのだ。そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、
その空席に腰を下ろすことに、何のためらひもありはしないのだ。いひかへれば天才の
感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえやうと、決して悲劇に到達しない特質を
荷つてゐるのである。
一人ぐらしの女が何の感情にも溺れないで生きてゐるといふのは大したことだわ。
ああ、他人こそ、犠(にへ)であり、かけがへのない実在なのだ。
僕は死ぬだらう。血はどこまで高く吹き上がるだらう? 自分の血の噴水を、僕ははつきり
この目でたしかめることができるだらうか。
三島由紀夫「鏡子の家」より 他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。
それはこちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きずつてゆき、つひには
『他人の希望』の代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。
美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、必ず
『死の意志』なのだ。これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が
恥ぢてゐてその秘密を明さない。
男の断末魔の手がつかむものが、星に充ちたがらんとした夜空や、荘厳な重い塩水に充ちた
海ではなくて、腰紐だの、長襦袢だの、まとはりつく髪だの、なよやかなパンティだのである
といふことは、男の生涯のひとりぽつちの永い戦ひの記憶をすつかり台無しにしてしまふだけだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より 鏡子は大袈裟に、一つの時代が終つたと考へることがある。終る筈のない一つの時代が。
学校にゐたころ、休暇の終るときにはこんな気持がした。充ち足りた休暇の終りといふものが
あらう筈がない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。
大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。
人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。
徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。
目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!
峻吉は不幸や不運を明るく眺め変へたり、一旦挫折した力の方向をやすやすと他へ
転じようしたりする、あの人生相談的な解決を憎んだ。決して悔悟しない人間になることが必要だ。
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より 健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。
青年にとつて反抗は生で、忠実は死だ。
青年にとつて、反抗が必要なのと同じくらい、忠実も必要で、美味しくて、甘い果実なんだ。
死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。
一つの思想が死ぬやうに見えても必ずよみがへり、一つの理想主義が死に絶えて又
新らしい形でよみがへる。しかも思想と思想は、殺し合ふことしか考へないのである。
が、清一郎は感じてゐた。これら再生の神話そのもの、復活の秘義そのものが、まぎれもない
世界崩壊の兆候なのだ。
人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようと
しないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること、……そんなことは
怖ろしいことのやうに思へたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。
三島由紀夫「鏡子の家」より 神秘が一度心に抱かれると、われわれは、人間界の、人間精神の外れの外れまで、一息に
歩いて来てしまふ。そこの景観は独自なもので、すべての人間的なものは自分の背後に、
遠い都会の眺めのやうに一纏めの結晶にかがやいて見え、一方、自分の前には、
目のくらむやうな空無が屹立してゐる。(中略)
僕は画家だから、その地点を、魂などとは呼ばず、人間の縁と呼んでゐた。もし魂といふものが
あるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、
人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の縁でなければならない。その輪郭、
その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの縁でなければならない。
三島由紀夫「鏡子の家」より 僕はありありと目に見える外界へ進んで行つた。その道をまつすぐ歩いてゆく。すると
当然のやうに、僕は神秘にぶつかつた。外部へ外部へと歩いて行つて、いつのまにか、
僕は人間の縁のところまで来てゐたのだ。
神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、
急に人間界のはうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のやうに、
解釈しやすい数式のやうに見える。(中略)
……しかし神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまひ、世界の解釈を放棄し、
その言葉はすみずみまでおどろな謎に充たされてしまふ。
三島由紀夫「鏡子の家」より でも今になつてよく考へると、僕は結局、知性の人でもなく、神秘家でもなく、やはり
画家だつたのだと思ふ。過度の明晰も、暗い謎も、どちらも僕のものではなかつた。
人間の縁のところまで来たとき、僕は人間界へ背を向けることもできず、又人間界へ
皮肉な冷たい親和の微笑を以て振返つて君臨することもできず、ひたすら世界喪失の
感情のなかに、浮び漂つてゐたのだと思ふ。
僕の目は鎮魂玉に集中することはできず、おそるおそる周囲の闇のなかを見まはした。
するとそこには、同じ死と闇のなかに、世界喪失の感情に打ち砕かれて、漂つてゐる
多くの若者たちの顔が見えた。ここまで歩いてきたのは僕一人ではなかつた。そのなかには
血みどろな死顔も見え、傷ついた顔も、必死に目をみひらいてゐる顔も見えた。……
三島由紀夫「鏡子の家」より 花は実に清冽な姿をしてゐた。一点のけがれもなく、花弁の一枚一枚が今生まれたやうに
匂ひやかで、今まで蕾の中に固く畳まれてゐたあとは、旭をうけて微妙な起伏する線を、
花弁のおもてに正確にゑがいてゐた。(中略)
僕は飽かず水仙の花を眺めつづけた。花は徐々に僕の心に沁み渡り、そのみじんも
あいまいなところのない形態は、弦楽器の弾奏のやうに心に響き渡つた。(中略)
すべて虚無に属する物事は、ああも思はれかうも思はれるといふ、心象のたよりなさによつて
世界が動揺する、その只中に現はれるものではないだらうか。僕の目が水仙を見、これが
疑ひもなく一茎の水仙であり、見る僕と見られる水仙とが、堅固な一つの世界に属してゐると
感じられる、これこそ現実の特徴ではないだらうか。するとこの水仙の花は、正しく
現実の花なのではないか。
三島由紀夫「鏡子の家」より ……僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられた。それはただの物象でもなく、
ただの形態でもなかつた。(中略)
もしこの水仙の花が現実の花でなかつたら、僕がそもそもかうして存在して呼吸してゐる
筈はないと考へられた。(中略)
僕は君に哲学を語つてゐるのでもなければ、譬へ話を語つてゐるのではない。世間の人は、
現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い
国々で展開されてゐる民族運動だの、政界の角逐だの、……さういふものばかりから
成り立つてゐると考へがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、
いはば現実を再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで
支配してゐるのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より この白い傷つきやすい、霊魂そのもののやうに精神的に裸体の花、固いすつきりした
緑の葉に守られて身を正してゐる清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、
いはば現実の核だといふことに僕は気づいた。世界はこの花のまはりにまはつてをり、
人間の集団や人間の都市はこの花のまはりに、規則正しく配列されてゐる。世界の果てで
起るどんな現象も、この花弁のかすかな戦(そよ)ぎから起り、波及して、やがて
還つて来て、この花蕊にひつそりと再び静まるのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。
自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために
身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、
果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。
ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。
三島由紀夫「憂国」より 中尉の目の見るとおりを、唇が忠実になぞつて行つた。その高々と息づく乳房は、山桜の
花の蕾のやうな乳首を持ち、中尉の唇に含まれて固くなつた。胸の両脇からなだらかに
流れ落ちる腕の美しさ、それが帯びてゐる丸みがそのままに手首のはうへ細まつてゆく
巧緻なすがた、そしてその先には、かつて結婚式の日に扇を握つてゐた繊細な指があつた。
指の一本一本は中尉の唇の前で、羞らふやうにそれぞれの指のかげに隠れた。……胸から腹へと
辿る天性の自然な括れは、柔らかなままに弾んだ力をたわめてゐて、そこから腰へひろがる
豊かな曲線の予兆をなしながら、それなりに些かもだらしなさのない肉体の正しい
規律のやうなものを示してゐた。光りから遠く隔たつたその腹と腰の白さと豊かさは、
大きな鉢に満々と湛へられた乳のやうで、ひときは清らかな凹んだ臍は、そこに今し一粒の
雨粒が強く穿つた新鮮な跡のやうであつた。影の次第に濃く集まる部分に、毛はやさしく
敏感に叢れ立ち、香りの高い花の焦げるやうな匂ひは、今は静まつてはゐない体の
とめどもない揺動と共に、そのあたりに少しづつ高くなつた。
三島由紀夫「憂国」より かうした経緯を経て二人がどれほどの至上の歓びを味はつたかは言ふまでもあるまい。
中尉は雄々しく身を起し、悲しみと涙にぐつたりしてした妻の体を、力強い腕に抱きしめた。
二人は左右の頬を互ひちがひに狂ほしく触れ合はせた。麗子の体は慄へてゐた。
汗に濡れた胸と胸とはしつかりと貼り合はされ、二度と離れることは不可能に思はれるほど、
若い美しい肉体の隅々までが一つになつた。麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、
奈落から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔つた。中尉は長駆する聯隊旗手のやうに喘いだ。
……そして、一トめぐりがをはると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび相携へて、
疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登つて行つた。
三島由紀夫「憂国」より 毎日 毎日 小説のコピペ ごくろうさん よく飽かないね?
コピペ貼るだけの馬鹿は市ね!
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↑ あなたのことでわ? いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。
よくこんな経験があるものだ。十年も二十年も前に、たとへばピクニックに行つて、
一人だけ群を離れて、小滝や野の花の茂みのある静かな一劃に出てしまふ。そのとき何となく、
意味もなく口をついて出た言葉が、十年後、二十年後になつて、何かの瞬間に、再び
ふつと口をついて出てくるのだ。すると永年小さな謎の蕾として眠つてゐたその言葉が、
今度は急速に花をひらき、意味を帯び、人生のその瞬間を決定する、とりかへしのつかない
重要な言葉になつてしまふのだ。
小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる。
結婚して一ヶ月もたてば、大した苦労を嘗めなくても、女は十分現実を知つたといふ自信を
持つやうになる。
一等怖ろしいのは人間の言葉の魔力である。証拠らしい証拠がなくても、耳に注がれる
言葉の毒は、たちまち全身に廻つてしまふ。
三島由紀夫「お嬢さん」より 玉のやうな男の児。「玉のやうな」とは何と巧い形容だらうと一太郎は思つてゐた。
明るい薔薇いろをした堅固な玉。弾む玉。野球のボールのやうに力強く飛びまはる玉。
それは飛び出して、ころころ転がつて、両親や祖父母の膝の上へ跳ね上り、笑ふ玉、
喜ぶ玉、きらきらした国旗の旗竿の玉のやうに青空に浮び上り……、それを見るだけで
みんなに幸福な気持を起させるのだ。
人の心といふものは、一定の分量しか入らない箱のやうなものである。
あなたはお嬢さんだわ。本当に困つたお嬢さん、私の妹だつたら、お尻にお灸をすえてやるわ。
どうしてあなたは叫ばないの? 泣かないの? 吼えないの? 思ひ切つて、景ちやんの顔に
オムレツでもぶつけてやらないの? 花瓶を叩き割らないの? お宅の硝子窓だつて、
ずいぶん割り甲斐があるぢやない? あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。
そんなの、ほんとに女の滓だわ。
三島由紀夫「お嬢さん」より 女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きずり下ろしてしまふ。女は主義といふものを全く
理解しない。『何々主義的』といふところまではわかるが、『何々主義』といふものは
わからない。主義ばかりではない。独創性がないから、雰囲気をさへ理解しない。
わかるのは匂ひだけだ。
女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。
有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。
男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。
最上の逃避の方法は、相手に出来るだけ近づくことである。
あらゆる文体は形容詞の部分から古くなると謂はれてゐる。つまり形容詞は肉体なのである。
青春なのである。
三島由紀夫「禁色」より 風呂に入るときに腕時計を外して入るやうに、女に向ふときは精神を外してゐないと、
忽ち錆びて使ひものにならなくなりますよ。それをやらなかつたので、私は無数の時計を
失くして、一生、時計の製造に追ひ立てられる始末になつたのです。錆時計が二十個
集まつたので、今度全集といふやつを出しました。
打算は愛によつて償はれると考へるのが青年の確信ですね。計算高い男ほど自分の純粋さに
どこかでよりかかつてゐるものです。
絶望は安息の一種である。
死人の目で見たときに、現世はいかに澄明にその機構を露はすことか! 他人の恋情は
いかにあやまりなく透視できることか! この偏見のない自在の中で、世界はいかに
小さな硝子の機械に変貌することか!
三島由紀夫「禁色」より 窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。不幸はめつたに
窓枠をこえてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。
決定的な瞬間といふものは、心の傷に対して医薬のやうに働らく場合がある。
本当の美とは人を黙らせるものであります。
美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。
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