今の日本は戦後かつてないほどの大きな課題を数多く抱えています。

内政的には1000兆円を超えるほど政府部門の財政赤字が膨らんでしまい、年金・介護・医療といった社会保障制度が超少子高齢化で持続可能性が危ぶまれ、人口減少で労働力不足や経済縮小が懸念されています。福島第一原発を皮切りに原子力発電の廃炉という長期国家プロジェクトが始まっています。

言うまでもなく長期的な国家的課題に一人ひとりが直接対峙して解決することは到底不可能ですから、国民としては一義的には政治家や官僚が危機を未然に防ぐことに期待せざるをえない立場にあります。

では「現在こうした長期的な課題について政治家や官僚は責任をもって戦略的に対処しているのか?」というと、結論から言えばその答えは「NO」ということになります。

十分予測されていた問題

こう言うと「日本政府はそんなに無責任だったのか、けしからん」とお怒りになる人も多いかもしれませんが、拙著『逃げられない世代――日本型「先送り」システムの限界』でも指摘しているように、冷静に考えると、これまで政府として長期的な課題に対する備えが十分にできてこなかったからこそ今、問題が噴出しているわけで、ある意味で当たり前の話ではあります。

たとえば、社会保障財政が将来的に悪化することなどは低出生率が定着した1990年代にはすでに十分予測されていました。2000〜2003年に大蔵・財務省の事務次官を務めた武藤敏郎氏は退職後のインタビューで次のように述べています。

「実を言うと、1990年代の後半、財務省で社会保障制度などを担当していたころから、『中福祉・中負担』はウソっぽいな、と感じ始めていました。日本の高齢化率は1980年代から急速に高まりました。65歳以上の高齢者の比率が7%以上を『高齢化社会』といい、14%を超えると『高齢社会』、さらに21%を超えると『超高齢社会』と呼びます。

日本が高齢化社会になったのは1970年、高齢社会になったのは1994年、超高齢社会になったのは2007年です。政治家が『中福祉・中負担』の国家、と言いたい気持ちはよくわかりますが、高齢化がこれだけ急速に進むもとでは日本の国の姿として『中福祉・中負担は組み合わせとしてはあり得ない』『中福祉・中負担は幻想ではないか』と思い始めました」(『逆説の日本経済論』斎藤史郎編著、PHP研究所刊)

現在の社会保障財政の悪化を財務省のトップがかなり前から予測していたことは本人も認めています。それにもかかわらず、その対策のために増税したり給付を減らしたりすることは国民の受けが悪いため問題が長らく放置され、2000年代に入って遅まきながら対策を講じたところで間に合わず、現在のような年間数十兆円規模の赤字を垂れ流すような状況になってしまいました。

問題はわかっていたのに対策は取られなかったのです。

このような長期展望がない状態は今でも続いており、日本政府には累積で800兆円を超える長期国債がありますが、これだけ政府の借金が積み上がっていても、将来的な財政政策のあり方については長期方針が示されていません。これでは状況が悪化するばかりです。

先送り自体は必ずしも問題とはいえず、しばしば最良の政策とすらなりえます。経営学の世界的な大家であるP・F・ドラッカーも著書『ネクスト・ソサエティ』(ダイヤモンド社)で指摘し、高く評価しています。ところが、問題は経済成長が停滞し人口が減ろうとしている転換期においても、日本政府が「先送り」を基本戦略とし続けていることです。

このような社会の活力が弱まっている状態で先送りを続けると、問題は解決されるどころかどんどん大きくなってしまいます。たとえば社会保障制度の問題などは、人口が増え続けるかぎり制度の担い手となる若年労働者が増えていくので自然と解決されていくものがほとんどですが、今の日本では逆に人口が減っていく局面ですから、先送りすればするほど制度の担い手が減っていき、受け手である高齢者が増えることで問題が大きくなってしまいます。そのような状況でも「先送り」という政策を取らざるをえないのが今の日本の政治構造で、これこそが日本政治の宿痾(しゅくあ)といえるでしょう。

読者の皆さんには勘違いしてほしくないのですが、個々の与党政治家や官僚の多くは日々迫り来る問題に対処することに精いっぱいで、ある意味責任感を持って社会を維持するために懸命に「先送り」を続けており、そうした彼らの仕事自体には敬意を払うべきだと思っています。

以下ソース
https://toyokeizai.net/articles/-/228480