<日本の経済界が制度の実現を望む背景には、高度な技術を持った人材が流出してしまうことへの危機感があるはずだが、現在検討されている制度にそれを食い止める効果はない>

2005〜07年にかけて「ホワイトカラー・エグゼンプション制度」というのが検討されたことがありました。いわゆる頭脳労働における労働時間規制を緩和し、時間外手当の支給対象から外すという考え方でしたが、世論の反対に遭って実現しませんでした。

それから11年を経て、今回は「高度プロフェッショナル制度」が改めて提案されています。今回の案は、前回の案とは少し相違点があります。基本的に時間管理の対象から外すのは、専門職のみとし、しかも年収も1075万円以上に限定しているという点が異なります。

ですが、実際の法案には金額は明記されておらず、厚労省の省令によって年収最低限はいくらでも変更ができることから、一旦この法律が成立してしまうと、もっと低い年収の人々も含めて残業手当が支払われない危険がある、そんな指摘がされています。

一方で、既に実施されている制度としては、裁量労働というものがあるわけですが、そもそも労働者に時間管理を中心とした作業段取りの裁量権が完全にはない日本では、裁量労働制残業手当がカットとしてしか作用していない中で、裁量制イコール生産性の向上にはなっていないという議論もあります。

では、そのように批判の声が大きいこの案を、どうして日本の経済界は実現したがっているのでしょうか?

そこには2つ理由があると考えられます。

1つは、技術者や会計士などといった専門職については、グローバルな労働市場というものが成立しているからです。高い訓練を受けて来たり、中身の濃い経験を蓄積したりした人材の価値、つまり国際的な労働市場における賃金水準というのは、上昇して来ています。コンピュータのソフトウェア・エンジニアという職種の場合は、即戦力とみなされれば大卒初任給が10万ドル(1100万円)を越える場合が普通ですし、メカニカル・エンジニアリング(機械工学)技術者などの給与も高騰しています。

日本の場合は、こうした専門職の国際的な労働市場からは「隔離」された世界がありました。いかに潜在的なスキルが高くても、1年目は月給21万円程度の初任給からスタートして、技術職も事務職もそれほど差のない賃金体系で昇給する、その代わり全員が管理職候補であり、また役員候補だという前提で人事ローテーションをかけて囲い込むということがされていたのです。

ところが、グローバル化の進展により、日本の企業内でも、こうした国際的な労働市場を意識せざるを得なくなりました。その結果として、例えば若くても高給を保障しなくてはならないAI(人工知能)関連の研究開発などは、そもそも国内には人材が少ないし、また国内の給与体系には合わないということで、海外に拠点を移すということがされたのです。

人類の歴史始まって以来の「最先端の部分を外に出す空洞化」という愚行は、その結果であり、そのような先端部門に関しては、多国籍企業の連結決算には合計されるものの、日本のGDPには合算されない中で、日本の国内経済衰退の一因となっていたのです。

さらにここへ来て、国際的な労働市場は日本国内にも影響を与え始めました。「それでも日本国内に残っていた高度な技術者」に対して、外資系企業の日本拠点、あるいはアジアの各国にある企業、あるいは米欧の企業などが人材の引き抜きを始めたのです。

その結果として、多くの優秀な人材が流出し始めました。そうなると、人材を囲い込むためには、日本国内でも「国際競争力のある人材」には非管理職でも高給を保障しなくてはならなくなって来たのです。「1075万円」という数字の背景にはそうした意味があると考えられます。

2番目は、エンジニアなどの専門職に関しては、専門性を評価することにより、時間外手当の支給対象から外すというのは、米欧にしてもアジア諸国にしても、比較的浸透した考え方だということがあります。ですから、専門職には高給を用意する代わりに、残業代の対象から外すというのは、制度的には海外の常識に合っているということになります。

では、このような制度を実現して、エンジニアなどの専門職に年収1000万以上を提示すれば、グローバルな労働市場で評価される人材が日本国内でも確保できるようになるのでしょうか? この点が、この「高度プロフェッショナル制度」の導入を考える上での最も重要な論点であると思います。そして、残念ながらその答えは「ノー」だと思います。

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