・古代(河野通明氏・大阪市出身の歴史学者)
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/10346/1/47(2)-5.pdf

大阪中央低地は梅雨の長雨や集中豪雨,台風時の豪雨の際には田畑は冠水し住居にも浸水しかねない最悪の地

なぜ彼らはこんな条件の悪い土地に住みついたのか?

条件のいい高燥な地は先に来た渡来人に占拠され
後から来た渡来人たちは条件の悪い葦原に不法占拠的に居住

条件のいい高燥な地:西宮〜豊中地区→「山の手のコリアタウン」
生活条件の悪い葦原:大阪中央低地→「低地のコリアタウン」

・中世(海津一朗先生・和歌山大学教授)
『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。

・近世、近代(内藤湖南・大正十年、大阪において講演)
@徳川時代の大坂町人
商売のことも判からず、もちろん学問もせず、使用人になにごとも任かせきりであったものだから、
文化の中心も使用人に集まり、経済の仕方もみな丁稚や番頭の手に移り、学問も使用人の学問となって終ったものである。
@明治以降の大阪の学問
徳川時代の大名を対手とするというような商売の仕方が亡び、新しい大阪となったが、まったく今の大阪は暗黒な時代である。
檀那衆すなわち今の言葉でいう資本家から大した学問のある人も出来ず、さりとて使用人の方からも大した学者も出ていない。

・現代(武田鉄矢さん)
「大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い」