1949年の中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には
漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実に
ソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。
1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、
7月12日、ケ小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、
「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」
などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。

こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、
内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、
1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。

1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に
先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで
70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。
これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。

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