山口百恵は菩薩である 道重さゆみはピエロである
かつて、一人の貧しい少女が歌手となり、
ひたむきな歌の力で日本を浄化した。
優雅な美しさに至った彼女は「菩薩」と呼ばれた。 https://anincline.com/yamaguchi-momoe/
伝説のアイドル、山口百恵。70年代のアイドルは、
その栄光の影に、かならずスティグマ・聖痕を持っていました。
例えばそれは、生い立ち。出生の秘密であり、複雑な家庭環境、
非行や貧困といった負の事情です。
デビュー当時、山口百恵の生い立ちは、母子家庭に
育ったとされていました。しかし、実は認知されていたものの、
愛人の子であったという真実の生い立ちを、200万部の
ベストセラーとなった自叙伝「蒼い時」で明かしています。
そして山口百恵は、結婚して晴れて三浦百恵になるために、
自分で稼いだ相当額を手切れ金としてその父に渡し、
完全に親子の縁を切ったのです。 そんな山口百恵のデビューから引退までを撮りつづけた
カメラマンがいました。篠山紀信です。当時14歳の制服が
初々しい少女は、シャッターが切られるごとに、切れ長の
涼しい目に不思議な憂いを蓄え、聖少女から魔性を秘めた
女性へと変幻自在に変化していきます。山口百恵は、
大人たちの戦略によって、性を感じさせる危うい歌詞の
楽曲でデビューし、多くの少年たちを熱狂させます。 そして山口百恵は、その圧倒的存在感でドラマや映画を
席巻、大人たちにも深い印象を与えました。やがて篠山紀信は、
山口百恵を「時代と寝た女」と呼び、彼女の仏像に刻まれた
諦観にも似た表情は、「山口百恵は菩薩である」という
社会評論にまでなります。山口百恵は、14歳から21歳まで
たった7年間の芸能活動で、時代の社会現象にまで上り
詰めたのです。 日本のアイドル史において、1980年は特別な年であるといえます。
1980年10月5日、武道館は異様な熱気に包まれていました。
それは、山口百恵ファイナルコンサート。純白のウエディングドレス
のような衣裳に身を包んだ山口百恵は、とても21歳とは思えない
神々しいオーラを放ちながら、コンサートのラスト、ステージの上に
白いマイクを静かに置いて、ファンと芸能界の前から旅立ち、
俳優三浦友和と結婚。二度とマスコミに姿を現すことはありませんでした。 山口百恵さんの「原点」横須賀を歩く
「私の原点は、あの街−−」
山口百恵さん(55)が自叙伝「蒼い時」でこうつづった横須賀
を訪ねた。米軍基地にほど近い京急汐入駅からバスに10分ほど
揺られると、高台に公営団地が見えて来る。高度経済成長期
に入った60年代に山を切り崩して建てられたこの団地に、
山口さんは小学2年生から中学生でデビューするまで母と妹の
3人で暮らしていた。
外壁はひび割れ、空き部屋も目立つ。高齢世帯が多くなり、
外国人住民も増えたという。団地に住む70代の女性は、
40年前のことを覚えていた。「あの子は、夏休みの朝早くに
眠そうな顔で新聞配達に行ってね。まだ放し飼いの犬も多くて
危なかったし、中学生の女の子の新聞配達はあのころでも珍し
かったわね」 山口百恵さんが暮らした横須賀の街
https://ameblo.jp/rhicken/entry-12155691681.html
横須賀を歌った曲と言えば横須賀ストーリー、歌ったのは山口百恵。
今回は山口百恵がデビュー前に暮らした横須賀の街を
ゆっくり約2時間をかけ歩いて来ました。
なお内容はネット情報に基づいておりますので、その点をお含みおき下さい。
最初は横須賀市立中央図書館です。
当時よく通っていたらしいです。
不入斗(いりやまず)中学校近くの横須賀不入斗郵便局
隣にあるパン屋さんアライベーカリーです。
当時やはりよく立ち寄ったらしく、揚げソーセージ゙パンを
買い求めていたそうです。
ひとつ買って食べてみましたが、懐かしい昭和の味がしました。 横須賀市立不入斗(いりやまず)中学校です。
デビューする前の中学2年生の3学期まで通っていたそうです。
3年生からは上京して私立品川中学校
(現在の品川女子学院中等部)へ転入しました。
県営鶴ヶ丘団地が見えて来ました。
小学校2年生の3学期に引越し、
中学校2年生の3学期まで約6年間、
こちらで母と妹の3人で暮らしたそうです。 団地の一室でテレビ番組「スター誕生!」を観て、
そのオーディションに応募したといいます。
鶴ヶ丘二丁目バス停です。
街中や最寄駅に行く際に使用していたと思われます。
県営鶴ヶ丘団地配置図です。
2区画に計8棟建っており、どの棟の何号室に住んでいたかは判りません。
団地は高台に建っており、その四方八方に団地へ続く階段が有りました。
当時通学や買い物に使っていたかもしれません。
横須賀ストーリーの歌詞、
「急な坂道 駆けのぼったら 今も海が 見えるでしょうか ここは横須賀」
を想い出しました。
また小さな公園も有り、当時遊んでいたかもしれません。
その日は高台に心地よい風が吹き抜けていました。 横須賀市立鶴久保小学校です。
小学2年生の3学期に横浜市立瀬谷小学校から転校して来たそうです。
さいか屋横須賀本店跡地(現駐車場)です。
1973年(昭和48年)5月20日、さいか屋の屋上ステージで
地元でのお披露目として、デビュー曲「としごろ」を家族や知人数名を
前に歌ったらしいです。その翌日がレコードデビューの日でした。 山口百恵がデビューするまで暮らした横須賀の県営住宅は
衣笠駅からしばらく歩いたトンネルの向こうにある。
横須賀は、坂とトンネルと山の街だ。
京急横須賀の駅前以外で暮らすにはなかなか厳しいところだったと思う。
まして県営住宅。住むには最低限のところであったはず。
40年以上も前の日本社会、それは今の比ではなかったはず。
山口百恵はそんな環境で育った。
坂と山ばかりの土地柄、夏休みにアルバイトでしていた
という新聞配達も楽ではなかったはずだ。
そういう厳しい生活がアイドルを一層輝かせたのかもしれない。
基地の街横須賀というダークな街から恵まれない家庭で
育った少女がアイドルになるストーリーは現実とはいえ
リアリティーがなさすぎる。
普通は大概ひねてグレてしまうはずなのに。