植松聖クンは介護職に就いたことで
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
人格崩壊したよね? もし障害者介護してなかったら凶行は起きなかったはず。 異論は認めん!” ふむふむ。。 取り調べの時にまさか介護の世界があれほどとはと取り調べ調書にもはっきり記載されて るらしいな。がtvでは一切報道されないとか文芸春秋だかに出てた記憶。 現役介護職がそれを認めたら自分自身を否定することになりますからね。 仕事を選ぶ選択肢はあった筈、障碍者介護だけが仕事じゃない。障碍者を介護するのが嫌なら辞める選択肢だってあった筈、何故辞めなかったのか?障碍者を介護する施設の給料も、問題あり。 嫌ならやめるってそんな簡単にやめるもんじゃないでしょ 処刑されたら神格化されるんじゃないか?このまま不景気が続けば そんな世の中になっても可笑しくない。障害者の逆差別も酷いしね。健常者の人権を否定してる事も少なくない。 介護者の人権が認められ、処遇が改善されるためには、納得できない人は介護に行かないこと、そしてもう一回植松が出現する事が必要だ。 赤の他人の権利擁護をするためには、まず自分の権利が守られてなきゃなあ >>10 その通り!利用者から殴られてもかじられても黙って耐えろでは、職員の権利擁護意識など育つはずがない。だってそうだろう。職員自身の権利が擁護されてないからな。 だから、>>6 みたいな敢えてその仕事を選んだんだから耐えて当然なんてのはナンセンス。これから起こる不景気下、底辺層が介護に追いやられる中で、そんなマウント取ったら、そりゃー植松が量産されるだろうという想像力が必要なんだよ。 だからと言って、植松がやったことは許されないけどね。 >>12 勿論。植松は許されないし、それと同時に職員の虐待も許されない。でもなぜか職員の虐待が現場では許されちゃってるから、植松が生産される。俺が言いたいのはそう言うことだ。 セント植松も最初は利用者可愛い、やりがいあるって言ってたのが一年後には給料安すぎ問題でぼやく事が多くなり最終的にはガイジは人間ではないと言うようになったようだな これは施設側が成長産業だよとほざきながら給料を上げないのが問題だろうなあとは自己向上せず文句言うだけのセント植松にも問題はあったと思うな あと、ちょっとしたことでクソみたく痛いだの騒いで始末書書かせて計画通り(ニヤリ)してる家族に捨てられカマチョ化した被害者面ゴミババアやすぐキレるワガママジジイに接したら やり返さないと舐められると思ってしまうのは明らか 俺なら殴られたら大袈裟にぶっ飛んで地面にチョーパンして頭割って救急車に通報して 50万アザースって思いながらジジイに殴られましたと言うけどなそこまでやれば問題にならないわけもない なにかされた時にどうすれば相手に最大ダメージを与え自分に利益をもたらすかを常に考えていれば全ての馬鹿の悪行は自分にとって利益に還元できる それをやるかやらないかそれを考えるか考えもせずダラダラ過ごして思考停止するか社会的知力の良し悪しは学歴よりその地頭と情報収集力である 補助金を減らしたい政府は、今後介護をアメリカ化させるかもな。障害者を弱者扱いしないアメリカは障害者を働かせているし、日本の障害者みたいに福祉に甘えさせない。生きるに値する命/値しない命の尊厳死など、自由な言論も活発だ。 今の緊縮財政を見ると、介護士の待遇がアメリカ並みになるのは期待出来ないが。 >>17 コロナで大量に減るからアメリカ化はしないんじゃないか?綺麗汚いの区別がつかない重度や免疫が弱いのが中心になるだろう。 コロナで障害者の死亡が多けりゃ、植松さんはどう思うだろうね?わざわざ障害者だと報道するところは中々無いだろうけど。 俺も脳機能が壊れたヒステリーばあさんは殺したいな 身内にそんなのが居たら食事の補助は辞めるよ 食べなきゃ死ぬから自然死だよ 首を絞めてぶっ殺す奴が多いが餓死は自然死だからな 殺す場合は食事与えないではなく 何もしないが正しい 腹が減ったら自分で食えばいいだけだからな。 殺人事件としては適用されない 老人のくちに食べ物を入れなけりゃいけない法律なんて存在しないから これほど簡単で安全な殺しかたはないね >>22 なる程。施設では難しいが、寝たきり老人なら独り暮らしにすれば楽勝だな。20才以降も身体不自由ならいける。 NNNドキュメント 2020/3/15「19人を殺した君と重い障がいのある私の対話」 https://youtu.be/zVMwGH9JkI4 どうせなら、頭を悪い無能害悪職員○○てほしかった(´・ω・`) 裁判の最後に1つだけって言いかけたのは何だったのかな? 気になるわ 死刑にしたのだし 最後に言いたい事言わせてやれや て思うわ 秋田の象徴、現役県立大学教員の力作、産んでいいドットコム ダウン症は、産まれる価値のない命 ダウン症は、生きる価値のない命 ダウン症は、存在するだけで周りを腐らせる腐ったリンゴである 親は、ダウン症の我が子が死ぬと明るくはつらつした表情になるのです ダウン症の中絶は、不倫の子の中絶より正当性がある 秋田県民の子は、産まれる価値のない命 秋田県民の子は、生きる価値のない命 秋田県民の子は、存在するだけで周りを腐らせる腐ったリンゴである 親は、秋田県民の我が子が死ぬと明るくはつらつした表情になるのです 秋田県民の子の中絶は、不倫の子の中絶より正当性がある 秋田県大教員の子は、産まれる価値のない命 秋田県大教員の子は、生きる価値のない命 秋田県大教員の子は、存在するだけで周りを腐らせる腐ったリンゴである 秋田県大教員は、我が子が死ぬと明るくはつらつした表情になるのです 秋田県大教員の子の中絶は、不倫の子の中絶より正当性がある 本当に秋田県大教員は、明るくはつらつした表情になるのかを確かめるために 植松死刑囚のマネをして教員の子供の首を絶対に切らないで下さい もう刺殺された19人の障がい者によってとんでもない間違いであることが証明 されています ダウン症 2ch 人類 ダウン症って人類が枝分かれしてる証明ニナル生物ダヨナ 秋田県立大学 2ch 秋田県庁 2ch 優生思想は悩ましい しかい短絡的思考はだめだ 人間、いろいろ悩み考えてこそ人間 大切な人の命は守りたいはず 植松氏は職員を縛った 17歳軽度障がい者も職員を縛った 【京都】ALS安楽死事件、逮捕された医師は元厚労省官僚 「寝たきり高齢者は棄てるべき。社会資源の無駄」主張 ★14 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1595624407/ 「 や ま ゆ り 園 」 4 年 : し ん ぶ ん 赤 旗 「 命 の 選 別 」 を 許 さ な い 社 会 を 神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負った事件からきょうで4年です。 殺人罪などに問われた元職員が「障害者には生きる価値がない」という主張を続け、犯行を正当化したことは国内外に大きな衝撃を与えました。 横浜地裁は3月、元職員に死刑を言い渡し、同判決は確定しました。 しかし、裁判でも、元職員が障害者に憎悪を抱き、残忍な犯行に至った背景などの解明は尽くされていません。 「命を選別する」風潮が根深く社会に存在する中で、事件を問い続けることが必要です。 問 わ れ 続 け る 犯 行 の 背 景 「やまゆり園」事件が、障害者・家族をはじめ多くの人にショックを与えたのは、犯行の残虐さとともに、 「障害者は不幸をつくることしかできない」などの異常な言動でした。 これは、人間に優劣をつけ「劣った命」は奪ってもいいとする「優生思想」そのものです。 元職員がなぜ、ゆがんだ価値観に凝り固まり、殺人を実行したのか。裁判では、思考形成の過程はほとんど明らかになりませんでした。 障害者団体は、施設設置者の神奈川県に対し、 元職員が「やまゆり園」で障害者と接する仕事をしながら、障害のある人とのかかわりに積極的な意味や価値を見いだすのでなく、 逆に障害者を否定する考えを募らせた背景をより突っ込んで解明するよう求めています。 障害者や家族、関係者が、強く危機感を抱いているのは、 この事件が障害者をはじめ社会的な弱者や少数者に対する差別や偏見、排除を当然視する「空気」の強まりの中で起きたことです。 裁判の中で、元職員は、米国の大統領選に出馬したトランプ氏について「勇気を持って真実を話している」ことなどに共感があったと述べました。 社会に分断を持ち込み、「生産性」や「効率性」を求める価値観が、元職員に影響を及ぼしたことは、否定できません。 日本でも、貧困と格差を「個人の自己責任」と突き放し、障害者や高齢者を「社会のお荷物」と扱ったりする発言が後を絶たないことは見逃せません。 一人一人の人間を大切にしない考えの助長・拡大を許さない取り組みが強く求められます。 「やまゆり園」事件から4年の節目を前にした23日、 難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者からの依頼を受けて、薬物を投与して殺害した容疑で2人の医師が逮捕され、衝撃を広げています。 ALS患者が、なぜ生き続けることの希望を失ってしまったのか ? 医療制度をはじめ社会の仕組みが患者を追い詰めていないのか ? 医師がなぜそのような行為に及んだのか ?―。難病患者の人権と尊厳、生きる権利にかかわる多くの深刻な問題が突き付けられています。 「やまゆり園」事件にも通じる重大な課題も少なくありません。徹底的な解明が欠かせません。 人 権 と 尊 厳 の 保 障 こ そ 新型コロナウイルスの感染拡大の中、多くの障害者は必要な支援を受けられなくなるのではと危惧を抱きました。 海外では人工呼吸器が不足した時、障害者につけない動きもあると報じられました。障害を理由にした「命の選別」は許されません。 障害のある人もない人も、命、人権、尊厳が保障される社会づくりが急務です。 (主張/「やまゆり園」4年/「命の選別」を許さない社会を : しんぶん赤旗 ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-07-26/2020072602_01_1.html) 京 都 A L S 女 性 患 者 の 嘱 託 殺 人 事 件 に 対 す る コ メ ン ト 2020/7/27投稿 2020/7/28更新 ALSに罹り9年近く闘病され、昨年11月に嘱託殺人事件の被害者として亡くなられた患者さんに哀悼の意を表します。 患者さんは闘病を続ける中で、その辛さから死を望むようになられ、 主治医でないインターネットで知り合った2人の医師に依頼したと7月23日に報道されています。 ALS患者さんが死にたいと関係者に吐露し依頼することは珍しいことではなく、患者さんの思いや行為を非難することはできません。 報道から考えうる問題は、主治医でない医師2名が患者さんの依頼を受け、 金銭を受領し、偽名で患者さん宅を訪問して大量の睡眠薬を胃ろうから投与して殺害したことです。 このことについては医療倫理に背く行為であり、二度とあってはならないことです。 当協会は1986年にALS患者が人としての尊厳を全うできる社会を目指して設立され、 これまで患者家族の交流と助け合いを行い、国への療養環境の整備の働きかけや治療研究の促進を取組んできました。 その後、医療や福祉関係、国等の社会的理解が進み、ALS等の神経難病の療養環境は改善されつつあり、 現在は、人工呼吸器を着けた重症患者でも外出や社会参加ができ、長期に生きられる道が開かれています。 しかしながら、まだ社会的介護保障の格差などの課題や、病気の進行を止める治療法がまだ確立されていないことから、 病気進行に伴う精神的な苦痛や制度支援が追いつかない課題もあります。 ALSの病気進行に対して医療者や福祉関係、支援者が当事者に寄り添い支援していくことが必要で、 これまでALSで生じた悲しい出来事は患者が社会的に孤立した状況で起きています。 当協会はこれまで「尊厳死」の法制化に賛成できない旨の声明を出したことがあります。 また今回報じられている薬物による死を早める「安楽死」に関して、個人としての意見はあっても協会組織として認めておりません。 ALSは人工呼吸器を装着すれば長期に生きられることから、呼吸筋麻痺をもって必ずしも「終末期」と言えません。 日本医師会の「医師の職業倫理指針 第3版」(2016年)でもALSに関してはそのような言及がみられます。 また厚生労働省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(2018年)でも記されておりますが、 医療・ケア行為の開始・不開始、医療・ケア内容の変更、医療・ケア行為の中止等は、 患者本人の意思を第一に尊重しながら医療・ケアチームで対応することが提示されています。 今回のような事件が再び起きないよう、ご理解とご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。 (京都ALS女性患者の嘱託殺人事件に対するコメント / 日本ALS協会 : http://alsjapan.org/2020/07/27/post-3167/ ) A L S 患 者 に 対 す る 嘱 託 殺 人 事 件 報 道 に 関 す る 日 本 尊 厳 死 協 会 の 見 解 2020年7月27日 はじめに、ALSという神経難病を患いながらも最期まで懸命に生き抜かれた女性の勇気を称え、ご冥福をお祈り申し上げます。 まず、「 尊 厳 死 」と「 安 楽 死 」は異なる概念であるということです。多くのメデイアが両者を混同しています。 協会はリビングウイルに基づいて延命治療を差し控え、充分な緩和ケアを施されて自然に迎える死を「 尊 厳 死 」と定義しています。 それに対し、「 安 楽 死 」は積極的に生を絶つ行為の結果としての死で、日本では認められておらず、自殺ほう助は犯罪です。 医行為としては社会的規範を逸脱しており、医師の倫理規定違反は明白で、到底容認できるものではありません。 日本において、医師による安楽死の正当性が問われた、横浜地裁の判決(1995 年)では許容されるための 4 要件として、 @ 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること A 患者の死が避けられず、その死期が迫っていること B 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がないこと C 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること が示されています。 今回の事件は上記の要件を満たしておらず、加えて、苦痛の救済方法に関しての十分な話し合いが、 本人と本人の医療とケアに関わっていた人々と行われた形跡がないことを考慮すると、 この医師たちの行為は社会的コンセンサスを得ていない思い込みによる判断からの行為という非難を免れない、と結論付けられます。 横浜地裁の安楽死 4 要件には肉体的苦痛に関する記載がありますが、患者の苦痛は肉体的苦痛よりも他の苦痛であったと推察します。緩和ケアの世界では全人的苦痛と言われるものがあり、 @ 肉体的苦痛、 A 精神的苦痛、 B 社会的苦痛、 そしてC スピリチュアル・ペイン です。 「 ス ピ リ チ ュ ア ル ・ ペ イ ン 」とは、生きる意味や価値を見失うことによる苦痛と定義されています。 死にたいという言葉の裏には必ず、満たされていない痛みがあります。 特に、家族への負担を強いることや社会参加の機会が奪われることなどからくる社会的苦痛、 自分の生きる意味や価値を見失う苦痛や苦悩である「 ス ピ リ チ ュ ア ル ・ ペ イ ン 」です。 本人が抱えるこれらの苦痛苦悩に、周りの人は本人に代わって答えを出すことができません。 生きる意味を求めて模索する患者の苦痛を共有する「 ケ ア マ ネ ジ メ ン ト 」が望まれますが、 いまだ日本社会の病者、生活弱者に対する不十分なサポート体制が、多くの不幸な尊属殺人や嘱託殺人を招いていると考えられます。 協会は尊厳死に賛同していますが、安楽死には反対の立場です。その真意は「まずは尊厳死ができる国にしよう」という想いです。 というのも日本は先進国で唯一、「リビングウイルの法的担保」が無い国で、終末期議論の最後進国です。 また充分な緩和ケアが提供できれば安楽死は要らないのではないか、という趣旨です。 安楽死の議論を望む声もありますが、社会の意識改革と制度改革を待たずに、安易に安楽死を容認すべきではないと考えます。 リビングウイルとは生前の遺言状です。しかし現実にはリビングウイルを表明している日本人はまだわずかです。 高度の認知症などですでに表明できない人もいます。リビングウイルは終末期医療に関する自己決定です。 これは憲法で保障された幸福追求権に基づきます。「死の権利はあるのか?」という視点で見れば、安楽死も同じことが言えます。 世界も大いに悩んでいます。一方、日本国内における「死の権利」とは今のところまだ尊厳死議論の段階に留まっています。 今回の事件を契機に多くの日本人が死をタブー視せず、リビングウイル、尊厳死、そして「死の権利」の議論を深め、国民の納得する終末期医療に変容することを期待しています。 (2020年7月27日 ALS患者に対する嘱託殺人事件報道に関する日本尊厳死協会の見解 : https://songenshi-kyokai.or.jp/honbu/wp-content/uploads/2020/07/ALS20200727_3.pdf ) 人 生 の 最 終 段 階 に お け る 医 療 ・ ケ ア の 決 定 プ ロ セ ス に 関 す る ガ イ ド ラ イ ン : 厚 生 労 働 省 1 人生の最終段階における医療・ケアの在り方 @ 医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされ、 それに基づいて医療・ケアを受ける本人が多専門職種の医療・介護従事者から構成される医療・ケアチームと十分な話し合いを行い、 本人による意思決定を基本としたうえで、人生の最終段階における医療・ケアを進めることが最も重要な原則である。 また、本人の意思は変化しうるものであることを踏まえ、本人が自らの意思をその都度示し、 伝えられるような支援が医療・ケアチームにより行われ、本人との話し合いが繰り返し行われることが重要である。 さらに、本人が自らの意思を伝えられない状態になる可能性があることから、 家族等の信頼できる者も含めて、本人との話し合いが繰り返し行われることが重要である。 この話し合いに先立ち、本人は特定の家族等を自らの意思を推定する者として前もって定めておくことも重要である。 A 人生の最終段階における医療・ケアについて、医療・ケア行為の開始・不開始、医療・ケア内容の変更、医療・ケア行為の中止等は、 医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。 B 医療・ケアチームにより、可能な限り疼痛やその他の不快な症状を十分に緩和し、 本人・家族等の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療・ケアを行うことが必要である。 C 生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象としない。 2 人生の最終段階における医療・ケアの方針の決定手続 人生の最終段階における医療・ケアの方針決定は次によるものとする。 (1)本人の意思の確認ができる場合 @ 方針の決定は、 本人の状態に応じた専門的な医学的検討を経て、医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされることが必要である。 そのうえで、本人と医療・ケアチームとの合意形成に向けた十分な話し合いを踏まえた本人による意思決定を基本とし、 多専門職種から構成される医療・ケアチームとして方針の決定を行う。 A 時間の経過、心身の状態の変化、医学的評価の変更等に応じて本人の意思が変化しうるものであることから、 医療・ケアチームにより、適切な情報の提供と説明がなされ、 本人が自らの意思をその都度示し、伝えることができるような支援が行われることが必要である。 この際、本人が自らの意思を伝えられない状態になる可能性があることから、家族等も含めて話し合いが繰り返し行われることも必要である。 B このプロセスにおいて話し合った内容は、その都度、文書にまとめておくものとする。 (2)本人の意思の確認ができない場合 本人の意思確認ができない場合には、次のような手順により、医療・ケアチームの中で慎重な判断を行う必要がある。 @ 家族等が本人の意思を推定できる場合には、その推定意思を尊重し、本人にとっての最善の方針をとることを基本とする。 A 家族等が本人の意思を推定できない場合には、本人にとって何が最善であるかについて、本人に代わる者として家族等と十分に話し合い、 本人にとっての最善の方針をとることを基本とする。時間経過、心身状態の変化、医学的評価の変更等に応じて、このプロセスを繰り返し行う。 B 家族等がいない場合及び家族等が判断を医療・ケアチームに委ねる場合には、本人にとっての最善の方針をとることを基本とする。 C このプロセスにおいて話し合った内容は、その都度、文書にまとめておくものとする。 (3)複数の専門家からなる話し合いの場の設置 上記(1)及び(2)の場合において、方針の決定に際し、・医療・ケアチームの中で心身の状態等により医療・ケアの内容の決定が困難な場合 ・本人と医療・ケアチームとの話し合いの中で、妥当で適切な医療・ケアの内容についての合意が得られない場合 ・家族等の中で意見がまとまらない場合や、医療・ケアチームとの話し合いの中で、 妥当で適切な医療・ケアの内容についての合意が得られない場合等については、複数の専門家からなる話し合いの場を別途設置し、 医療・ケアチーム以外の者を加えて、方針等についての検討及び助言を行うことが必要である。 (厚生労働省 ・ 改訂 平成30年3月 : https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10802000-Iseikyoku-Shidouka/0000197701.pdf ) 将来、植松聖が英雄扱いされる日が来るかも? 障害年金を29名分節約出来た実績が厚生労働省から評価されてりして! 広 島 平 和 宣 言 1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、「75年間は草木も生えぬ」と言われました。 しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。 今、私たちは、新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かい、踠(もが)いていますが、 この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。 およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での「連帯」が叶わなかったため、 数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました。 その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界大戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。 こうした過去の苦い経験を決して繰り返してはなりません。 そのために、私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、「連帯」して脅威に立ち向かわなければなりません。 原爆投下の翌日、「橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていた。 大半が火傷で、皮膚が垂れ下がっていた。『水をくれ、水をくれ』と多くの人が水を求めていた。」という惨状を体験し、 「自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。」という当時13歳であった男性の訴え。 昨年11月、被爆地を訪れ、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。」と発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。 そして、国連難民高等弁務官として、難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の 「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。」という実体験からの言葉。 これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように「連帯」して立ち向かうべきであることを示唆しています。 今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、「連帯」して苦難に立ち向かった成果です。 実際、平和記念資料館を訪れた海外の方々から「自分たちのこととして悲劇について学んだ。」、 「人類の未来のための教訓だ。」という声も寄せられる中、これからの広島は、 世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。 ところで、国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、 ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。 そのために広島を訪れ、被爆の実相を深く理解されることを強く求めます。 その上で、NPT再検討会議において、NPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、 建設的対話を「継続」し、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。 日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、 核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、 唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。 また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩 に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。 本日、被爆75周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和 の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。 令和2年(2020年)8月6日 広島市長 長 崎 平 和 宣 言 私たちのまちに原子爆弾が襲いかかったあの日から、ちょうど 75 年。 75 年前の8月9日、あの日の原子雲の赤黒い拡がりの下に繰り展げられた惨劇、 ベロベロに焼けただれた火達磨の形相や、炭素のように黒焦げとなり、丸太のようにゴロゴロと瓦礫の中に転がっていた数知れぬ屍体、 髪はじりじりに焼け、うつろな瞳でさまよう女、そうした様々な幻影は、毎年めぐりくる八月九日ともなれば生々しく脳裡に蘇ってくる。 被爆者は、この地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で原子雲の下で何があったのかを伝えてきました。 しかし、核兵器の本当の恐ろしさはまだ十分に世界に伝わってはいません。 新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまで、私たちがその怖さに気づかなかったように、 もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気づかなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまいます。 今年は、核不拡散条約(NPT)の発効から 50 年の節目にあたります。 この条約は「核保有国をこれ以上増やさないこと」「核軍縮に誠実に努力すること」を約束した、人類にとってとても大切な取り決めです。 しかしここ数年、中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄してしまうなど、 核保有国の間に核軍縮のための約束を反故にする動きが強まっています。 それだけでなく、新しい高性能の核兵器や、使いやすい小型核兵器の開発と配備も進められています。 その結果、核兵器が使用される脅威が現実のものとなっているのです。 3年前に国連で採択された核兵器禁止条約は「核兵器をなくすべきだ」という人類の意思を明確にした条約です。 核保有国や核の傘の下にいる国々の中には、この条約をつくるのはまだ早すぎるという声があります。 そうではありません。核軍縮があまりにも遅すぎるのです。 被爆から 75 年、国連創設から 75 年という節目を迎えた今こそ、 核兵器廃絶は、人類が自らに課した約束“国連総会決議第一号”であることを、私たちは思い出すべきです。 昨年、長崎を訪問されたローマ教皇は、二つの“鍵”となる言葉を述べられました。 一つは「核兵器から解放された平和な世界を実現するためには、すべての人の参加が必要です」という言葉。 もう一つは「今、拡大しつつある相互不信の流れを壊さなくてはなりません」という言葉です。 世界の皆さんに呼びかけます。平和のために私たちが参加する方法は無数にあります。 新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです。 あなたが住む未来の地球に核兵器は必要ですか。核兵器のない世界へと続く道を共に切り開き、そして一緒に歩んでいきましょう。 世界各国の指導者に訴えます。 「相互不信」の流れを壊し、対話による「信頼」の構築をめざしてください。 今こそ、「分断」ではなく「連帯」に向けた行動を選択してください。 来年開かれる予定のNPT再検討会議で、核超大国である米ロの核兵器削減など、実効性のある核軍縮の道筋を示することを求めます。 日本政府と国会議員に訴えます。核兵器の怖さを体験した国として、 一日も早く核兵器禁止条約の署名・批准を実現するとともに、北東アジア非核兵器地帯の構築を検討してください。 「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念を永久に堅持してください。 今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、未だ被爆者と認められていない被爆体験者に対する救済を求めます。 東日本大震災から9年が経過しました。 長崎は放射能の脅威を体験したまちとして、復興に向け奮闘されている福島の皆さんを応援します。 新型コロナウイルスのために、心ならずも今日この式典に参列できなかった皆様とともに、 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、広島、沖縄、そして戦争で多くの命を失った体験を持つまちや 平和を求めるすべての人々と連帯して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることを、ここに宣言します。 2020 年(令和2年)8月9日 長崎市長 広 島 ・ 長 崎 へ の 原 爆 投 下 か ら 7 5 年 : 教 皇 フ ラ ン シ ス コ の メ ッ セ ー ジ 教皇フランシスコは、今年75回目を迎えた広島・長崎の原爆忌に、メッセージを寄せられた。 教皇は、昨年11月に行われた広島・長崎両市への訪問を振り返りながら、平和構築と、核兵器廃絶への思いを記されている。 教皇フランシスコの、75年目の広島・長崎原爆忌へのメッセージは次のとおり。 わたくしは、昨年11月の司牧訪問の際、広島市と長崎市を自ら訪れるという特別な機会を得ました。 この訪問で、75年前の恐ろしい戦争の日々、この両都市で起きた、人命と資産の破壊について思いを深めることができました。 昨年、わたくしは平和の巡礼者として日本を訪れました。 平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする、今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています。 同時に、わたくしは、貧しい人々の叫びをも心にとどめます。彼らは常に、暴力と紛争の最初の犠牲者です。 平和を花開かせるには、すべての人々が兵器を、特に最も強力で破壊的な核兵器を捨て去る必要が、これほど明白なことはありません。 核兵器は、都市や国々を根こそぎに破壊することができるものです。昨年、広島で申し上げたことを繰り返したいと思います。 「 原 子 力 の 戦 争 目 的 の 使 用 は 、 倫 理 に 反 し ま す 。 核 兵 器 の 保 有 は 、 そ れ 自 体 が 倫 理 に 反 し て い ま す 」 広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、わたしたちと未来の世代への警鐘であり続けますように。 これらの方々に、そして和解のために働くすべての方々に、わたしたちは詩編のこの言葉を、自らのものとしてお贈りしたいと思います。 「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122,8)。 この原爆忌を記念されるすべての方々の上に、神の豊かな恵みをお祈り申し上げます。 フランシスコ バチカンより、2020年7月15日 * * * * * 教 皇 「 核 兵 器 の な い 世 界 の た め に 努 力 を 」 広島と長崎への原爆投下から75年、教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、核兵器のない世界を構築するための努力を訴えられた。 教皇フランシスコは、8月9日(日)、バチカンで行われた正午の祈りの集いで、核兵器廃絶をアピールされた。 長崎への原爆投下から75年が過ぎたこの日、 教皇は、広島と長崎を襲った悲劇を心に留め、核兵器のない世界の構築への取り組みを、次のように訴えられた。 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、75年前の1945年8月6日と9日、広島と長崎は原爆の悲劇に見舞われました。 昨年のこれらの地への訪問を、胸に迫る思いと感謝をもって振り返りながら、 核兵器から完全に解放された世界のために、祈り、努力するよう、改めて呼びかけたいと思います。」 「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣い」であり、 「本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきもの」と話された。 「核兵器から解放された平和な世界」、その実現には「すべての人の参加が必要」と指摘する教皇は、特に政治をつかさどる指導者らに、 「核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない」と心に刻むよう願われた。 「人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考え」 「核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければならない」と呼びかけられた。 「戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか」、 「核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか」と問いながら、教皇は 「真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と明言された。 「戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない!こんな苦しみはもういらない!」と、 原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫ぶよう人々を招いた教皇は、 「わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!」と神に祈られた。 終 戦 か ら 7 5 年 全 国 戦 没 者 追 悼 式 約 3 1 0 万 人 の 戦 没 者 を 慰 霊 2020年8月15日 15時32分 「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、 戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」 (終戦から75年 全国戦没者追悼式 約310万人の戦没者を慰霊 | NHKニュース:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200815 ) 「小さな喜びを感じて 〜津久井やまゆり園事件・被害者家族の4年〜」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス https://youtu.be/DeY0CEvN-CI 相 模 原 の や ま ゆ り 園 殺 傷 事 件 か ら 4 年 植 松 死 刑 囚 へ の 接 見 、 優 生 思 想 を め ぐ る 取 材 〜 神 奈 川 新 聞 ・ 取 材 班 の 報 告 障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員・死刑囚に、入所者19人が殺害され、職員を含む27人が重軽傷を負った事件から4年。 建て替え工事が進む施設の敷地内に設置した献花台で、市民や関係者らは犠牲者を追悼しました。 一方、事件から4年を迎え、障害者らでつくる「DPI日本会議」など3団体が共同声明を出し、事件の背景にあるのは、 「差別や偏見を払拭できず、優生思想を生み出している社会」としたうえで、 新型コロナウイルス禍の中、世界中で障害や高齢を理由とした命の選別が行われ始めていると指摘。 また、共同声明では、京都のALS患者嘱託殺人事件についても言及し、 逮捕された医師と、相模原事件の植松死刑囚の考え方が似ているとし、 「生きる選択をした多くの当事者が発信している声を重く受け止めるべきだ」と指摘しました。 (特集「相模原のやまゆり園殺傷事件から4年。植松死刑囚への接見、優生思想をめぐる取材〜神奈川新聞・取材班の報告」 : TBSラジオ) 京 都 A L S 女 性 嘱 託 殺 人 事 件 起 訴 さ れ た 医 師 2 人 の 行 為 は 「 ま っ た く 正 当 化 で き な い 」 ――― 延命治療中止による殺人≠ナ有罪とされた医師(65)が終末期現場でいまだ抱える葛藤告白 難病に苦しむ患者たちに、医療関係者に、大きな衝撃を与えた2人の医師によるALS女性への嘱託殺人事件。 逮捕、起訴された2人をかばう声も少なくない。はたして過去に延命治療の中止によって殺人罪に問われたことのある女性医師は 今回の事件をどう見たのか、本人に思いを聞いた ―― 。 〈 医師は長くて1年、突然急に悪くなることもあるからと言うから それに期待するしかない 確実に苦しくなってる 早く早く、して 〉 ブログやSNSを通じて悲痛な叫びをあげ続けていた、 難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者(当時51)が、医師によって殺害された。 7月23日に嘱託殺人で逮捕されたのは、呼吸器内科医(42)と、泌尿器科医(43)。 2人は死を望んでいた被害女性とコンタクトを取り、昨年11月30日に訪問。薬物を投与して女性を殺害したのだ。 両容疑者は8月13日に起訴された。今後は法廷で、犯行の詳細と彼らの死生観が検証されることになるが、 これまで明らかになっている両容疑者の発言やネット上の書き込みなどによると自らの行為を正しいものと思っていた可能性が高い。 「しかし、どんなに正当化をしようと、今回の事件は医療とは言い難い行為です。 金 銭 の や り 取 り があり、主 治 医 で な い ばかりか、SNS等でのやりとりばかりのみで、 患者やその家族との 十 分 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が取れていたとは思えません」 そう語るのは、かつて終末期医療で殺人罪が確定し、2年間の医業停止処分を科された呼吸器内科医(65)だ。 「ご本人に精神的な苦痛があったことは理解できます。ALSは、体を動かすさまざまな筋肉が徐々に衰え、 やがては寝たきりになり、食べること、呼吸することすらできなくなる神経難病です。 脳梗塞や脊髄損傷とは違い、動かない場所での感覚がクリアなことが特徴です。 患者だけでなく、家族や周囲の負担も大きいため、生きることに絶望する患者さんも少なくありません。 しかし、今回のケースでは、肉体的に生きる力があった。 にもかかわらず、薬物で殺害する行為は、自殺を望む人に手を貸して死に至らしめたということです」 延命治療を施さず穏やかに死を迎える「尊厳死」は日本でも受け入れられつつあるが、 今回は薬剤投与という積極的な方法による死である「安楽死」とみられ、日本の法律では容認されない行為だ。 同医師は「私が偉そうに意見できる立場ではありませんが … 」と前置きしながらも、 殺人罪に問われ、終末期医療のあり方に一石を投じた「川崎協同病院事件」を振り返りつつ、その胸の中を語ってくれた。 抜 管 で 容 体 が 急 変 ―― 処 置 が 殺 人 と 同医師は、大学卒業後、研修医時代も過ごした川崎協同病院の呼吸器科で勤務していた。 公害による気管支ぜんそく患者の多い病院で、Aさんもその1人だった。 「外来診療で主治医を務めていました。そのAさんが'98年11月2日に重い発作を起こし、意識不明の状態で搬送されたのです」 懸命の救命処置を行ったが、Aさんは15分にわたる心肺停止状態で、脳に重大なダメージを受けている可能性が高く、 容体が安定しても植物状態か、重大な障害が残ることが予想された。 「意識不明とはいえ、痰が詰まれば苦しそうな咳を出すし、頬にすっと涙が伝います。 これ以上の延命をするのか、ご家族とも話し合う必要を感じました。 Aさんの妻も『子ども夫婦は孫の育児に追われ、看護することが難しい。施設に入れるにも、経済的余裕はない』 と、不安を抱えていました」 搬送から2週間後の16日、妻が「抜管してほしい」と訴えてきた。 自発呼吸ができていたため、人工呼吸器は外されていたが、気管にはチューブが差し込まれた状態。 抜管すると気道をふさいだり、痰が吸引できず、近い将来、Aさんの死が訪れる可能性が高い。 カルテにも、同医師は〈 家族の抜管希望強し。大変辛いが夕方、家族が集まってから抜管することとする 〉と書き込んでいる。 「そのときは、抜管で急変するとは考えておらず、ゆるやかに死に向かうと思っていました」 ところが抜管後、Aさんは苦しそうに体を反らせ始めた。 「病室にはご家族が10人くらい集まり、小さなお孫さんもいたので、苦しみを取るように鎮痛剤を投与したんです。 その後も、ゴーゴーという苦しげな呼吸が続いたので、同僚医師に相談して筋弛緩剤を少量ずつ点滴で投与。 Aさんの呼吸が次第に弱まり、死亡を確認しました」 その3年後、一連の行為をした同医師が殺人容疑で逮捕された。 「患者さんが苦しむことが予想できなかったことは申し訳ないですが、私の行ったのは医療であるという信念があります」 11年もの歳月をかけ、最高裁まで争ったが、殺人罪が確定。しかし量刑は懲役1年6ヶ月執行猶予3年と非常に軽かった。 判決文にも 《 この問題は、国を挙げて議論・検討すべきものであって、司法だけで抜本的な解決が図れるような問題ではないのである 》 とあるように、最高裁にとっても苦渋の決断だったことがうかがえる。 だが、この判決後に、尊厳死や安楽死が日本でしっかりと議論されてきたとは言い難い。 「延命治療を選択しても、日本は医療費が安いため、経済的な負担は重くありません。 加えて、患者も亡くなりませんから、延命治療という選択は家族や医療従事者への精神的負担も軽い。 とりあえず延命≠ニいう選択が当たり前だったため、 尊厳死などを、あまり深く考える機会がなかったという側面があるのだと思います」 それでも、同医師は終末期の在宅医療を行う患者や家族と向き合い続けたと言う自負がある。だからこそ訴える。 「たとえば、延命効果のある胃ろうや人工透析、人工呼吸器などの取り外しに関しても、そろそろ本音で議論すべきです。 現状、一度つないだ延命装置を外すのは、殺人に問われる怖れもあり、医療現場では躊躇される行為。 その結果、積極的な医療に踏み出せない。ALS患者は、7割が人工呼吸器を拒否、つまりその後の死を選択しているのです」 時 間 と と も に 患 者 の 意 思 が 変 わ る こ と も 今回の事件で被害女性は、栄養剤を注入する胃ろうに関して、後悔の念をブログやSNSにつづっている。 (胃ろう、、、つくらなきゃ良かった、、造らないという選択を選べるなら、使わないという選択はできないのか、、、。。) こうした声は無視できない。 「患者の容体急変で、考える時間がなく、『ともかく救ってください』と延命治療を始めるようなケースもあります。 しかしその後こんなはずではなかった≠ニ後悔したとき、 病状や年齢、経済状況などを含めた患者や家族の思いに医療が寄り添い、 尊厳ある死を迎える方法を選択できる道筋が、必要なのではないでしょうか」 「 意 識 混 濁 の A L S 患 者 さ ん に 人 工 呼 吸 器 ―― 本 当 に い い の か と … 」 同医師自身、ALS患者の医療について葛藤した過去がある。 「私自身も呼吸困難で意識が混濁したALSの患者さんに人工呼吸器を入れて本当にこれでよかったのか自問したことがあります。 そのときは患者さんの容体が安定してから、ご本人に生きたいという意志があったことを知って、ホッとした覚えがあります」 しかし、仮にその患者が治療を望んでいなかった場合、 後からそのことが判明しても、人工呼吸器の管を抜くことは罪に問われる可能性が高い。 当事者や患者家族はどう感じているのだろうか。 被害女性の父親は、京都新聞(7月28日配信)の取材に対し 〈 犯人にくそったれ、と思う。悔しい。許せない。なんでこんな卑劣なやりかたをするんや 〉と感想を述べつつ 〈 精いっぱい生きた。娘本人が納得して選んだこと 〉と複雑な心境を述べている。 日本ALS協会は 〈 当協会はこれまで『尊厳死』の法制化に賛成できない旨の声明を出したことがあります。 また今回の事件で報じられている薬物による死を早める『安楽死』に関して、 個人としての意見はあっても協会組織として認めておりません 〉と、ALS患者でもある同会長名義で声明を発表している。 ALS患者の妻を持つ、同協会常務理事が、こう付け加える。 「妻はゆっくりと進行するタイプで、発症から13年たっています。かつては『死にたい』と漏らすこともありましたが、 その気持ちは時間の経過とともに変化しました。今後は、心のケアにもより力を入れなくてはなりません。 また、人工呼吸器などは、装着した時点で臓器の一部になっていると私自身は考えているので、 それを取り外すことには疑問を感じます」 医療の進歩により死なない社会≠ェ加速するなか、どのように尊厳ある、自分らしい死に方を迎えればいいのだろうか。 被害女性の問いかけに、われわれは答えを出さなくてはならない。 (京都ALS女性嘱託殺人事件 川崎延命治療中止殺人有罪医師の葛藤 : 女性自身2020年09月01日号) パ ン ド ラ の 箱 は 閉 じ ら れ た の か 相 模 原 障 害 者 殺 傷 事 件 は 終 わ っ て い な い … 19人の障害者を殺害した相模原障害者殺傷事件を扱う本書の編集姿勢は、要約を排したところにあるのだろう。 月刊『創』編集長は、二年半にわたって容疑者・死刑囚と接見し、時には抽選に外れながらも裁判の傍聴を重ねてきた。 可能な限り一次資料を掲載しようという思いから、津久井やまゆり園元職員や死刑囚の元恋人や友人たちの調書、 本人の手紙や死刑判決文が掲載され、後半部は識者インタビューや鼎談などが収録される。 犯人について事件発生から死刑判決に至るまで、大量の報道がなされてきた。 しかしそのような断片を組み合わせるだけでは窺うことのできなかった事件の別の側面が見えてくることもある。 たとえば死刑囚は親子関係に問題があった、家族は彼を見捨てて引越したという報道もあったが、彼の幼馴染はそれを否定する。 しかし、その証言もひとつの見方でしかない。どの証言が正しく、どの見立てが間違っているというものではない。 おそらくどれも一面では正しく、一面では間違っているのだろう。 犯人は優生思想を持ちながらも、フランクルの『夜と霧』を最後になるかもしれない手記に引用するまでに愛読していた。 絶対的な真実はひとつではなく、人間と言うものは様々な顔を持っているということに改めて思い至る。 本書のもうひとつの特徴は、異なる考えを持つ人による対話を示唆したことであろう。 やまゆり園をいい施設だと語る被害者の家族もいれば、 今まで面倒を見てもらっているという負い目から言いづらかった施設の問題点を提起する家族もいる。 誰かを責めるだけでは何も生み出さない。障害者の生活を社会で支える社会福祉施設の考え方と、 地域で暮らしたいという自立生活運動の考え方の相違もこの事件の根底にあるが、 両者が議論する機会さえ乏しいことも本書は指摘する。 この問題に限らず同じ考えを持つ人たちだけで集まっていては、いつまで経っても議論は平行線のまま終わる。 必要なのは違う考えの人たちによる粘り強い対話であろう。 死刑囚は対話することのできない知的障害者を無用の存在と考えながらも、 彼自身が真の意味で誰とも対話できずに苦しんでいたのかもしれない。 その視点から本書を手に取ると、要約された情報の受け手であった立場から解き放たれ、 読み手自身が大きく感情と思考を揺さぶられながら主体的に本を読みすすめることになるだろう。 それこそが対話の一歩になるだろうか。 (パンドラの箱は閉じられたのか・相模原障害者殺傷事件は終わっていない 月刊『創』編集部編:週刊文春2020年09月03日号) 植松を使って障害者の処理請負で金稼いでいたやまゆり園が全く罪に問われず事業継続している件について 日本の高齢者施設、障害者施設の大半はやまゆり園と同業者 「 人 命 」 よ り 「 経 済 」 を 優 先 さ せ る 政 権 へ の 根 源 的 批 判 資 本 主 義 へ の 「 包 摂 」 と コ ロ ナ 危 機 新型コロナの感染爆発が危機的な様相を呈しつつあるが、政府は信じがたいほど無策だ。 人命や生活よりも、ひたすら新自由主義経済を回すことだけを考える政権の病根はどこにあるのか。 この政権は戦後民主主義体制の劣化から生まれたが、それが長期間持続することによって、その劣化をさらに促進した。 ゆえに、政権期の世相に何が現れたかをわれわれは十分に検討しなければならないだろう。 日本を「世界で一番企業が活躍しやすい国」にするとした政権の根本的なマインドは、新自由主義なのであろう。 新自由主義もサッチャー/レーガン登場以来40年を閲し、その政策的内容は多様化してきた。 とりわけ、2008年の金融危機に際して各国政府が大々的な経済介入を行ったことにより、 新自由主義のイデオロギーは自己矛盾に陥り破綻した、としばしば評される。 だが、それでも「新自由主義的なもの」が一向に退場していない現実に鑑みれば、 このような自己矛盾においてこそ、新自由主義はその本質を露にした、と逆に考えるべきである。 「小さな政府」とか「自由放任」といったことは、新自由主義の本質ではなかったのだ。 表向きのイデオロギーが破綻したにもかかわらず新自由主義が生き延びていることが何を意味するのか。 別言すれば、新自由主義の真の本質はどこにあるのか。それは、「世界で一番企業が活躍しやすい国」という言葉に表れている。 企業とは資本であり、資本のやりたい放題ができる空間をつくり出すことである。 その際の主体は、資本自身よりもむしろ国家が担うことになる。新自由主義は、 資本自身の自立的な活動を核とするのではなく、政治権力(とりわけ暴力)を媒介としてはじめて機能しうるとの指摘は、 ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をはじめとして既に数多くなされてきた。 ここで考えたいのは、このような「上から」の新自由主義的な権力の作動に対して、 「下から」どのような反応が生じてきたのか、という問題である。 というのも、日本の現政権に限らず、「下から」の支持なしに新自由主義政権が長期的に維持されることはあり得なかった。 現政権以後の社会を展望するためにも、個別的な政策の間での、時に矛盾する傾向に拘泥するのでなく、 社会の基調となったものとしての「新自由主義的なもの」言い換えれば「文明としての新自由主義」の核心を見定めるべきである。 「 包 摂 」 の 新 段 階 と し て の 新 自 由 主 義 新自由主義の時代の資本主義を分析するにあたってマルクスの『資本論』で展開される概念の中で 「文明としての新自由主義」を考察するに際して最も有効なものと見定めたのが「包摂(subsmption)」の概念である。 『資本論』における「包摂」の概念は「生産的労働の資本の許への形式的及び実質的包摂」という形で導入される。 ここで言う「形式的/実質的」とは、自給自足的に生きていた人々が、市場向けの商品の生産を始めることにより 最初は「形式的に」資本主義経済に参加するが、多くの段階を経て やがては資本によって準備された生産手段の付属品として働くようになる事態(「実質的包摂」)を指す。 具体的には、農閑期の家内工業からさまざまな規模のマニュファクチュアを経て、機械制大工業にまで至る過程で、 労働者の労働の在り方が自立性を失ってゆき、資本によって深く「包摂」される事態を言い表している。 そうならざるを得ない(労働者の自立性が高い手工業は廃れてゆく)のは、 資本主義のシステムに、より高い生産性を絶えず追及するメカニズムが内在しているからである。 20世紀後半から21世紀にかけてのマルクス主義論の発展は、包摂の対象は労働過程だけでない、 労働者は1日の労働を終えた後も包摂の標的となる、という事態を把握してきた。 例えば、いわゆる消費社会は欲望をあの手この手で煽り立てて、大して要りもしないものを買わせる。 ジャン・ボードリヤールが指摘したように、人々は「モノの消費」から「意味の消費」へと駆り立てられ、永遠の欲求不満に陥れられる。 そこでは人間の欲望が資本によって全的に包摂される。 そして、低成長の新自由主義時代が到来し、一層吝嗇になった資本は、 欲求不満を介して人々に山積みの消費財を押し付けることすら拒むようになった。 ガラクタすら与えないとすれば、包摂は、人々の消費の欲望を超えて、価値観・感性・魂に及ばなければならなくなる。 新自由主義の「欲しがりません、勝つまでは!」の時代が到来する。 自己の人材としての価値を高めるべく、自己啓発本を読み漁り、なけなしの可処分所得をオンラインサロンに費やし、 ついでに公的扶助の不足を嘆く人をSNS上で罵倒する。 選挙ではもちろん、自民党か維新の会に投票する。理想的な自己責任社会を作ってくれることを期待して。 こんな人物はマンガ的であり、実際は多くないのかもしれないが、 経団連の公式見解が書かれた紙くずを毎日ありがたく拝読する賃金労働者はいくらでも見つかる。 資本家でもないのに資本の価値観・利害・論理を内面化した「エア資本家」が大量発生している。 つまり、「文明としての新自由主義」の核心には、人間の内的なもの、 すなわち価値観・感性・魂といったものの資本の論理との一体化、後者による前者の包摂という現象がある。 ゆえに、新自由主義の時代に『資本論』を武器として取り戻すためには、包摂の概念が呼び出されなければならなかったのである。 新自由主義の時代に特有の「魂の包摂」は、日本においては固有の特色を帯びる。 それは、… 近代天皇制に由来する、人間に対する独特の矮小化作用であり、それが新自由主義化と一体をなして機能する。 生 産 性 至 上 主 義 こ そ が 現 政 権 の 本 質 そうした複合作用の極北というべき事件が本年4月に発覚した○ナ○ニッ○産機システムズにおける就職内定者の自殺事件である。 この事件は、内定者が参加を義務付けられたSNS上で人事課長(54歳男性)がパワハラを繰り返し、 不安と絶望から精神疾患を発病した内定者の22歳男子学生が昨年2月に自殺したというものである。 パワハラ行為の言葉に次のようなものがある。 「ギアチェンジ研修は血みどろになるくらいに自己開示が強制され、4月は毎晩終電までほぼ全員が話しこむ文化がある」。 同社は業務用設備機器を販売する会社である。機器を売るために、なぜ「血みどろになるくらいの自己開示」が必要だと言うのか。 そもそも「自己開示」とは何なのか?この不気味な意味不明さは、連 合 赤 軍 事 件 の「 総 括 」を思い起こさせる。 「 総 括 」が 完 璧 な 革 命 戦 士 をつくり出そうとして 虐 殺 に 至 っ た ように、 「 自 己 開 示 」は 完 璧 な 社 畜 をつくり出そうとして 殺 人 に 至 っ た 。 ここで猛威を振るっているのは「日本社会の同調圧力」などという生易しいものではない。 年齢相応に一旦出来上がった『 人 格 』を全面的に破壊し、会社の論理を完全に内面化した『 新 し い 人 格 』に矯正する 人間性に対する『 テ ロ 行 為 』が当然のように行われている。 社会学者の内藤朝雄は、このような人間社会の在り方について、 「人間存在は深いところから集団のモノでなけらばならないという生き方が、学校と会社の日常生活のなかで細かく強制されてきた」 そこから「独特の奴隷的な心理生活を一人一人に運命として強いる」構造が生じると説明している。 そして、このような構造をつくり上げ維持することに莫大な労力が割かれていることが、 日本経済の生産性を低迷させていると指摘している。この指摘は妥当だろう。だが、「 日本的なもの 」を批判・告発する際に、 それが生産性に対する阻害要因であることを論拠として行うことには危うさがあるはずだ。 なぜなら、「 生 産 性 の 高 低 を尺度として 人 間 の 価 値 に 序 列 をつける」という「 生 産 性 至 上 主 義 」こそ、 「 新 自 由 主 義 の 中 心 的 な イ デ オ ロ ギ ー 」にほかならないからだ。 実際、生産性至上主義のイデオロギーは、いつまでも続く新自由主義の時代において、玉座へと上り詰めたように感じられる。 時代の象徴と言えそうな「津久井やまゆり園事件(16年7月)」を起こした犯人は、 一見、似ている「池田小事件」や「秋葉原事件」と根本的に異なっていた。 後者の面々は、自らの人生の敗北感・行き詰まりから凶行へと踏み出したが、 自身の行為が社会的に容認されるべきものだという意識は微塵も感じられない。 これに対して「津久井やまゆり園事件」では、衆議院議長に犯行を予告する手紙を書いているが、 その内容は国家権力による犯行への支援の要請であり、犯人の主観において障碍者殺害は「 正 義 」に適うものであったのだ。 コ ロ ナ 危 機 と 「 二 重 の 奴 隷 化 構 造 」 京都ALS嘱託殺人事件の容疑者は、自身のツイッター上で、老人を税金を食い荒らす存在として敵視する発言を繰り返していた。 「津久井やまゆり園事件」との思想的な共通性は明瞭であり、両名の「過剰さ」は際立っている。なぜなら、 彼らは彼らの考える「正義」を追求したわけだが、それは犯罪者として処罰されるという巨大なリスクを伴うものだったからだ。 実際彼らは、自分の将来、平穏な暮らしといったものを投げ捨てて犯行に踏み切ったのであり、そこには本物の情熱がある。 その正体は、生産性のためには自己犠牲も辞さないという資本主義の信仰である。生産性という神を崇拝する奴隷がここにいる。 「魂の実質的包摂」はここまで来た。 日本を苦しめてきた二重の奴隷化構造(新自由主義的包摂と天皇制の桎梏)は、コロナ危機にどのように現れているだろうか。 一方では「何が何でも経済を回せ!」という資本の至上命題が腐敗した利権構造と結びつき(GoToキャンペーン等)、 他方では新型コロナウィルスという「忖度空間の外部」と政府に招集された専門家の政権への忖度と葛藤、というかたちで現れている。 結果、この国では感染症や医療の専門家が、専門外であるはずの経済の問題に配慮するという珍風景が広がる。 コロナ危機のジレンマは「経済か健康か」として現れ、 防疫上最善の措置による経済的犠牲(犯罪や自死にまで至る深刻な犠牲)がどれほど昂進するか測り難いところにある。 だが、パンデミック発生から半年余りが経過し、諸国の経験も畜先された今、解決策の方向性はおおよそはっきりしてきたはずだ。 その際、大規模な補償も必要となる。「経済と防疫」のバランスを見出し決断を下すのは政治の仕事であり、 医療系専門家の仕事ではない。 ジレンマを前にして右往左往する間にも第二波による感染者増加は急ピッチで進行し、医療崩壊の可能性は急速に高まっている。 地方自治体首長と政権中枢との齟齬は深まり、対立も露わになってきている。政権は国会開催の要求から逃げて迷走している。 しかし、重大な問題は、政権の命運ではなく、これを支えてきたものからいかにして脱却するかというところにある。 (「人命」より「経済」を優先する政治への根源的批判 資本主義への「包摂」とコロナ危機・白井聡:サンデー毎日2020年8月30日号) 弱 肉 強 食 が 去 り 「 社 会 」 が 蘇 る COMMON ,AN WIPE OUT NEOLIBS 新 自 由 主 義 =@ コ ロ ナ 禍 が も た ら し た 新 自 由 主 義 の 挫 折 グ ロ ー バ ル な 「 わ れ わ れ の コ モ ン 」 を 考 え る 必 要 性 今回新型コロナウィルスのパンデミック(世界的大流行)は、1980年代以来、小さな政府と市場の自由、 個人の選択と自己責任を強調して世界を席巻してきた新自由主義に、二重の意味で大きな変更を迫っている。 1つは、感染症拡大を防ぐために国家の役割が重要になったと言うことだ。 例えばボリス・ジョンソン英首相が新型コロナ感染症に罹患し、生還しながら、 「社会と言うものはある(“there really is such a thing as society”)」 「NHS(イギリスの医療制度)に命を救われた」 と述べたことは象徴的だ。ジョンソンは、80年代に新自由主義を開始したマーガレット・サッチャーの有名な台詞 「“There is no such thing as society.”(社会なるものは存在しない)」 をもじってサッチャーの「 新 自 由 主 義 」を引っ繰り返し、 「 福 祉 国 家 」イギリスの象徴NHSを賞賛することで、「 福 祉 シ フ ト 」とでも呼べる姿勢を表明したのだ。 だが、それまでのジョンソンと彼の保守党の政治を知る者はこれを聞いて鼻白んだ。 ここ10年間「緊縮政策」とう名の福祉カット製作を堅持してNHSを骨抜きにしてきたのは他ならぬ保守党だったのだから。 同じ傾向は日本の政治家にも見出せる。 東京都の小池知事は、国に先んじて休業補償を打ち出したあたりから人気を回復し、7月の都知事選で二選を果たした。 元大阪市長の橋下徹は、自らが「 改 革 を 断 行 」して「 疲 弊 さ せ た 」医療現場について、 「見直しをよろしくお願いします」などとSNSで発信した。 新自由主義路線で鳴らした政治家たちが、突然の福祉シフトを行っている。 これらの政治家がポピュリストとして正しく世相を嗅ぎ取っているのかもしれない。 コロナ禍で国家と福祉の役割が急拡大したのは事実である。その限りにおいて福祉シフトは確かに必要なのだ。 福 祉 国 家 へ の 回 帰 は 困 難 「新自由主義」はもう一つの意味でも変更を迫られている。それは「グローバリゼーション」の国レベルでの応答である。 人と財の国境に縛られない流通、国の規制にとらわれない金融活動を本体とする「グローバリゼーション」は、 各国レベルでの「規制緩和」を必要とし、推進してきた。 ところが今回のパンデミックは、「グローバリゼーション」の要である人と財の流通を決定的に阻害してしまった。 それに対応する新自由主義もまた、これまでどおりではいられないだろう。 実際、欧州では自然寡占的な事業に新自由主義はそぐわないという反省があり、既に「再公営化」の潮流が起きていた。 (例えば水道については『水道、再び公営化!』〔岸本聡子・著 集英社〕参照)全世界と日本に波及することは間違いない。 例えば経営難に陥った航空会社に公的資金が投入され再公営化されるなどは十分あり得る。 では、国民国家を単位とする福祉国家に回帰すればそれでいいのか。問題はそう簡単ではない。 2008年の金融危機において、アメリカ政府が持ち家を失った人々ではなく、「破綻させるには大きすぎる」 金融機関を救済したように、政府は持てる者のみを救い、「新自由主義」の秩序を延命させようとするかもしれない。 このように、国家は、「新自由主義」を推進するための装置に成り果ててしまった。 福祉シフトや再公営化は、確かに必要なものではある。 だが、個人の選択と競争を強調し、小さな政府を唱えてきた「新自由主義」は、 国民国家という共同体を単位として社会や公共性を考える回路を蝕んできた。 私たちがコロナ以後を生きるためには、そういった想像の回路を根本から作り替えるという挑戦が待ち受けているのだ。 国 家 よ り 大 き な 「 社 会 」 その挑戦に当たって、「公共性」と「コモン」との区別が役に立つと考えている。 「パブリック ≒ 公共的なもの」は、言語やメディアを媒介にした非物質的な空間と言うニュアンスが強いに対して、 「コモン」にはより物質的な、生存のために人間が共有するもの、という含意がある。 ただし「パブリック」と「コモン」には、重なり合う部分もある。 国民国家は新聞などのメディアを介した国民の想像を基盤としている。それはここでいう「パブリック」なものである。 ただしその一方で、国民国家は「共有(コモン)」の物質的資源を効率よく維持管理していくための共同体でもあるだろう。 問題はどこに力点を置き、どのような共同体を共有のための単位とするか、ということだ。 現在、医療や食品販売などの「エッセンシャル・ワーク(不可欠な労働)」が耳目を集めている。 私たちの生活がいかなる「共有(コモン)」の物質や労働に支えられているかが、改めて浮き彫りになったのだ。 そして、言語を基礎とする「パブリック」なものに対して、「コモン」は言語(そして国民国家)の枠には必ずしもとどまらない。 その「コモン」とは例えば自然環境だ。 新型コロナの出所はまだ確定していないが、2000年代以降繰り返している豚インフルエンザや鳥インフルエンザは、 工業化されて伝染病に大して脆弱な集産畜産業を原因としていると専門家は指摘する。 アレクサンドリア・オカシオコルテス米下院議員らが提唱するグリーン・ニューディールは 環境と福祉を同時に解決しようとする意味で、中・長期的な「コロナ対策」たり得る。 しかし、その政策はアメリカ一国の枠を超え出る必要がある。 環境に働き掛ける第一次産業の在り方とパンデミックの頻発に深い関係があるとすれば、 その解決は、産業と自然環境が、グローバルな水準で「われわれのコモン」であるという認識からしか生じ得ないだろう。 その場合の「われわれ」は、特定の国民ではなくグローバルな市民と言うしかない共同体である。 私たちは「福祉国家」ではなくグローバルな共同体/社会の福祉を創造し直さねばならない。 社会は(いまだ)存在しない ―― ジョンソンの台詞とは裏腹に、私たちの出発点はそこなのである。 (新自由主義 コロナ禍がもたらした新自由主義の挫折:ニューズウィーク日本版2020年9月1日号) 教 皇 「 人 間 の 友 で あ る ヨ ー ロ ッ パ を 目 指 し て 」 教皇庁とヨーロッパ地域統合体との協力関係50年。 今年は、カトリック教会の欧州連合司教委員会の設立40周年、および教皇庁と欧州連合との外交関係樹立50周年、 また欧州理事会における教皇庁のオブザーバー参加から50周年を迎えた。 教皇は、ヨーロッパが一致を強め、その根源と理想に立ち帰ることを願われた。 欧州の統合のプロジェクトは、過去の分裂を克服し、 「 一 致 は 闘 争 に 勝 る 」 との理念のもと、共に一致することから生まれる力の認識から始まったもの、と教皇はその原点を指摘。 それに反して、今日、自国第一主義が拡大するヨーロッパにおいて、現在のパンデミック危機は分水界のように、 混乱に翻弄されるここ10年の歩みを続けるか、あるいは「 兄 弟 愛 の 道 」 を再発見するかの、その選択を迫っている、と述べられた。 「 ヨ ー ロ ッ パ よ 、 自 分 に 立 ち 帰 れ 」 教皇はヨーロッパがそのアイデンティティー、 社会の基礎にある精神、深い源を持つ理想、未来に開く、倫理豊かな過去の歴史を取り戻すようにと呼びかけられた。 こうした中、教皇は、 @ すべての人の尊厳が尊重される「人間の友」であるヨーロッパ A 家族・共同体であるヨーロッパ、 B 連帯し寛大であるヨーロッパ C 健全な世俗性の中に宗教が尊重されるヨーロッパ、 4つの「夢」を述べられた。 これらの言葉を司牧者の心から生まれたものとして示され、ヨーロッパはまだ多くを世界に与えることができる、その確信を表された。 (教皇「人間の友であるヨーロッパを目指して」:ttps://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-10/50-anni-collaborazione-tra-santa-sede-europa.html) * * * * 「 観 想 し 、 世 話 を す る 」 人 間 と 自 然 の 関 係 を 取 り 戻 す 道 、 教 皇 一 般 謁 見 教皇フランシスコは、一般謁見で、自然を観想し、いたわることの大切さを説かれた。 わたしたちの 「 共 通 の 家 」である地球を保護し、自然を観想することの大切さについて講話された。 「パンデミックから脱するには、自分たちだけではなく、 互いのケアが必要であり、特に最も弱い立場に置かれた人、病者、高齢者などを支えることが大切である」 「世話をして労わること、それは人間の黄金律であるが、わたしたちはそのいたわりを、大地やすべての生物にも向けなければならない」 「すべての命は相互のつながりを持ち、わたしたちの健康は、神が創造し、わたしたちにその世話を託した、生態系の健康に依存している」 「そこから搾取し、自然を破壊することは、重い罪である」と説かれた。 「わたしたちの『 共 通 の 家 』を搾取しないための最良の対抗策は、『 観 想 す る こ と 』である」と教皇は強調。 「美しいものを前に立ち止まり、それを尊重することを学べないならば、全てのものが無分別な利用・搾取の対象物となる」 「わたしたちの共通の家、被造物は、単なる「 資 源 」ではなく、その一つひとつが独自の価値を持ち、それぞれのあり方を通して、 神の無限の叡智と愛を反映している、と述べた教皇は、その価値と神の光を見出すには、沈黙し、耳を傾け、観想することが必要」 「この観想なしでは、人間を他のすべての被造物の支配者とみなす、 均衡を欠いた高慢な人間中心主義に陥り、自ら神の座を占めようとしながら、調和を破壊してしまう」、と警告された。 「いのちを守るという自分たちの召命を忘れる時、わたしたちは 略 奪 者 になってしまう」 「わたしたちは生き、発展するために大地を耕すが、それは 搾 取 を 意 味 せず 、 常にわたしたちの使命である「 世 話 」 を伴うものでなくてはならない」と説いた。 「わたしたちが観想する時、他者や自然の中に、その有用性よりもっと大きな何かを見出し、 神がそれぞれに与えたかけがえのない価値を発見することができる」と教皇は観想の重要さを指摘。 「わたしたちを思いやりの行為に導く観想は、自然を外から眺めるのではなく、自然の中から、 自分を自然の一部と認識することで得られるものであり、その視点はわたしたちを単なる自然の傍観者ではなく、それを守る者とする」 「観想を知る者は、環境破壊や健康の害になる原因を変えようと働き、 生産と消費の新しい習慣の教育と推進、「共 通 の 家」と人間を尊重した新しい経済成長モデルに貢献するよう努力する」と語られた。 「 観 想 」 し 、 「 世 話 」 を す る こ と 。 人間と自然との関係を正し、再びバランスを取り戻すための道として、教皇はこの二つの態度を示された。 (「観想し、世話をする」人間と自然の関係を取り戻す道、教皇一般謁見:ttps://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-09/udienza-generale-guarire-il-mondo-cura-e-contemplazione-20200916.html) 手 術 翌 日 「 苦 し い 」 予 期 せ ぬ 死 の 調 査 、見 直 し 求 め る 声 2020年11月25日 医 療 事 故 調 査 制 度 始 ま っ て 5 年 医療事故の再発を防ぐための医療事故調査制度が始まって5年が経った。 制度への理解が深まらないためか、医療機関から事故として報告される件数は想定を大きく下回る。 事故の教訓を共有するための情報開示も不十分で、被害者の遺族からは制度の見直しを求める声があがっている。 手 術 翌 日 予 期 せ ぬ 死 静岡県内の男性(当時53)は2015年12月、県内の民間病院で首の手術を受けた翌日に死亡した。 病院は第三者機関である医療事故調査・支援センター(東京都)に医療事故として報告し、事故原因を調べた。 16年2月にまとまり、本文2ページの院内事故調査報告書は多くが箇条書きで、事故原因を詳しく分析したものではなかった。 遺族の提案で病院は同センターに調査を依頼した。センターの調査報告書は17年12月にまとまり、遺族と病院に送られた。 本文28ページのセンター報告書には調査分析の方法、診療記録に基づく男性の診療経過、診療経過についての医学的検証、 再発防止策などが詳しく書かれていた。 センター報告書は死因を手術部位を中心にできた皮下血腫による「高度の狭窄に起因する窒息」と推定。 軽症先天性血友病Aは、手術後の出血が多くなることで発見されることがしばしばあるとしたうえで、 血友病について専門外である主治医は血液内科医に相談や診察の依頼をすることが望ましかった、と結論づけた。 また、日本血栓止血学会の治療ガイドラインに触れながら、「凝固因子補充療法を実施する必要がある」と指摘。 学会などへの提言として、必要な事前検査や治療、連絡先などを記載したカードを携帯できるようにすることも盛り込まれた。 セ ン タ ー 報 告 書 を 公 開 医療事故調査制度をテーマに「医療過誤原告の会」が開いたシンポジウム、調査制度の利用が広がっていないことを知った。 報告書の本文は、「医療過誤原告の会」のホームページ(ttp://www.genkoku.net/)に掲載された。 「センター報告書を読んで事故原因が理解できた。同じような事故が繰り返されないよう再発防止に役立ててほしい」 制 度 開 始 前 の 想 定 を 大 幅 に 下 回 る 事 故 報 告 医療事故調査制度の対象は、医療に起因するか疑われる死亡または死産で、その死が予期されていなかったものだ。 事故と判断したら医療機関は医療事故調査・支援センターに報告し、院内調査の結果を遺族と同センターに伝える。 調査に納得できない場合、遺族は同センターに調査を依頼できる。 今年10月までに報告された事故は計1879件。年平均400件に満たず、厚生労働省の試算に比べ、大幅に少ない。 その要因は、医療事故か否かが医療機関の管理者の判断に委ねられ、遺族の希望だけでは調査が始まらないという制度設計にある。 医療機関が事故調査に消極的であることを裏付けるデータがある。 同センターは、医療事故の判断について医療機関から相談を受けた時に複数の専門家で合議し、助言をする。 今年9月末までに合議を終えた185件について「医療事故として報告を推奨する」と助言したが、 10月末までに事故として報告されたのは130件にとどまり、55件(29.7%)は報告されていない。 * * 「 医 療 訴 訟 の 前 哨 戦 と と ら え 調 査 し な い 医 療 機 関 も 」 事故調査を行わない医療機関に対し、遺族が訴訟を起こしたケースもある。 医療事故調査制度に詳しい弁護士は、 「『予期された死亡』の範囲を厚労省の見解を超えて拡大解釈したり、『医療に起因しない死亡だ』と主張したりして 調査を行わない医療機関がある。医療事故の再発を防ぐという調査制度の趣旨が医療機関に浸透していない」と指摘する。 遺 族 へ の 説 明 「 資 料 な し 」 も 遺族への説明や再発防止のための情報開示も十分とは言えない。 今年10月までに院内調査の結果がまとまったのは1575件。 医療事故調査・支援センターに調査が依頼されたのは139件で、90%以上は院内調査で終了している。 現在の医療事故調査制度は医療界の意見を最大限に採り入れてできあがった。 そのため、遺族が望んだだけでは調査は行われず、医療機関はその報告書を遺族に渡さなくてもよいことになっている。 医療事故被害者の遺族にとっては大きな不満が残る制度としてスタートしたが、 患者・国民との信頼関係を築き、医療の質を向上させるために医療界が真摯に取り組んでくれるだろうと期待し、見守ってきた。 しかし、積極的に調査を行う医療機関がある一方で、大病院でも事故報告がゼロというところが少なくないのが現状だ。 残念ながら、この制度を大きく育てていこうという熱意が医療界からは感じられない。 院内事故調査の結果を資料なしで説明する事例が20%を超えているの、医療事故調査・支援センターへの調査依頼は10%に満たない。 納得しているというよりあきらめてしまっている遺族も少なくないのではないかと推測する。 医療機関の管理者が医療従事者の責任追及や訴訟に発展するとの心配から事故調査をためらっているとしたら、 「事故の再発防止」を目的とした制度への理解が不足しているとしか言いようがない。 医療機関が事故原因を真摯に調べて、その結果を遺族にしっかりと説明すれば、むしろ訴訟は減っていくだろう。 予期していなかった死亡事例や医療事故として扱ったほうがよいと判断した死亡事例については 医療事故調査・支援センターが医療機関に調査を指示できるよう、その権限を強化すべきだ。 同センターの調査報告書も公表し、他の医療機関での再発防止に生かしてほしい。 施行から5年が経過したことを機に制度の運用状況を検証し、より良い方向に見直すための検討会の設置を厚生労働省に求めたい。 (手術翌日「苦しい」 予期せぬ死の調査、見直し求める声:朝日新聞デジタル :https://www.asahi.com/articles/ASNCS4DRPNCGULBJ00J.html) 世 界 平 和 の 日 メ ッ セ ー ジ : 教 皇 「 兄 弟 愛 の も と 、 互 い に い た わ り 合 う 文 化 を 」 「第54回世界平和の日」に向け、教皇フランシスコのメッセージが発表された。 2021年度のテーマは、「いたわりの文化、平和への道のり(仮訳)」。 教皇は、すべての人の尊厳と善を守り育てる、ケアし、いたわる文化を、平和構築のために優先すべき道として示している。 教皇は、2020年を特徴づけた新型コロナウイルスによるパンデミック危機は、 多分野間に相互的影響を及ぼしながら、世界規模の深刻な現象となっていった、と振り返った。 このパンデミックにより家族や大切な人を亡くした人々、仕事を失った人々に、教皇は思いを寄せると共に、 時には命さえ犠牲にし、病者に寄り添い続ける医師や、看護師、薬剤師、研究者、ボランティアの人々を特別な形で思い起こされた。 このような多くのいつくしみと連帯の証しの傍らで、 国粋主義や、民族主義、外国人嫌悪、さらには、死と破壊をもたらす戦争を見出したことは悲しいことである、と教皇は述べた。 そして、この過ぎた一年の様々な出来事は、 兄弟愛に基づく社会を築くために、互いに思いやりを持ち、被造物を大切にすることの重要さを教えてくれた、と教皇は記し、 いたわりの文化を、無関心や、切り捨て、対立の文化に打ち勝つためのものとして示された。 教皇はこのメッセージで、神がエデンの園を人に託し、そこを耕し、守るように命じられたエピソード(参照:創世記2,15)に、 他者への兄弟愛、正義、誠実を不可欠とする人間の本質を見つめられた。 さらに、教皇は、御父の人類に対する愛の最も崇高な啓示として、イエスの生涯と使命を指し示し、 病者を癒し、罪びとを赦し、新しいいのちを与えるイエス、善き牧者、善きサマリア人の姿そのものであるイエス、 使命の頂点にわたしたちを罪と死への隷属から解放するために十字架上で自らを捧げられるイエスを観想された。 霊的・物的ないつくしみの業は、愛の奉仕の中心をなすものであった、と教皇は思い起こしつつ、 「いたわりの文化」の基礎として、「人間の尊厳と権利の促進」「共通善」「連帯」「被造物の保護」を挙げられた。 「いたわりの文化」を築く上で必要なこのような社会原則に基づく「羅針盤」は、 兄弟愛や、相互尊重、連帯、国際法の順守などの精神を理想とする、国家間の関係にも適用されるもの、と教皇は述べた。 紛争の原因は様々であるが、その結果は常に同じ、破壊と人道危機である、核兵器をはじめ、武器に浪費される資金を、 平和の推進、人類の統合的発展、貧困との闘い、医療の保証のために利用することができる、と説かれた。 教皇は、「いたわりの文化」を育むために、教育的プロセスの必要を示しながら、 家庭、教育機関、メディア、そして宗教が負う重要な役割を指摘された。 今日の危機によって人類を乗せた船が嵐に揺さぶられる中、人間の尊厳を「舵」に、社会の基本的原則を「羅針盤」にすることで、 わたしたちの船は正しく共通の航路をもってう航海することができるだろう、と教皇は述べた。 そして、兄弟として受け入れ合い、互いにいたわり合う共同体を築くために、毎日具体的に取り組んでいこう、と、 教皇はすべての人に呼びかけられた。 (https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-12/messaggio-54ma-giornata-mondiale-della-pace.html ) ア ン ト ニ オ ・ グ テ ー レ ス 国 連 事 務 総 長 グ ロ ー バ ル 停 戦 の 呼 び か け 私 た ち の 世 界 は C O V I D - 1 9 と い う 、共 通 の 敵 と 対 峙 し て い ま す 。 このウイルスには、国籍も民族性も、党派も宗派も関係ありません。すべての人を容赦なく攻撃します。 その一方で、全世界では激しい紛争が続いています。 女性と子ども、障碍者、社会から隔絶された人々、避難民等、最も脆弱な立場に置かれた人々が、最も大きな犠牲を払っています。 こうした人々がCOVID-19によって壊滅的な被害を受けるリスクも、最も高くなっています。 戦争によって荒廃した国では、医療制度が崩壊していることを忘れないでおきましょう。 すでに数少なくなっている医療従事者が、標的とされることも多くなっています。 難民やその他、暴力的紛争で故郷を追われた人々は、二重の意味で弱い立場に置かれています。 ウ イ ル ス の 猛 威 は 、 戦 争 の 愚 か さ を 如 実 に 示 し て い ま す 。 私がきょう、世界のあらゆる場所でグローバルな即時停戦を呼びかけているのも、そのためです。 紛争を停止し、私たちの命を懸けた真の闘いに力を結集する時が来ています。 紛 争 当 事 者 に 対 し 、 私 は 次 の よ うに 訴 え ま す 。 戦 闘 行 為 から離れてください。 不 信 と 敵 意 を捨ててください。 銃 声 を 消 し、砲 撃 を 停 止 し、空 襲 をやめてください。 それがどうしても必要なのは… 救命援助を届けるための道を確保できるようにするためであり、外交に貴重なチャンスを与えるためであり、 COVID-19に対して最も脆弱な人々が暮らす場所に、希望を届けるためでもあります。 COVID-19対策で歩調を合わせ、敵対する当事者間ででき上がりつつある連合や対話から、着想を得ようではありませんか。 しかし、私たちにはそれよりもはるかに大きな取り組みが必要です。 それは、戦 争 という 病 に 終 止 符 を打ち、私たちの 世 界 を 荒 廃 させている 疾 病 と 闘 う ことです。 そのためにはまず、あ ら ゆ る 場 所 で の 戦 闘 を 、 今 す ぐ に 停 止 し な け れ ば な り ま せ ん 。 それこそ、私たち 人 類 が 現在、これまでにも増して 必 要 としていることなのです。 (アントニオ・グテーレス国連事務総長 グローバル停戦の呼びかけ:ttps://www.unic.or.jp/news_press/messages_speeches/sg/36840/) 「 U 相 模 原 に 現 れ た 世 界 の 憂 鬱 な 断 面 」 森 達 也 ・ 著 社 会 に 衝 撃 を 与 え た 凶 悪 事 件 の 本 質 と は 。 正 常 と 異 常 の 境 界 を 問 い 直 し 、 考 え 抜 く 「責任」は英語で「レスポンシビリティ」。 レスポンスという語が「反応」や「応答」を意味するように、 責任を果たすことの本質は相手に真摯に応じることにある。 殺人という大罪を犯した加害者の責任は、なぜ事件を起こしてしまったのかを深く考察し反省することだろう。 しかし、死刑はその契機を奪う。 本書が扱う『 U 』。相模原の障碍者施設「津久井やまゆり園」で19人を刺殺し、死刑判決を受けた。 弁護人による控訴を取り下げたため、死刑が確定している。 著者は、ジャーナリストや精神科医との対話を繰り返し、事件の本質に迫る。 そこで明らかになるのは、犯人の短絡的な「浅さ」や、思い込みの強さである。 ある人は犯人が精神的な病気を抱えていた可能性に言及する。 別の人は、彼が発達障害を抱えていることを示唆する。しかし、すべてがハッキリしない。 著者は「僕も軽度の発達障害だ」という。 「自己診断ではADHDからhyperactivity(多動)を抜いたADD。アスペルガーもあると思う」と述べ、 子供のころから「周囲とうまく調和できない」性質だったと語る。「僕自身も境界線上にいる」。 事件当時の意識は「異常なのか正常なのか」、「精神障害なのか人格障害なのか」。 そんなことを、本当に法廷の場で判断できるのか。きれいに二分化できるのか。 著者は、犯人の犯罪について、「差別意識やヘイトに根ざしているとは思えない」という。 ネット上にあふれている差別的で邪悪な意識を拾い集めて、深く考えないまま身にまとった可能性があるとする。 原因は一つに特定できない。きれいな答えが見つからない。著述はゆれる。 そして、文章がうねる。すっきりしない。 しかし、そんな本書のスタイルこそが、著者の思想である。 『 早急に結論を出さずに悩むこと。だって世界は多面的で多重的で多層的なのだから 』 スピード感が重視され、単純化が横行する現状を見つめなおすべきだ。 相模原事件を考え続ける忍耐力を失ってはならない。 (東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授) 「 U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 」森達也・著:週間現代2021年02月13日号 相 模 原 に 現 れ た 世 界 の 憂 鬱 な 断 面 森 達 也 ・ 著 知 見 や 教 訓 を 得 ぬ ま ま 「 儀 式 化 」 が 進 む 裁 判 2016年、死者19人、負傷者26人を出し日本中を震撼させた相模原障碍者施設殺傷事件。 元職員の裁判は初公判からわずか1ヶ月強で結審、死刑が確定した。 かつてオウム真理教・麻原彰晃の判決公判に立ち会った著者は強烈な既視感を覚える。 それは、最初から凶悪事件に死刑ありきで裁判が儀式化している現実。 結果的に事件の動機や背景の解明は不十分なまま、次々と闇へ葬り去られている現実だった。 ―― 既視感を抱かれた光景とは? 被告への判決が迫る中、改めて資料を読み込んで気付いたのが、彼の精神状態を正面から問題視する議論がほぼ皆無なことでした。卑劣、邪悪、冷酷などステレオタイプな語彙で悪のアイコンが造形され、罰せられて当然と言う空気が固まった中で裁判は進行した。 17年前、オウム・麻原彰晃の判決公判で眼にした光景がよみがえりました。 刑務官に支えられて座っていた麻原は、どう見てもまともじゃなかった。 そもそも裁判の途中から彼は弁護団と意思疎通できなくなっていた。 ほぼ意識喪失状態の被告を「訴訟能力なし」とせず裁判は進行し、一審で死刑が確定。 そのとき抱いた違和感、同時期に取材を始めていた死刑問題に対する違和感、被告の死刑はその延長線上にあるとふと思った。 急きょ拘置所に彼に会いに行きモヤモヤは確信になりました。 ―― 被告の弁護団は、心神喪失状態での犯行であり責任能力なしと主張、それを被告自ら強く否定する経緯がありましたが? 彼の理屈では、心神喪失とは「心がない」状態の人たちでそれを理由に自分は手を下したのに、 その自分が心神喪失では筋が通らない、と反駁したんです。 凶 悪 犯 に 死 刑 、 の 大 前 提 精 神 鑑 定 は ほ ぼ 添 え 物 状 態 でも彼は犯行前、殺戮予告の手紙を衆議院議長に手渡そうとして通報され、措置入院させられています。 通常ならば、その前歴を理由に精神状態を疑われてもおかしくない存在。 実際に手紙の中身は、自分はUFOくを2回見たとか支離滅裂で、「作戦実行」の見返りして逮捕後の監禁は最長2年で無罪放免、 新しい名前と本籍、美容整形して社会復帰、金銭支援5億円の確約などを求めている。この時点ですでに常軌を逸しています。 公判初日にはいきなり「謝罪します」と叫び、小指を噛み切ろうとして静止された。そして翌日朝、独房内で噛みちぎった 精神錯乱を装うパフォーマンスと解釈する人は少なくなかったけど、 監視カメラから隠れて短時間で、関節までゴリゴリ噛み砕くことがパフォーマンスでできるだろうか。少なくとも僕にはできない。 ―― 精神鑑定の結果は人格障害。判決文では「異常さ まではうかがわれない」「理解できる範囲内」とし、 完全責任能力を認めました。 責任能力の一点に論点が集約される裁判でした。 そしてその大前提が、精神状態の正常 異常を問わず極悪人は罰せられるべし、だった。 責任能力を認定するためには被告は正常でなければならず、 そのつじつま合わせに終始して、肝心の精神鑑定はほぼ添え物と化していた印象です。 正常で責任能力があるというのなら、そんな普通の人がなぜあれほどの凶行に及んだのか、そのメカニズムを分析すべきです。 精神鑑定において生育暦の調査は重要な意味を持ちますが、この裁判ではほとんど触れていません。 その結果として知見や教訓が集約されずに幕が引かれる。 以前は分厚かった精神鑑定書も、最近はA4判2〜3枚の分量にしてくれと裁判所から指導されるという話を聞き驚いた。 何百枚あっても説明しきれない人の心理を2〜3枚で要約しろ、はないだろうと。 ―― 裁判はいったん審理を中断し、治療すべきだったと思いますか? オウムの麻原の場合、それはあったと思うけど、この被告の場合には簡単には治らないかもしれない。 でももっと時間をかけて、コミュニケーションを図れば、いろんなものが見えてきたはず。 治療の方向性を模索して、今後に活かすことができたかもしれない。彼の変化を知ることは社会の共有財産になると思うのです。 凶悪犯にわれわれの税金を使うな、と世間からは猛反発を食らうでしょうけど。 ―― 本では、裁判員裁判における負の側面も指摘されています。 公判前整理手続きのもんだいですね。市民から選ばれた裁判員に過度な負担がかからないよう、 公判前に裁判官・検察官・弁護人の三者が協議して争点を絞り込み、審理計画を立てる制度です。裁判は公開が原則。 だから傍聴席がある。ところが公判前整理手続きでは密室で行われ、あとは法廷でその筋立てに沿ってすすめるだけ。 まさしく演劇です。それを僕たちは見せられる。 だから、あれほどの犠牲者を出したこの裁判も結審までたった1ヶ月強。 それに対して「いくら何でもおかしいだろう」って声が出てこない。 メディアも、例えば現場で取材してきた記者が、裁判全体を通して異常だと思っていても、世論の反発を恐れて報じない。 法廷に市民感覚を導入するとして始まった裁判員制度だけど、論理や理性以上に、感情が法廷を支配するようになった。 日本の裁判は現在進行形で変わり続けています。 ―― 三者協議でつくられるシナリオも、社会感情をくんだものに? はい、それは間違いなく。 名古屋地裁裁判長に密着した「裁判長のお弁当」という07年放送のドキュメンタリーがあります。 印象的なのが、午前の法廷が終わるや裁判長が自室に駆け込み、テレビのニュースを見るシーン。 自分の法廷がどう報道されているのが食い入るように見ている。今ならSNSでしょうね。 世間がどうリアクションするか、すごく気にしながら彼らはやっている。 裁判官は個人の良心に従って判決を下すのが建前ですが、やっぱりヒエラルキーなんです。一回ヘマしたら出世は無理。 自分の判決が世間の反感を買えばもう致命的。だから、退任間近の裁判長が割りと英断に近い判決を出したりする。 刑事裁判ではないけど、原発差し止め訴訟でも「原発を造るべきではない」と判決を下した裁判官は、みな退任間近だった。 政治もメディアも司法も今や市場原理。この国ではそれがどんどん強まっている。 強いポピュリズムにどんどん押されている、って言い換えてもいいですけど。 (相模原に現れた世界の憂鬱な断面 森 達也・著 知見や教訓を得ぬまま「儀式化」が進む裁判・話題の本 著者に聞く:週間東洋経済20201年02月20日号) 植松は解体屋か肉屋になればよかったのですよ 彼は育てるより壊す方が向いてる 利用者が職員に暴力を振るっても、プロ意識が足りないなど我慢で。。。。。 相 模 原 障 害 者 施 設 1 9 人 殺 害 事 件 か ら 6 年 再 建 さ れ た 施 設 で 追 悼 式 2022年7月26日 4時29分 相模原市の知的障害者施設で19人が殺害された事件から26日で6年です。 現場となった建物は取り壊されたあと、去年、規模を縮小して再建され、50人が生活しています。 この事件で死刑判決が確定した元職員の死刑囚(32)は、 ことしになって横浜地方裁判所に再審=裁判のやり直しを申請しています。 事件は6年前の7月26日の未明に起きました。 相模原市にある神奈川県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、 入所していた人たちが次々と刃物で刺されて19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負いました。 死刑囚は逮捕直後から「障害者は不幸しか作らない」とか 「意思疎通できない障害者は殺そうと思った」などと差別的な主張を繰り返しました。 おととし3月の判決で、横浜地方裁判所は 「施設での勤務経験から重度障害者は不幸であり、 その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」と指摘しました。そのうえで 「19人もの命を奪った結果は、ほかの事例と比較できないほどはなはだしく重大だ」として死刑を言い渡しました。 ことし4月、本人が横浜地方裁判所に再審=裁判のやり直しを請求しています。 事件のあと、ほとんどの建物は解体されました。 去年、現地には「津久井やまゆり園」が横浜市には「芹が谷やまゆり園」が完成し、新たな生活が始まりました … 。 施設の再建に際しては、やまゆり園を運営している社会福祉法人の支援の在り方についても議論になりました。 事件のあと、県が行った有識者による検証で、一部の利用者について「見守りが困難」という理由で、 外から施錠した個室に長時間拘束していたことなどが明らかになり、支援の改善を求められました。 (相模原障害者施設19人殺害事件から6年 再建された施設で追悼式 ttps://www3.nhk.or.jp/news/htm) 相 模 原 知 的 障 害 者 施 設 1 9 人 殺 害 事 件 か ら 6 年 遺 族 ら 参 列 し 追 悼 式 2022年7月26日 15時05分 相模原市の知的障害者施設で19人が殺害された事件から6年となる26日、現場に再建された施設で追悼式が行われました。 現場に再建された施設では追悼式が行われ、遺族など62人が参列しました。 神奈川県の黒岩知事 「犯人が口にした『意思疎通が図れない人間は生きる意味がない』という考え方が、 いかに独善的で、間違ったものであるか証明するためにも、 誰もが、その人らしく暮らすことができる地域社会を、何としても実現しなくてはなりません」 園を運営する、かながわ共同会 理事長 「私たちが皆様をお守りできなかったことを深い後悔と自責の念をもって、今なお振り返ります。 どんなに重い障害があろうと、私たちは、すべての人をかけがえのない存在として大切に思い、 偏見と差別は断じて許しません」 「植松死刑囚は意思疎通ができない人を指して心失者ということばを使っていたが、利用者には気持ちが必ずある。 施設として利用者の意思決定を支援する取り組みを進めることが、事件を風化させないことにつながると思う」 利用者の家族で作る会会長 「この6年、凄惨(せいさん)な光景と途方もない混乱、けん噪が脳裏を離れることはありません。 亡くなった方の無念さを思い、19のみ霊(御霊)がやすらかにと、心から願います。 私たちは、あなたたちのことを決して忘れません」 「きょうの雨は施設が新しくなったあと一区切りついたこの日に、亡くなった19人が思いっきり泣いたのかなと思った。 追悼式は区切りとして大きい機能を持っていると思う」 津久井やまゆり園 園長 「犠牲になられた19人の皆さんも、いろいろな事を考え、感じながら自分の夢に向かって生きていました。 このようなことを二度と起きないよう全力で取り組むことをお誓いします」 「同僚が犯行に及んだことで、犠牲になった19人やご遺族に申し訳なく思う気持ちは、6年間で何も変わらない。 植松死刑囚には非常に複雑な思いだが、しっかりと自分が犯した罪に向き合ってほしい」 追悼式のあと、県の黒岩知事と相模原市の本村市長が記者会見しました。 黒岩知事 「この場所に来る途中に血だらけの惨状の記憶がよみがえってきた。 改めてあのようなことを二度と起こしてはいけないと感じている」 「事件があった神奈川県だからこそ、当事者目線にたった支援の在り方を模索し、 障害者福祉に関する条例を作るなど、全力で取り組んでいきたい」 本村市長 「遺族の気持ちを考えるとことばが見つからない。あの痛ましい事件を後世に伝え、 障害の有無にかかわらず地域で生きていけるような共生社会を、市民とともに作っていかなければならない」 (相模原知的障害者施設19人殺害事件から6年 遺族ら参列し追悼式 : tps://www3.nhk.or.jp/news/html) S N S 全 盛 の 一 方 「 潜 在 的 孤 独 見 え に く く 」 秋 葉 原 殺 傷 事 件 の 背 景 を 識 者 に 聞 く 事 件 は 典 型 的 な 「 拡 大 自 殺」 2022年7月27日 06時00分 2008年の東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、26日、死刑が執行された加藤智大死刑囚(39)は 「自分の居場所」を失った末、凶行に及んだ。事件から14年。 今も社会的な孤立などを背景に他人を巻き込む「拡大自殺」などの凶悪事件は絶えず、専門家らは対策の必要性を訴える。 ・「 居 場 所 な く な っ た 」 と 加 藤 死 刑 囚 自分の境遇や他人への嫉妬 … 。 インターネット上の掲示板が唯一のはけ口だったが、なりすましなどの「荒らし」が頻発し、犯行を決意。 「家族はいないし、仕事は辞めてしまったし、職場の友人関係もこれで終わりだと思っていた。 居場所がなくなったと考えた」と動機を語っていた。 精神科医 「秋葉原事件は、世の中に強い不満や怒りを感じ、自殺願望を抱いた加藤死刑囚が 他人を道連れに無理心中を図った、典型的な『拡大自殺』だ」と指摘する。 ・ 小 田 急 線 事 件 、 京 王 線 事 件 、 大 阪 放 火 事 件 … 東京の小田急線、京王線で乗客刺傷、京王線事件の容疑者の男 「2人以上を殺して死刑になりたかった」と供述。 大阪府内の心療内科クリニックが放火される事件では、容疑者の男を含む28人が死傷した。 精神科医 「怒りと不満を募らせる人が増え、そうした人たちが大きな事件に触発されて模倣するからだ」と説明。 「拡大自殺はもともと人生に絶望し、自殺願望を抱いた人が 『1人で死んでたまるか』『一矢報いたい』と復讐ふくしゅう願望を募らせるから起きる。 単独の自殺を減らすことが、長い目で見れば拡大自殺の防止につながる」と話し、 経済格差の縮小や社会で孤立を防ぐ態勢が必要だと指摘する。 ・ 「 誰 も が 同 じ 境 遇 に な る 」 と 共 感 す る チ ャ ン ス 政府も昨年、内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」を設置するなど孤立対策を急ぐ。 NPO(福岡県)理事長 「人は他者との関わりで相対的に自分を知る。 孤立状態の人は、自分が社会的に困窮状態であること自体が分からなくなり、われを失ってしまう」と話し、 貧困と孤立の支援を両輪で行う必要性を説く。コロナ禍で困窮や孤立はさらに深まったが、 「誰もが同じ境遇になりえると共感できるチャンスでもある。 この苦難の時代にみんなで受けた傷が支え合いのきっかけになってほしい」と期待する。 東洋大 教授(犯罪心理学) 「ネット上などで出るくいを打つ、ネガティブな意見しか述べられないといった閉塞的な風土が国内に広がっている」 「潜在的な孤独が見えにくくなっている」と警鐘を鳴らす。 (SNS全盛の一方「潜在的孤独見えにくく」 秋葉原殺傷事件の背景を識者に聞く 事件は典型的な「拡大自殺」: ttps://www.tokyo-np.co.jp) 「 や ま ゆ り 園 」 事 件 7 年 献 花 障 害 者 排 除 し な い 社 会 願 う 相 模 原 相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害された事件から7年となる26日、 同園に元職員や障害のある人らが訪れ、施設内に設置された「鎮魂のモニュメント」に献花しました。 「事件を忘れてはいけない」と手を合わせていました。 「事件を止められなかったこと、 そして今も障害者を排除する動きが止まったわけではないことに情けなさを感じている」 「命の尊さを胸に留め、一人の存在も見捨てない社会になってほしい」 「誰もが安心して暮らせる社会にするには、人権が尊重される制度づくりが大切。日本は制度を整えていない」 「障害者差別の問題は、社会全体の問題。日常で障害者ともっと当たり前に接することができる社会づくりが必要だ」 (「やまゆり園」事件7年 献花 2023.07.27 しんぶん赤旗 ttps://www.jcp.or.jp) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる