>ところで、「慢心しきったお坊ちゃん」は、ある種のことは不可能だと「知り」ながら、そして、知っているからこそ、その反対の確信をもっているかのことき言動をするのである。
>ファシストは政治的自由に反対する動きをするだろうが、それは、政治的自由が最終的にはけっして消滅するものではなく、ヨーロッパの生の本質そのものの中に厳然として存在しているものであること、
>そして、事態が重大となり、政治的自由が真に必要となった場合にはいつでもそこに帰ることができると知っていればこそである。
>不まじめと「冗談」、これが大衆人の生の主調音なのである。彼らが何かをやる場合は、「良家の御曹子」がいたずらをするのと同じように、自分の行為は取り消すことができないのだという真剣さに欠けている。
>あらゆる面において、努めて悲劇的で、せっばつまった、決然とした態度をとっているかに見えるのは、単にうわべだけのことなのだ。
>彼らは、この文明世界に真の悲劇などありえないと信じているからこそ、悲劇をもてあそんでいるのである。

>幸いにもわれわれは、一人の人間がわれわれに信じ込ませようとしているものを、そのまま彼の真の姿として受け容れるようには強制されていない。
>誰かが、二に二を加えたら五になると頑固に主張したとしても、もしその人が異常だという証拠がないならば、
>われわれは、彼がどんなにわめきたて、自分の主張を通すためにあえて死をいとわないとしても、結局は、彼自身そんなことを信じてはいないのだと考えざるをえないのである。