続き

小名木善行さんは蜻蛉日記の本文をお読みになっていないのです。
彼の言語能力では無理ということはわかるのですが、それではなぜ背伸びしてああいう題材を取り上げるのでしょうか。

蜻蛉日記は、本文に "なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし" と書いてあるのでそう呼ばれています。これをご存じないわけですから、読んでいないことは明白です。

意味をご説明すれば、
それでもはかないものであることを考えれば、あるか無いかわからないような気がする、かげろうの (ような女の書いた) 日記と呼ぼう。
というような意味です。
かげろふのあるかなきかにほのめきてあるはあるとも思はざらなむ、という宇津保物語の歌等を元に書かれているのかもしれませんが、その他にも かげろふのあるかなきか、という歌はいくつかあります。
GHQのWGIPで書き換えられたとでもおっしゃるのでしょうか。宇津保物語の歌まで書き換えますか???

ねずきちさんはこの文章を
どんなに辛かったり悲しかったり悔しかったりして、泣いてばかりの日々であったとしても、私は絶対に後ろに引き下がらない
と解釈されて居るようですが全然違います。古典の鑑賞を捻じ曲げるのはやめていただきたいものです。

ところで、ねずきちさんの調最低の翻案文を見ると、どこかで見つけてきた現代文版をそのままコピペしてバレることを防ぐために文体を変えているということがすでに見え透いていますが、見苦しいものです。

私はねずきちさんが古典を勉強することは期待していません。古典を利用することをやめていただきたいだけです。

続きます