【量子のもつれ】すべての物理現象に原因はあるのか?量子技術の核心に迫る大実験
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量子力学の理論によると「量子もつれ」状態にある粒子ペアは、一方の粒子を状態を測定すると、互いがどんなに離れていても、ただちにもう一方の粒子の状態に影響を及ぼす。直感に反するこの特性の根底に「隠れた変数理論」があるのかどうかを調べるため、前例のない規模の実験が実施された。もし、隠れた変数理論が存在すれば、量子暗号は完全に安全とは言えないことになる。
好奇心をそそられる質問がある。物理現象には原因のないものがあるのだろうか、それとも、すべての作用には理由があるのだろうか?
この難問は基礎科学の最も奇妙な分野の1つである量子物理学における核心的な質問だ。科学史上最大級の人物たちを悩ませてきた質問でもある。
この問題はまた、量子コンピューターや量子暗号などの新テクノロジーにとって重要な意味を持つ。もしかすると、原因と結果についての人々の理解を変えかねない、全く新しい科学分野の核心となる問題かもしれない。
今日、この質問に対する1つの答えが得られている。スペインのバルセロナ科学技術研究所(Barcelona Institute of Science and Technology)のモーガン・ミッチェル博士と数十人の共同研究者、および量子理論の最も混乱を呼ぶ予測に関するかつてない実験に参加した、世界中の10万人を超えるボランティアのおかげである。
ミッチェル博士らの結論は、すべての作用に説明が必要なわけではないというものだ。ミッチェル博士と共同研究者たちは、「もし人間の意思が自由だとすれば、原因のない物理現象が存在します」という。実証に基づく科学的手法を使って、自由意思という形而上学的概念を初めて基礎物理学とリンクさせた研究と言える。
まず、背景について少し説明しよう。量子力学の奇妙な特性の1つに、空間的、時間的に同じポイントに生成された複数の量子粒子が同じ存在を共有できることがある。このような関連は「量子もつれ(エンタングルメント)」と呼ばれ、粒子同士が動いてどれだけ離れても相互の関連は損なわれない。
量子もつれに関して不思議なのは、宇宙のある1点に置かれた粒子が、他の点に置かれた粒子と、両者間の距離に関係なく関連し合うことだ。このため、一方の粒子を測定すると、どれだけ離れていようとも、ただちに、もう一方の粒子の測定値に影響を及ぼす。
この特性は長い間、難問とされてきた。一方の粒子が光より速い信号を送らない限り、遠方にあるもう一方の粒子に瞬時に影響を及ぼすことは不可能であるからだ。物理学者たちはこんなことは起こっていないと信じていた。
しかし、光よりも速い信号伝達手段を使わなくても、説明を付ける方法がある。つまり2つの粒子は、物理学者がまだ把握していない隠された方法で相互に関連しているのだ。だが、もしこの隠れた変数を測定できたら、両方の粒子の振る舞いがどのように決められているのかがわかるはずだ。
この考え方では、量子の振る舞いは完全に決定論に基づいており、量子スケールにおいて起こるすべてのことに理由があることになる。この隠れた変数は、現実を表すより深い理論の一部をなすものに違いない。
ここで当然の質問が出てくる。もし現実を表す深い理論があるのなら、どうすれば証拠を見つけられるのだろうか?
1960年代に、当時、欧州原子核研究機構(CERN:European organization for nuclear research laboratory)の無名の物理学者だったジョン・ベルはこの問題に関心を抱いた。アインシュタインが1930年代にこの問題に取り組み、納得できる答えを出せなかったが、それ以降の世代の物理学者たちは問題を棚上げしてしまっていた。量子力学よりさらに根本的な理論があるかもしれないという考えに向き合いたいとは思わなかったのだ。
対照的に、ベルはこの問題の襟首をつかんだ。ベルは、もし「隠れた変数理論」が量子力学よりさらに根本に存在するのなら、宇宙は量子力学が根本原理である場合とは微妙に違った振る舞いをすることを示した。
https://www.technologyreview.jp/s/88840/how-the-nature-of-cause-and-effect-will-determine-the-future-of-quantum-technology/ >>447量子のもつれの複数って2個の事なのかな。
箱の中の3つの素粒子の場合は
「3の素粒子がワンセットになって確率を持つ」が
かなり複雑な確率になるのでレスでは示しづらい >>453
最初に素粒子が「右」で観測されれば
残された素粒子が「右」で観測される可能性は「3分の2」
最初に素粒子が「左」で観測されれば
残された素粒子が「右」で観測される可能性は「3分の1」
上記の奇妙さは
残された素粒子の観測確率にある
1個の素粒子が箱に残ってるけど
前の観測結果によって
残された1個の観測確率が異なる事だ
前に素粒子が「右」で観測されてる場合は
残された素粒子が『右」で観測される確率は「3分の2」
前に素粒子が「左」で観測されてる場合な
残された素粒子が「右」で観測される確率は「3分の1」
前の観測結果によって
残された素粒子が右で観測される確率が
「3分の2」か「3分の1」で異なってくる
これは不思議な現象だ 2個の素粒子入ってる箱を
どんなに大きくしてみても
確率は不変だ
ということで量子もつれは距離を超越してる 量子もつれが奇妙に感じるのは
論理と整合性が取れないからなんだけど
人間の論理と量子もつれは整合性がとれないんで奇妙に感じる
ところが
なれてくると量子もつれが奇妙に感じ無くなってくる
量子力学的現象にされてきたときに
論理を作れば
その論理は量子力学的現象と整合性が取れてるはずだ
とうことで人間の論理には普遍性はなく
経験によって論理は異なる 論理と整合が取れないというか
その論理の礎になっている数学もそれ単体では完全ではあり得ない
それが数学自身によって証明されている
それが数学じゃなくても同じ
ある論理自身がそれ単体で完全ではあり得ないと証明されている
経験によって論理が異なるとしてもそのそれぞれの論理がそれ単体で完全である事はあり得ない >>361
言ってないよ
アインシュタインは量子力学のパイオニアの一人でもあるんだぜ アインシュタインやシュレディンガーが疑問視してたのは 「不確定性原理」 のみ アインシュタインは、
どんなに離れていても情報が瞬時に伝達される
という相対論を完全否定する量子論に対して
量子論には重大な欠陥があるとして、
それを証明するための思考実験がEPRパラドックスである。
が、逆にEPR相関として量子論が正しいことが証明された。 アインシュタインは、量子力学には重大な欠陥があるとして、量子力学を拒絶したが、
量子力学が正しいことが各種の実験により証明されて、晩年には、相対性理論に重大な
欠陥があるかもしれない、と言っている。
現代の主流とされている宇宙論は、その重大な欠陥があるかもしれない相対性理論を
軸にして組み立てられているのである。
つまり、現代の主流とされている宇宙論は、重大な欠陥がある可能性が高いと言えるであろう。 同一の素粒子が2個ある
ということが量子もつれの原因になってる
量子もつれは論理と整合性が取れないんで奇妙に感じる
量子もつれの原因は「同一の素粒子が2個ある」ということなので
「同一の素粒子が2個ある」ということが論理と整合性が取れたない
素粒子を人間に置きかれると
「同一の人物が2人いる」ということは論理と整合性が取れてないことになる
たしかに「同一の人物が2人いる」っていう言葉は奇妙だ
「同一の人物は1人」なら論理と整合性が取れてる >>463超能力
超能力というよりも
量子もつれという現象が論理と整合性がとれてない
きつい言い方をすると
量子もつれの現象は論理矛盾
論理矛盾ってきつすぎて
物理学者は使わないけど >>462
>アインシュタインは、量子力学には重大な欠陥があるとして、量子力学を拒絶したが、
>量子力学が正しいことが各種の実験により証明されて、晩年には、相対性理論に重大な
>欠陥があるかもしれない、と言っている。
自分の論理に欠陥があるかもしれない
なんてなかなか言えない
間違ってると分かってても
自分の言い分を訂正しないのが
俺達みたいな凡人だし >>460アインシュタインやシュレディンガーが疑問視してたのは 「不確定性原理」 のみ
リンゴは位置が確定してるので
2個のリンゴは位置で区別がつく
素粒子の場合は不確定性原理により
位置が不確定になり
2個の素粒子を位置で区別することができなくなる
同一というのは位置も含めて区別できないということで
「同一な素粒子が2個ある」という状態が可能になる
同一な素粒子が2個ある → 素粒子の非局所性 → 量子もつれ >>467
アインシュタインが納得しなかったのは
最終的には「同一の素粒子が2個ある」というjことだ
「同一の人が2人いる」っていうことは論理矛盾で
「同一の素粒子が2個ある」のも論理矛盾なんだ
アインシュタインは
論には普遍性がある
って立場だったんだな 量子力学では、
観測者が観測するときだけ波動関数は収束し事象は顕現する。
また、観測者の意識が物理的事象に大きく影響する。
としている。
これが量子力学の肝だ。また、量子テレポーテーションは光速を
遥かに超えて瞬時に伝わる。
一方の相対論は、
観測者が居ようが居まいが、事象は顕現し、
観測者の意識は物理的事象に全く影響しないと前提する。
また、光速が速度の上限と規定する。
量子論と相対論は互いに相手を根底から否定している。
これらの決定的に異なる理論を無理矢理結合しようとする試みが
存在するが、土台無理な相談であろう。 >>469
ニュートン力学は絶対空間の世界で観測者問題はない
相対論によって初めて観測者の存在が明らかになった
アインシュタインの相対論は
自分が他を観測するという観測者問題だ
アインシュタインは不確定性原理を認めなかったが
不確定性原理の原因は自分が自分を観測するという自己観測だ
素粒子は自己観測により
自己の状態が不確定になる
この状態は数学空間上では表現できない
(発散の困難)
自己観測は論理矛盾を誘発して
数学空間上で表現できないってことだ >>460アインシュタインやシュレディンガーが疑問視してたのは 「不確定性原理」 のみ
1 ニュートン力学は絶対空間の世界で観測者問題は考慮してない
2 相対論は「観測者 → 観測対象」ということで 観測者問題を考慮
3 量子力学はさらに自分が自分を観測するという自己観測も考慮し
自己観測により自己の状態が不確定になったのが不確定性原理
>>458
現代数学は
「自然数の公理」+「集合の論理(公理的集合論)」
なんだけど
公理的集合論の中に「対の公理」というものがらる
対の公理の中で
{x 、 x}={x}
とされていてxとxは同一なんで1個としてる
数学理論では
「同一なら1個」が論理的な結論なんだ
これは
「同一人物は1人」ってことで不思議でもなんでもない
犯罪事件のアリバイも
「同一人物は1人」っていう論理にたがって行われてる 位置と運動量の間にシュワルツ不等式が成り立つ以上、不確定性の問題は原理的に避けられない。
しかし、これは飽く迄、波動関数の強度(二乗振幅)しか観測できないと言う縛りの下で生じる問題に過ぎない。
言うなれば、スペクトル解析手段がない(=色が見えない)と言う縛りの下で
遠ざかる銀河の位置と速度が切り分けられないと言っているようなもので、当たり前のことである。
もし何らかの方法で波動関数の位相を観測(若しくは観測値から逆推算)できれば、不確定もへったくれもない。
要するに、不確定性原理とは単に我々の観測手段が限定されていることに起因する問題でしかない。
量子世界も古典力学の世界と同様に決定論的であり、確率に支配されているわけでは決してない。 >>469
アインシュタインは不確定性原理を否定したけど
不確定性原理は論理と整合性が取れてないんで
きつい言葉でいうと論理矛盾
不確定性原理では位置が不確定ということで
2個の素粒子が位置も含めて区別が出来ない状態になり
「同一の素粒子が2個存在する」という現象が起こる
同一なら1個が論理的で
「同一の2個の素粒子」という状態は論理矛盾だ
量子力学的現象が論理矛盾とならないような
論理が必要なんだとうけど >>24
中世というよりはアリストテレスだな。
原因があるか結果があるというのは、正しいかどうかはわからない。
宇宙には何らかの意思に基づいて動いてる可能性はないとは言い切れない。 もつれの謎なら銭形平次に任せときゃ万事解決だと婆ちゃんが言ってた >>474
論理は前提しだいで、どうにでもなることが解っていない。
前提が間違っていれば、どんなに論理的に考えても
間違った結論しか導けない。 個室にお盆に伏せられた不透明のコップを二つ用意して
そのどちらかの下にコインを1枚置く。
お盆に「どちらかのコップの下にコインがあります」というメッセージカードを添える。
被験者にはどちらかのコップを持ち上げてコインの有る無しを報告してもらう。
結局お盆に添えられたメッセージカードの信用じゃないのかな。
事前に与えられた情報次第。量子もつれ状態の粒子の一方を観測すれば
もう一方の状態も確定できるという情報を信じれば高速より早くもう一つの粒子の状態は確定できる? >>458論理の礎になっている数学もそれ単体では完全ではあり得ない
数学の場合は自己観測(自己言及)によって
Aと非Aが両方証明可能っていう状態になる
不確定性原理の原因は自己観測だけど
素粒子は自己観測により
「箱の右の位置にある」という状態と「箱の左の位置にある」
ていう状態が重なり合ってしまう
これはAと非Aが両立してしまう状態だし
位置が右という状態と位置が左という状態が重なりあえば
位置が不確定ということになる >>480
素粒子の自己観測により素粒子の位置が不確定になる
位置が不確定な2個の素粒子は
位置も含めて区別ができないという状態が可能になる
同一とはどんなことしても区別ができない状態で
通常の論理では
「同一なら1個」が論理的に正しいということになる
分かりやすい表現で言い直せば
「同一人物は1人」ってことになる
「同一人物が2人いる」という状態は論理と整合性が取れないんで
論理に矛盾してる状態とうことになる
ということは
量子力学的現象と整合性のとれる論理が必要ということになる >>479事前に与えられた情報次第。量子もつれ状態の粒子の一方を観測すれば
>もう一方の状態も確定できるという情報を信じれば
量子もつれの原因となる現象をさかのぼって調べる必要がある
量子もつれの原因 → 素粒子の非局所性
素粒子の非局所性の原因→不確定性原理
不確定性原理の原因→素粒子の自己観測
素粒子の自己観測により
Aと非Aが両立する状態が可能になり
これが奇妙さの根本的な原因になってる 区別ができるものが持ってる性質の場合は
A1が持ってる性質は・・・
A2が持ってる性質は・・・
と言うように2つが独立して性質を持つ事が出来る
区別が出来ないという時は
A1とかA2とかの表記ができない
A1とかA2とかの表記が出来ないんで
Aが持ってる性質という表記になる
同一な2個の物がワンセットになって
1つの性質を持ってることになる
A(同一な2個の素粒子)が持ってる性質が・・・
という表記になる
A(同一な2個の素粒子)が箱の右で観測される確率は3分の1
A(同一な2個の素粒子)が箱の左で観測される確率は3分の1
A(同一な2個の素粒子)が箱の左右で観測される確率は3分の1
ということで
同一な2個の素粒子はワンセットで確率を持ってる 素粒子がスプリットされてペアができる所ですでについていけん 区別が出る場合は
A1が最初に観測され
A2が次に観測され
という表記ができる
区別が出来ない場合は
Aが観測され
という表記になり
A(同一な2個)が箱の右で観測される確率は3分の1となる
「A(同一な2個の素粒子)が箱の右で観測される確率は3分の1となる」
には「最初に観測された素粒子」とか「次に観測された素粒子」というような表現が無い
これが量子もつれの奇妙さになってる
2個の素粒子は最初とか次とか時間差をもって観測されたのに
「A(同一な2個の素粒子)が箱の右で観測される確率は3分の1となる」
には時間の要素がなく同時に観測されたようになってる
ここで気になるのが相対論との対比で
相対論は同時を否定し時間は差が出る
量子もつれは時間差を否定し同時になってる 定常的高周波な運動を低解像の観測機で測ると分布は勝手に確率に成るんじゃね? >>484素粒子がスプリットされてペアができる所ですでについていけん
この場合は
同一の2個の素粒子がワンセットで±Pという物理量を持っている
という形になる
A1という素粒子が+Pという物理量をもち
A2という素粒子が−Pという物理量をもつ
という事じゃないんだ
(この場合はA1とAで区別がつくことになってる)
A1とかA2とかの区別がつけられないので
A(同一な2個の素粒子)が±Pという物理量を持つ
という表記になる 「量子もつれ」 の原因は
「同一なモノが複数存在する」 事なんだが
数学論理では
「同一なら1個」で(x、x)=(x)となる (公理的集合論の対の公理)
「同一なモノが複数存在する」ということは論理と整合性がとれてないんだ
ここで問題になるのは
「論理なのかそれとも物理法則なのか」ということだ
物理法則というのは実際に存在するモノが持ってる性質だ
倫理というのは具体的なモノに依存しない普遍的概念だ
リンゴの場合は
「同一なら1個」
素粒子の場合は
「同一な素粒子が複数存在する」
これでみると
「同一なら1個」というのがリンゴが持ってる物理的な性質ということになる 物理法則は「物に依存する法則」のこと
論理は「物に依存しない抽象的概念」のこと
リンゴの場合は
「同一なら1個」
電子の場合は
「同一なものが複数存在する」
これでみると
「同一なら1個」とか「同一なものが複数存在する」とかは
物に依存する物の性質ということなので
これは物理法則だ
数学論理(公理的集合論)の対の公理では
(x 、 x)=(x)となり
「同一なら1個」を物に依存しない抽象的な概念(自明の理)として扱ってる >>489
> 数学論理(公理的集合論)の対の公理では
> (x 、 x)=(x)となり
> 「同一なら1個」を物に依存しない抽象的な概念(自明の理)として扱ってる
単に個数をカウントせず要素として含むか否かだけを問う集合という数学的構造を基本概念として採用すればそうなるだけの話
リスト(あるいは列)のように要素の並び順は気にしないが点は集合と同じだが同一の要素の個数をカウントする数学的構造もあるし
それを基本概念として採用することもできる
従って君が延々と書いていることは全くのナンセンス >>490点は集合と同じだが同一の要素の個数をカウントする数学的構造もあるし
同一なら1個なので
同一の要素の個数は1個になる
同一人物が2人いる
という表現は論理と整合性がとれていない
同一の素粒子が複数存在することは
物理では自己同一性がないという表現になるんだけど >>490
>同一の要素の個数をカウントする数学的構造もある
電子に自然数を一対一対応させて
電子1 電子2 電子3 ・・・
と別する事はできない
要素の個数をカウントというのは
電子に自然数を対応させる事なんだが
同一の電子の場合はそれが出来ないんだ
自然数に対応させるということは
「1と対応した電子」と「2に対応した電子」
ということで電子に区別がついてしまうんだ >>490
量子もつれを不思議と感じるのは
論理と整合性が取れてないためだ
「同一の素粒子が2個ある」ことで
量子もつれという現象が発生するが
「同一の素粒子が2個ある」という状態が
論理と整合してない
同一なら1個が論理的な状態だ
AとBが同一という場合は A=Bと表記でき
「Aというラベル」も「Bというラベル」も
同一の1個を指してる
同一人物が2人いるということは論理と整合性がとれず
同一人物は1人が論理と整合性がとれてる状態なんだ >>490
> 数学論理(公理的集合論)の対の公理では
> (x 、 x)=(x)となる
{りんご 、 りんご }={りんご}
リンゴの場合は同一なら1個
{電子 、 電子} ≠{電子)
電子の場合は同一な電子が2個存在できる
上記は
リンゴをコップに置き換えても数学的形式は普遍になってる
だけどリンゴを電子に置き換えることはできない 2つのリンゴは独立して物理を持ってる
リンゴ1が持つ物理量
リンゴ2が持つ物理量
リンゴはそれぞれ独立して物理量をもってるので
量子もつれのような状態はおこらない
電子が2個有った場合
2個の電子は同一で区別ができない
電子1が持つ物理量とか
電子2が持つ物理量とか
電子に区別がつけられる状態になれない
電子(同一の2個がワンセット)が物理をもつ
ということになり量子もつれの現象が発生する
この奇妙な現象のもとは
「同一の電子が2個ある」という状態が倫理と整合性が取れてないためだ
論理の同一律で
AとBが同一なら
A=Bで「Aというラベル」も「Bというらべる」も
ともに同一の1個の存在を指し
同一なので1個なんだ 金太郎飴は切る前に断面は0
切ると断面は2つ
で、断面同士をくっつけると断面は0
この理屈で素粒子がエネルギーか何かの断面であるとする
断面同士の素粒子がもつれて離れていたら、
距離はないものと同じで、二ヶ所に同一の素粒子があるが合わせると0
こう考えると論理上0である >>490
> 数学論理(公理的集合論)の対の公理では
> (x 、 x)=(x)となり
> 「同一なら1個」を物に依存しない抽象的な概念(自明の理)として扱ってる
{リンゴ 、 リンゴ}={リンゴ}
{コップ 、 コップ}=(コップ)
「リンゴ」を「コップ」に置き換えても
{x 、 x}={x} は変わらない
リンゴ を電子に置き換えると
{電子 、 電子 }≠{電子} となり
{x 、 x}≠{x} となって変わってしまう
これは{x 、 x}={x}という形式が物の『性質に依存してるという事だ
物理法則というのは物の性質に依存してる性質のことだ
{x 、x}={x}というのは
物の性質に依存しない抽象的概念ではなき
物の性質に依存する物理的法則ということだ
リンゴの場合は {x 、 x}={x}という物理法則になり
電子の場合は {x 、 x}={x}という物理法則になる >>497
量子もつれが奇妙と感じる原因は
人間が日常体験してる物理法則が{x 、 x}={x}なんだけど
2個の電子が存在する物理法則が{x 、 x}≠{x}となってることだ
我々が体験してる物理法則と
電子が体験してる物理法則が異なってる事にって
我々は電子の量子もつれという現象を奇妙に思う 論理というのは物の性質に依存しない抽象的概念だ
リンゴ を コップ に変えても
リンゴ を 電子 に変えても普遍なのが物の性質に依存しない抽象的概念で
その形式的体系が論理であり数学論理でもある
リンゴ を 電子 に置き換えて変化するようなものは
物の性質に依存しない抽象的な体系(論理)ではなく
物の性質に依存する物理法則だ
{リンゴ 、 リンゴ }={リンゴ}
電子 、 電子 }≠{電子 }
となり
{x 、x}={x}や{x 、x}≠{x}は
リンゴや電子の性質に依存する物理法則ということ 量子もつれの奇妙さは
{ x 、 x}={x}という物理法則の世界から
{ x 、 x}≠{x}という物理法則の世界を見た奇妙さ
物理法が共通してれば奇妙さは感じないが
物理法則が異なってれば奇妙さを感じる 眠くて1/4読んだところでやめた
明日もう一回読む >>502因果関係は無い。気のせい
{リンゴ 、 リンゴ }={リンゴ}
{電子 、 電子 }≠{電子 } となり
リンゴと電子では物理法則が異なっている
同一の電子が2個ある場合
電子1とか電子2とかの区別はつけられない
同一の2個の電子はペアで物理量や物理的性質を持つ
運動量±pを同一の2個の電子が持っている場合
2個がペアで±pの運動量をもっているのであった
電子1が+p 電子2が−p の運動量を持っているわけではない
また同一の電子が観測される場所が不確定ということも
電子1が観測される場所は不確定で 電子2が観測される場所も不確定
ということではなく
同一の2個の電子がペアで観測される場所は不確定となる >>502因果関係は無い。気のせい
電子(同一の2個の電子のペア)が±pという運動量をもって
原点(発生源)から離れていく場合
電子(同一の2個の電子のペア)は
原点を中心とする同心円上で観測される確率はランダム
ここで注意しなくてはならないことは
電子1が同心円上で観測される確率がランダムで 電子2が同心円上で観測される確率がランダム
という事ではないということ
同一の2個の電子は電子1とか電子2とかの区別が出来ないので
同一の2個の電子はペアで物理的性質や物理量をもってるのだ >>502因果関係は無い。気のせい
電子(同一の2個の電子のペア)が±pという運動量をもって
原点(発生源)から離れていく場合
電子(同一の2個の電子のペア)が観測される方向は
原点原点を中心に反対方向(180度)というこである
これは
電子1がプラスの方向で電子2がマイナスの方向
ということではない
(電子1とか電子2とかの区別ができないから)
電子(同一の2個の電子のペア)は
原点を中心として反対方向で観測されるということだ >>502因果関係は無い。気のせい
因果関係というのは
A1の観測結果がA2の観測結果に影響を当たれる
ということで
2つが区別ができる物理法則でのものだ
同一のものが2個存在刷る場合は
同一のものはペアとなって物理量や物理的性質を持っているので
AIとA2が区別される因果関係とは異なる >>502因果関係は無い。気のせい
同一のAが2個存在する場合は
A1が観測される方向はランダムで
A2が観測される方向もランダムということではない
A(同一の2個のペア)が観測競れる方向はランダム
ということである
方向がランダムに観測されるという物理的性質は
個々が持ってる性質でななく
同一のものがペアで持っている性質なのだ >>502因果関係は無い。気のせい
同一の電子が2個あった場合
最初に観測された電子とか次に観測された電子とかの区別は
電子の世界ではつけられない
(最初の電子とか次の電子とかの区別はつれれない)
我々の日常の世界では「同一なら1個」という物理法則なので
最初に観測された電子とか次に観測された電子とかの区別はつけれる
我々の日常世界で
最初の電子がある方向で観測されたとする
問題は残された電子だけど
我々の日常世界では
残された電子は独立して物理法則をもってるという認識になってる
残された電子は独立して
観測される方向はランダムという性質を持っていると
我々は思ってしまう
ところが現実には
残された電子が観測される方向は
最初の電子が観測された方向の逆ということが決定されてる
これは電子の世界では
同一の電子が2個存在するという物理法則にろつ
電子(同一の2個の電子)はペアでランダムな方向で観測される
という物理的性質をもっていつからなんだ リンゴの場合は、一つのリンゴを半分に切るだろうな。
コインなら裏と表。 >>510
だから因果関係はあるの?ないの?
連続長文ではなく一行で答えてくれ >>512
>だから因果関係はあるの?ないの?
>連続長文ではなく一行で答えてくれ
電子(同一の2個の電子)はペアで±Lの位置で観測されると言う事で 因果律ではない 因果関係は無い
その代わり無数の並行宇宙が存在する
意識は常に無数の並行宇宙を往き来している
マメ知識
今から5年後の 2024年に、発行される新札(しんさつ)によって、
デノミネーション( denomination 、通貨単位の変更)が、行われるだろう。
このように予言します。この私の予言は、ほぼ確実に当たるでしょう。
1万円(10,000円)札は、千円(1,000円)札に、
5千円(5,000円)札は、五百円(500円)札に、
千円札(1,000円)札は、百円(100円)札になるだろう。
ゼロを 一つずつ削り取ることになる。
今から、5年後の2024年には、ほぼ確実に、「1万円札 は、千円札になる」と、私は、予言しておきます。
今から、私のこの文を震源地として、皆で、ザワザワと、騒ぎ始めなさい。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/
この他に、カルロス・ゴーンを、4回目の逮捕を、日本の東京地検、特捜部(とくそうぶ)が、やったこと(4月4日)。
世界基準から見たら、同じ容疑者を、何度も、捕まえる、ということをしてはいけない。
大きくは一事不再理(いちじふさいり)という、世界的な法理(ほうり)に違反することを、
日本の 検察官どもは、やっている。恥を知るべきだ。
世界が注視しているので、この、愚劣な、日本の司法官僚ども(法務省、裁判官も含む)は、
日本国民を、お白洲(しらす)で、ヒドく打据(うちす)えるように冷酷に取り扱えなくなって、狼狽(うろた)えている。
たかが、お奉行さま階級の者たちでは、外国、世界が出てくると、オロオロするだけだ。
しかも、「日本は、検察官(けんさつかん。プロセキューター prosecutor )が、逮捕をするのか、信じられん国だな」と驚かれている。世界基準では、犯罪の捜査(インヴェストゲイション)と 、容疑者の逮捕(アレスト)は、警察官(ポリス)がする。
日本は、特殊な国で、検察官にまで、捜査権と、逮捕権を与えている。
普通の近代国家(モダーン・ステイト)だったら、検察官(けんさつかん)は、
国家の代理人として、容疑者を裁判所に起訴(きそ。インダイトメント indictment )するのが仕事だ。
日本は、国家制度 自体 が、歪(ゆが)んだ、歪(いびつ)な国なのだ。まさか、そんな、と 思うなら、自分で調べてご覧なさい。
カルロス・ゴーンは、奥さんと、広中淳一郎(ひろなかじゅんいちろう)弁護士と、これから、正当な闘いをするだろう。
私は、カルロス・ゴーンを応援する。 副島隆彦 記
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/ きかんしゃトーマス
量子の世界では偶然があるかどうか というお話でした それより重力とかいう作用のしくみ解明してくれ
地球の底に引っ張られつつ宇宙の果てに引っ張られてるこの現状を
なんも触れられていないのになんで引き寄せられるのか >>502
電子の世界からみれば
電子(同一の2個の電子)がペアで±Lの位置で観測された
という事実になる
我々の世界からみれば
最初の電子が+Lの位置で観測され次の電子が−Lの位置で観測された
という事実になる
電子の世界は{x 、 x}≠{x}という物理法則で
我々の世界は{x 、 x}={x}という物理法則だ
互いに物理法則が異なるので
電子と我々とでは観測的事実もことなる
どちらも自分の物理法則にしたがった観測事実になっている
電子からみれば
最初に観測された電子とか
次に観測されて電子とかの区別がつけれないんで
電子(同一の2個の電子)がペアで≠Lの位置で観測されたということが事実になる 我々の世界でみた場合
最初の電子が+Lで観測された場合でも
残った電子は観測される方向がランダムになるはずだ
ということになるが
残った電子が単独で観測される方向がランダムという性質をもっていると言うのは
我々の物理法則であって
電子の物理法則ではない
電子の世界の物理法則で
電子(同一の2個の電子)はペアでランダムな方向で観測されるということで
1個の電子が個々にランダムな方向で観測されるということではない
ということで最初に観測された電子が次に観測された電子に影響を与えるという因果律ではなく
同一の電子2個はペアで物理的法則とか物理量をもってるということ 光速で一秒かかる厚さのコインをコイントスして上が表だったら下は瞬時に裏が確定するみたいな話だろ 光の速さは距離と時間の比率なわけでしょ。
人類が計測できた0に一番近い距離と時間ってどれくらい? >>62
その辺の書籍で高卒文系におすすめできるものってある? >>122
ソロバンだろ、昔日本光学が似たようなことやってたw 決定論では人を褒めも責めもできん。
非決定論では人を許し受け入れられん。
だから勝ち組は非決定論者が多い。これマメな。 この世界は本来、情報のみの世界
そこにシュミュレーションで相対と分離の空間の概念を作り出した
リアクター世界 時間と空間は空気のように存在するが原因などというバカらしいものは存在しない
マイクロ空間では時間がほぼ流れずエントロピーが維持されるのだからな
意識は量子もつれを利用して生まれ自由意志などは存在しない >>48
因果律がどっかで途切れてるのではって話やろ
すべての情報があっても、一連の作用というのを、それ以上遡れない状態 隠れた変数が本当に無くて、人類が波動関数の収縮として近似している量子の振る舞いが実際に最も根本的な物理現象であるならば、
物理現象は本質的に、数学で表現できる関数とは違って、遡行が不可能だと言うことになる。
このへんがはっきりすれば時間の矢問題とかもケリがつくんじゃねえの? >>531
そもそもがこの世界が人間の理解できる理論で全て記述できると思う方が間違いなんだよ
そういう理論はそれ自身で矛盾を内包している 宇宙空間で観測者から見て静止する矢Aと慣性で動く矢Bがあるとする
この観測者は時間を止める能力がある
観測者が時間を止めるとAとBは静止して見える
この時、AとBの状態に差違はあるだろうか?
次に観測者が時間の流れを元に戻すと、
Bは再び慣性に従って動き出すだろうか?
Bが再び動き出すとしたら、その情報やエネルギーはどこに保存されていたのだろう >>533
ゲーデルの不完全性定理は自然数論を含むという前提だから、自然数論を含まなければ問題ない。有限の数だけ扱えばいい。 >>536
速度は存在しないっていうレベルの屁理屈
交通事故は起きてる 超弦理論は10次元だかを前提に構築されてるが
その隠れた次元はミクロの世界にあるとかなんとか
量子もつれの影響し合う力もミクロ世界の別次元上で相互作用してたりしないのかね 四次元は宇宙空間だと理解できたけど
じゃあ五次元はどこの事か?
ちょっとよくわからないけど、人類には四次元空間が用意されてた 地上では重力のせいで上か下か高いか低いかが決まる
宇宙では上も下も、高いも低いもない
見る方向が選べるから3次元でいうところの高さの概念を飛びこえられる この問題は解決済だ。
別名:「Einstein=」Rosen=Podolsky paradox」
https://kotobank.jp/word/EPR%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-1611241
隠れた変数理論は間違っていた。
よって、「物理学の根本に、より違いのは、量子力学だ」となった。 シュレディンガーのネコ処刑装置に死んだネコを入れたら蓋を開けても死んだネコしかいない。 あのさ、数学なんて不自由なツールを使っている限り解明はできんのだよ もともと、西欧には、「イデア」(プラトン)という仮説がある。
この仮説とは、
「実は世界は、極めて単純であり、現実の世界が複雑なのは、
この世界が、そういった単純な世界の影だからだ」という仮説だ。
量子電磁気学で、反粒子(陽電子)を理論預言したときも、
「数学的に美しいから、反粒子のある理論は正しいだろう」と理論家は言った。
言い換えるなら、
「この世界の本質は『数学的に美しい世界』であり、
現実の世界が複雑なのは、この世界が、『数学的美形世界』の影だからだ」ということになる。
無数に考えられる理論から、超弦理論や超対称性理論が、熱心に選ばれるのは、
こういった理由があるのでは?
しかし、この世界の本質(物理法則)が「我々人間の脳にとって美しい?」「数学的に美しい」必然性はあるのだろうか?(プラトンのイデア仮説)
もともと、物理学の源流は、キリスト教の光学だとも言われる。
つまり、聖書にある「まず光があった」などの記述に基づいて、
光を研究すれば、この世界が神の御意思に基づいていることが自ずと示されるはずだ…から始まった、とも言われる。 神の意志は宗教革命で敬遠しただろ。
人文「「科学」」の「神の見えざる手」はわかりやすい。 「シュレディンガーの猫」のパラドックスでは、思考実験で本来、毒ガス室(アウシュビッツ)送りにされるのは人間だったはずだ。
つまり、当時、「観測問題」というのが議論されていた。
「どこまでが量子力学の支配する微視的な領域で、どこからが古典物理学の支配する巨大領域なのか?」という議論だ。
で、量子力学的な微視的領域の量子力学的な事象を、巨視的な領域まで拡大させたのが、「シュレディンガーの猫」パラドックスだ。
猫にとっては、毒ガスが放出されるかどうかは、既に決まっている。
しかし、その猫を観測する人間にとっては、毒ガスが放出されたかどうかを知るのは、箱を開けたときだ。
当時、観測問題を決定するのは、「人間の意識に届いたときが観測だ」としていた。
で、猫を人間に置き変えると、では、毒ガス室の観測が終わるのはいつ?となる。
中の人間にとっては、観測は済んでいる。
でも、箱を開ける人間にとっては、観測は箱を開けたときだ。
EPR(量子もつれ)に置き換えてみよう。
STEP1:毒ガス装置と猫の状態が量子もつれの状態になる。
STEP2:猫の状態と、箱を開けて猫の状態を知る人間の意識の状態が量子もつれになる。
換言すれば、「観測者(人間Aの意識)と量子現象Bが量子もつれの状態になること」を、
「人間Aが量子現象Bを観測した」と呼ぶのだろうか?
「観測装置Aの状態と量子現象Bが量子もつれの状態になること」を、
「観測装置Aが量子現象Bを観測した」と呼ぶのだろうか?
となると、
量子もつれの状態に陥った「観測者(人間Aの意識)と量子現象B」の組み合わせは無数にあるかもしれない、
量子もつれの状態に陥った「「観測装置Aの状態と量子現象B」の組み合わせは無数にあるかもしれない、
量子もつれの状態に陥った「「宇宙Aの状態と量子現象B」の組み合わせは無数にあるかもしれない、
これを「多重世界論(並行世界論)」と呼ぶのだろうか? >>547
デカルトやカントなど哲学者は、真摯なキリスト教徒だったから、
「この世界を『聖書から導出しよう』」と挑戦した。
なぜ、人間同士の感覚が似ているかは、「聖書から導出する」のは難しいが、
「人間同士が、同じような物質から出来ており、また、人間同士が同じような遺伝子から、似たような設計で作られ、
人間同士の脳の構造も似ている」といった唯物論的な前提から、人間同士の感覚が似ていることを導出するのは簡単だ。
科学や物質論、唯物論を前提とした議論と、
聖書から世界を導出しようとする神学的な哲学とは違いがある。 普通に、カエルを唯物論的に物質的に眺めれば、「アマガエルAとアマガエルBが似ている」というのは当たり前に感じるが、
聖書から神学的に導出しようとすると、「アマガエルAとアマガエルBが似ている」ということを証明するのは難しい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています