【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1539843173/ >>226
本当に何にも知らないんだな
遺構と言っても発掘の状況からいつ埋められたのかはっきりしていないのが事実なんだよ
多くの土器が一緒に道路の側溝に捨てられててその中に畿内式の土器があったというだけ
その遺構がどの時期に掘られ埋められたのかは学者にも正確に分かってない
あと庄内式は関係ない
福岡から見つかる祭祀の土器は庄内式土器ではなく
形から布留式と同時期に大和に広まる土器だと分かってる
だから福岡に広まるのであれば確実に4世紀以降の話になる >>222
>例えば福岡で早期に見つかる畿内式の土器は
>道路の側溝に捨てられた形で見つかっていて大事にされたものではない
「例えば」で適当な一例だけ挙げて、何かを言ったつもりになるのは典型的なチェリーピッキングw
発掘記録の集成で、60ページを超える論文の論旨を、そんな薄弱な根拠で覆せると本気で思ってるのだとしたら
イタイを通り越して気の毒な人
まあ、確信犯的にとにかく反論したいだけの人なのだろうけれど >>227
>多くの土器が一緒に道路の側溝に捨てられててその中に畿内式の土器があったというだけ
だからその結果が久住編年だろが
何をトンチンカンなこと言ってるんだ
久住IB期に布留式は1つも出てない >>224
>魏志倭人伝には九州の地名しか出てこない
>もし大和国(奈良)まで行ってたのだとしたら、
>それより西にある出雲国や吉備国に関する記述がないとおかしい
そんなことはないだろう
出雲と大和が、国名としてはっきり書かれているじゃないか
投馬国 上古音でdug-mag 出雲国五万戸
邪馬台国 上古音で(g)ia[v]g-mar-t`(e)g 大和国七万戸
吉備は日本海経路だから出てこない >>225
>九州の太陽祭祀に憧れて
それの根拠は?
頼むから平原遺跡とか言うなよww >>228
>>229
もう無知すぎて笑いが止まらん
佐々木氏の論文じゃなくて遺跡本体の調査の方をきちんと調べろよ
そもそもどの遺構がどの時代のものかは専門家の判断でも分らず保留されてる
しかも布留式土器と一緒に出てきたとか誰も言ってないし
ただ福岡の祭祀土器が大和より早く広まることはないだろうといってるだけ >>232
>どの遺構がどの時代のものかは専門家の判断でも分らず保留されてる
不利になったら、分からない、決まってないに逃げるww
チェリーピッカーは気楽な稼業と来たもんだww >>232
>ただ福岡の祭祀土器が大和より早く広まることはないだろうといってるだけ
つまり、福岡が畿内の祭祀を受け入れているというのがはっきりするだろ?
祭政一致の時代に、だ
そして、土器様式と絶対編年の定点として、纏向遺跡の祭祀土坑で出土した
桃核の14C年代測定法で「西暦135〜230年」という値が出たというのが
このスレのスレタイ >>234
現実を直視できない哀れさが悲しいな
大和に4世紀に広まる土器が3世紀に福岡に広まると言いたいんだな
纏向遺跡は弥生後半から古墳前期まで続いてるから
その時代近辺のものが出てくるのは当たり前の話で出てこないほうがおかしい
結局桃の種が邪馬台国には何の関係もないのが笑いどころ >>232
だから久住編年だと言ってるだろ
専門家がどの時代かわからないと言ってるのはおまえと安本一派だけだよ >>158
菅原道真の祖先はアメノホヒノミコトです 倭国の天孫降臨族です
倭国は700年に滅びましたが 万葉集には僅かな歌しか倭国の歌はありませんが
菅原からは僅か200年前のことです 倭国の歌を調べ賛美しましたが これが朝鮮人フジワラの気にいらぬことで
左遷の理由となりました
奈良の歌へと改竄された歌の一例
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜■(りっしんべん+可)國曽 蜻嶋 八間跡能國者
山根には群山あれど とりよろう天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は煙たちたつ 海原はかもめたちたつうまし国ぞ浜との国は
此の歌でで明確に解るのは奈良にかもめのいないことだが なんでもならの狂信者は 大阪湾から飛んでくるという
事実はカグヤマは別府鶴見岳 かもめと湯煙を詠んだ倭国の歌
奈良盆地の香具山は単なる丘にすぎない >>235
>現実を直視できない哀れさが悲しいな
>大和に4世紀に広まる土器が3世紀に福岡に広まると言いたいんだな
纏向遺跡で「西暦135〜230年」の桃核と、「同じ祭祀土坑で出土」する土器と
「同じ様式の土器」が九州で出るっていう話だよ
まあ、頭の悪い人に説明するのは大変だ >>238
それで何が判断できる?
ドイツ車に乗ってる人はドイツ人だ、と言ってるような事になるんだけど、本当に自分ではおかしいと思わないのか?
社会に出たことあるのか? >>238
同じ様式の土器が見つかったんだ
良かったね僕ちゃん
さすが畿内説信者はアホだな
いつまでも笑わせてくれる 今日複数IDで暴れてた九州説は精霊流し厨
すぐ火病るからわかりやすい 継体天皇が筑紫磐井の乱の時、討伐軍の物部麁鹿火に「私は本州をとるから九州はお前の好きにしろ」
と言ったとある。
知っての通り、物部氏は九州未納山麓に本拠を置いたニギハヤヒの尊の子孫だ。
ということは高天原は九州にあったことになり、伊都王国の墳墓から数十枚の巨大な仿製鏡つまり
八咫鏡が発見されたことといい、邪馬台国近畿説は無理筋だと言うことだ。 >>239
「同じ祭祀土坑で出土」する土器と
「同じ様式の土器」が九州で出る
つまり、北部九州と畿内とは、祭祀様式を共有している
そしてその時期は、同時出土の桃核の14C年代から、
「西暦135〜230年」だと分かる
ごく簡単な形式論理で理解できるだろ? >>242
>八咫鏡が発見された
これがいい加減な話で、昭和の時代に原田大六氏が「そう思った」だけ
伊勢神宮の八咫鏡とは、大きさも異なるし、縁もゆかりもない
それから
「数十枚の巨大な仿製鏡つまり 八咫鏡」
これも大間違い
数十枚出ているのは方格規矩鏡であり、20センチ前後のもので特に巨大ではない >>243
で、邪馬台国に関する記録の中のどこに該当するのか?
論理的という意味がわからない?
論文とか書いたこと無いの? >>243
福岡で見つかる祭祀用土器は大和で4世紀に広まるものと同型なんだよ
4世紀以降なら大和と共有していることになるだろうが2〜3世紀はありえない 正史によると、倭国には青珠があるとか、台与が大きな青珠を献上したことがあるなどと書かれているでしょ。
これが翡翠だと思ってたが違うんだね。
https://imgur.com/a/LqcnDMV >>243
畿内が九州土器を祭祀に使っていた
↓
畿内は九州の祭祀を取り入れた
古墳時代の畿内では石棺や敷石に阿蘇石が使われていた
↓
古墳時代の畿内では九州式の埋葬方式が採用されていた
ときどき九州王朝説が生まれてくるのも納得でしょ 九州説ってどいつもこいつも最後は同じ行動パターン
火病るか捨て台詞吐くか >>246
新羅本紀によると173年時点で卑弥呼は既に女王になってるからねえ。 >>247
ガラス質かな。
鋳型も見つかってる。
そうした文献と現物の照らし合わせが皆無な畿内説というのは何なのだろう?
少なくとも学者としては恥ずかしいレベルだよな。 九州説のやつらにとっては考古学は信用できないが、三国史記は信用できるらしい
おもしれー >>246
>大和で4世紀に広まるもの
何度も書いてくれてるけど、これが大間違いなんだからどうしようもないw >>245
>で、邪馬台国に関する記録の中のどこに該当するのか?
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬戸
ここだよ
古墳時代はその最初期から、列島の広い範囲の祭祀連合
この図の網掛けの範囲が、倭国の範囲
https://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/EFBCABEFBC95E7BA92E59091E59E8BE5898DE696B9E5BE8CE58686E5A2B3044.jpg
そしてこれが、卑弥呼の時代と重なるんだから、この倭国の中心が王都・邪馬台国だろ 北部九州があるあると言っている鉄も絹も鏡も全部古いもので、
紀元前から2世紀までくらいのものばかり
肝心の3世紀の北部九州は、かつて出ていたものも出なくなっている
そして、魏志倭人伝に書いてあるように、伊都国、奴国は邪馬台国とは別の国
北部九州で、伊都国、奴国をはずすと、鉄も絹も鏡もほとんど出ていない
お笑い九州説w >>255
魏志倭人伝はいつの話かと問いたい。
倭国大乱やら金印を貰っただなんてのは、まさに2世紀だよな。 >>253
福岡で見つかる祭祀用土器の型は庄内期の大和からはほとんど見つかってない
布留期までくれば多く見つかるけど >>212
それ確定じゃん。
第三者的立場の外交官がそういっている以上、邪馬台国=初期大和王権は確定してんじゃないの?
うそをつく理由はないでしょ。 >>259
でもな、九州王朝説にかかると、裴世清が訪ねた倭国も九州倭国ってことになるらしいよ?
不思議だよなww >>255
九州は、卑弥呼の時代から衰退が始まってるのだから、
邪馬台国が九州なわけが無いのよね。 >>259
そもそも隋は魏じゃないんだぞ
てか、別に魏だったら魏で嘘をつく必要はないが
大和朝廷が使者にウソを教える可能性はあるけどな >>209
そうだろうな。
口伝で伝わってるという前提で
大和が邪馬台国なら
日本書紀にはっきり書いてあったはずだ。
ところが日本書紀にはそう書いてないのだから、
邪馬台国と大和朝廷は別物だったと見るしかない。
というか、魏の使者が滞在したとはっきりしてる
対馬や松浦とかなら記紀のあらわされた当時も
口伝で邪馬台国がどこか知られてたろうし。
記紀にない以上、やはり大和朝廷とは無関係と見た方がいい。
記録に残せなかったであろう大和朝廷以外の地が邪馬台国だ。 >>263
>日本書紀にはっきり書いてあったはずだ。
日本書紀は、卑弥呼は神功皇后だと暗示している。 >>263
記紀の前の裴世清の時代に邪馬台国は大和となっているんだから
記紀が何かを隠したとか嘘をついたとはならんぞ
九州説の好きな陰謀論をとるなら、裴世清が来る前じゃなきゃダメだ 邪馬台国が九州にあったとしたら、口伝や文書に何か残ってないの? >>224
それじゃ「好古都国」は九州の何処なんだ。
教えてくれよ、エロい人 >>267
昔は「博多」だと思われてたみたいだが、その後の研究で否定された。
九州説も同じ運命だよ。 九州説の陰謀論では、魏の年号が入った紀年銘鏡もヤマト政権が魏と国交があったと偽装するために
後世になってから作ってばらまいたというストーリーなんだろ?
それなのに記紀は偽装したようには書かれてない
畿内説の物証を認めたくないから九州説は陰謀論を唱えるが、結局いろんなところで矛盾してしまうw この時代、海の底から干上がって間もない福岡平野と筑紫平野は
人が住めるような状態じゃないだろう。 紀元前ニンポー台湾琉球から九州北部へ侵略した天孫降臨族は 最初の拠点を糸島においた
次がクシフル日向峠を東に越えたヨシタケタカギへ此処がニニギの墓 次に東南へ移動し今の
春日市スクオカモト 此処がヒミカの墓 次に東南へ移動し太宰府トトクフへ此処が倭国の五王
の拠点 以後700年まで倭国として続いた >>237
「加萬目」kam「a」nmeカマメを「カモメ」と読む根拠は何?
単なる現代語からの類推でしょ。
カマメは未解決の謎の言葉。
現代語の「鴎カモメ」とは異なる水鳥というのが現代的解釈。 なぞの言葉? 君はどう読みたいの カマメという鳥は奈良にいるの 訕笑 アベノナカマロが日本へ戻らなかった理由
現在の福岡県春日市で育ったナカマロ 生まれた当時は倭国だったが 700年以降奈良政権の日本となった
其の日本の遣唐使として唐へ赴く途中 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも と詠む あまのはらは壱岐でそこよりはかた方面を望めば故郷のかすがのみかさ山(ほうまんざん)800mの上に月が見える
あべのなかまろは日本での倭国消滅を憂い戻る気をなくした >加萬目立多都
「都」が「立ちたつ」の「つ」を表記する万葉仮名だから
古今東西南北の支那語方言の「都」の発音と比較すると
昔の日本語の「つ」はtu、現代風に書けばトゥという音であったことが分かる。
これは「土器の編年」と同様、「日本語発音の編年」と呼んでもよいものだ。 倭国の地名→奈良の地名
是を理解出来ない人が
逆の誤った思考に落ちて
年表作成が出来なくなります
現在の教科書が好例 実を言うと、邪馬台国は現在の琵琶湖の中にありました
現在では水中に沈んでしまっているのですが、
有識者の間で意見が分かれているそうです
ここだけの話、信長が安土城を築いた地のすぐそばに邪馬台国の遺跡はあるのです
信長はその遺跡を天守閣から眺め、さぞ喜んでいたそうです
家康の陰謀で、江戸初期に湖畔にあった遺跡丸ごと沈められてしまったようですが
ここだけの話、誰にも言っちゃだめだよ >>133
書いてないよ?
古代漢語読めない人かな? 応仁の乱の頃は室町幕府が実権を握っていたが
100年もすると安土桃山時代になり、その数年後には江戸幕府が開かれる
乱世の邪馬台国とかせいぜいイヨの時代まで
狗奴国あたりに滅ぼされてるよ、その狗奴国も
大和に滅ぼされたと思うよ 前非後円墳は「勃起したチンコ」の形をしている。
「稲妻」という言葉があるように雷が妻で、台地が夫という概念があった。
雷(妻)を勃起した前方後円墳(チンコ)に落雷させて
生まれ変わりの儀式を行うのが前方後円墳である >>264
だから、「はっきり」書いてない訳だ
>>265
大和朝廷なら大和朝廷に
口伝として伝わってたんじゃないの?
>>266
九州だった場合、大和朝廷に
にらまれて残せなかったんだろうな
(大和朝廷にとっては日本書紀の歴史が公式だから) 2回も内乱があったわけだし、
どちらかの時に亡命政権が畿内に正当性を主張しながらできたんじゃね? >>283
>九州だった場合、大和朝廷に
>にらまれて残せなかったんだろうな
どうして九州説はこういう陰謀史観的な思考の嵌まるんだろう?
実際には大和朝廷側から各地の歴史を書き残せと言って、風土記を編纂させているし
出雲の風土記を見ても記紀とはまったく合わない世界観で堂々と書いてるのにな >>285
吸収派の近畿、大和コンプレックスは半端ない。
吉野ケ里歴史公園も奈良県田原本の唐古・鍵遺跡出土の物見櫓(楼観)を描いた
線刻画をパクって物見櫓を丁稚揚げている >>279
>>130は>>26の言う桃の種ガー爺さん>>234 etc.だろ
前スレであれだけ指摘されても見当違いの佐々木論文を出してくる(佐々木先生激怒だわ)
都合の悪いレスにはホッカムリでパスのご都合主義
反省力パー旧態依然で読解力パーのボケジジイだよ 大和地区=邪馬台国を唱えるなら文献的には可能性はあるが、その考古学的遺構が問題
実証するならば事実が必要だが…それが畿内説は弱い
特に3世紀前半とそれ以前
倭人伝によれば、卑弥呼より前にも倭国には王がいたし、国もあった
ではその地域はどこだ?
九州説だと卑弥呼以前から王墓と思われる墓があるからどうとでもなるがね 鳥取の青谷上寺地遺跡で殺傷痕のある遺骨が大量に見つかっている。
その後、一気に古墳時代が始まる。
これが新たな畿内政権のはじまり。
日本海側から流入した後期渡来人によって開かれた政権が大和王権のはじまりということだ。
対馬壱岐経由だけでなく、日本海を直接渡ってきた渡来人もいることを忘れちゃいかんな。
馬が流入した痕跡は畿内が最も多い。
箸墓もこの渡来人たちが構築したと思われる。
馬があったからこそ、勢力も文化も一気に拡大できたと考えなきゃ、拡散速度を説明できない。
馬を知らない畿内先住民はそれを大きな鹿だと思っていた。
奈良に残る鹿崇拝の源だ。
神が鹿に乗ってやって来たという言い伝えが残っている。
邪馬台国?
邪馬台国とは、半島責めに明け暮れていた九州北部のこと。
大和王権との直接的関係は無い。
九州と畿内の間には秦王国もあったんだよ。 >>289
>奈良に残る鹿崇拝の源だ。
なにそれ?
聞いたことないなあ。 一世紀の大和になんか出てるの?
C14が事実ならそのまま少し時代が古くなっただけで九州→奈良の順で文明が移り変わる流れは変わらないような C14が噂通り100年の誤差が出るなら
何も変わらない |┃三 ガラッ
|┃
|┃/  ̄`Y  ̄ ヽ
|┃ / ヽ
|┃/ // / i i l ヽ
|┃/// ./ l | | | | ト、 |
|┃|| i/. ⌒ ⌒ | | 芸能人が吹き替えに
.――‐|┃|| | (●) (●) | 挑戦というのは許せないという気持ちが分かるので
|┃|| | .ノ )|⌒)
|┃|| |ヽ、_ ▽ _/|ノ /
(⌒ヽ・ ・ ̄ /
|┃ノ /
|┃ つ <
|┃ ((i)) ヽ
|┃/ > )
|┃ (__)
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|┃/// ./ l | | | | ト、 |
|┃|| i/. ⌒ ⌒ | | 私の顔が思い浮かばないように
.――‐|┃|| | (>) (<) | ナチュラルな吹き替えを心がけた
|┃|| | .ノ )|⌒)
|┃|| |ヽ、_ ▽ _/|ノ /
|┃ヽ・ ・ ̄ /
|┃ \ ,.:∴~・:,゜・~・:,゜・ ,
|┃ヽ_)つ‘∴・゜゜・・∴~・:,゜・・∴
|┃ ((i)) ヽ ・゜゜・∴~゜
|┃/ > ) ゜゜・∴:,゜・~
|┃ (__) :,゜・~:,゜・゜゜・~ >>287
>都合の悪いレスにはホッカムリでパスのご都合主義
都合の悪いレスなんて一つもなかったぞ
チェリーピッキングの悪質な捻じ曲げレスならあったけどな
これが、佐々木先生の考えを端的に示した図
https://i.imgur.com/UEbPu6i.jpg
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 より引用
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf >>290
>>奈良に残る鹿崇拝の源だ。
>なにそれ?
>聞いたことないなあ。
この前に、馬に関する言及があって、合わせて「馬鹿」って話だよww >>291
>C14が事実ならそのまま少し時代が古くなっただけで九州→奈良の順で文明が移り変わる流れは変わらないような
文明は移り変わってないよ
弥生時代はかなり長い期間、文明的には変化がない
まあ、3世紀に入る前の時点で>>291の言う「文明の移動」があったなら、
「邪馬台国畿内説がFA」で終了ってだけだがね 奈良の鹿なら鹿島→春日大社のながれでは。
個人的に鹿は狩猟の対象ではなく水属性の航海の神だと思う。
銅鐸の線画も稲を含む方策についての祭祀というより航海の安全に関係あるんではなーと思ってる。
鹿は海を渡るんですよ。 >>297
捏造
大和王権程の強固な政権が
何の戦争も経験せず
一世紀以前から邪馬台国として存在して
そのまま大和になったなんてあり得ない
邪馬台国は大和王権に移り変わるまでの数ある文明の一つにすぎん、それが戦乱の無い畿内にあった訳がない
仮説1 九州で戦乱を経て打ち勝った勢力が新天地を求めて畿内へ移動、大和王権になった
仮説2 九州で中央政権と対立した勢力が独立政権を作るため畿内へ移動、大和王権になった
仮説3 九州の戦乱で破れた勢力の残党が追ってを逃れて畿内へ移動、そして大和王権になった
この三つしかない >>299
>大和王権程の強固な政権が
>何の戦争も経験せず
>一世紀以前から邪馬台国として存在して
>そのまま大和になったなんてあり得ない
誰もそんなことは主張してないんだが?
脳内畿内説と闘うのをやめたら楽になれるんじゃないかな
ぞれから、「文明」って言葉の使い方、おかしいよ
「イスラム文明」とかいうレベルの言葉だから >>299
>それが戦乱の無い畿内にあった訳がない
これ、根拠なしのきめ付けだって気づいてるか? まともな学者はみんな畿内説なのに
ここの知的九州障碍者は何言ってんだかw >>298
>奈良の鹿なら鹿島→春日大社のながれでは。
何故か渡来人であることを嫌うからそういう事にしてあるのさ。
現地奈良では渡来の話はタブー扱いされたよ。
理由も言わずに、言うなと釘を刺された。
釈迦が鹿に乗ってやって来たなんて話も聞いた。
日本の歴史の場合、口伝の方が正しいかもしれない。 ID:WMqz4mJAは精霊流し厨
すぐ火病るのと捏造が得意なのが特徴 邪馬台国大虐殺があったので、九州の邪馬台国遺跡は残っていません。・ 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北部九州の国より南側にあること。
また、記紀には元伊都国王や元奴国王が北部九州征伐に行った仲哀天皇に降伏して、玉や剣など
先祖伝来の神器を仲哀天皇に差し出したとの記述があること。
すなわち邪馬台連合構成国だったこれらのクニグニはこの時点(4世紀半ば)で初めてヤマト王権
に服属した(若井敏明:邪馬台国の滅亡) 喜べ、九州患者
邪馬台大虐殺を取り入れれば、万事解決するぞ。 邪馬台国と大和王権は全く関係ない
一時力を持っていた九州の一勢力に過ぎん
「氵眞」と言う古代王朝跡から九州の金印と同じタイプの物が見つかってる倭国はたぶん「氵眞」
同族じゃないだろうか、恐らく邪馬台国もテンの子孫 >>306
北部九州の南にあって古代の史跡が残るのは筑後平野
筑後平野の祭祀と言えば高良山だな
竹内宿禰や物部氏の伝承も多い場所だ
北九州の前にまずここが近畿ヤマトと同盟を結んだ可能性があるね
その後大宰府を北上し九州北部攻略か >>302
は?まともな学者は日本でも中国でも
畿内は無いと言ってるが >>306
だから、魏志倭人伝の時代に伊都国通って半島と行き来したってのは怪しいよな 大和王権の起源については、別途再調査が必要だということだ。
山陰、滋賀、福井などの遺跡の変化と照らし合わせながらな。 >>312
大和王権を邪馬台国だと決めつけてるからそういう無理な話になっちゃうんだよね。 >>306
仲哀天皇が伊都国って名前をつけた話ね
それが事実だとすると
あれれー、おかしいぞー
大和の傘下になる前は伊都国じゃなかったてことだよね
魏志倭人伝には伊都国って書いてあるよね
どういうことだろう そもそも邪馬台と大和のファッションが違うだろ、別の民族だよ 邪馬台国=ヤマト国=大和国
議論以前の常識だろ
ここは狂ってるのかな >>318
当時の記録が中国にしか残ってなくて、それを見ると邪馬台国が九州になってしまうから
議論が続いてるんだけど。
魏志倭人伝なら学校で習ったことあるよね? >>318
もっとも知的レベルの低い見識だ
魏志倭人伝を1000回読んでから出直して来い ヤマトと奈良を呼び始めたのは700年以降かな
日本列島の古より列島を支配してきたと思いたい
奈良一元主義者のイデオロギーで古代よりヤマトという呼称が奈良だと妄想した産物
其の妄想がWW2で日本を亡国の憂き目に合わせた >>319
>当時の記録が中国にしか残ってなくて、それを見ると邪馬台国が九州になってしまう
何だこれ?w
どこにそんなこと書いてあるんだ???
先入観で脳ミソ凝り固まってるんだろうけど
>魏志倭人伝なら学校で習ったことあるよね?
もう学校でも邪馬台国は畿内が有力と習うようになってるんですがw
九州爺さんたちの知識が古くて乏しいだけだよ >>321
地域豪族が集まって出来た連合大和政権だろ
対抗勢力は連合倭国、半島勢力、そして魏だ >>321
最後の1行、イデオロギー被れのこじつけ糞ワロタ キンキキッズは煽るだけで、だんだんレベル低くくなってきたな 素人目に見て纏向は大きな国があった証明にはなるけどそれが邪馬台国ってはならないよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています