俺の考えはこうだ

卑弥呼以前から機内勢力は銅鏡などの輸入を経て九州文化と祭祀への憧憬を描いていた
そんな九州で盛んな太陽祭祀を奈良に落とすために流通の要である伊都と那古国を制圧し流通を抑えた
庄内式土器の普及はそんな経緯が見て取れる

だが祭祀の源流である筑後以南の倭国を制圧できなかった
この辺りは当時から聖域であり吉野ヶ里はその一部
というより目的は憧れであるここの太陽祭祀を奈良に移転させることではなかったかと思う

それで近畿と九州ともに擁立されたのが卑弥呼であり連合国をヤマトとした

だが卑弥呼は奈良行きを拒み引きこもり
八女津媛の伝承と祇園山古墳がそれにあたる可能性がある

そんな時期にヤマトは連合の基盤固めのために魏に朝貢した
卑弥呼の在地である筑後平野を女王の都とした

その後太陽祭祀は整備され唐古で祭祀具の生産を、巻向で祭祀が進められた

天照が伝説な理由は、奈良の人々がそんな祭祀の源流を忘れ自分達の発祥と見当違いしていたからだ