【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1539843173/ >>165
それはお前の勘違い。
土器の普及と勢力圏とは関係ないから。
たとえ断交していても交易は続くからな。
畿内はまず、銅鐸文化が消えた理由を調べるべきだよ。 >>168
>土器の普及と勢力圏とは関係ないから。
土器をお茶碗か何かと同一視してるだろ?
庄内式土器には精製器種と呼ばれる祭祀用供献土器が含まれている
それを受容してるってことは、畿内様式の祭祀を受け入れてることを意味する
祭政一致の時代に祭祀を受け入れるというのは政治的な一体化がなされたってことだ >>166
わずかに出るぐらいでは交流があったとは言えない
間接的に入ってきた可能性の方が強い
>>167
その畿内の力を持った勢力とは?
遥かに博多湾以上に発展している地域があったのか?
3世紀前半はまだ遥かに博多湾岸の方が文化的に優位なんだが
鉄も鏡も大陸由来の品物もな
北部九州は交易権を握っているので、立場はかなり強かっただろう >>169
だからあ、祭祀とかもどうでもいい話だろ?
邪馬台国探しというのは、文献に記録されているものを探すことなんだよ。
土器の仕様や前方後円墳についての記録が何処にあるんだい? >>172
当時の倭人は呉の後裔と言っているからどちらかというと中国人だね。
現代でも難民が長崎あたりに流れ着くから、そのルートで渡来した民族だろう。 俺の考えはこうだ
卑弥呼以前から機内勢力は銅鏡などの輸入を経て九州文化と祭祀への憧憬を描いていた
そんな九州で盛んな太陽祭祀を奈良に落とすために流通の要である伊都と那古国を制圧し流通を抑えた
庄内式土器の普及はそんな経緯が見て取れる
だが祭祀の源流である筑後以南の倭国を制圧できなかった
この辺りは当時から聖域であり吉野ヶ里はその一部
というより目的は憧れであるここの太陽祭祀を奈良に移転させることではなかったかと思う
それで近畿と九州ともに擁立されたのが卑弥呼であり連合国をヤマトとした
だが卑弥呼は奈良行きを拒み引きこもり
八女津媛の伝承と祇園山古墳がそれにあたる可能性がある
そんな時期にヤマトは連合の基盤固めのために魏に朝貢した
卑弥呼の在地である筑後平野を女王の都とした
その後太陽祭祀は整備され唐古で祭祀具の生産を、巻向で祭祀が進められた
天照が伝説な理由は、奈良の人々がそんな祭祀の源流を忘れ自分達の発祥と見当違いしていたからだ >>170
3世紀にはすでに纒向を中心とした勢力の方が文化的にも優位
当然北部九州から対馬壱岐を確保、外交権を独占していたのも纒向勢力 >>146
それな
ww2のことを調べさせないようにするために騒いでるだけやろこんなん 個人の妄想など、考古学の前ではどうでもいいこと。
邪馬台国は奈良。 >>171
>邪馬台国探しというのは、文献に記録されているものを探すことなんだよ。
ヨコだが一言
文献に書かれているものをどうやって文献だけで探すんだよ?
物証と突き合わせるしかないだろが
文献には30ヶ国の連合とあるが、祭政一致の時代なんだから祭祀の観点で30ヶ国の連合を探るのは有力な方法だろ
実際、後世その祭祀連合を発展させて、日本は統一されたんだ
日本の古代史を根底から否定しようとしてるが、それならきちんと根拠を示せばいいだけ >>168
>畿内はまず、銅鐸文化が消えた理由を調べるべきだよ。
おまえが知らないだけでとっくに解明されてる。 タウポ火山の大噴火が181年と判明したのでだいぶ解明してきた。
※金印が重要で 、「漢委奴国王」を初代天皇として数えていたとすると年代が合う。
西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦181年 ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 (『後漢書』)
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 (『後漢書』)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。(『新羅本記』)
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。首都が筑紫から宗教色の強い大和に移った >>178
それをいくら語っても邪馬台国との直接的な関係は示せないということ。
つまり、どこまでいってもフィクションを語ってるだけに過ぎないということ。
鉄の矢じりを使っていると書いてあるなら鉄の矢じりを探せば良いだけ。
まず文献に記述されているものを多数かき集めてから、推測と関連付けなきゃ確度は得られん。
これ学問の基本だろ。
研究者には学が無いのか? >>180
新羅本紀の3世紀以前は中国の記録を参照しているのか、わりと信憑性高いぞ。
当時は残存している正史以外の記録も多数参照出来たんだろうね。 >>181
文献には30ヶ国の連合に伊都国や奴国が含まれているとある
畿内説側は、伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っているのを物証で示した
これを30ヶ国の連合の有力候補だと認めないというのは、イチャモンつけてるだけのこと
最低限、伊都国や奴国が九州邪馬台国連合とやらの傘下に入ってる証拠を出してからイチャモンつけてくれ
畿内連合の証拠を上回るものをな
鉄の矢じりって何だ?
倭人一般についての記述で、邪馬台国とは関係のないこと
九州説は倭人一般の風習風土を邪馬台国のものだということにすり替える傾向がある
関係のないものを邪馬台国の根拠だと言い張るのは不可 >>183
纒向と邪馬台国の関係を文献に沿って示せば?
武器をもった守衛がいて警備は厳重だったと書いてあるんなら、その痕跡も示す必要があるだろ?
失礼だが、あんたはロジカルな考え方が苦手としか思えないな。 >>184
いきなり論点をすり替えるな
祭祀連合を30ヶ国連合の有力候補と認めるか認めないかの話だろが
で、伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っていたのを認めるのか、認めないのか、どっちだ? まずは、纒向が九州の南であることの証明が先かな。
方角を間違えたというのなら、当時の何かで間違えた理由を示すこと。
例えば、魏志韓伝などでも方角の間違いがあるとか、倭人伝全体を通して方角が90度ずれているとか。
距離の差異については、韓伝の事例を根拠にできるだろ?
そうした証明の為の手順をきちんと踏襲しろよと。 >>185
例えば、晋書は確認したのかな?
「倭国は互いに接していた」
これで十分だろ? >>185
次はあんたの番。
祭祀が統一されていたという記述はどれだ?
それと畿内の特色を示している記述はどれなのか?
もし、邪馬台国周辺の情景は描写されていないと言うなら何故あえて記載しなかったのかの理由は? >>187
百余国が接していたとあるだけで邪馬台国とは全く関係ない >>188
論点をずらすな
伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っていたのを認めるのか、認めないのか、どっちだ? >>189
じゃあ邪馬台国は倭国とは関係無いという話になるのかな?
>>190
祭祀連合が存在したと学術的に言えるのか?
祭祀連合と国家をごちゃ混ぜに理由がわからん。
おおよそ仏教形式で葬祭を行う日本はチベットの傘下なのか?
ちょっと頭おかしいんじゃない?
ちゃんと勉強した人なのか? またウリ奈良ファンタジーかよ
九州にきまっとろーが >>191
漢の時代の旧百余国がどの範囲かも不明でありながら、勝手に邪馬台国と結びつけるなってことだ
今度は開き直ってヤマト政権さえも否定か
教科書にも載ってるような日本の古代史の通説を根底から否定したければ、根拠を出せと最初から言ってる
反論できなくなると、頭おかしいだの、勉強してないだのと罵倒に走る
議論に負けた証だ
伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っていたのを認めるのか、認めないのか、どっちだ?
いい加減、答えろ >>193
罵倒せざるを得ない内容だよ。
まずその自説をその辺にいる教授に評価してもらえば?
あまりにも未熟だよ。
もしかして中卒かな? >>194
結局、罵倒するしかないんだな
もういい
相手にする価値なし
再三の質問に答えられなかったのは、伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っていたのを認めたのも同然
そして、これは九州説にとって致命的な考古学的事実 >>163
そこには古墳時代初期としてあるだけで3世紀前半とは書いてないだろ
古墳時代の初期は畿内説の学者でさえ3世紀後半から4世紀にしてるのに
何一人で勝手に年代を早めてんだよ 九州説って九州に100万人いたって信じてる人たちでしょ まぁここで議論したって現実には何も変わらんからな
纒向遺跡が邪馬台国の最有力候補地ということは変わらんし 大王の性別で変わってくるということなのかな。
男王の場合は軍事的に簒奪してもいいというルールが存在している
これが各国の勢力が均衡している場合は倭国大乱のようなものにつながって
女王の場合、祭祀の能力が問われるのでカリスマ性が問題になってくるの
では。上のレスにもあるけど、日食(ニュージーランドの火山噴火が原因か?)
があったとか、あと漢王朝の滅亡にも関わってそうだし、何か天変地異が
あったのもあって女王が誕生したということなのか。 相変わらず畿内珍理教が沸いてるなw
科学板に相応しくない妄想論しか展開出来ない畿内珍理教徒たちwww
>>198
そう信じてるのがアホの毎日新聞と桜井教育委員会だけw
地元の連中も引くぐらいの連中な。 ID:02f4M5iX = ID:LCmULeYP
昨日は、畿内説を否定したいがために、紀元前に遡って弥生時代全期間の出土品を提示してくる
邪馬台国の時代と違うものを出しても無意味だという指摘に対しても答えず
考古学通を気取っておきながら、答えられず罵っただけ
さらに、箸墓が4〜5世紀とか、前方後円墳は奈良発祥ではない、とネットで拾ったかのような珍説を主張
ソースを要求するが罵るだけ
今日は、30ヶ国の連合の根拠に畿内説側は祭祀連合を提示したが、そんなのどうでもいいと言い張る
伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っていたのを認めるのか、再三質問したが、はぐらかすだけ
最後は、ぐうの音もでなくなり罵倒に走る
九州説ってこんなやつばっかり >>201
邪馬台国が3世紀に突如現れたと思ってる畿内珍理教www
弥生時代は3世紀のみか?www
持論過ぎるやろwww
学者に確認しろカスwww 男王(スサノオ、オオクニヌシ)と斎王(アマテラス)の
役割分担がヤマト王権のなかにあったんじゃないか。
だから卑弥呼のようなシャーマン的な役割を果たすリーダーも
どこの国にもいたのかもしれない。 >>202
ID:F7wTzAOo = ID:02f4M5iX
議論に負けたから回線つなぎ直したか別回線で再登場www
かっこ悪すぎるwww >>204
妄想癖発症乙www
お前のレス見たけど論理的思考ゼロって哀れだなwww
日常生活で不自由しないのか?www 筑紫の君とか甲斐の君とかヤマト王権に倒された王がいるけど
筑紫王は応神天皇家で甲斐王は大国主の子の事代主の系譜じゃないかと思うんだけど。 >>206
記紀は神話だが信じるのならば、それは邪馬台国と大和王権は別物と言ってるようなもの。 >>154
じゃあやっぱり邪馬台国は大和朝廷じゃね?
500年ぐらいだったら、口伝で結構伝わるでしょ。
その時代の人が邪馬台国=大和朝廷って言ってたら、そうなんじゃないの。 >>204
九州説はIDころころ変えたり、複数ID使うよ
口調が同じだからすぐ分かるw 今日のIDは、これねww ID:F7wTzAOo
>邪馬台国が3世紀に突如現れたと思ってる畿内珍理教
倭国はずっとある
その中でヤマト国=邪馬台国もずっとある
ただ、邪馬台国の王が倭国の王に共立されたのは、ある意味「突如」だろう
その辺の論理が理解できない人が、九州説をいまだに信じているっていう構図だな >>209
裴世清が608年に日本に来たとき、大和を魏志倭人伝の邪馬台国のことって明言してる >>212
一気に7世紀まで飛ぶのか。。
大和じゃなく難波だね。 >>213
>一気に7世紀まで飛ぶのか。。
倭の五王の最後の倭王武は、雄略天皇でほぼ間違いないよ
九州王朝説は、ここを越えられない >>212
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬壹者也
これは同じ邪馬台国ならわざわざ説明する必要の無い一文でしょ。
わざわざ文字まで変えて説明しているのかというと、都が変わったからでしょ。 >>214
例の誤字の多い文献だが、
邪届伊都傍連斯馬??
廣志曰??倭國東南陸行五百里??到伊都國??南至邪馬嘉(壹)国??百(自)女國以北・・・
伊都国の南に接していたのが邪馬台国だとはっきり書かれたものを無視するわけにはいかない。
記紀は言われている通り、邪馬台国の歴史を大和王権の歴史で上塗りする目的で書かれたもの、と見るべき。
天武が魏志倭人伝を読んでなかったなんて考えにくいし、読んでいたなら何故そのまま書き写さなかったのかという疑問が生じる。 おそらく「ヤマト」は今で言う「山田」ぐらいありふれた名前で
色んな地域に「ヤマト」という地名があったんだろう
ヤマトのヤマは「山」であることは確定している
山のふもとにある国とかその程度の意味だろう
邪馬台国(九州)と大和国(畿内)が同時に存在したと考えるべき
両者は接触がなく、またありふれた名前なので同じ名前でも気にしなかったのだろう >>198
永遠の候補地でしょw
>>193
祭祀の方法態様の受け入れというが、ヤマト側に邪馬台や卑弥呼の記憶がないんだから、それぞれ別の地域だった可能性も否定できんと思うが、、
ヒメヒコ制とか、世俗の王と斎王は別個で卑弥呼や台与は斎王だったという説もわかるけど、魏志倭人伝は卑弥呼を倭王と記してあるし、使者を送ったのも卑弥呼の名前だよね。まさか、斎王が世俗の王無視して一人でやったということなの? >>220
>ヒメヒコ制
後世の文献では斎王は天皇が指名するものだけれど、ヒメヒコ制において
どちらが上位の存在だったかというのは、一概に決められない
想定されているヒメヒコ制は、神託を受けるヒメ王とそれを伝え実行するヒコ王の
組み合わせだが、神託を受ける方が上位と考えることもできる
その場合、最高権威はヒメ王となるし、ヒメ王・祭祀王の統一が卑弥呼の共立の
意味だと考えると、理解しやすい >>201
伊都国や奴国が畿内を中心にした祭祀連合に入っていた
これが完全に嘘なんだよな
例えば福岡で早期に見つかる畿内式の土器は
道路の側溝に捨てられた形で見つかっていて大事にされたものではない
しかも同じく見つかった祭祀の土器は形からして4世紀ごろ畿内に広まったもの
畿内説のアホな妄想には笑わせてもらってるよ >>175
3世紀前半だと巻向だと尚更先進的な出土物が何もないよ
鏡も鉄も玉類も無い
銅鐸の欠片が出たぐらい
大型建物があっただけなんだよ
ホケノは布留0の時期にあたる
それ以降に急に鉄も鏡副葬文化も出現し、建物は無くなるから、外部からの入植があったとしか言えない状況
畿内説を唱えるならば別の先進的な比定地が必要 魏志倭人伝には九州の地名しか出てこない
もし大和国(奈良)まで行ってたのだとしたら、
それより西にある出雲国や吉備国に関する記述がないとおかしい
伊都国(糸島)、一大国(壱岐)、狗奴国(熊本)、対馬国(対馬)、末廬国(松浦)
など九州の地名と思われる物は沢山出てくるが本州の地名は一切出てこない
つまり中国人は奈良まで行っていなかった >>223
ホントそう
実は前まで畿内説だったのだが祭祀遺跡を調べる程に疑問が湧く湧く
強大な勢力があったことは間違いないが、先進文化に乏しいのよ
さらに奈良の拠り所三輪山も3世紀初期に突然祀られる形跡がある
文明を渇望していたのだと思う
早い段階から近江や信楽に渡来人を移住させたりもしているが、文化の浸透までには至っていない
古来からの伝統と銅鏡などの文物がハイブリッドしている九州の太陽祭祀に憧れて採り入れたとしか思えないんだよね
取り入れてからはものすごい勢いで銅鏡を生産し各地に施設を作り、祭祀の凝縮版としての古墳を築造する
これは集団カルトに近いほどの熱狂だよね
もうね、太陽方角で遺跡と祀られた山を見ると笑えるくらい位置関係が符合するから
なぜそうなったかというのは
上のレスの噴火とかも関わってるかも知れないな >>222
北部九州の年代を畿内系土器で判断するなんて論外の外だろが
久住編年IB期の遺構から出土してるんだから3世紀前半
3世紀前半には畿内系住人は博多にいたということ
しかも庄内式を4世紀と考古学者が主張してるとか、いつの時代の話だよ
本末転倒の理屈で年代を誤魔化そうなんて通用しない >>226
本当に何にも知らないんだな
遺構と言っても発掘の状況からいつ埋められたのかはっきりしていないのが事実なんだよ
多くの土器が一緒に道路の側溝に捨てられててその中に畿内式の土器があったというだけ
その遺構がどの時期に掘られ埋められたのかは学者にも正確に分かってない
あと庄内式は関係ない
福岡から見つかる祭祀の土器は庄内式土器ではなく
形から布留式と同時期に大和に広まる土器だと分かってる
だから福岡に広まるのであれば確実に4世紀以降の話になる >>222
>例えば福岡で早期に見つかる畿内式の土器は
>道路の側溝に捨てられた形で見つかっていて大事にされたものではない
「例えば」で適当な一例だけ挙げて、何かを言ったつもりになるのは典型的なチェリーピッキングw
発掘記録の集成で、60ページを超える論文の論旨を、そんな薄弱な根拠で覆せると本気で思ってるのだとしたら
イタイを通り越して気の毒な人
まあ、確信犯的にとにかく反論したいだけの人なのだろうけれど >>227
>多くの土器が一緒に道路の側溝に捨てられててその中に畿内式の土器があったというだけ
だからその結果が久住編年だろが
何をトンチンカンなこと言ってるんだ
久住IB期に布留式は1つも出てない >>224
>魏志倭人伝には九州の地名しか出てこない
>もし大和国(奈良)まで行ってたのだとしたら、
>それより西にある出雲国や吉備国に関する記述がないとおかしい
そんなことはないだろう
出雲と大和が、国名としてはっきり書かれているじゃないか
投馬国 上古音でdug-mag 出雲国五万戸
邪馬台国 上古音で(g)ia[v]g-mar-t`(e)g 大和国七万戸
吉備は日本海経路だから出てこない >>225
>九州の太陽祭祀に憧れて
それの根拠は?
頼むから平原遺跡とか言うなよww >>228
>>229
もう無知すぎて笑いが止まらん
佐々木氏の論文じゃなくて遺跡本体の調査の方をきちんと調べろよ
そもそもどの遺構がどの時代のものかは専門家の判断でも分らず保留されてる
しかも布留式土器と一緒に出てきたとか誰も言ってないし
ただ福岡の祭祀土器が大和より早く広まることはないだろうといってるだけ >>232
>どの遺構がどの時代のものかは専門家の判断でも分らず保留されてる
不利になったら、分からない、決まってないに逃げるww
チェリーピッカーは気楽な稼業と来たもんだww >>232
>ただ福岡の祭祀土器が大和より早く広まることはないだろうといってるだけ
つまり、福岡が畿内の祭祀を受け入れているというのがはっきりするだろ?
祭政一致の時代に、だ
そして、土器様式と絶対編年の定点として、纏向遺跡の祭祀土坑で出土した
桃核の14C年代測定法で「西暦135〜230年」という値が出たというのが
このスレのスレタイ >>234
現実を直視できない哀れさが悲しいな
大和に4世紀に広まる土器が3世紀に福岡に広まると言いたいんだな
纏向遺跡は弥生後半から古墳前期まで続いてるから
その時代近辺のものが出てくるのは当たり前の話で出てこないほうがおかしい
結局桃の種が邪馬台国には何の関係もないのが笑いどころ >>232
だから久住編年だと言ってるだろ
専門家がどの時代かわからないと言ってるのはおまえと安本一派だけだよ >>158
菅原道真の祖先はアメノホヒノミコトです 倭国の天孫降臨族です
倭国は700年に滅びましたが 万葉集には僅かな歌しか倭国の歌はありませんが
菅原からは僅か200年前のことです 倭国の歌を調べ賛美しましたが これが朝鮮人フジワラの気にいらぬことで
左遷の理由となりました
奈良の歌へと改竄された歌の一例
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜■(りっしんべん+可)國曽 蜻嶋 八間跡能國者
山根には群山あれど とりよろう天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は煙たちたつ 海原はかもめたちたつうまし国ぞ浜との国は
此の歌でで明確に解るのは奈良にかもめのいないことだが なんでもならの狂信者は 大阪湾から飛んでくるという
事実はカグヤマは別府鶴見岳 かもめと湯煙を詠んだ倭国の歌
奈良盆地の香具山は単なる丘にすぎない >>235
>現実を直視できない哀れさが悲しいな
>大和に4世紀に広まる土器が3世紀に福岡に広まると言いたいんだな
纏向遺跡で「西暦135〜230年」の桃核と、「同じ祭祀土坑で出土」する土器と
「同じ様式の土器」が九州で出るっていう話だよ
まあ、頭の悪い人に説明するのは大変だ >>238
それで何が判断できる?
ドイツ車に乗ってる人はドイツ人だ、と言ってるような事になるんだけど、本当に自分ではおかしいと思わないのか?
社会に出たことあるのか? >>238
同じ様式の土器が見つかったんだ
良かったね僕ちゃん
さすが畿内説信者はアホだな
いつまでも笑わせてくれる 今日複数IDで暴れてた九州説は精霊流し厨
すぐ火病るからわかりやすい 継体天皇が筑紫磐井の乱の時、討伐軍の物部麁鹿火に「私は本州をとるから九州はお前の好きにしろ」
と言ったとある。
知っての通り、物部氏は九州未納山麓に本拠を置いたニギハヤヒの尊の子孫だ。
ということは高天原は九州にあったことになり、伊都王国の墳墓から数十枚の巨大な仿製鏡つまり
八咫鏡が発見されたことといい、邪馬台国近畿説は無理筋だと言うことだ。 >>239
「同じ祭祀土坑で出土」する土器と
「同じ様式の土器」が九州で出る
つまり、北部九州と畿内とは、祭祀様式を共有している
そしてその時期は、同時出土の桃核の14C年代から、
「西暦135〜230年」だと分かる
ごく簡単な形式論理で理解できるだろ? >>242
>八咫鏡が発見された
これがいい加減な話で、昭和の時代に原田大六氏が「そう思った」だけ
伊勢神宮の八咫鏡とは、大きさも異なるし、縁もゆかりもない
それから
「数十枚の巨大な仿製鏡つまり 八咫鏡」
これも大間違い
数十枚出ているのは方格規矩鏡であり、20センチ前後のもので特に巨大ではない >>243
で、邪馬台国に関する記録の中のどこに該当するのか?
論理的という意味がわからない?
論文とか書いたこと無いの? >>243
福岡で見つかる祭祀用土器は大和で4世紀に広まるものと同型なんだよ
4世紀以降なら大和と共有していることになるだろうが2〜3世紀はありえない 正史によると、倭国には青珠があるとか、台与が大きな青珠を献上したことがあるなどと書かれているでしょ。
これが翡翠だと思ってたが違うんだね。
https://imgur.com/a/LqcnDMV >>243
畿内が九州土器を祭祀に使っていた
↓
畿内は九州の祭祀を取り入れた
古墳時代の畿内では石棺や敷石に阿蘇石が使われていた
↓
古墳時代の畿内では九州式の埋葬方式が採用されていた
ときどき九州王朝説が生まれてくるのも納得でしょ 九州説ってどいつもこいつも最後は同じ行動パターン
火病るか捨て台詞吐くか >>246
新羅本紀によると173年時点で卑弥呼は既に女王になってるからねえ。 >>247
ガラス質かな。
鋳型も見つかってる。
そうした文献と現物の照らし合わせが皆無な畿内説というのは何なのだろう?
少なくとも学者としては恥ずかしいレベルだよな。 九州説のやつらにとっては考古学は信用できないが、三国史記は信用できるらしい
おもしれー >>246
>大和で4世紀に広まるもの
何度も書いてくれてるけど、これが大間違いなんだからどうしようもないw >>245
>で、邪馬台国に関する記録の中のどこに該当するのか?
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬戸
ここだよ
古墳時代はその最初期から、列島の広い範囲の祭祀連合
この図の網掛けの範囲が、倭国の範囲
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そしてこれが、卑弥呼の時代と重なるんだから、この倭国の中心が王都・邪馬台国だろ 北部九州があるあると言っている鉄も絹も鏡も全部古いもので、
紀元前から2世紀までくらいのものばかり
肝心の3世紀の北部九州は、かつて出ていたものも出なくなっている
そして、魏志倭人伝に書いてあるように、伊都国、奴国は邪馬台国とは別の国
北部九州で、伊都国、奴国をはずすと、鉄も絹も鏡もほとんど出ていない
お笑い九州説w >>255
魏志倭人伝はいつの話かと問いたい。
倭国大乱やら金印を貰っただなんてのは、まさに2世紀だよな。 >>253
福岡で見つかる祭祀用土器の型は庄内期の大和からはほとんど見つかってない
布留期までくれば多く見つかるけど >>212
それ確定じゃん。
第三者的立場の外交官がそういっている以上、邪馬台国=初期大和王権は確定してんじゃないの?
うそをつく理由はないでしょ。 >>259
でもな、九州王朝説にかかると、裴世清が訪ねた倭国も九州倭国ってことになるらしいよ?
不思議だよなww >>255
九州は、卑弥呼の時代から衰退が始まってるのだから、
邪馬台国が九州なわけが無いのよね。 >>259
そもそも隋は魏じゃないんだぞ
てか、別に魏だったら魏で嘘をつく必要はないが
大和朝廷が使者にウソを教える可能性はあるけどな >>209
そうだろうな。
口伝で伝わってるという前提で
大和が邪馬台国なら
日本書紀にはっきり書いてあったはずだ。
ところが日本書紀にはそう書いてないのだから、
邪馬台国と大和朝廷は別物だったと見るしかない。
というか、魏の使者が滞在したとはっきりしてる
対馬や松浦とかなら記紀のあらわされた当時も
口伝で邪馬台国がどこか知られてたろうし。
記紀にない以上、やはり大和朝廷とは無関係と見た方がいい。
記録に残せなかったであろう大和朝廷以外の地が邪馬台国だ。 >>263
>日本書紀にはっきり書いてあったはずだ。
日本書紀は、卑弥呼は神功皇后だと暗示している。 >>263
記紀の前の裴世清の時代に邪馬台国は大和となっているんだから
記紀が何かを隠したとか嘘をついたとはならんぞ
九州説の好きな陰謀論をとるなら、裴世清が来る前じゃなきゃダメだ 邪馬台国が九州にあったとしたら、口伝や文書に何か残ってないの? >>224
それじゃ「好古都国」は九州の何処なんだ。
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