アーリーリタイア(早期リタイア)という生き方があります。定年を待たずに、早い人は20代で会社勤めを辞め、
第2の人生を選ぶ生活のことです。

歴史に目を移せば、戦国大名としては滅亡しましたが、文化人として生き延びた戦国武将がいます。
それが、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子である今川氏真です。
義元の死後、氏真なりに領国経営に乗り出しますが、武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにあい、もはやこれまでという窮地に陥ります。
それでもさまざまなパイプを活かし、各地を転々として、ある時は、かつての部下である家康に頭を下げ、家臣になり、
またある時は父を殺した織田信長の前で蹴鞠(けまり)をあざやかに披露。政治の世界では成功しませんでしたが、
人脈と豊富なノウハウでセカンドライフを楽しみます。これまでの歴史的な考え方では、
「今川氏を滅亡させた愚かな君主」というのが一般的でしたが、
現在で言うアーリーリタイアの生き方を戦国の世で体現したまれな人物として再評価する声があがっています。
今回、戦国史が専門で、今川氏の研究に詳しい駒澤大学文学部の久保田昌希教授に、
氏真の人生を元に現在に生きる知恵について話をうかがいました。

〈義元の弔い合戦をせずに経営に乗りだす〉

今川氏真の戦国大名としての評価は「愚かな君主」のイメージでしたが、
その後、今川氏を存続させるための処世術は再評価がなされています。

〈久保田昌希(以下、久保田)〉 今川氏真の人生は、本人自身が納得したかどうかは分りません。
ただ、戦国時代の周辺の勢力図には、織田信長、武田信玄、上杉謙信などがおり、
戦国大名として今川氏を存続することは無理だったと思います。
父・義元から見ると劣りますが、一方優れた処世術は持っていました。

――氏真の内政はいかがだったでしょう。

〈久保田〉 永禄元年(1558年)に氏真の文書がはじめて発給されます。
特に神社に対する流鏑馬銭等の徴収を安堵する内容で、これは当主の権限でした。
この頃から、駿河国・遠江国(現静岡県)の経営が氏真に任されていきました。

――義元の死後、氏真の動向はあまりクローズアップされていません。

〈久保田〉 義元の死後、織田を打倒するため弔い合戦をするのではなく、領国の経営に乗り出します。
これは理由があり、桶狭間の戦いで戦死した武将も多く、その家ごとにショックを抱えていましたから、
まず安定を考えていたのでしょう。桶狭間の戦いが永禄3年(1560年)ですから、
その後、氏真名義での文書が当然多く発給されます。
大河ドラマの『おんな城主 直虎』でやりました「井伊谷徳政令」の話ですが、
あれは、井伊谷や井伊氏をつぶしたいがために徳政令を発令したのではないと考えています。
氏真は徳政令を出することで徳のある政治を行いたいという考え方を持っていたのではないでしょうか。
ただそうなると金貸しはたまったものではありませんので、徳政令に従った金貸しには、
損だけさせるのではなく特権商人としての地位を認めるなど、バランスの取れた政治も行なっていました。
ちなみに、徳政令は、個別に義元も出しています。
ほかには、富士大宮楽市も行い、信長より一歩先んじて、当時の楽市楽座政策に影響を与えたと思われます。
そういう意味でも悪政を強いたわけではありません。

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