アドルフ・ヒトラーの名言
天才と呼ばれる人々は、その人間性はともかくとして、
成し遂げた業績はおおむね「善いこと」ばかりのように思う。
凄い芸術作品を作ったり、新技術を発見したり、スポーツとかで大記録を残したり。
でも「悪の天才」と呼ばれるヒトラーはそうじゃない。天才としても稀な例だけど。
で、いわゆる邪悪な叡智にしか見極められない真実があるような気もするから、。
彼の興味深い発言をまとめてみた。
関連スレ
福田恒存の名言【読売文学賞・芸術選奨・芸術院会員
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/rongo/1541642094/
他板に投稿された、興味深い格言の転載スレ 16
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/rongo/1543855957/ 職を得て失い、また就職して、次々に入れ替わると
たいていの者は、正常な金銭感覚が破壊されてしまう。
稼ぎがいい時はあるだけ金を使い
不景気のときには空腹を抱える。
空腹と飢えが理性を破壊していまい、
やがて金が入った時にも鬱憤を晴らすかのように浪費してしまう。 貧しさ、みじめさ、醜さに、はじめのうちは嫌悪を感じたり、憤慨したりもした。
その後、この苦しい悲劇のすべてを把握し、もっと深い原因を理解しようとして
わたしはこれらの全てを一緒に体験してきた。
これらは悪い社会状態の不幸な犠牲なのだと結論した。
(※注) 著書の前後部分に具体的な描写が多数 貧しい境遇に落ちた当時、わたしが周囲の人々に絶望しないでいるためには
かれらの生活や行動としてあらわれているものと、
かれらが堕落していく原因との区別を学ばねばならなかった。
絶望せずに全てを耐えていくには、これしかなかった。 現存している悪を人工的に教化するよりも
(これは人間の素質からして99%不可能であるが)
むしろ将来の発展のためにより健全な道を確保することが重要である。
犯罪者を更生させたり、堕落した者を立ち直らせようとするよりも
種の次の世代を担う子供たちや若者のために良い環境を用意すべきだ。 社会をより良くするためには
笑うべき無意味な福祉を夢見ることに価値を認めるべきではない。
むしろ各人を堕落に導いたり、誤りに導くような
われわれの経済生活や文化生活の仕組みの中にある根本的欠陥を除去することを
課題としなければならない。
過酷な生存闘争の中でわたしにはこのことがはっきりわかった。 二部屋からなる陰気な地下の住居に、労働者の七人家族が住んでいるとする。
五人の子供の中に、男の子が一人いる。
仮に三歳としておこう。ちょうど物心がつく頃だ。
頭のよい子なら年をとっても、この頃の思い出が残っているものである。
だが、場所の狭さと過密がお互いの関係をまずくして、往々にして争いと不和が起こる。
人々は一緒に生活しているのではなく、むしろ押しあって生活しているのだ。
広い住居にいるなら、ちょっと距離を置いて頭を冷やすことで仲直りできることでも
ここでは果てしない、陰湿な対立として続く。
子供の場合はもちろん、我慢できる。かれらはこういう状態では必ずけんかをするが
互いにすぐけろりと忘れてしまう。
だがこの争いが両親の間で行われ、毎日のように内心の下品さを容赦なくさらけ出すと
こういう情操教育は、必ず子供を蝕んでいく。
父から母に対する暴力、酒を飲んでの虐待となると、子供にあらわれる結果はどうなるか。
こういう境遇を知らない者には、想像すらできないだろう。
6歳になれば、この小さな憐れむべき子供にも、
大人でさえ恐ろしいと感じるほどの境遇に自分が置かれていることを知り始める。
公立学校に入るのである。かろうじて読み書きだけは覚えるが、ほとんどそれで全部だ。
家庭で勉強は話題にさえならない。
むしろ逆に、父母は口にするのもはばかられる言い草で、
教師と学校について、それも子供たちに向かって悪口を言う。 ★
自分がドイツ人かどうかなんて関係ない、妥当な収入が得られる仕事さえあればいい
というようなことを聞いて、何度道徳的憤激を感じたことか。
文化や芸術などあらゆる分野における祖国の輝かしい業績を無数に思い出せることが、
かくも恵まれた民族の一員であるという当然の誇りを与えてくれていることを、
どれほどの者が理解しているだろうか。
★
人類に関するよいことは何もかも無視され
制度は攻撃されないことがなく、教師をはじめとして国家元首にいたるまで攻撃される。
宗教についてだろうが、道徳についてだろうが、国家や社会についてだろうが
なにもかも対象になる。
すべてを誹謗し、淫猥な方法できわめて下品な考え方の泥の中に引きこむ。
(堕落した人々について)
★
神聖なものは何もなくなり、偉大なものは何も知らず
低俗な生活にだけは敏感で熟知している人間は
これから歩んでいく人生の中でどのような地位につきうるのだろうか。
★
三文文学やエロ新聞で、毎日毎日、おけから水を流すように民衆に毒が注ぎ込まれる
★
わたしはパンのために絵を描き、喜びのために学んだ。
そのころ周囲の者は、わたしを変人だと考えていたと思う。
★
政治関係のあらゆる事柄についても大変興味を持ったが
わたしには大して重要ではないように思えた。
というよりも、一般に理性あるすべての人間の自明の義務であろうと思われた。
政治に対して何の理解力も持たない者は、批判や苦情を言う権利を失っているに等しい。
★
際限もなく多く読む人、一冊一冊、一字一字読む人々を、わたしは知っている。
けれどもわたしはかれらを博識と呼ぶことはできない。
わたしは「読むこと」をいわゆるインテリゲンツィアの大部分の者とは、
おそらくいくらか違ったふうにとらえている。
★
読書というものは、それ自身目的ではなくて、目的のための手段である。
第一に、読書は各人の素質、能力を引き出し、骨組みを充実させる助けとなるべきものである。
第二に、読書は世界像を形成する素材となるべきものである。
★
運命が、知識をため込んではいるが無能力な者を国家の指導者に任命したならば
ひどいことになる。
個人の恥をさらすだけならば、まだ我慢できるのだが。
★
現実を理論の中に位置づけたり、理論を実際に試そうという姿勢をとったため
わたしは、理論の中に窒息してしまったり、現実の中で浅薄化されたりせずに済んだ ★
これでもなお、かれらは偉大な民族の一員たるに値する人間なのだろうか!?
苦悩に満ちた問いである。
もし答えが是ならば、民族をめぐる闘争は、もはや努力や犠牲に値しないだろう。
最善のものを人間のくずに捧げることになるからだ。
だが答えが否ならば、わが民族はすでに人間において貧しいことになる。
建設現場で働いていた同僚のマルクス主義者たちについて。
ヒトラーはかれらの主張についてかれらよりよく学んだ上で議論し破ることが多かったため、
かれらは議論を捨て暴力で追い出しにかかった。 ★
この途方もない毒化活動を知って、騙された者が悪いとは言えないことを理解した。
(マルクス主義の社会民主党の機関紙などについて)
★
大衆の心理は、中途半端で軟弱なものには反応が鈍い。女性に似ている。
彼女らの心は、根拠と理性によって決まることはなく
足らざるを補ってくれる力に対する、名状しがたい憧れによって動く。
かれらはたいてい自由をどう取り扱うべきか知らないし
自分たちは見捨てられているとあまりにも容易に感じやすい。
★
大衆は哀願する者よりも支配するものをいっそう好む。
また、自由主義的な自由を是認するよりも
他の説の併存を許容しない説に内心より満足を感じるものである。
★
精神と力の弱いものに対しては、かれらは徹底的にほめる。
(政敵を弱体化させる戦術について)
★
謙虚なわれらが民衆の一部は、自分に一番わからないものの中に
より偉大な真理があると思いたがる。
政敵、社会民主党の機関紙などが故意にわかりにくく恰好つけた言葉を多用しており、
よくわからずそれを信じようとする民衆について述べた言葉。
★
自然が一人のゲーテに対して何万という当代のヘボ小説家で悩ませ
最も悪質なバチルス菌保菌者として魂を毒するのだ、ということを考えてほしい。
かつての黒死病よりももっと悪質なペストであり、精神的なペストだ!
★
ユダヤ人が、大都市の廃物たる憎むべき売春業界の
氷のように冷たい、厚顔無恥な支配人であることをはじめて見たとき、背筋に寒気が走った。
だが、次には憤慨した。
★
人間というものは、一人でしゃべっていれば理性的な考えを持っているのに
大衆の勢力圏に入ってしまうと、どうして失われるのかわからなかった。
しばしば絶望した。
驚くべき変節性が目についた。 ★
社会民主党の機関紙が圧倒的にユダヤ人によって指導されていることを
わたしは次第に理解していった。
他の新聞も似たような状態だったようだ。
発行人を調べてみると、みんなユダヤ人だった! ★
私は今日、まったく特殊な才能をもっている場合は別として
一般に三十歳以前には公的に政治に関わるべきではないと確信している。
基礎的な世界観を獲得し、
それによって個々の時事問題に対する自己の見解が確実なものになった後に
はじめて、少なくとも内面的に十分成熟した人間が、
国家の政治的指導に参加すべきであり、してもよいのである。
★
オーストリア議会の不幸はドイツ人が多数を占めていないことだと考えていた。
だがいまや議会制度その本質にそもそも災いがあるのだと思えた。
そうだ、わたしは議会そのものをもはや認めることができなくなったのだ。
★
今日の西欧民主主義は、マルクス主義の先駆であり
マルクス主義はそれなしではまったく考えられないに違いない。
民主主義がまずこの世界的ペストに養分を与え、猛威をふるうことを許してしまったのだ。 ★
オーストリアにいた私は一つの誤りから別の誤りへと簡単に陥ることはできなかった。
議会は何の役にも立たないが、ハプスブルグ王家はそれ以上に役に立たないからだ。
もし当時ドイツにいたなら、安易な答えに飛びついていただろう。
議会という笑うべき制度への失望をベルリンで味わったならば、
深く考えもせず皇帝中心思想にのめり込んでいたに違いない。 ★
議会が何か決議する。
その結果が非常にとんでもないことになっても、誰も責任を問われない。
破綻した後で内閣が総辞職すればなんらかの責任をとったというのか?
あるいは連立を変更したり、そればかりでなく議会を解散すればそれでいいのか?
一体全体、多数の優柔不断の人間どもにいつか責任を負わすことができるだろうか?
すべての責任というものは、人に結びついていないのだろうか? ★
多数の人間の好みに媚びたものから生まれ、遂行される政策について
政治のリーダーに実際に責任を負わせることができるだろうか?
あるいは政治のリーダーの課題は、創造的な思想や計画を生み出すことではなく
かれの企画をからっぽの頭を持った羊の群れに理解させ
さらにかれらの好意ある賛成を得る技術にのみ見られるのだろうか? ★
成果がその偉大さを示す前に、
群集が政策の理念を理解したことがかつて一度だってあるのだろうか?
第三章 わがヴィーン時代の一般的政治的考察 より ★
この世のすべての独創的な事業は、
大衆の怠惰に対する天才の無言の抗議ではないのか? ★
政治家はかれの計画のために群集の好意にへつらって、それを得ることができないなら
何をすればいいのだろう?
政治家はそれを買い取るべきなのか?
あるいは、市民たちの愚鈍さを受け入れて、重要課題の遂行を断念し引退すべきなのか?
そのような場合に、真の品格を持つ者ならば解決しがたい葛藤に陥らないだろうか?
真の指導者は、こういう場合に政治的闇商人に堕することを断固拒否するべきなのか?
逆に、闇商人が、最後の責任をとる必要がなく、
かれを選んだ群集が負うべきということで、
政治で「取り引きする」ことを天職と感じているとしたら、それでよいのか? ★
ところで、この世の進歩はおそらく多数の頭脳に基づくもので、
一人の頭脳に基づくものではない、と信じているのか?
★
無能を自覚してなお地位に留まる小物が、自分の行為の責任で決して苦しむ必要はない。
かれはそういった心配からは、とっくに根本的に解放されている。
自分の運命がとっくに定まっていることを知っているからだ。
つまり、遅かれ早かれ、いつか他の偉大な人物に席を明け渡さねばならない。
だから自分の無能の結果がどう出ようと気にかけない。
★
先頭に立っている指導者の知能の水準が、他の者と同程度であるのを知っているのは
なぐさめになることがある。
誰でも勝手に思い入れることができるし、またヒンツェが親方になれるのなら
いつかペーターだってなれぬはずがない、ということがあるからだ。
大多数の代表者たちは、それはことごとくバカであるが、すぐれた頭脳の者を心から憎むものだ。 ★
重要なことを決定するときに、大多数というスカートの影に
隠れることができるのは、なんと幸福なことだろう。
国民の指導者が、もしもこういうあさましい人間から
成り立つならば、すぐに悪い報いを受けるだろう。
決定的行動に大して勇気を奮い起こすことができず、
決断に向かって奮起するよりは、屈辱的な名誉毀損を甘んじて受けるようになる。
仮借なき決意を遂行するために自己の身体と頭脳を投げ出す覚悟が
できているものが、もはやいないからである。
※ 「スカートの影」は、母親の足元にいる幼児のイメージ ★
実際かれらはまったく、いつになったら自分の番がくるか待ちきれないのである。
かれらは長い縦隊で並び、遺憾の念で苦しみながら、前で待っている者を数えつくす。
自分たちの目の前にちらついている役職の更迭を待ち焦がれ、順番を早くしてくれる
どんなスキャンダルでも歓迎する。
(実際に優れている者は排除されてしまう権力機構内における亡者たちについて) ★
この人々は原則的にかれらだけでいようと欲し、0からなにか1を生じさせうる頭脳の人を
共通の敵として認識する。
そして、この方面での本能だけ、他の全ての方面で欠けている分まで鋭いのである。 ★
われわれがつねに世論と呼んでいるものは、
自ら得た経験や個々人の認識に基づく割合は小さくて、
大部分はいわゆる「啓蒙」という種類のものによって呼び起こされる。
信仰上の態度決定が教育の結果であり、
宗教そのものは人間の内心で眠っているに過ぎないのと同じように
大衆の政治的意見も往々にして、まったく信じられないほど
強靭で徹底的な加工を、心と理性に施した結果であるに過ぎない。 ★
たった二、三週間で何もなかったところから魔法のように名前が作り出され
その名前に大衆の信じられぬほどの希望が付託される。
実際に優れた人物でもしばしば彼の生涯において与えられないような人気が作り出される。
その一方で、国家生活やその他の公的生活で古くから定評のある人々が
最も健全でありながら簡単にその時代社会から抹殺されてしまうか
あるいはかれらの名前がやがて、
下劣でネガティブな象徴となるような悲惨な誹謗が浴びせかけられている。
(新聞について) ★
人々は政府の政治的能力を判断するにあたり
多数派の意志に順応するか、それとも多数派を自己に引きつけるか
といった技術を判断しうるだけである。
だが政府はそれによって、支配者の地位から、その時々の多数派に対する乞食にまで成り下がる。
★
これら国民から選ばれた者が、知性や精神においても選ばれた者であるとは
どうしても信じられない!
(国会議員について)
★
選挙から天才が生まれるだろう、などというナンセンスな意見は
いくら強く反論しても足りないぐらいだ。
大衆がすべてのすぐれた天才に対して感じる嫌悪はまさしく本能的なものだ。
★
国家が自己を保持するために用いなければならない手段が哀れなものになるにつれ
人々は国家を侮蔑するようになっていった。
(オーストリア・ハプスブルグ王家の末期について)
★
支配権力が非道な手段を用いるならば、こちらも非道な手段を用いることをためらうな。
人間存在の最高の目的は、国家を維持することや
あまつさえ現政府を守ることにあるのではなく、種の保存である。
ひとたび種が存亡の危機にさらされた時には道義など二の次で十分だ。
★
世界は臆病な民族のためにあるのではない。
自己の存在のために戦う覚悟も能力もない者に終末が訪れるのは
永久不変の摂理が公平に定めている通りである。
★
理論家は、民族のためよりもむしろ学説のために喜んで死ぬだろう。
かれは、人間がまず法律を作るがゆえに、
人間は法律のためにあるなどと信じるのである。
ナンセンスであった。
★
いわゆる「ブルジョア階級」というものは、かれらの経済的地位のために
失うものの多さに恐れるため闘争意欲が非常に限られる。
改革の担い手には適さない。
★
新たな世界観が勝利を収める見込みがあるのは
大衆が新たな説の担い手として、
必要な闘争を引き受ける準備ができているときだけである。
下級の民衆階層の意義に対する理解がない政治家は失敗した。 ★
我が身を犠牲に捧げる覚悟を持った英雄が戦うのでなければ
死をも恐れぬ兵士は見つけられないだろう
かれ自身のために戦う者は、公共のために戦う気概を失ってしまっている。
★
大ドイツ主義運動が議会に身売りしたとたんに
指導者や闘士の代わりに「議員」が生まれ、ありきたりの世間並の政党の水準に収まり
宿命的な運動に殉教者のように立ち向かう強さを失った。
(ヒトラーがナチス加入前に当初思想的に共鳴していた政党・運動について)
★
文章を発表して世を動かそうと試みる騎士あるいは自己陶酔者たちは覚えておけ。
この世界では、最も偉大な革命はガチョウの羽根ペンで導かれたりはしない。
大昔から、直接語られたことばの魔力だけが歴史の転回点を生み出してきたのだ。
ペンは革命を理論的に裏付けることしかできない。
★
きびしいリアリズムによって、目標への道のりを決定しなけれならない。
いやな道を行きたくないということは、この世界では往々にして目標の断念を意味する。
★
仮にフリードリヒ大王のような人物が独裁を試みる時に
議会の大多数が現在見られるような小賢しい保身政治家、あるいは低能ばかりだったとして
それでも原理主義者たちには、民主主義のほうが国民の福祉より神聖に見えるから
憤激して抵抗するであろう。
こういった人々は、自国より他国から祝福されるような政府であっても
「民主主義」だからやむをえないとするだろう。
そうしているうちに国家は破滅する。
★
わがドイツの平和主義者らは、国民に対する残酷な圧制が行われても
暴力的な抵抗によって運命を変えなければならないなら
何もしないことを選ぶのだろう。
暴力は平和を愛する彼の社会通念に反するからである。
★
ドイツの平和主義者だけが自国民の利益をいつも客観的に判断しようとするのであって
ユダヤ人は決してユダヤ民族の利益をそういうふうには見ない。
またドイツの社会主義者だけがある意味で「国際的」であり
かれらは国際的な「仲間」に頭を下げ続けなければ
民族の正当性を認めてもらえないと思っている。
しかしチェコ人やポーランド人はそんなことはしない。
★
政治の指導者は自己の民族の宗教について余計なことをしてはならない。
さもなくば宗教改革者になるべきである。ふさわしい資格があるならば、だが。 ★
成果を勝ち得るためには、純粋に心理の面から考えても
二つかそれ以上の敵を大衆に示してはならない。
闘争力を分裂に導くからだ。
★
歴史から学んで現代に活かすこともできぬ者が政治のリーダーなどと称するべきではない。
とんでもないうぬぼれである。
どんなによい志を持っていても、かれの実際の無能を埋め合わせることはできない。
★
たくさんの敵を認識することは、弱い不安定な性格の持ち主には
自陣営の正当性を疑うきっかけを頻繁に提供するだけである。
民衆の注意を常に一つの敵に集中しておくことが指導者にとって重要だ。
別々の敵を実は同類だと思わせることも偉大な指導者の独創性しだいである。
★
大きな悲劇がたとえ何千何万の人々の関心を呼び起こしたとしても
長い年月の苦闘の末にようやく自分の運命の主人となったものが持ち得る
徹底した深い洞察には、誰も到達しえないであろう。
ヴィーンはわたしにとって最も苦しい人生の学校であった。
★
驚いたことに、ハプスブルグ帝国の本質について、
その他のことはよく知っている人々さえ
全然何も知らないことをいたるところで見せつけられた。
まさしく民衆の間では、同盟国はいざという時には必ず全力で働いてくれる
頼みになる強国だと狂気のように信じられていた。
(オーストリア(ハプスブルグ帝国)からドイツのミュンヘンに移住した時のこと。) ★
自然は生殖を自由にさせておきながら、生まれてきた者を困難な試練にさらし
劣るものを死に至らしめることで、強いものだけが残り、種は繁栄する。
人間は生殖を制限するが、一度生まれたものはどんな代価を支払ってでも守ろうとする。
神の意志を拒絶することが人間の勝利のようにも思われる。
しかし、残ったものの価値は低下している。
ひとたび生殖自体が制限され、出生数が減少すると、
最も強い者や最も健康的な者だけしか生き残れない自然の競争の代わりに、
最も弱い者や病弱な者さえ助けねばならない、とする欲望が生じる。 ★
この地上にはまったく巨大な面積の土地が、依然として利用されないまま残されており
開拓者を待ちわびている。
この土地は自然によってもともと特定の民族が将来利用するためにとっておかれたのではなく
それを獲得する力を持つ民族のため、そして懸命に開拓するための土地である。
自然は政治的境界を知らない。
自然は生物をまずこの地球上に置き、自由な競争を眺めている。
そして勇敢で勤勉で最も強いものが、自然の最愛の子供として、生存の権利を受け取るのだ。 ★
この世界がいつかこの上もなく激しい人類の生存の闘争に
さらされるだろうことに、疑いの余地は全くない。
勝者については二つの可能性がある。
近代民主主義の理念が勝利しすなわち最も人口が多い民族が勝つか、
それとも、自然本来の力の概念が勝利しすなわち最も残虐な意志を持つ民族が勝つか。
★
最後には自己保存欲だけが、永遠に勝利を占める。
この欲望の下では、愚鈍や臆病やうぬぼれの強い知ったかぶりがごちゃまぜになった
いわゆるヒューマニティは三月の太陽にさらされた雪のように溶けてしまう。
★
永遠の闘争によって人類は成長した。
永遠の平和において人類は破滅するのだ。
第四章 ミュンヘン より
★
人類愛やら平和主義のような致命的な危険思想をわが民族に植え付けようと試み
またそれに成功しているのがユダヤ人であることは偶然ではない。
ユダヤ人は、かれの期待にそむかぬものだけを、よく知っている。
★
人口増加に対するには二つの道しかなかった。
過剰な数百万人を移住させるために新しい土地を手に入れて
自給の原則で国民を養っていくか、それとも外国の需要に応じて
商工業を興し、貿易によって生活をまかなっていくかであった。
この二つの道はあらゆる角度から検討され、ついに後者の採用が決定的になった。
しかし、より健全な道はもちろん前者であったろう。
領土を拡大することは、現在ではなく特に未来について考えるなら、メリットは果てしなく大きい。
★
今日のわれわれの多くの悩みは、そもそも農村の民衆と都市の民衆との関係が
うまくいっていないことに由来している。
全国民の基礎としての健全な農民階級があれば、都市における社会問題も改善に向かうだろう。
★
ある民族がこの世界で他の民族より五十倍も多くの土地を与えられているのは
神の意志ではありえない、という観点に立たねばならない。
政治的な境界によって、永遠の権利の境界から遠ざけられてはならない。
★
もしもかつてのわれわれの祖先が、今日の我々のような平和主義的ナンセンスな
意思決定を行っていたならば、われわれは現在の三分の一程度の領土しか
所有を許されていなかっただろう。
示談が拒否されれば、拳骨でいかねばならない。
★
海外植民地は、ヨーロッパ人が大規模に移民するのに適さない以上
健全な領土拡大の目的にそぐわない。
ドイツにとって唯一の可能性は、ヨーロッパの中で新しい土地を獲得することだけであった。 ★
われらが平和主義者といえども、最初の鋤がかつて「剣」と呼ばれていたとしても
東方のパンを食べることを拒みはしない。
第四章 ミュンヘン より
★
もしもドイツが1904年の日本の役割を引き受けていたと想像してみたまえ。
その結果がどれほどドイツのためになりえたろうか。計り知れないほどだ。
海軍や海外植民地への道を捨ててイギリスと結び
断固たる決意で東方に領土拡大すべきであり、また以前からそうすべきであった。 ★
人々はなによりも戦いをおそれた。
それにもかかわらずついに最も不利なときに、戦争に巻き込まれたのであった。
ドイツとオーストリアの同盟を批判してのこと。
第一次世界大戦について述べている。 ★
人々はいそいで運命から逃げようとした。そして運命にすぐ追いつかれたのだ。
世界平和の維持を夢見て、世界戦争に達したのだ。
もっと早く果敢な行動を起こしていれば別の結果が得られたであろう。
ドイツ外交のスローガンは、とっくの昔に
「どんな方法を用いてもドイツ国民を維持する」というのではなくて、
むしろ「あらゆる手段をつくして世界平和を維持する」だった。
その結果がこの有様である。 ★
友情あふれる礼儀正しい態度で、平和的な心がけを絶えず強調しながら
人々が美しくもったいぶって語るように「諸民族の平和的競争」において
自分のバナナはとってくることができる、だから武器をとる必要はない、
と考えることができるのは子供だけである。
それにもかかわらずドイツが工業と世界貿易、
海軍と植民地による政策を進めた場合には、
人々は少なくとも、ある日この発展も最後は戦争になるだろうということを、
はっきりと認識していなければならなかった。
★
われわれの正直さが他国にとって実は恐るべきものだ、などと
われわれ自ら大まじめに信じていたのは
われわれには何も見えていなかったということであった。
これによって大国の信用と、とりわけ小国の好意を容易に得られると思っていたのだ。
★
1914年の大戦がオーストリアで勃発し、したがってハプスブルグ家も
参戦せざるをえなかったのは不幸中の幸いであった。
もし逆にドイツで勃発していたなら
(オーストリアとの同盟関係にも関わらず)ドイツは孤立していただろうからだ。 ★
国家は、特定の経済観や経済的発展と不可分ではない。
初めから誤った基礎に立っていない限り、経済は、国家の原因ではないし、目的でもない。
種の発展維持をより一層可能ならしめ、
摂理によって既定された自己存在の目標を達成するための、
心理的、精神的に同一な生物の運命共同体である。
★
モーゼの宗教は、ユダヤ人種保存の教説以外のなにものでもない。
アーリア人種の寛大さに付け込んでこのようなものを
キリスト教の宗派の一つとして認めさせ続けてきたのは
ありえないほどのトリックと言えよう。
★
国家を形成し、維持することの本質が
経済と無関係であることは、次の事実からも明白だ。
すなわち、国家の内なる強さがいわゆる経済的発展と一致することはまずない。
むしろ、経済的繁栄は国家が滅亡に近づいていることの徴である、
と考えることもできる例証は多い。 ★
人間の物質的利益が最も繁栄することができるのは
それが英雄的な徳の庇護のもとにある時だけである。
物質的利益を第一の目的に持ってくるならば、
たちまち自己存在の基礎を破壊することになる。
ドイツでは、力の政策が高まったとき、いつも経済も隆盛になりかけたが
経済がわが民族の生活の唯一の内容となって、
それによって理念的徳性が窒息したときは、
ふたたび国家は崩壊し、やがて経済も巻き込まれたものである。 ★
人間は決して経済のために一身を犠牲にしない、すなわち人間は
商売のために死ぬものでなく、ただ理想のために死ぬものだ
人間は、己の経済的利益のために戦うことにした途端
できるかぎり死を避けるものである。
というのは、死はかれがこの戦いの報酬を享受する機会を取り上げてしまうからだ。
★
わが子を助けようとする気づかいは、弱々しい母をすら英雄ならしめる。
そして種とそれを庇護する家庭あるいは国家を維持するための闘争のみが
いつでも男子を敵の槍に立ち向かわせるのだ。
第四章 ミュンヘン より
★
国家を形作る力とは現実には何であるか、と問うならば、ごく短い言葉に要約しうる。
すなわち全体のために個人を犠牲する能力と意志である。
このことからも、国家が経済を第一義とすることはできないのは明らかだ。 ★
当時わたしは兵士だった。
政治を語ろうとは思わなかった。また実際に、そのような時ではなかった。
今日でもわたしは、最下級の輜重兵であろうと祖国に立派に奉仕し続けた点において
第一級のいわゆる「代議士」より上だったと確信している。
わたしはこれらの饒舌家を、この時ほど憎んだことはない。
というのは、何かいうべきことを持っている真の人間は、面と向かって敵に叫ぶか
さもなくば目的にかなうように弁舌の才は家に置いて
黙々とどこかで義務を果たしていたからである。
然り。わたしは当時これらすべての「政治家」を憎んだ。
わたしにその権力があったなら、代議士の塹壕歩兵大隊を作ってやったであろう。
そうすればかれらは、まじめな、正直な人たちをおこらせたり、
害したりせずに、好きなだけしゃべることができただろうに。 ★
感激は陶酔であり、そしてその状態でずっと維持すべきだ。
人々は感激というものが一度くだけたら、
もはや必要に応じて目覚めさせることができないということに、少しも気づかなかった。 ★
精神的な裏付けのない暴力によって、教説やその組織的成果を根絶しようとする試みは
ほとんどすべて失敗する。
露骨な暴力という武器をもってする闘争方法の第一前提は、堅忍さということにある。
それは、ある教説などを抑圧するためには
その方法をたえず一様に適用した場合にだけ
その意図を達成する可能性があるということだ。
暴力が動揺して寛大な態度に変わるやいなや
耐え忍び苦難を乗り越えた憤激が、古い教説に新しい支持者を導き
前からの信奉者はまずます大きな反抗心と、より深い憎悪をもってこれを支持し
そのうえすでに分散してしまった変節者も危険が除かれるとふたたび古い立場に復帰しようとして
結局この教説は迫害されることで価値を増すのだ。 ★
あらゆる政治的出来事を注意深く追求したさいに
わたしは以前からずっと宣伝活動にたいへん興味をもっていた。
宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、
人々は戦争(第一次世界大戦)の間にはじめて理解した。
★
宣伝は手段であるか、目的であるか、ということについて
人々はまったくわかっていなかったらしい。
宣伝は手段である。
したがって目的の観点から判断されねばならない。
第六章 戦時宣伝 より
★
戦争をしているとき、勝ち取ろうと目指してきた目標は
人間として考えうる最も崇高かつ強力なものであった。
それはわが民族の自由と独立、将来のパン、そして国民の名誉であった。
★
愛国心、それは、今日あらゆる反対意見があるにもかかわらず、存在しており、
もっとよくいえば存在していなければならないものである。
それを持たぬ民族は、自由と独立を早晩失うのが常だ。
★
卑劣な奴隷たらんとするものは、愛国心を持ってはならないし、持つことはできない。
でなければ、むしろ愛国心はすぐさま一般的軽蔑に帰するからである。
★
人間の生活の中で与えうる最も美しくないものは、奴隷のくびきであり、
それを身につけていることである。
★
残酷きわまる武器も、それがより迅速な勝利をもたらすならば、人道的である。
ヒューマニティの問題については、モルトケがすでに次のようなことを言っている。
戦争のさいにはつねに行動の簡潔さの中にヒューマニティがある。
それゆえ最も激烈な戦闘方法がたいていそれに適するのだ、と。
★
宣伝は誰に向けるべきか?
学識ある層に対してか、それとも教養の低い大衆に対してか?
宣伝は、永久にただ大衆にのみ向けるべきである!
★
宣伝はその内容上、学術的ではない。
それはポスターがその表現自体およそ芸術ではないのと同じである。
ポスターの技術は、形や色によって大衆の注意をいかに引きつけるか、にある。 ★
宣伝の課題は大衆の注意を喚起することである。
学識がある者や、教養を求め洞察を得るために努力している者らを教化することではない。
したがって、その作用は常に感情により多く向かい、いわゆる知性に対しては
大いに制限しなければならない。
宣伝の意義は、まず大衆の視野にまでずらされねばならない。
★
宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は対象の中で最低級の者が
わかる程度に調整すべきである。
それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、
純粋の知的レベルはますます低くしなければならない。
★
宣伝において学術的な不純物が少なければ少ないほど
そして大衆の感情を考慮すればするほど、ますます狙った効果を上げることができる。
これが宣伝が正しいかどうかの最良の証拠であり
二、三の美学青年を満足させたかどうかではない。
知的に高い前提を避けるという注意はいくらしても十分すぎることはない。
★
宣伝技術とはまさしく、大衆の感情的観念界を把握して
ふさわしい形式でその注意をひき、さらに心の中にはいり込むことにある。
★
大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。
宣伝に学術的な留保や多様性を与えようとするのは間違いである。
要点を絞り、スローガン化して、継続的に繰り替えさねばならない。 ★
第一次世界大戦でオーストリアやドイツの漫画宣伝がやったように
相手を嘲笑したものは、根本的に誤りであった。
実際に遭遇してみると、たちまち相手の人々に関してまったく異なった信念を持たねばならなかった。
ドイツ兵が敵の抵抗を直接体験して、いままで自分たちを啓蒙してくれたものにだまされたと感じ
そして自己の闘争欲やあるいはまた確固たる心がまえを強化するのと反対のものが、はいってきたからだ。
気後れがしたのだ。 ★
大衆は外交官から成り立っているのではなく、また国法学者から成り立っているのでもなく
まったく純粋に理性的判断などできぬ、動揺して疑惑や不安に傾きがちな
人類の子供たちから成り立っている。
民衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮よりも
むしろ感情に任せて考え方や行動を決めるという女性的な素質を持ち、女性的な態度をとる。 ★
宣伝は短く制限し、たえず繰り返すべきである。
この堅忍不抜さが、世の中の多くの場合そうであるように、
ここでも成功にいたる第一の、かつ最も重要な前提である。 ★
すべての広告は、商売の分野でも、政治の分野でも
継続とその利用のむらのない一貫性が成果をもたらすのだ。
はじめはかれらの主張のあつかましさに、常軌を逸しているように思えたが
その後、不愉快になり、最後には信ずるようになった。
四年半後にドイツに革命が起こった。
その時のスローガンは敵の戦時宣伝から出ていた。 ★
わたしがついこの間までひどく心配していた自分の将来についての考えなどは
いまや笑わずにはおられなかった。
こんな土台の上に家を建てようなどとは、笑わずにおられようか?
第一次世界大戦での敗北後、野戦病院にて政治家を目指すと決心した事について。
「心配していた」のは、前線で毒ガス攻撃を受けて失明寸前に追いやられ、
画家として生きるのが絶望的だと思われたこと。 ★
自分が無名の人間として、何か目的に適った行動をとるためのわずかな前提さえ
持っていないことを、平凡に確認するだけであった。
(政治家を志した直後、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に参加する前の時期について)
★
絶対的真理の代わりに、
いわゆる「合目的性」とか「現実性」とかを考慮しようとするやいなや
かれの仕事は探索する人類の北極星たることをやめ
その代わりに平凡な処方箋になってしまう。
★
綱領立案者の意義は、その目標の実現によってはかられるのではなく
その目標の正しさや、それが人類の発展におよぼした影響ではかられるのである。
でなければ宗教の創始者はこの世で最も偉大な人間として数えられてはならないことになる。
なぜなら、かれらの倫理的意図の実現は、完全に近いものにすらなりえないからである。
愛の宗教すらその効果においては、その崇高な創始者の願望のかすかな反照にすぎない。
だがその意義は、愛を一般的人間的な文化や人倫やモラルを発展せしめようとする方向にあるのである。 ★
ずっと後の時代にも価値と意義を持つ目標を遂行することは
そのために戦うものにとってたいていほとんど報いられず
そして大衆に理解されることはまれである。
先を見通した将来の計画は、ずっとその後にやっと実現されうるのだし
そして一般にその利益は後世にはじめて役に立つのであるから
そんな将来の計画よりも、ビールやミルクの値下げのほうが、最初はよくわかるのである。
★
政治家の大部分は、いつもバカの親族たる一種のうぬぼれから
大衆の一時的同情を失わないために
ほんとうにむずかしい将来の計画からはいっさいはなれている。
こうした政治家の成功や意義は、もっぱら現代にあって、後世のためには存在しないのである。
小さい人間はいつもこれにいささかも気がねしないものだ。
かれらはそれで満足しているのだ。 ★
民族というものは概して、かつて現代が偉人に対して犯した罪を
その場合各自が過ぎ去った既往において償う義務を感ずるもののように思われる。
かれらの生涯と努力は、感動的な感謝に満ちた驚嘆の念で追求され
特に悲観的な時代には、くじけた心や絶望的な魂をふたたび奮い立たせることができる。
かれらは、いつかもっと民族の心に近く立つようになる人である。
フリードリッヒ大王に並んで、
ここにはマルティン・ルターやリヒャルト・ワーグナーも立つのである。
★
理念というものはどれも、
そしてそれがまた最善の理念であっても、
それ自体が目的であるかのように自負すると危険になる。
だが実際は目的のための手段にすぎないのだ。 ★
わたしにとっては、そしてすべての真の国家社会主義者にとっては
ただ一つの信条だけがある。
すなわち民族と祖国だ。
われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、
民族の子やの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、
またわが民族が万物の創造主から委託された使命を達成するまで、
生育することができることを目的としている。
★
愛国心なき軍隊は永久に警察たるにとどまり
敵前で戦闘をしうる軍隊ではなくなる。 ★
民族は敗戦それ自体によって滅亡するものだろうか?
これに対してはきわめて簡単に答えることができる。
民族が軍事的な敗北によって、自己の内面的な腐敗、臆病、無節操、
要するに無資格であることの報いを受けるのであるなら、答えはイエスである。
もしそうでないなら、軍事的な敗北は
ある民族がかつて存在したことを示す墓碑となるよりも
むしろ未来のより大きな興隆の刺激となるだろう。
★
国民大衆の心は本質的に、意識的に悪人になるというよりも
むしろ他から容易に堕落させられるものである ★
かれら自身、もちろんしばしば小さな嘘をつくのだが
しかし大きな嘘をつくのはなにしろあまりに
気恥ずかしく感じてしまうからである。
そのような大きな嘘はかれらの頭にはとてもはいり込めないし
したがって不名誉きわまる歪曲をするような
まったく途方もない厚かましさは
他人の場合でも可能だとは容易に信じえないだろう。
それどころか、このことについて説明を受けてさえも
なお長く疑いつづけ、動揺するだろうし
そして少なくとも、なにか一つくらいの理由は
やはり真実だと受け取るだろう。
したがって、実際きわめてずうずうしい嘘からは
つねになお何かあるものが残り、続いていくだろう。
以上は、この世のあらゆる大嘘つきや、大嘘つき団体が底の底まで知っており、
したがって卑劣にも利用している事実なのである。
★
新しい領土の獲得を諦め、
それを世界経済の征服という妄想で埋め合わせようとしたことは、
結局、際限のない、そして不利でもある
工業化に進まねばならなかった。
人々は唯一の正しい解決に乗り出す決心がつかず、
より安易な方法で目的を達することができると信じた。 ★
精神的な美徳が事実上、貨幣の価値の陰に隠れてしまった。
なぜなら、そんな道をまず選んだのであるから、
剣の貴族がもうわずかの間に
金融貴族の陰に引っ込まねばならなくなったのは
明らかなことだったからである。
真の英雄やあるいは政治家にとっても
そこらのユダヤ人銀行家と取引させられるのは
もう興味のないことであった。
★
個人の所有権が徐々に排除され、
株式会社の所有に全経済が次第に移行したことは、
重大な経済的没落現象であった。
だから、労働が良心のない悪徳商人の投機の対象に
下落したのも大変もっともなことであった。 ★
戦前のドイツ教育は非常に多くの弱点を持っていた。
それはきわめて一面的な仕方で、
純粋は「知識」を教え込む目的で編成され、
そして「能力」が目標となることは少なかった。
個々人の性格形成はよりいっそう軽視され、
喜んで責任を引き受ける気持ちを奨励することなどは
まったく少なかったし、
意志と決断力のための教育などは全然なかった。
その教育結果葉実際に、強い人間ではなく、
むしろ従順な「物知り」となって現れた。
★
あらゆる退廃した人間だけが、
追従を王冠の所有者と交わるための
自分たちに与えられた唯一の形式だとみなしうるのだ。
この「きわめて行儀よい」お気に入り達は、まったくのところ、
支配者や雇い主の前では非常に従順であるのに、
他の人間に対してはすでに昔から極度に
厚かましくふるまっていたのである。 ★
追従家やおべっか使いはかれらの主人のために自分を犠牲にしはしない。
君主たちがこの事情をけっして知ることがなく、
ほとんど根本的に学ぼうともしないことが、
古来かれらの滅亡の原因となっているのである。
★
人々は一般に責任を回避しはじめ、
このような理由から中途半端な方法がもっとも好んで採用された。
なにしろ、そうした方法を使用すれば、
個人で負わなければならない責任者の限度を、
つねに最小の範囲にとどめておくことが
できると思われたからである。
われわれのこの悪疫の根源はまったくのところその大部分が、
無責任がまさに純粋培養で繁殖させられている議会制度にある。 ★
残念なことは、すぐれた人間の価値が、
まさにかれらの知能にだけあるに過ぎず、
その数にはないことである。
このことは賢明であることに意味がなく、
多数がすべてであるような時代における不幸なのだ。
大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、
決定的な価値はまったく最大多数グループにある。
そしてこれこそ第一のグループ、つまり愚鈍な人々、
あるいは軽信者の群集なのである。
★
これらの人々がより低劣な、より無知な、
あるいはまったく悪意のある教育者の手に落ちるのを妨げることは
もっとも重要な国家、および国民の利益である。
国家はしたがってかれらの教育を監視し、
あらゆる不正を阻止する義務をもつ。
とくに新聞を監視しなければならない。
なぜなら、新聞の影響は、それが一時的ではなく継続して与えられるから、
これらの人間にきわめて強烈でしかも効果的であるのだ。
こうした教育が変わらぬ調子で、永遠に繰り替えされることの中に、
新聞の持つまったく比類のない意味がある。 ★
あらゆる中途半端さは内部的崩壊の兆しであり
やがて遅かれ早かれ、外部的な崩壊も生じさせずにはおかない。
★
売春は民族にとってもっとも深刻な害悪をおよぼすだろう。
一民族を徐々にではあっても、確実に滅亡させるには、
この堕落にともなう道徳的荒廃だけでもう十分である。
★
自然の感情を持った、力にあふれた子供の代わりに、
ただもう経済的な都合にかなっただけの、みじめな結果が現れてくる
なにしろ、経済上の都合が、ますます、
われわれの結婚の基礎となり、唯一の前提となるからである。
しかし、愛はどこか他のところでうさばらしをするのだ。
★
不可能に見える要求や、課題を満たすことが困難である場合には、
例外なく、一民族の全注意を、ただこの一つの問題に限って、
統一しなければならない。
しかも、その解決に実際、生死がかかっているかのように、注意させねばならぬ。
ただそのような場合にのみ、一民族は真に偉大な仕事や、
労苦を喜んで引き受け、また、それを行うこともできるだろう。 ★
征服すべき行程を、個々の段階に分割し、
またさらに諸段階を計画的に、あらゆる力をきびしく集中して、
一つずつ克服しようと努力しない者は、
けっして、究極目標にまで到達できず、
どこか道の途中で、おそらくは、道からそれてさえしまい、
まごまごしつづけるだろう。
この努力は一つの技術であり、こうして、一歩一歩行程を克服するため、
最後の精力までも、時には注入することを必要とするのだ。 ★
結婚も、それ自体を目的とするものではありえず、
種と人種の増加および維持という、
より偉大な目標に奉仕しなければならない。
これのみが結婚の意味であり、課題なのである。
このことからしてすでに、早婚は正しいのである。
★
虚弱な身体はしばしば、
人間の臆病さをもたらす
第一の原因となるのだ。
★
我々のあらゆる社会的生活は今日、
性的想像と性に対する刺激の温室に似ている。
陳列窓も、広告塔も、群集の注意を惹き付けるために、
きわめて低級な手段を使って努力が払われている。
★
かれらは早熟であり、したがってまた早く年をとってしまう。
(身体の鍛錬を十分に行わず、社会にあふれる性的刺激に身を任せる若者たちについて)
★
個人の自由の権利は、人種保存の義務の前では引っ込むのである。
★
不治の病人に、絶えず他の健康な人々に感染する可能性を
許しているのは中途半端である。
一人に苦痛を与えないために、百の他人を破滅させるがごとき人道主義に等しい。
★
この世界は力に満ちた「完全な人」のものであり、
弱々しい「中途半端な人」のものではない。
もし、自己の健康のために闘争する力がもはや存在していないとするならば
この闘争の世界において生きる権利は消滅する。 ★
ある時代の、そしてまたその時代の人々の創作物が、
卑しく、みじめであればあるほど、
それだけ以前の時代のより偉大な高尚さと、
品位の証人は憎まれるのだ。
かれら自身がただけがらわしい作品を生産したばかりではなく、
おまけに過去のあらゆる真に偉大な作品が、
かれらによって冒涜されたのである。
★
あらゆる真に価値ある人類の革新は、
過去の世代が残したすぐれた成果に、無遠慮にも結びつくことができる。
いやそれどころか、しばしばかつての成果を、
はじめて一般に認めさせるよう努力するのである。
そうした革新は、過去と比較されて、
色あせてしまうことを、少しも恐れる必要がなく、
進んで、人類文化の共有財産に
非常に価値のある貢献をするのである。 ★
革命的な新しい運動は、それ自身が劣等であればあるだけ、
ますます古い政治形態を憎むものである。
この場合でも、自分のまがいものを、なにか注目すべきものと見せかけたい一念が、
過去のより優れたよいものを盲目的に、憎悪するにいたらせる。
★
太陽の光が消えた後、はじめて月は輝くことができる。
したがって、あらゆる人類の新月連中が恒星たちを憎むのは
明白過ぎるくらい明らかなことである。
このような能無し連中が、運命によって一時的に権力に恵まれる場合、
疲れを見せることなく熱心に過去を冒涜し、汚すばかりでなく、
さらに皮相な手段でもって、自分自身を一般の批判から
免れさせようとするのが常である。 ★
ある新しい理念、教義、新世界観、
あるいはまた政治的、経済的運動が
過去全体を否定しようと努めたり、中傷したり、
価値のないものに見せようとしている場合には、
この動機からしてすでに極度に用心して、
信用しないようにしなければならない。
多くの場合、このような憎悪の理由はただ自分の低劣さだけにか、
さもなくばまた悪意そのものにあると考えられる。 ★
すでに存在している真理を利用するのを恥じる必要はない。
なにしろ、人類の全文化も人間自身も、
それぞれの世代がめいめいの建築石材を運び、
つぎ合わせていった、ただ一つの長い発展の結果であるにすぎないからである。
★
かれらはあらゆる理解不能で、
明らかに狂っているナンセンスをば
いわゆる内面的体験であると、
びっくりしている同時代の人々にいい聞かせていたのだ。
★
わが国の今日における大都市プロレタリアートが、
その住所とほとんど結合感を持たないのは、
大都市では個人の偶発的な滞在場所だけしか現実に問題にならず、
そしてそれ以上のなにものでもないことから生ずる結果である。
十九世紀になって、わが国の都市はますます文化の所在地としての
性格を失いはじめ、単なる人間の居住地に下落しはじめた。
★
わが国の大都市は、今日、都市の印象を左右し、
とにかく全時代の記念物といわれるような記念碑的作品をもっていない。
しかし、このようなものが、古代の諸都市には見られたのであり、
それらはほとんど、それぞれ誇りとすべき特別の記念建築物をもっていた。 ★
今日、国家建築と私有建築の関係は、
じつに、なんとひどいものになったことか。
ローマの運命がベルリンを襲ったと仮定してみよう。
そうすれば、子供たちは将来いつの日にか、
われわれの時代のもっとも巨大な工事として、
二、三のユダヤ人が持つ百貨店や、
いくつかの会社が経営するホテルを挙げ、
われわれの時代の文化を特徴的に表すものとして、
驚嘆することだろう。
今日、われわれが古代の世界の廃墟や荒廃した野原の中に、
わずかではあるがなおそびえている巨大なものを見て、
驚嘆するのは、昔の営業のための立派な建物ではなく、
寺院や国家の建築物であった。
★
この人間の世界で、教義なくして、宗教的信仰が
実際に続くものとは考えられない。
国民大衆は哲学者の集合ではない。
しかも、まさにこの大衆にとっては、
しばしば、信仰は倫理的世界観の唯一の基礎なのである。 ★
幾十万のすぐれた人々は、なるほど、そのようなものがなくても、
理性的に、賢明に生きてゆけるとしても、
しかし、他の幾百万の人々にはまったく欠くことのできないような、
その時々の生活様式が一般生活に対してもっているものこそ、
国家にとっては国家原理であり、
その時々の宗教にとっては教義なのだ。
宗教的教義と信仰が、あらゆる社会層を確実にとらえねばならぬというのなら、
この信仰内容が絶対的な権威をもっているということが、
あらゆる効力の基礎であるのだ。 ★
今日、しばしば、ドイツの議会政治は
「革命以後無能になった」といわれているのを聞くが、
このことは、無思慮の一例である。
その言葉によって、まるで、
革命の前はなにかそんなではなかったかのように、
ややもすれば受け取られてしまう。
現実には、この議会という制度は、まったく破壊的にしか機能しない
★
決定的な勝利は永遠に攻撃の中にのみありうる
★
宣伝を賢明に、継続して使用すれば、
国民に天国を地獄と思わせることもできるし、
逆に、きわめてみじめな生活を極楽と思わせることもできる。
★
人々は君主に十分な食事をもちろん喜んで差し上げたし、
また、君主におよそ必要な睡眠時間を妨げようなどとは
夢にも望まなかった。
人々はただ君主がいつも個性をもった人間として、
自分の一門の名前と国家に名誉をもたらし、
支配者としての義務を果たしさえすれば満足していた。
激務、勤勉、庶民的などといったおとぎ話を語るのは、
ほとんど無益であるばかりか、
かえって、よりいっそうの損害を与えたのだ。 ★
ドイツの国家官吏は、とかく、官僚主義的で、
旧式だと陰口をたたかれもしたが、
他の国々では、それだからといって、
よりましだったわけでもない。
そればかりか、もっと悪かったのだ。
その頃のドイツ官僚と行政の際立った特徴は、それらが個々の政権から独立していたことであった。
それら政府の、その時々の政治的意向は、ドイツ国官吏の地位になんの影響も与えることがなかった。
革命後は、もちろんこのことは根本的に変わってしまったのである。
知識と能力の代わりに、党派的見地が現れ、
自主的、独立的な性格は、なにかを促進するというより、
むしろ妨害するものになってしまった。 ★
コロンブスの卵は幾百千となくそこらに転がっているのであり、
ただコロンブスのような人々には、
まったくまれにしかお目にかかれぬだけである。
人間は例外なしに自然の園を歩き回り、
ほとんどあらゆることを見知っており、
理解していると思い込んでいる。
★
より強いものは支配すべきであり、
より弱いものと結合して、そのために自分のすぐれた点を犠牲にしてはならない。
ただ、生まれつきの弱虫だけが、このことを残酷だと感じるにすぎない。
なぜならば、この法則が支配しないとしたら、
あらゆる有機的生物に可能と思われる進化が、まるで、考えられなくなるに違いないからだ。
★
劣等なものは最も優れたものを、いつだって数では圧倒するものだ。
平等な繁殖の権利を与えたならば、より劣等なものは素早く増殖して、
ついに、最も優れたものは押し退けられてしまうに違いないのだ。
★
人間はどんな事柄についても自然を征服したことなどなく、
せいぜい、自然の永遠の謎と秘密を覆い隠している
途方もなく巨大なヴェールのあの端、この端をつかみ
持ち上げているにすぎない。
また彼は、本当のところ、なにものも発明などせず、全部発見したにすぎない。 ★
この世界で平和主義的思想が現実に勝利することを
心から望んでいる人があるなら、
かれはドイツ人による世界の征服を願って、
あらゆる手段を用い全力を尽くすべきであろう。
実際、平和主義的、人道的観念も、次のような場合には、おそらくまったくよいものとなろう。
つまり、最高の人間が、自分のこの地上の唯一の支配者にしてしまうほどまで、
あらかじめ世界を征服し、従わせてしまっているとしたならばの話である。
★
日常の単調さの中では、重要な人間もしばしば軽く見られ、
周囲の人々の平均以上にそびえ出ることはないのが常である。
ところが、他の人々が絶望したり、困惑するような状況が
あらわれてくるやいなや、目立たない普通の人間の中から
天才的性質がはっきりと伸長してきて、
その人間を今まで市民生活の平凡さの中で見ていた
すべての人々がびっくりすることもまれではない。
このことを観察するには戦時が一番よい機会なのである。
見たところでは無邪気な子供たちの中に、
他のものが絶望する困難な時期には突如として決死の決意と
氷のように冷たい冷静な思慮をもった英雄がぐんぐん成長する。
この試練の時期がこなければ、だれもひげの生えていない少年の中に、
若い英雄が隠れていることには少しも気がつかないに違いない。 ★
発明者は発明がなされた日にはじめて
かれの名声を確実にするとはいっても、
だが独創力そのものもまた、そのときになってはじめて
その人間の中にはいり込んだなどと考えるのは誤りである。
独創力のひらめきは真に独創的な天分のある人間の頭脳に、生まれた時から存在している。
真の独創力はつねに生まれつきであり、けっして教え込まれたり習得されたりするものではない。 ★
この世界では、よい人種でないものはクズである。
混血、およびそれによって引き起こされた人種の水準の低下は、
あらゆる文化の死滅の唯一の原因である。
なにしろ、人間は敗戦によって滅亡はしないものであり、
ただ純粋な血だけが所有することのできる抵抗力を失うことによって、
滅びるものであるからである。
★
あらゆる世界史的事件は、よかれあしかれ
もろもろの人種の自己保存衝動の表現にすぎない。
★
自分の自我の関心を、共同体の保存のために犠牲にする信念は
実際あらゆる真に人間的な文化の第一の前提条件である。
それからのみ、創始者はほとんど酬われないにしても、
後世にはきわめて豊かな繁栄をもたらす、人類のあらゆる労作は生じる。
★
たしかに後世の人々でさえも、
自分の利益にのみ耽った人は忘れて、
自分の幸福を断念した英雄をほめそやすのだ。
★
ユダヤ人は遊牧民ですらない、
つねに他民族の体内に住む寄生虫に過ぎない。
かれらはつねに自己の人種のために新たな宿主を探している。
★
運動は、満足した者や倦怠した者による組織を作るべきではなく、
悩み、苦しみ、そして煩悶している者、
不幸でありまた不満である者を結集すべきであり、
とりわけ、民族体の表面を泳ぐのではなく、
その根底に根を生やさなければならない。 ★
最上の武器も、それを用いる心の準備ができておらず、
用いようと意欲し、決意する精神が欠けている限り、
死んだ、価値のない道具に過ぎない。
ドイツ民族は、かつて武器を十二分に持っていた。
われわれは武器で自由を守ることができなかったが、
それは、国民の自己保存衝動のエネルギー、
つまり自己保存意思が欠けていたからである。 ★
無防備はかれらの臆病の結果である。
君たちの非国民的、犯罪的政策によって、君たちはかつて武器を明け渡してしまった。
★
同盟は、かれらが保有している武器とではなく、人間と結ばれる
★
決定済みの外交政策に、国民の最も活動的な部分が
きわめて消極的な態度しかとらないような国家とは
どんな国も同盟を結びたがらない。
(ドイツ国内のマルクス主義者、平和主義者等について)
★
外面的自由を回復しなければ、
すべての国内の改革自体は最上の場合でさえも、
植民地としてのわが国の収益能力の増強を意味するに過ぎない。
いわゆる経済的繁栄のすべてから生じる剰余は、
われわれの国際的管理人のだんな様方に役立つに過ぎず、
社会的改善もすべて、もっとも良い場合さえ、
この方々のために労働能率を高めるだけである。
★
かれらが少ししか抽象的な知識を持っていないことは
かれらの気持ちを感情の世界により多く住むようにさせる。
(大衆について)
★
大衆を獲得しようと欲するものは、
かれらの心の扉を開く鍵を知らなければならない。
その鍵は客観性でもなければ
したがって優柔不断でもなく、
意志と力である。
★
民衆はどんな時代でも、敵に対し容赦ない攻撃を加えることの中に
自分の正義の証明を見出す。
逆に他者の絶滅を断念することは、
自分が正しくないことの証拠とまではいかなくても
自分の正義についての不確実さと感じ取る。
『わが闘争』より ★
血液の中にだけ、人間の力も弱さもその基礎を持っている。
自己の人種的基礎の持つ意味を認識せず、
また尊重しない民族は、
グレーハウンドの速力もプードルの利発さもけっして教え込まれたのではなく、
その種に生まれつきの性質であることがわからないで、
ちんにグレーハウンドの性質を教え込もうとしているような人間に等しい。
つまり、民族の人種的保存の問題だけは根源的な意味を持っている。 ★
宣伝が有効であるためには、
それを一方に対してのみ向けなければならない。
というのは、そうしないと、問題になっている両方の陣営の知的水準が違っているから、
一方から理解されなかったり、
あるいは他方から自明のこと、したがって退屈なこととして
拒否されるに違いないからである。
個々の表現法や語調でさえも、きわめて極端な二つの階層には
同じように効果を持つことはできない。
★
今日は道路掃除夫、錠前屋、清掃屋などの聴衆を前に語り
明日は大学教授や学生の聴衆の前で必要上同じ思想内容の講演をして
同じ効果を得ることができる人間は、雄弁家の中でも百人に十人もいないだろう。
だが、錠前屋と大学教授を同時に前において、
両方の理解能力に一致するだけではなく、
両方を同じく効果的に感動もさせ、
あるいは万雷の拍手の嵐を巻き起こすまでも酔わせるようなやり方で
語り終えることができる人間は、千人の雄弁家の中におそらく一人きりだろう。
★
すぐれた理論の中でも最上の思想といったものでさえも、
多くの場合その普及はもっとも平凡な人間によってのみ為されうる。
『わが闘争』より
★
広範な階層が集った民衆集会では、
聴衆の中のインテリに知的に一番近い演説家が最上というわけではなく、
大衆の心を獲得するものが最上の演説家なのである。
そのような集会において、狙っている下層の人々の心に
演説家の影響が明らかに見られるにも関わらず、
インテリがその演説を知的なレベルという点において酷評するならば、
かれの思考作用の完全な無能さと、
この若い運動に対する彼らの人間としての無価値さが
はっきり証明されていることになる。
宣伝活動に関してもっぱらその結果によって評価することを知っており、
その宣伝が自分自身に与えた印象によって評価しないような、
そんなインテリは運動にとって価値がある人間である。 ★
成功するかどうかは、行動の正、不正についての地上の唯一の審判者である。
そして、民族にとって祝福に満ちた権力の成就こそが成功という言葉の意味である。
★
臆病なため自分の行為の結果に責任を持つことのできぬ者は
指導者となる値打ちがない。
英雄だけが指導者に適している。
★
人類の進歩と文化は多数決が産み出したのではなく、
もっぱら個人の独創力と行動力に基づいている。
★
この運動は反議会主義的であり、
運動が議会制度に参加すること自体が、
ただそれを破壊するための、
つまりわれわれが人類の最も深刻な退廃現象の一つと認めなければならない制度を
取り除くための活動という意味しか持ちえない。
『わが闘争』より ★
組織はあらゆる点において必要悪であるに過ぎない。
最良の場合でも目的のための手段であり、
最悪の場合にはそれ自体が目的となる。
最上の組織とは、指導層と支持者の間に最大の媒介者を持つものではなく、
最小の媒介者を持つものである。
★
かれらがもっとも多く誹謗する人は、
われわれにもっとも近いものであり、
かれらがもっとも極端に憎む人は、
われわれの最善の友である。
★
人々が当時われわれを攻撃したならば、
いやそれどころか嘲笑したとしても、
いずれにせよわれわれは幸福感に浸ることができたに違いない。
憂鬱だったのは、ただ完全に無視されたことである。
最初の時代には、弁士の演説を聞くために集まった人々は
わずか6、7名ということもしばしばあったが、一番困難だったのは、
この極めて小さなサークルの中に、運動の巨大な未来に対する
信念を目覚めさせ、保持していくことであった。 ★
色は原則として赤を用いた。
赤は最も刺激的な色であり、
我々の敵を最も激しく憤慨させ、挑発し、
そのことによりいずれにしてもわれわれをかれらに知らせ、
記憶させるに違いなかった。
★
ルールは自分の利益になる時だけ存在していて
得にならなければ投げ捨ててしまうような博徒を相手にしているのに
ルールに従順でいるなんて、カモ以外の何物でもない。
マルクス主義の政党を正々堂々と議会で破ったとしても、
また革命を起こされてしまっては水の泡だ。
★
財界の利益を代弁する立場をとるすべての政党にとって
その政治的闘争というものは、ただの議席のつかみ合いである。
立場や信念はご都合次第で船の砂袋のように
海中に投げ出されてしまう。
★
そうだとも、われわれはおまえたちが犯罪に値するようなバカさで
怠ってきたことを埋めあわせようとしているだけなのだ。
おまえたちの議会主義的な愚行によって、国民は奈落にひきずりこまれたのだ。
★
ただ漠然と憧れるだけでは自由を獲得することはできないし、
同様に、ある世界観に沿った理想と、その理想から導き出された要求も、
人間の純粋な感情や内心の要求だけでは実現できない。 ★
世界観というものは、
その一般的観念を各人の自由な解釈に任せておくのではなく、
政治的組織と、それによってはっきりとまとめられた形においてのみ、
闘争し、勝利をおさめるのだ。
国際主義世界観が勝利を収めたのは、
その代表として突撃隊のように組織された政党があったからだ。
反対の世界観が屈服せしめられたのは、
いままで統一的に形成されたその世界観の代表を欠いていたからであった。 ★
国家の存立が危うくなればなるほど、
国家の存在目的についての定義はますます不徹底な、
わざとらしい、わけのわからないものになる。
★
歴史においても、征服者が征服された民族に自己の言語を強制できはしたが、
しかし千年後にはその言語が他民族によって話され、
結局のところ勝者は敗者になっていた、ということがしばしばあったのだ。
雑種化のはじまりである
★
キリスト教以前のゲルマン民族を野蛮人と呼ぶことは
まったく不法なことである。
かれらは決してそのようなものではない。
ただ、北方の厳しい気候が、かれらの創造力の発展を妨げる事情を
かれらに強いていただけなのだ。
★
今日、われわれが享受している国家なるものは、
言葉にしがたい悲しみをまとった、
人類の最も深い迷走の産物にすぎない。
★
悪意はないが無批判で無関心な、
あるいは現状維持にだけ興味を持っている無数の大群が、
われわれに対立している。
★
困難さの中にこそ、闘争のための最良の闘士だけが
見出される可能性が高まる。
このような選抜方法こそが成功を保証するのだ。
小心者を、はじめから寄せ付けない、あるいは気後れされてしまう閧の声、
これが真の闘士の集合の合図になる。
★
自然は雑種をあまり好まない。
一人のものが人種的に劣っているものと結合したとするならば、
その結果はまず、水準自体が低下するだろうが、
さらに子孫が人種的に混血していない周囲のものと比較して虚弱化するだろう。
★
これ以上の混血化を根本的に停止させることが
なによりもまずゲルマン諸国家の第一の課題である。
★
健全なものだけが子供を生むべきであり、
病身であり欠陥があるにもかかわらず子供を作ることはただ恥辱であり、
むしろ子供を断念することが、最高の名誉である。
★
国家は、幾先年もの未来の保護者として考えられねばならない。
この未来と比べれば、個人の望みなど無価値として、
犠牲にしなければならない。 ★
国家は明らかに病気を持つ者や、悪質の遺伝がある者や、
さらには国家の負担となる者まで、生殖不能と宣告し、
去勢を実施すべきである。
★
国家のだらしない経済管理のために、子沢山が両親にとって呪いとなり、
健全なる女子の受胎が制限されるようなことがないようにせねばならない。
★
肉体的にも精神的にも不健康で無価値な者は、
その苦悩を自分の子供の身体に伝えてはならない。
民族主義国家はこの点において、巨大な啓蒙活動を行うべきである。
この啓蒙活動はいつの日か、今日のブルジョア時代の戦勝よりも、
もっと偉大な事業としてあらわれるであろう。
『わが闘争』より
★
病身であったり、虚弱であったりすることは、
恥ではなく、ただ気の毒な不幸であるに過ぎないが、
この不幸をただ自分のエゴイズムのために、
何の罪もない子孫に伝えていくのは、犯罪であり、恥辱である。
★
民族主義的世界観は、犬や馬や猫の品種改良にこれ以上熱中する代わりに、
人間自身をより高めていくような尊ぶべき時代、
すなわちある者は自覚して黙って断念し、
他の者は喜んで身を捧げて子供を作る、
という時代に到達するに違いない。
★
お前たちにはとても無理だ、
お前たちの世界はこういうためには向いていないのだ!
お前たちにはただ一つだけ心配がある。
つまりお前たち個人の生活だ。
そしてお前たちにはただ一つの神がある。
つまりお前たちの金だ!
だが、われわれはお前たちに用はない。
★
ある社会が多くの欠陥のもとに苦しんでおり、
それを自ら認めるばかりか、自ら告白し、
それにも関わらず、それに対して打つ手はないというような
もっともな言い訳で満足しているならば、
その社会は将来、没落する。 ★
学問的教養はさしてないが、肉体的には健康で、
善良で堅固な性格を持ち、毅然とした決断と意志力に満ちた人物は、
才知に恵まれた虚弱者よりも、民族共同体にとって価値がある。
物知りばかりの民族は、もしかれらが肉体的に堕落し、
意志の弱い、卑怯な平和主義者であるならば、
大空を征服することはもちろん、この地上に生存を確保することもできないだろう。 ★
青少年は午前と夕方に少なくとも一時間ずつ、
さまざまな種類のスポーツや体操で、
身体的に訓練されない日がないようにしなければならない。
★
ボクシングほど攻撃精神を養い、電光石火の決断力を要し、
肉体を鋼鉄のように鍛えるスポーツは他にない。
★
身体が丈夫だという確信があると、どんなに勇気が生まれ、
そのうえ攻撃精神が湧いてくるかは、軍隊をみれば一番よくわかる。
★
兵役を終えたのちに、かれには二種類の証書を交付すべきである。
一つは、その後の公的な活動を許す権利証書としての国家市民証書と、
もう一つは、結婚のため肉体的に健全たることを確認する健康証明書である。
★
まず第一に肉体的訓練に重点をおくべきであり、
その後はじめて精神的価値の促進に、
最後に知的価値の促進に重点をおくべきである。
★
生まれつきの犯罪者は、どこまでも犯罪者である。
だが犯罪者的な傾向を単に一部だけ持っているような多くの人々は、
正しい教育によって、なお民族共同体の価値ある一員になることができる。
★
教師は、原則的に、密告を奨励してまで
くだらない子供のいたずらを知ろうとすべきではない。
若いものは自分たちの世界を持っており、
かれらはある団結した連帯性を持って大人に対立している。
そしてこれは自明のことだ。
十歳のものが同じ年頃の仲間たちと結びつくのは、大人と結びつくよりも自然である。
★
かつて軍隊には、一つの命令は常に命令がないよりは良い、という原則があった。
これが青年の場合には、一つの答えは常に答えないよりはましである、と言いうる。
間違ったことを言ってしまわないかと恐れて答えないのは、
間違った答えを言うよりももっと恥ずべきことでなければならない。
この最も初歩的な原則から、青年は、実行への勇気を持つように
教育しなければならない。
意志力と決断力の養成は、責任感の助成と同様に最重要である。 ★
運命に向かって成功を保証せよと要求する者は
英雄的行為の意義を捨てる者である。
★
九十五パーセントまでが必要とせず、
それゆえまた忘れてしまうようなことは、
若い頭脳に詰め込まれるべきではない。
三十五歳か四十歳の人を例にとって、
その昔、学校で苦心して詰め込んだ知識を試してみればよい。
当時詰め込まれたものの中で残っているもののなんと少ないことか!
★
「国家」という概念は今日、明白な内容を持っていない。
だから軽薄な「愛国」教育しかできないのだ。
★
実際のところ、この共和国が存在を許されている理由は、
ただあらゆる方面に、自発的に貢ぎ物を捧げ、
領土割譲に調印する準備ができている、と確言しているためである。
この共和国は、すべての弱者が、かれを利用するものにとって
腕っ節の強い一人の男よりも好ましく思われるのと同様に
他国に同情されているのである。
★
自分の民族を愛するものは、
民族のために喜んで身を捧げる覚悟によってのみ、
それを実証するのである。
★
人々がもはや自分の地位を恥じる必要がなくなったときに、
はじめて自己の民族への誇りの基礎が存在することになる。
ある民族が、そのうち半数がみじめで、苦悩にやつれ、
あるいはまったく堕落しているならば、誰も誇りを感じないような状態である。
民族がその一員の全てに至るまで心身ともに健康であるときにはじめて、
その民族に属しているという喜びが、あらゆる場合に、
われわれが国民的誇りと名づけるあの高い感情にまで
正当に高まることができるのだ。
利益のみから発する国民感情は存在しない。
同様に、ある階級だけを包む国家主義というものも存在しない。 ★
教育の最後の仕上げは軍隊ですべきである。
★
最高の文化人種に属する数百万のものが、
まったくくだらない地位にとどまっていなければならないのに、
生まれつき半ばサルのようなものを長い間調教して
弁護士に仕上げたと信ずることは、犯罪的に荒唐無稽である。
★
国家は、たとえ何世紀かかろうとも、筋肉労働を軽視する非道な風潮を、
教育によって打ち破らねばならない。
民族主義国家は労働という概念に対して根本的に違った態度をとらねばならない。
★
各人が自己の領域でベストを尽くそうと努力しているときには、
観念的にはすべて同等であると確認しなければならない。
人を評価する場合はこの点にもとづき、報酬で評価してはならない。
★
能力は原則として教え込まれるものではなく生まれつきであるに違いない。
それゆえ自然が贈ったものであって人間の功績ではない。
★
物質的報酬は、社会のために為したことが
相応の利益をもたらした者に与えられるであろう。
だが精神的報酬は、自然から与えられ、民族共同体によって育まれた能力を
かれの民族のために存分に発揮したすべての者が要求しうるものでなければならない。
そうなれば、まじめな職工であることはもはや恥ではなく、
むしろ無能な官吏として愛する神からは日を、
善良な民衆からは日々のパンを盗むことのほうが恥になる。 ★
もし高級な知的な仕事をしたいとする動機が、
ただ高い報酬ということだけならば、それは時代が堕落している表れである。
もしこの観点がいままでこの世界の唯一の価値基準であったならば、
人類はその最大の科学的、文化的財宝を決して持たなかっただろう。
最も大きな発明、最も偉大な発見、最も革新的な学問上の業績、人類文化の最も素晴らしい記念物は、
世俗の金銭への衝動から与えられたのではない。
逆に、その産物は往々にしてまさしく富の現世的幸福を断念することを意味したのだ。
★
今日では金が生活の唯一の支配者になっているかもしれない。
けれどもいつか人間はもう一度より高い神々の前にひざまずくであろう。
多くの者は今日、金銭と財産への渇望にのみその存在理由を見つけているかもしれない。
だがそういう人間がいなくなったとて、
人類が貧しくなるほどのものはかれらの中にはほとんどいないのだ。 ★
まじめに働く者には誰でもどんな場合でも、
民族同胞として、人間として見苦しくない、ちゃんとした生活ができるように
うまく調節された賃金の等級づけを実現すべきである。
★
失敗のダメージを恐れてはいけない。
冤罪があるからといって法律をなくすことはできず、
薬があっても病人がいつも出るからといって
薬を拒否しえないのと同じである。
そんなことはただの理想論だ、この世界で実際に達成することは不可能だ、
事実上無理だ、などと言ってはならない。
★
道路掃除夫としてドイツ国の市民であるほうが、
他国の王であるよりも、
もっと大きな名誉であらねばならない。
国家の市民がドイツ国の主人である。
★
議会それ自体は必要である。
なぜなら、優れた頭脳の持ち主はまず最初に議会で頭角をあらわす可能性があり、
後にその人物に重大な権限を任せることができるからである。
★
民主主義的多数決という議会主義の原則は
決して昔から人類を支配していたものではなく、
逆に歴史的には全く短期間だけ見出されるものであり、
そしてその時代は常に民族や国家の没落の時代だったのだ。
★
歴史上しばしば見られるように、
新しい状態を作るよりも、そのための土台を築くことのほうがより難しい。
偏見や利権がファランクスのように手強く結合し抵抗してくるからだ。
★
キリスト教も、自分の祭壇を作るだけでは満足できず、
必然的に異教の祭壇を破壊するまでに踏み込まざるをえなかった。
こういう狂信的な不寛容さからのみ、
疑うことが許されぬ信仰を形成することができたのであり、
しかもこの不寛容さがキリスト教のための絶対的全体なのである。
世界観は不寛容たるべし
★
圧制はただ圧制によってのみ、
そしてテロはただテロによってのみ破ることができる。 ★
政党は妥協に傾くが、世界観は決してそうではない。
政党は相手を考えにいれるが、世界観は自己の無謬を表明する。
政党の意志が穏和であるということは、
政党に弱小な精神を持った人々を供給することになる。
そんなことでは十字軍を起こすことはできないのだ。
★
政党は世界観のための闘争を放棄し、
その代わりにいわゆる「積極的協力」によって、
現存制度という飼い葉桶のまわりにできるだけ長くとどまっていようとする。
これが政党の目的のすべてである。
★
単なる政党の綱領は、次の選挙がうまくいくための処方箋に過ぎないが、
世界観のプログラムは、既存の秩序、既存の状態、
要するに既存の世界観一般に対する宣戦布告を意味する。
簡潔な、スローガン的な短い形式にまとめる必要がある。
★
個々の兵士にしても、高等戦術の思考過程をすべて知らされてはいない。
むしろ兵士は厳格な秩序を守ることや、
自己の本分たる正義と力を熱狂的に確信することや、
そのために完全な態度をとることを、教育されているのだ。
大きな規模、大きな未来と最大の意図を持った運動の
個々の支持者においても同様であらねばならない。
ある軍隊の兵士たちの教養や見識が、
例外なく将軍並であったならば、役に立たないだろう。
同様に、政治運動もまた兵卒を必要とする。 ★
まったく同じ知的能力を持つ二百人の人間の団体は、
百九十人の知的に劣る者と、十人のより高い教養を持つ者からなる団体よりも、
統率がいっそう困難だろう。
★
世界を革新しようとする運動は瞬間にではなく、未来に奉仕するものである。
★
人間というものは、知性に根拠を持たず、
たいていは無意識に、ただ感情によってのみ支えられた
先入観に囚われていることが稀ではない。
こういった本能的な嫌悪、感情的な憎悪、決めつけられた拒否
というような柵を乗り越えることは、
欠点のある、あるいは誤った学説を正しく直すことよりも、千倍も困難である。
★
誤った概念やよからぬ知識というものは、
正しい知識を伝えることで除去することができる。
だが感情からする反抗は断じてそれができない。
ただ神秘的な力に訴えることだけが、ここでは効果があるのである。
そしてそういうことは常に文筆家には不可能であり、
ほとんどただ演説家だけが為しうるのである。
★
毎年毎年、主知主義から発刊される新聞の洪水や書籍のすべては、
よく油を塗った革の表面を流れる水滴のように、
幾百万という下層階級の人々の間をすりぬけていくのだ。
心理的に調整されていない場合は、特にそうである。
★
ある一つの同じ劇を同じ配役で、
午後三時と晩の八時に観たならば、
その効果と印象の違いに驚くことになるだろう。
時間自体が一定の影響を及ぼしているのだ。
(政治集会における演説からの知見)
★
演説家は反対者を転向させようと格闘するうちに、
次第に宣伝の心理的な機微について鋭い感覚を得るが、
文章を書くだけの人々はほとんど例外なくこの点において欠けている。
★
民衆というものはつねにそうであったし、永遠にそういうものであろう。
★
我々は熟慮を重ねた末の結論として、
マルクシズム勢力を刺激し、憤激させ、われわれの集会におびき出して叩き伏せ、
それにより人民の目を開かせるためにボルシェヴィキの赤を選んだのだ。
★
かれらは何か悪事をたくらみだしたときには、秘密を守ることができない。
そしてかれらはたいてい卵も産まないくせにコケコッコとやるのが常だったのだ。
(敵対政党の首魁たちについて) ★
白は感動的な色ではない。
それは純潔な団体には合うが、革命期の革新運動には合わないのである。
★
我々は、我らの旗の中に我々の綱領を見る。
赤の中に社会的思想を、
白の中に国家主義的思想を、
ハーケンクロイツの中にアーリア人種の勝利のための闘争の使命を、
そして同時にそれ自体永遠に反ユダヤ主義であり続ける創造的な活動の
思想の勝利を見るのだ。
★
この地上の大事業は、どれも一般に幾百万の人間の中に
すでにずっと長く存在していた希望、
多くの者の中に静かに抱かれていた憧憬を実現することにあるのだ。
★
団体同士が手を結ぶことで、弱い団体が強くなることは決してない。
だがおそらく強い団体が弱くなってしまうことは少なからずありうるし、実際あるだろう。
弱小団体の連合が強大な勢力になりうるという意見は、正しくない。
★
結合によって、諸力が自由に振る舞うことが阻まれ、
最善のものを選び出す闘争が排除され、
かくしてより健全なもの、より強いものの必然的、究極の勝利が
永久に妨害されるのである。
★
すべてこの世界で真に偉大なものは、
共同戦線によって勝ち得たようなものではなく、
常にただ一人の勝利者の成果だったということを、決して忘れてはならない。
共同戦線はそもそものやり方からして、
将来の崩壊、すでに到達したものさえ喪失する萌芽を持っているのだ。
★
権威を形作る第一の基礎は、常に人気である。
けれどもこの基礎のみに基づく権威は弱々しくて、頼りなく、不安定である。
それゆえ人気だけに頼っている権威者は、
権力を形成することによって、基礎を固めるべく
努力しなければならない。
権力、すなわち強制力の中に、権威の第二の基礎がある。
★
人気と強制力が結合し、それらがともにある程度の期間継続すると、
権威はさらにもっと固い基礎の上で立ち上がることができる。
伝統の権威がそれだ。
★
最良のものが支配している場合には、
大衆はこれに従い、
最悪のものが支配している場合にも、
大衆は控えめに言っても、何の抵抗もしない。
この中間の大衆は決して自ら闘わないからである。
★
本当の卑怯者には、死よりも恐れるものがないのだ。 ★
法律は根っからの正直者のために作られたのではなく、
動揺しやすい、意志の弱い分子のために作られたのだ。
窃盗行為についての法律も必要なのである
★
志願兵のような英雄たちには、もちろん厳格な軍規などいらない。
だが民族存亡の危機においても、全体の生命よりも
自分の生命を高く評価するような卑怯な利己主義者に対しては、必要だ。
無節操な弱虫は、ただ最も厳しい罰を適用することによってのみ、
自分の卑怯さに譲歩するのを妨げることができるのだ。
前線で人々は死ぬかもしれない、だが逃亡兵は死なねばならないのだ
★
人々は、一千万人の党では、もはや革命はできないのだ。
そういう運動においては、もはや極端な行動性を持つことができず、
中間の大衆、すなわち不精さだけがあるのだ。
(社会民主党の膨張について)
★
いわゆる「自発的な訓練」によって一定の規模以上の
軍事的な価値を持つ組織を作り上げることができると信じるのは
とんでもないことである。
ここでは、命令権の最も重要な支柱、すなわち刑罰権が欠けている。
★
歴史は、王侯が感謝するのは例外的な場合だけであることを実証している。
★
我々は秘密組織であってはならなかった。
秘密組織の目的は常に違法なものだ。
それゆえに、組織の規模が制限されてしまう。
そういう企みは何度でも失敗するだろう。
三十枚の銀貨と引きかえに秘密を漏らし、
あるいは、漏らす価値がある秘密を捏造するような密告者連中と
警察が懇意にしているというのもあるが、
それ以前に、普通の支持者もそういう場合に沈黙を守ることはできないのだ。 ★
秘密の信徒集会において仕事がされるべきなのではなく、
力強い大衆集会においてなされるべきなのであり、
そして運動はその道を、短刀や毒薬、あるいはピストルによってではなく、
街頭を征服することによって開くのである。
われわれが必要としたもの、また必要としているものは、
百人や二百人の大胆な共謀者ではなく、
われわれの世界観のための何十万という熱狂的な闘士であったし、また闘士である。 ★
突撃隊は、軍隊としてよりも、党の目的に合うような観点から訓練されるべきである。
わたしは、ボクシングと柔道のほうが、中途半端な射撃訓練よりも重要だといつも思っている。
肉体的鍛錬は、各人に自分が優越しているとの確信を植え付け、
永遠にただ自己の力の意識の中にのみ存在する信念を
各人に与えるべきである。
ドイツ国民に、スポーツで非の打ちどころなくトレーニングされた身体を持ち、
すべての者が熱狂的な祖国愛に燃え、
そして最高の攻撃精神を持つよう教育された六百万人を与えてみよ。
★
この世の未来にとって重要なことは、
プロテスタントがカトリックに打ち勝つか、
それともカトリックがプロテスタントに打ち勝つかではなく、
アーリア人種が存続するか死滅してしまうかにある。 ★
ドイツ共和国が外に向かっては弱さを示し、国内では市民を圧迫しているのに、
旧ドイツ国は国内には自由を与え、対外的には力を示したのだった。
力に満ちた国家は、その市民たちの愛と忠誠心が大きいため、
対内的には法律をあまり必要としない。
国際的な奴隷国家は暴力によってのみ
臣民に強制労働をさせることができるのである。
外国の奴隷植民地としての共和国は、
市民などはなく、せいぜい臣民がいるに過ぎない。
★
現代の交通、現代の技術は、距離と空間をますます収縮させている。
かつての国家は今日ではもはや一地方であるに過ぎず、
現代の国々は以前は大陸と同じぐらいに考えられていたのだ。
純技術的に考えれば、ドイツのような国を統治する困難さは、
百二十年前のブランデンブルグのような一地方を管理する困難さより大きくはない。 ★
わたしはあまりにも急速な、あまりにも杓子定規な組織化に反対する人間である。
たいてい死んだ機構だけが完成し、
いきいきとした組織はなかなかでき上がるものではない。
なぜなら組織は、有機的生活、有機的発展により存立していくものだからだ。
一定数の支持者を得た理念というものは、
つねにある秩序を得ようと努力するものであり、
その内面的形成は非常に大きな価値がある。 ★
すぐれた頭脳の持ち主には本能的に抵抗しようとする、
個々人を迷わす人間の弱さを計算に入れなければならない。
組織が上から機械的に作られると、
一度任命された、自分でも才能がないことを認めている頭脳の持ち主が、
もっと有能な分子が台頭してくるのを、嫉妬から妨害しようとする大きな危険が生じてくる。
★
偉大な理論家が、偉大な指導者であることは稀である。
むしろ煽動者のほうが指導者に向いているだろう。
ある理念を大衆に伝達する能力を示す煽動者は、
たとえ単なるデゴマーグに過ぎない者でもも、
つねに心理研究家であらねばならない。
★
理念を形成する才能は、指導者の才能とはまったく別物である。
人類の理想と目標を設定することと、
あるいはそれを実現することと、
どちらがより重要であるかについて争うことは、まったく無用である。
人生において非常にしばしばそうであるように、
ここでも前者は、後者なしではまったく無意味であろう。
★
理論家と組織者と指導者が一人の人物の中に結実しているのは、
この世で最上に稀に見られることである。
この結実が偉人を作るのである。
★
もしも運動が、ある世界を破壊し、そのかわりに新しい世界を建設するという意図を持つならば、
さらに次のような原則について、自分たちの指導者の間で完全に明確になっていなければならない。
すなわち、
いかなる運動も、獲得した人材をまず二大グループ、
つまり支持者と党員によりわけねばならない。
宣伝の任務は支持者を募集することであり、
組織の課題は党員を獲得することである。
運動の支持者とは、運動の目標に同意を明らかにするものであり、
党員とはその目標のために闘うものである。 ★
運動に迫りうる最大の危険は、
あまりにも急速な成果によって党員層が異常に膨張することである。
というのは、
政治運動はそれが厳しい闘争にさらされている限りは、
卑怯で利己的な素質を持っているすべての人々から非常に敬遠されるが、
その発展によって党の大成功が確実らしくなってきたり、
実際に成功がおさめられたとなると、
急速に党員を獲得しうるのが常だからである。
常勝の運動が、成功を目前にして、あるいはもっとよくいえば、
その意図がいまや実現されるという一歩手前で、
不可思議な内部崩壊を起こして闘争を中止してしまうのは、そのためである。
★
わたしは党の宣伝主導者として、
今後運動が大きくなるための基盤を準備するために、
非常に努力しただけでなく、この活動におけるたいへん過激な意見によって、
組織が最良の人材のみを獲得するように活動した。
わたしの宣伝が過激であり、挑発的であればあるほど、
ますます弱虫や小心者を威嚇して後退させ、
われわれの組織の中核部にかれらが侵入することを妨げたからであった。
自分はもともとまったく全面的に同意しているが、
それにも関わらずどんなことがあっても党員にはなれないと、
わたしに言った者が幾千いたかわからない。 ★
すべてどんなことでも、後から別の何かを見つけてくるという
まぎれもない病気にとりつかれていて、
すばらしい計画、思想、企画の一種の永続的妊娠状態にある人間がいた。
さらにかれらの最も理想的な最高の目標はたいてい、
監督機関として、他人の立派な仕事をちらりと眺めて
口をはさむ委員会を作ることであった。 ★
突然書類カバンの中から新しい国家の憲法草案を公表し、
さてこれを主権者の絶対命令で上から「実施」できる、と思ってはならない。
そうやってみることはできる。
だがその結果は、確実に生存能力のない、たいていは死産児であろう。
★
国家社会主義的な労働者は、国民経済の繁栄が、
自己の物質的幸福を意味することを知らねばならない。
国家社会主義的な使用者は、自分の労働者の幸福と満足とが、
自分の経済力の存立と発展のための前提であることを知らねばならない。
★
しかし征服者は、かれが防御者を征服しようとするならば、
防御者よりもつねに独創的でなければならない。
★
この問題を判断する際われわれがつねに忘れてはならない本質的な原則、主旨は、
外交政策ももあたただ目的に対する手段に過ぎないこと、
そして目的はもっぱらわれわれ自身の民族を振興させるものであること、こ二点である。
現在あるいは将来においてわが民族に役立つものであるか、
あるいは害をもたらすものだろうか?
という観点以外のどのような見地からも、
けっして外交政策を考えてはならないのである。
政党政治的、宗教的、人道的、あるいはそれ以外のあらゆる観点は、
完全に問題外なのである。 ★
奪われた国土は激しい抗議によって国家の膝下に戻ってくるのではなく、
戦闘力のある剣によって取り戻されるのだ。
この剣を鍛造することが、一民族の国内政策上の指導の課題であり、
鍛造作業を安全にし、戦友を探すのが外交政策指導の課題である。
★
神は臆病な民族を原則として自由にして下さらぬ
★
しかし今日、抗議や宣言、組合員の行進をもって
南ティロール問題を解決できると信じる者は、
まったく特別な無頼漢かあるいはドイツの俗物的市民である。
失われた地域の回復は、神様にいかめしく請い求めても、
あるいは国際連盟に無邪気に期待を抱いてもなされるものではなく、
武力によってだけ実現されるということについて、
ともかく、十分に知っていなければならない。 ★
今日では、南ティロールの回復のためにおしゃべりするほうが、
以前それを維持するために闘ったよりも、
当然幾らか容易であるという理由から、
かれらはまさしくそのように行動しているに過ぎない。
各人はそれぞれの分を尽くしている。
当時われわれは自分たちの血を犠牲にしたが、
今日この仲間たちはそれぞれのくちばしを磨いている。