福田恒存の名言【読売文学賞・芸術選奨・芸術院会員

1名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 10:54:54.44ID:6afvVRGw
福田 恆存(ふくだ つねあり)。生没年1912-1994。
文壇では相当冷遇されたまま亡くなったらしいが、
この人の文章のいくつかは、後世に残す価値があるように勝手に感じたので、スレを立てた。

なお、以下のレスの大半は、福田氏の死後にまとめられた、
文春文庫の『日本への遺言 福田恒存語録』(題名が説教臭いな)よりの引用となる。

56名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:46:23.40ID:6afvVRGw

他人に必要なのは、そして舞台のうえで快感を与えるのは、
個性ではなく役割であり、自由ではなくて必然性であるのだから。
(中略)生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。
その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。

57名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:48:29.01ID:6afvVRGw

私たちは、その鉱脈をほりあてたいと願っている。
劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、
一個の芸術作品に仕たてあげたいとうことにほかならぬ。
(中略)人間はただ生きることを欲しているのではない。
生の豊かさを欲しているのでもない。
ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。

>51-57
出典
『人間・この劇的なるもの (新潮文庫)』

58名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:49:04.56ID:6afvVRGw
★懐疑主義について
確かなものが一つもない世界で唯一の確かなことは、
その確かなものが一つもないということだけだ。
確かなものが一つもないということが確かなら、懐疑主義は成り立たぬ。
確信に満ちた独断が、確かなものは一つもないという判断の存在を知りながら
知らぬふりをしているのだとすれば、懐疑主義もまた、確かなものは一つもないということだけは
確かだという判断の存在に気づかぬふりをしているといわねばならない。

59名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:51:24.65ID:6afvVRGw
★和洋の比較について
西洋の近代文明を楯に日本の過去を裁くときはもちろんのこと、
西洋にたいして日本の伝統文化の優越性や特異性を明らかにしようとするときにさえ、
そこに用いられる方法はつねに西洋的であるということ、そこに問題がある。

日本的なるものの優越と存在の証明が西洋的なるものによってしか行われないとすれば、
そのようにして証明された内容、対象としての日本的なるものよりも、
むしろそうして証明してみせた形式、主体としての西洋的なるもののほうが
優れているということになりはしないでしょうか。これは一見、逆説的な論理の遊戯のように
見えるかもしれませんが、それどころか大層重要な問題なのです。

60名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:51:48.91ID:6afvVRGw
★名医について
胃腸にかぎらぬ。かぜをひいたときでも同様だ。私は自分の病気が
かぜにすぎぬことを知っている。わたしのかぜはいつも一週間で治ることを知っている。
だが、私は仕事の都合上、三日で治りたいのだ。

そんなときも医者が第一に示す関心は肺炎や肺結核の可能性である。
ありがたいことだが、困るのは、その心配が無いと決まったときに示す医者の無関心、
興味なさである。腕のある医者ほどそうらしい。たんなるかぜと知った瞬間、
かれにとって患者は無用の存在となるらしい。恐ろしい病気を背負っている人間だけが、
情熱をもって対しうるものなのである。色事師が美人にぶつかったようなものだ。
私のような単純な虚弱体質は醜女なのであろうか。

61名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:52:09.10ID:6afvVRGw
★レジャー・ブームについて
人は自分のしたいことをするために、他人と仕事の拘束から逃れ、
自分の自由になる時間、すなわち暇を獲得しようと努めてきたが、
それが手に入ってみると、眼前に開けた自由の領域の大なるのに目がくらみ、
そうして自由になって、何をする気であったか、何がしたかったのか、
それが甚だあやふやになってきたらしい。

始末に悪いのは、人は何もせずにはいられぬということである。
何かが出来る暇があって、何をしてよいかが解らなくて、しかも何もせずには
いられないという訳で、こう三拍子揃えば、人のまねをする以外に手は無くなり、
それが一番無難だということになる。

この種の受動的な反射運動をレジャー・ブームと呼び、日本人の勤勉と旺盛なる好奇心とを
自画自讃しているばかりが能ではあるまい。これもまた国民を骨抜きにする一種の
愚民政策に過ぎぬのである。元来、閑暇と自由とは何の関係もないものなのだ。
自由を閑暇という数量的な時間に還元して、それを生み、それを楽しむ経済力と
同一視したところに、近代の錯乱が始まったのである。

62名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 12:52:28.73ID:6afvVRGw
★若さについて
(引用者註:1970年前後のエッセイ)

戦争は、少なくとも敗戦は大人の責任だという奇妙な理窟が大手を振って通るようになり、
戦後は「若さ」が売物になり始めた。勿論、昔から父と子との対立は幾らでも
小説や劇の主題として扱われてきたが、戦後はそれが度を越して、質的変化を呈してきたようだ。

第一に、若い者が「若さ」を売物にしてくるなら、大人は敢えてそれに
対立するなどという野暮なことはせず、むしろ買いに廻って、
大いに商売してやろうという気になったことである。
手取り早く言えば、大人は猿廻しになって、若い者は猿にされたわけだ。

第二に、戦後の若い者は昔の若い者と異なって、ただ単に結果的に特定の大人と
対立するに至るというのではなく、、始めから大人一般という抽象概念を敵と見做し、
青春という抽象概念の特権を主張し守ろうという先入観をどこかから仕入れて来たことである。

ところが、ここ数年、若い者の間では、第一の事実に気付き、第二の事実にも何等
根拠は無いことに多少うろたえだしている者も時折見かける。大いに結構だと思う。
この機会に最後の一撃を与えるとすれば、私は次の事実に注意を促しておきたい。
二十歳の青年は五十歳の壮年より、個体としては若いが、民族や人類の年齢としては
三十年年老いているのである。原始人より近代人のほうが若さも生命力も乏しくなっている。
「若さ」の名誉に賭けても、時にはこのくらい壮大な規模で自分を眺めてみることも必要であろう。

63名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:07:48.72ID:6afvVRGw
★人権亡者について
基本的人権というといかにも近代的で聞こえがよいが、
その基底に個人としての人格が無ければ、
基本的という言葉は最低のという消極的概念に過ぎなくなる。
事実、基本的人権というのはその意味に他ならないが、
それをあたかも鬼の首でもとったような気でご大層な積極的概念に
誤訳して用いてきたため、人格無しの人権亡者が輩出したのである。

64名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:08:09.42ID:6afvVRGw
★「現代の悪魔」について
(中略)
それにもかかわらず、原水爆はやはり「現代の悪魔」である。
なぜなら、人々はこの「大悪魔」の威力に恐れて、世に「悪魔」と呼びうるものは
それのみと思いこみ、その他の「中悪魔」「小悪魔」の存在を
何程のものとも思わなくなってしまったからである。

「大悪魔」の威力を封じる運動が、ただそれだけで最高の美徳となり、
世界戦争を避けるための努力が、局地戦争の犠牲を蔽い隠す。
この、いわば価値に対する無感覚と混乱こそ、「悪魔」との取引にほかならない。

65名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:08:43.01ID:6afvVRGw
★棄権について
選挙のたびによく言われることだが、なぜ棄権してはいけないのか。
棄権してもよいということになれば、政治に不熱心な、あるいは政治の解らない市民は
気楽に棄権するだろう。そうなれば、政治に熱心な、あるいは政治の解っている市民は
相対的に二票分の権利を得たことになるではないか。

医者にもふぐ料理の板前にも資格試験がある。自動車の運転にも免許状がいる。
主権在民のその主権者が無条件無免許とは、そして誰もそれを疑わないのは、
考えてみたら不思議な話である。封建時代の君主のほうが、むしろ自分を脅す内外の
競争者を前にして、おのずとその資格と実力とを絶えず問われていたように思われる。

66名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:09:15.81ID:6afvVRGw
★憲法について
マグナ・カルタに関するジョンソン氏の見解は卓抜である。
今日、マグナ・カルタを英国憲政史の礎石として
誇っている人が多いが、決してそんなものではない。
そもそも一体何人があの一二一五年制定時の原文の全部を読んでいるかと反問し、
一九七〇年に米国オハイオ州のクリープランドで起こった挿話を紹介している。

米国独立宣言書を通行人五十名に、それが何であるかを伏せたまま読ませ、
同感の者に署名を求めたところ、ただ一人だけが署名し、他は全部拒否したそうである。
しかも、その理由がふるっている。これは「共産主義の宣伝文だ」とか
「ヒッピーの書いたものだ」とか言って相手にしなかったという。
が、彼等は日頃、聖書と同格に、独立宣言書に懸けて宣誓を行う。
どうやら何処かの国の憲法に似てきたようで気が退けて来た。

67名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:10:05.50ID:6afvVRGw
★太宰治について
太宰治は恥でもないものを恥と仮設した。悪でもなんでもないことを悪とおもいこんだ。
それゆえ、かれの十字架や神は、はなはだ低い位相に出現する。
あたかも自然主義の作家たちが情欲を醜悪と見なすことによって、
低級な精神主義を発想せしめたのと似ている。
もし十字架や神がぼくたちのまえに、出現すべくして出現するならば、
それは神を否定する徹底的な合理主義を前提としなければならない。

68名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:11:03.56ID:6afvVRGw
★史実について
疑いを捨てるところから歴史は始まる。
歴史というのは過去との附合いであり、「人の振り見て、我が振りなおせ」
というような啓蒙の仕事は、ただ歴史研究の結果として生じてくるだけのことであって、
それを目的とするのは間違っている。

家族や他人と附合うのは、相手の行動から自分に対する教訓を引っ張り出すためではない。
同様に、過去と附合うのも、それ自体が目的である。
従って、特定の過去を背負っていることは、私たちのあずかり知らぬことでありながら、
やはり背負わねばならぬ廻り合わせと考えるべきで、
その意味で、過去はいまだ消滅せざるもの、現在と同時存在しているものなのだ。

69名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:11:28.10ID:6afvVRGw
★教養について
ゲーテの修行と遍歴とは、畢竟、形成(Biludung)以外の何を意味していたのでもない。
それは環境のうちに埋没したたんなる生活者ではない。
ひたすら自己を完成し、人間性の頂点に達しようと意思する精神である。

奇怪なことに、日本ではこうした教養への意思が、
生活を遊離し書斎のうちに閉じこもり、あるいは衒学的なペダントリとむすびつき、
あるいはいわゆる自由主義的なディレタンティズムとむすびついてしまったのである。
それは尊大な事大主義であり、現実を無視した態度なのだ。

70名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:12:07.65ID:6afvVRGw
★前衛について
前衛の根本は何か。その必然性は何処にあったのか。
それは言うまでもなく、芸術不信ということに外ならない。
そこまで行かなくとも芸術家であることの不安から発したものには違いありません。

絵の場合でも音楽の場合でも、本物の前衛芸術家はその苦痛から出発したものです。
俺のやっていることはもはや芸術でも美でもないかも知れぬ、
俺は芸術家などと呼べる筋合いの物ではないかも知れぬ、
そういう不安をもって一歩を踏み出した、というよりその外に手が無かったからです。

それが今日ではどうか。皆、好い気な顔をしてやにさがっています。
先覚者にとって外に手が無かったその足掻きが、今では手になっている。
芸術でも芸術家でもないかも知れぬという不安の表現が妙に安定した様式を持ち、
しかも不安の表現であるが故に、それこそ最も現代的な芸術なのだと、
自他共に思い込んでいるらしい。この甘たれたロマン主義、即青春謳歌は
「親の苦労、子知らず」以外の何ものでもありません。

71名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:22:03.55ID:6afvVRGw
★きまじめについて1
真にむずかしいこと、真に勇気の要ること、それは誠実ではない。うそをつくことだ。
うそをつくとは、自分に誠実であることより、
他人に誠実であることを重んずる流儀にほかならない。

72名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:22:37.01ID:6afvVRGw
★きまじめについて2
諧謔や虚偽をきらう精神、それがきまじめであります。
それは人間を、自己を、つねにその限界内に閉じこめようとする精神であります。
きまじめな人間ほど、この限界が目についてしかたがないのです。
のみならず――すなわち、限界がじっさいに見えるだけではなく――
限界をのりこえることによってこっぴどく報復されるのがこわいばかりに、
なるべく動かぬようにこころがけるのです。
動きさえしなければ、限界をのりこえるような間違いはしないですみます。

こうなると限界がみえるというよりは、みずから限界を小さく設定してしまうのにひとしい。
そのいちばんいい方法は、欲望に忠実であるよりは、結果に忠実であるということだ。
みずからがなにを欲するかに耳をかたむけようとはせず、現実はいかなる欲望を
ききとどけてくれるかにのみ、ひたすら意を用いることだ。
現実が許容しそうもない欲望をいだき、これを実現しようとはかる人間にたいして、
きまじめなひとはむしょうやたらに腹を立て、ふきげんになります。
きまじめなひとというのは、実生活上のリアリストということであります。

73名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:23:14.07ID:6afvVRGw
★個性について
人間にとって個性とは何か、まずそこから考えて貰いたい。
その手掛りは戦後の教育にあります。それは強制と禁止を排し、個性を尊重した。
その結果、個性のある人間はかえって少なくなったようです。
なぜなら、個性は強制と禁止によってしか生じないからです。

人は強制され禁止されてはじめて、自分は何を強制され禁止されたら最も辛いかということを、
言い換えれば、己れが最も欲するものが何かを自覚させられ、
その強制と禁止の枠に如何に対処し、如何に抵抗するか、
その努力の仕方によって徐々に個性が形造られていくのです。

教育する者の立場から言えば、真に個性を尊重するなら、むしろ強制と禁止とによって
それを押し潰そうとすべきで、それで壊滅してしまうような個性なら、
尊重したり、育てたりするに値しないただの性癖か小主観に過ぎません。

74名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:25:27.92ID:6afvVRGw
★教育について
子供は教師や親が教えようとしたものを学ばないで、
かれらが教えようとしなかったところで、なにものかを学びとるものだ。

なるほど教師は生徒に知識や技術を教えることはできましょう。
そういう教育においては、所期の目的はまず果たされる。
が、教師はそれ以上のものを教えることはできません。
「人間的なるなにものか」を教えることはできない。
が、真に教えるに値するものは、その「人間的なるなにものか」なのです。
とすれば、教育にもっともその効力を期待したいところでは、
教育は完全に無力だということになる。

といって、私は知識や技術の教育を軽視しているのではありません。
それを私は重視します。重視するどころか、それが教育のなしうるすべてだと考えます。
今日の教育はそこにとどまるべきだというのが私の持論であります。

75名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:26:08.78ID:6afvVRGw
★幸福について
唯一のあるべき幸福論は、幸福を獲得する方法を教えるものではなく、
また幸福のすがたを描き、その図柄について語ることでもなく、
不幸にたえる術を伝授するものであるはずだ。

76名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:26:35.14ID:6afvVRGw
★俗物礼賛
俗物とは自分を現実の自分以上のものに見せかけたい人間のことである以上、
かれは本質的に理想主義者なのである。見せかけるだけでなく、
それにたいする努力と反省とがともなえば、尊敬すべき人物になりうる。

77名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:26:50.07ID:6afvVRGw
★へつらいについて
処世術的教訓――諸君がもし誰かに真向からへつらわれたとき、
それで気を良くする俗物からまぬかれようとして、不機嫌な顔を見せぬこと。
諸君はそれでいいかもしれぬが、相手は辛い。なぜなら、かれは諸君を
俗物と呼ぶことができず、自分の俗物性のなかn立ち往生しなければならなくなるから。

78名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:27:17.36ID:6afvVRGw
★おだてについて
下手に世辞を言われれば、そんな下手な世辞で気を良くする奴と
見做されているということになり、当人は不機嫌にならざるを得まい。
それでもなおかつ嬉しそうにしてみせるというのは余程修行を積んだ大人物であろう。
しかし、元来、勿論、私をも含めて、世の中に世辞の嫌いな人は存在しないはずで、
あるいは世辞のみが古今東西を通じて全人類共通の嗜好品といって良いものかも知れぬ。

79名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:27:35.61ID:6afvVRGw
★便利について
私たちが自分にとって損になるものを切り捨てる時は、
必ずそれに伴う得になるものも一緒に切捨てることになり、
その反対に、なにか得になるものを入手するときには、
必ずそれと抱合わせに損になるものも一緒に背負いこむことになる。

損だけを捨て、得だけを貰うというわけにはゆかない。
それは取引の原理である以上に、附合いの原理である。
なぜなら取引の場合には、差引勘定が出来る。
が、附合いの場合には、それが出来ないからである。

昔はあったのに今は無くなったものは落着きであり、
昔は無かったが今はあるものは便利である。
昔はあったのに今は無くなったものは幸福であり、
昔は無かったが今はあるものは快楽である。
幸福というのは落着きのことであり、快楽とは便利のことであって、
快楽が増大すればするほど幸福は失われ、便利が増大すればするほど落ち着きが失われる。
まったく奇妙なことだが、人は暇をこしらえて落着きたいと切望し、
そのために便利を求めながら、その便利のおかげでやっと暇が生じたときには、
必ずその暇を奪い埋めるものが抱合わせに発明されているのだ。
つまり、便利は暇を生むと同時に、その暇を食潰すものをも生むのである。

80名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:29:29.78ID:6afvVRGw
★一夫一婦制について
私の考えによれば、道徳もまた自然科学上の諸原理と同様、仮説に過ぎない。
もともと絶対的な善というものはないのである。
だが、仮説にしても、それがあるのとないのとでは大違いだ。
一夫一婦制も仮説である以上、あらゆる結婚の現実に適用できる鍵にはならないし、
論者の言うように大部分の結婚がこの仮説に反している。
しかもなお相変らずこの仮説は生きているし、役に立っている。

なぜなら、私たちは一夫一婦制のもとでは浮気も出来るし、
雑婚に近い性の放縦を楽しむことも出来るが、反対に雑婚社会では
一夫一婦制の長所を享受することは出来ないからである。
言いかえれば、一夫一婦制には貞潔と放縦とがあるのに、雑婚には放縦しかなく、
それも、貞潔という反対概念のない放縦だけでは、放縦にすらならず、
要するに元も子も失ってしまうのである。どう考えても損ではないか(中略)

一夫一婦制は普遍的理念として存続せしめなければならない。
ただし、これに反逆するのは個人の自由である。欲するもの、能力あるものは
ドン・フアンにでも、ドンナ・フアンナにでもなるがいい。望むらくは、
それに理窟をつけないことだ。同志を募らないことだ。よろしく孤軍奮闘すべきである。

81名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:29:48.31ID:6afvVRGw
★隣人愛について
救世軍の共同鍋に銭を投げこむものにだけ生きる権利を認めるという一切の思想は、
疑いもなく愛の否定である。ところが、おのれの欲望を殺して
共同鍋に銭を入れる意思を称して、ひとびとは愛と呼んでいる。
そこで、たれもかれもがその仲間入りをしようと
あせる――ただただ最後の分け前に預かりたい一心で。
ここまでくれば、愛とはさもしさであり、エゴイズムの奸計にすぎない。
奸智にたけたエゴイズムが愚直なエゴイズムを罵倒し
処刑せんとする――ひと呼んで、これを啓蒙という。

82名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:30:46.06ID:6afvVRGw
★善意について
人間のうちには、善意と悪意と二つの心の働きがあるのではなく、
ただ生きたいという一つの心の働きがあるのだと、私には思われるのです。
そうだとすれば、私たちは善意が周囲の条件の違いによって、
悪意に転じうることを知っておかねばならないし、
それがどこまで転落しうるか、どこでとどまるかということ、
つまり落ちうる悪意の底の深さは見とどけておかねばならないと思うのです。

83名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:37:21.92ID:6afvVRGw
★エゴイズムについて1
自己のエゴイズムを否定的に省察の俎上にのせ、剥皮の苦しみを
演じてみせること――これは自己批判ではなく、
つまりは他人にたいする暴力にほかならぬ。

なぜなら、エゴイズムはぜったいに否定できぬからだ。
それは生そのものであって、それを否定するとなれば、
生そのものすら否定しなくてはならぬ。
エゴイズムがついに否定し抹殺しきれぬものであるとすれば、
たとえ自分を苦しめることによってにしろ、これを否定せんとする身ぶりは、
いたずらに相手を脅迫することにしかならない。

84名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:37:37.45ID:6afvVRGw
★エゴイズムについて2
欧米の自由主義から譲り受けた観念的な表象と、儒教の道徳観とは、
わが国においては単なる分銅の役割しか果たしえなかった。

悪という現実の実態を解決せんとして、その内部から高くもちあげられたものとしての
善、ないしは理想ではなく、それは悪の外部にあり、悪と対立して精神の均衡を
計ろうとする形式的な存在としての意味しかもちえなかったのである

ひとの耳を楽しませる鳥の声は、その肉体的なエゴイズムから発している。
ぼくたちの目を喜ばせる花の美しさは、その根の強烈な生存欲の昇華にすぎない。
とすれば、人間の心理のみがこの自然の法則の例外であるはずはない。

85名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:41:12.99ID:6afvVRGw
★エゴイズムについて3
人それぞれにおける他人との附合い方は、
その人の自分自身との附合い方とまったく一致します。
誰とでも反りの合わない人というものは、結局は自分自身と反りの合わない人、
自分で自分を扱いかねている人であります。
言い換えれば、自分のエゴイズムをどこで発散させ、
どこで抑制したらよいか、その手心を心得ていない人です。

86名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:42:40.42ID:6afvVRGw
★死について
私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはてている。
いいかえれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしか過ぎぬ死以外に、
なんの完結も終止符もない人生に、倦み疲れているのだ。

私たちの本能は、すべてが終ることを欲している。フロイトやロレンスにならっていえば、
人間のうちには生への欲求と同様に死への欲望がある。
いや、私たちは生きようとする同じ欲求のうちに死なんとしているのだ。
この二つの欲望は別のものではない。死は生を癒すものであるばかりでなく、
それを推進させるものなのだ。終止符が打たれなければ、全体は存在しないし、
全体を眼のまえに、はっきりと見ることができない。

87名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:49:48.57ID:6afvVRGw
★孤独について
私は北京で秋を発見し、旅情というものをはじめて知った。
同時に、私は北京において、完全な孤独というものを、生れてはじめて経験した。
私はそのときみごとにこの世界から消滅してしまえたのだ。
私が北河沿や天橋や陶然亭の付近を歩いているとき、私は誰からも失われていた。
そして私もすべてを失っていたが、これほどぜいたくな所有は、他にありえないであろう。
私はすべてを失いながら、すべてを所有していた。なぜなら私は完全に自分自身でありえたから。
だれかと別れて、ふたたびだれかに会うまで、いいかえれば、だれかに見失われて、
ふたたびだれかに発見されるまで、その間における孤独の自由、
私はそれを北京ではじめて経験したが、なにも海外旅行にかぎらぬ、多かれ少なかれ、
私たちのうちにひそむ旅情には、そういう状態にたいする憧れがあるのであろう。

88名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 13:51:51.78ID:6afvVRGw
★無について
ぼくはいかなる作品にたいしても、自己の機能的役割を適応させることによって、
肯定的な敬意を引き出すこともできれば、その反対に徹底的な否定の斧を
ふるうこともできる自分をひそかに感じている。他の批評家と意見が相違することなど
たいした問題ではない――ぼくはつねにぼく自身にたいして反対意見を提出することができる

89名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:40:25.08ID:6afvVRGw
★窮屈について
私はここ数年、仕事をするのに椅子を用いているが、
坐るのに慣れた私の肉体的条件のせいか、それとも椅子が悪いためか、
ほんの五分くらいで、いつの間にか私は椅子の上にあぐらをかいている。

が、肘掛け椅子はあぐらには適しない。窮屈である。
私は脚の始末に苦心する。一時間、二時間と経過していくあいだに
私の姿勢はいろいろに変化の妙をきわめる。説明するのはむずかしい。
それに沽券にかかわる。要するにみっともないのである。

私ばかりではない。誰にとっても、この世は「坐り心地の悪い椅子」だといえば、
理に落ちすぎるであろうか。

90名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:48:56.07ID:6afvVRGw
★エゴイズムについて
私は、ある人が、あるいはある国が、エゴイスティックな行動に出たからといって、
それだけで不信を表明する気にはなれません。おたがいさまだと思うからです。
が、その人が、その国が、自己のエゴイズムを否定する用意がないとき、
その原理をもたぬとき、私はかれを信用できず、危険な相手だと思うのです。

91名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:49:30.53ID:6afvVRGw
★相対主義について
相対主義にとらえられた現象というものは、たえず流動している。
流動しているものしか見えないのが相対主義です。
それは量の世界しか見えない。質の世界とは無関係です。

92名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:49:44.97ID:6afvVRGw
★手段と目的について
一口に手段とか目的とかいっても、そうかんたんに分けられない。
どっちが目的で、どっちが手段などといいきれたものではありません。
さらに重要なことは、私たちがひとたび、ある行為に身をゆだねた場合、
もはや手段と目的との分離は消滅するということです。
それが生きるのは事前の議論のときだけだが、その議論すらひとつの行為であって、
手段と目的との分離のきかぬ点では同様です。

いいかえれば、私たちの手段を考えていることは、それ自身つねに目的であります。
それは、この人生では実験も予行演習もきかないという事実とおなじで、
手段と目的を分けて考え、目的のほうが大事だとかなんとかいうのは、傍観者の思考にすぎません。
民衆にとっては、いや、まともに生きているものにとっては、目的は手段のうちにあり、
手段の遂行そのものが目的なのです。したがって、手段の変更は、目的の変改であり、
裏切りであり、無節操であるわけなのです。

93名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:50:31.41ID:6afvVRGw
★習慣について
初めに私というものがあって、その私が習慣を身につけるのではない。
習慣というものがあって、はじめて私があるのである。頭を切換えたら、私はなくなる。
習慣を習慣なるがゆえに軽蔑して、頭の切換え運動を続けてきた日本の近代史は、
そのまま日本の自己喪失史である。

94名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:51:08.33ID:6afvVRGw
★言語について
言葉は手段であると同時に目的そのものである。
自分の外にある物事を約束にしたがって意味する客観的な記号であると同時に、
自分のうちにある心の動きを無意識に反射する生き物なのである。

一語一語がそういう働きをもっている。
ある人がある時に、「あわてる」ではなく「狼狽する」を選んだことには、
適否は別として、意味とは別の世界に、その人、その時の必要があるはずで、
その限りにおいては、彼自身すら充分に自由、かつ意識的ではありえない。
彼が言葉を選ぶのではなく、言葉のほうがその時の彼に近づいて来て、彼を選ぶのである。

95名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:51:33.41ID:6afvVRGw
★言語について2
よく人は言葉は自分の意や心を他人に伝える道具だというが、
もしそれが道具なら、相手の手もとまで届かぬ梯子の如く不完全なものであり、
人はそのもどかしさに悶え足掻く。意も心も他人には絶対に伝わらぬ。
伝達可能な意や心は伝達するに値しない。言葉は伝達の具ではなく、訴への具である。
そういう言葉だけが生きた言葉であり、生きた言葉で貫かれた文章だけが
有機体のリズムを持ちうる。

96名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:51:53.46ID:6afvVRGw
★芸術について
ユートピアならざる素の人生はなんびとにも芝居を許さない。演戯の自由を与えない。
ひとびとはしかたなく芸術というものにすがりつくのであります。
いくら芝居気の多い芸術家にしても、実生活では、芝居をしとおすわけにはいかぬ。
が、芝居気が多いものは、他人の芝居にすがりつくだけではがまんできないのです。
そこで、自分の芝居気をもっともよく満足させてくれるような架空の世界をつくって、
わずかに自分を慰める。それが芸術というものです。

97名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:52:17.75ID:6afvVRGw
★信頼について
大人は不純で、青少年は純粋だというのは、はなはだ粗雑な考え方のようです。
私は自分の若い頃を憶いだしてみて、
青少年がそれほどに純粋だったとは、どうしても考えられない。

私はいろいろなことを知っていました。また感じていました。
両親の口にのぼるお愛想や、その生活のしかたに、ときどきうそやずるさが混じっているのを、
けっして見のがしはしませんでした。それだからといって、かれらを責める気にはならない。

かれらはうそをつかねば生きられなかったのだし、私自身、かれらのうそによりかかって
生きていたからです。当時、青少年としての私が感じていたことは、大人たちはうそばかり
ついているのではなく、純粋な面もあり、うそはつきたくないと思っているのだということ、
さらに、そのうそのなかにも一片の真実があるということ、
最後に、私自身、その種のうそをつきかねないということでした。
私は総体として大人を信じていいとおもっていました。

そのころも今も、私は、なんどかその信頼を裏切られました。しかし、私は性こりもなく、
また信頼する。人間は総体として信頼していいのだとおもいなおすのです。

もし青春という言葉に真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。
不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。
たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。

98名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:53:11.01ID:6afvVRGw
★人生論について
人生論がときどき復活するのは、目的を見うしなったからではありません。
手段と結びつかない目的論ばかりが亡霊のように横行しすぎるからです。
目的がないからではなく、目的がありすぎるからだ。一般の民衆が社会生活のなかで、
具体的にどう手をつけていいかわからないような目的論が流行すれば、かれらはその目的と
自分との間にギャップを感じてとまどうばかりです。人生論にすがりつくのは自然でしょう。

99名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:53:33.46ID:6afvVRGw
★元号について
元号廃止の動機の一つは天皇制廃止、もしくは軽視の意図であるが、
これは開化主義と同じで、君主制は保守的であり、共和制は進歩的であるという
何の根拠もない浅薄な考え方に基づいている。

そして同様に元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす。
エリザベス朝文化、ウィクトリア朝文化と同様に、
元禄・天明の文化と言わねばならぬ歴史的事実があるのだ。
それを西暦一本で片づけろといわれたら不便きわまりない。
試みにこの私の文章の江戸、明治、大正、戦前をすべて西暦で表記しなけらばならぬとしたら、
どうなるか考えて見るがいい。第一、クリスチャンでない日本人、ユダヤ人、アラビア人が
何でクリスト教紀元にのみ附合わねばならぬのか。現在、国際法と国内法と両建てで
行かねばならぬ限り、西暦と元号の両建ては改めて問題にするまでもなく当然のことであろう。

100名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:54:00.12ID:6afvVRGw
★文明について
文明とは、自然や物や他人を自分のために利用する機構の完成を目ざすもので、
決してそれと丹念に附合うことを教えるものではない。
それは当然「インスタント文明」を招来する。

人々は忙しさと貧しさから逃げようとして、人手を煩わさず、
自分の手も煩わすまいとし、そうするために懸命に忙しくなり、貧しくなっている。
もちろん、今さら昔に戻れない。出来ることは、ただ心掛けを変えることだ。
人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。

101名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:54:35.97ID:6afvVRGw
★劇について
私は個人の主張などというものに、もはやなんの興味も感じない。
個性や心理の、いかに微細な分析も、いまの私にはなんら新鮮な驚異や喜びを与えない。
すべてはわかりきったことだ。それらは季節に開花する路傍の花ほどにも、
私の目を惹かぬであろう。

が、作者の思想と現実の分析となくして、現代文学はなりたたぬ。
問題は、それが路傍の花にどう道を通じているかである。
私ばかりではあるまい。私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、
生きた花なのではないか。シェイクスピアから私たちが受けとるものは、
作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。
シェイクスピアは私たちに、なにかを与えようとしているのではなく、
ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。
それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものなのだ。

102名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:54:53.28ID:6afvVRGw
★役割について
一口にいえば、現実はままならぬものなのだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。
現実の生活では、主役を演じることができぬ。いや、誰もが主役を欲しているとはかぎらぬ。
誰もがその能力に恵まれているともかぎらぬ。
生きる喜びとは主役を演じることを意味しはしない。端役でも、それが役であればいい。
なにかの役割を演じること、それが、この現実の人生では許されないのだ。

103名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:55:12.55ID:6afvVRGw
★無意識の教育について
真に人間教育と呼びうるものは、教師が意識しなかったところで授受される。
教室で算数を教える教師は、そして二プラス二は四という純粋な知識だけを教えている教師は、
どうして他のことを教えずにすませるでしょうか。「民主主義」や「平和」を教えても、
先生自身がそれを身につけていないならば、生徒は結構、利己心や闘争心を養成される。
そういう影響力は教場においてもっとも強力に働くものです。

それなら、知識だけを教える過程において、同時に、
知識にたいする態度がおのずと生徒に伝わるということも否定できますまい。
そこから注意力や判断力が、さらに公正、誠実、忍耐などの美徳が生れてきましょうし、
お望みとあれば、「親孝行」の美徳も「社会性」の美徳も養われるといってもいい。

教科における徳目としてではなく、こうして教える側の無意識のうちに
授受される人間教育こそ、大事なのではないでしょうか。
ここに、教育は知識教育にとどまるべきだという現実主義的なペシミズムと、
真に教えるに値するものは知識ではなく「人間的なるなにものか」であるという
理想主義的なオプティミズムとは、充分に両立しうるのであります。
一方が無ければ、また他方も生じないでしょう。

104名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:55:28.83ID:6afvVRGw
★自己犠牲について
道徳の根本は自己犠牲という観念をおいて他にない。
自己犠牲も観念なら、利己心も観念であり、そして道徳もまた観念である。
言換えれば、すべては言葉に過ぎぬ。あるいは夢だと言ってもよい。
人間の心に自己犠牲という夢が宿った時、その夢の中に利己心というものの形が
見えてきたのである。両者は陽画と陰画との関係にあって、一方が無ければ他方は無い。
のみならず、自己犠牲という果てしない夢を見始めると、
自己犠牲そのもののうちにさえ利己心を見ずにはいられなくなるものなのだ。

完璧な自己犠牲など見たことがない、そんなものは偽善に過ぎぬ、
「立派な幻想などは抱かないで、自分に出来る程度の行為を」考えたほうが良いと言うが、
「自分」もまた夢であり、「自分の出来る程度」というのも夢である。
「自分の生活を豊かにする」というのも、それが「人生の目的」だというのも夢である。
もし夢という言葉が文学的で気にかかるなら、それを独断という言葉に置換えてみるがよい。

一体、「自分の出来る程度」というのを、誰が、どういう物差しで割出したのか。
自分はこれしか出来ぬと決めるのは独断ではないか。
それにしても、これしか出来ぬというのは、それ以上したい善があっての上の話である。
善という夢が無ければ、そしてその最高善の自己犠牲という夢が無ければ、
「自分の出来る程度」即ち身の程すら解らず、自分というものもまた存在しないのである。

105名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 15:32:37.40ID:6afvVRGw
★躾について
もし言葉遊びや居ずまいのような躾が、戦争中、あるいは敗戦後の混乱時に何よりも
大事なことだと考える政治家や学者や教育者が何十人かいたら、
あのような大学騒動は決して起こらなかったであろう。
躾は理窟ではない。無条件の強制である。なぜ膳の上に足を乗せてはいけないのか、
なぜ「行って参ります」といわなければならないのか、三歳や五歳の子供に向って、
誰がそれを論理的に説明しうるか。強制的な繰返しを以てするほかは無いのである。

106名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 15:33:10.70ID:6afvVRGw
★紀元節について
かつて私は「建国記念の日」反対運動に反対した。
お蔭で売物の保守反動を通り越し極右翼扱いされるに至った。
私が望んだのは「建国記念の日」などという「休日」ではなく、
紀元節という「祝日」なのであり、
これを突破口としての祝祭日の再検討と制定し直しなのである。
戦後の「祝日」と称するものはほとんどすべて「休日」に過ぎない。
それだけの事なら、そんなものは全廃して毎週土日連休にしたほうが
働くにも遊ぶにも遥かに効率がよい。

祝祭日が休日と違うのは、それに儀式や行事が伴い、それを通して国民、あるいは集団が
連帯感を確認することにある。その点で多少とも「祝日」の名に値する戦後の「祝日」は
メーデー一日あるのみと思うが如何。「建国記念の日」は憂国という国民的連帯感の
養成については、階級的連帯感の目覚めを促すメーデーに遠く及ばなかった。

保守革新を問わず政治家諸君には文化というものがまったく解ってないらしい。
解っているのは文化政策という名の政治至上主義だけである。
が、政治は文化の一分枝ではあっても、文化は政治の一翼を担うものではない。
とすれば、次の選挙の時は、保守革新両政党とも、一年の祝祭日をどう決めるか、
その形式をどうするか、何よりもその一事を明らかにしてもらいたい。
そのほうが聞き倦きたイデオロギーや政策を繰返されるより、それぞれの政党の
「人格」が余程よく解り、これ以上便利な「選挙案内書」はないというものである。

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