福田恒存の名言【読売文学賞・芸術選奨・芸術院会員

1名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 10:54:54.44ID:6afvVRGw
福田 恆存(ふくだ つねあり)。生没年1912-1994。
文壇では相当冷遇されたまま亡くなったらしいが、
この人の文章のいくつかは、後世に残す価値があるように勝手に感じたので、スレを立てた。

なお、以下のレスの大半は、福田氏の死後にまとめられた、
文春文庫の『日本への遺言 福田恒存語録』(題名が説教臭いな)よりの引用となる。

90名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:48:56.07ID:6afvVRGw
★エゴイズムについて
私は、ある人が、あるいはある国が、エゴイスティックな行動に出たからといって、
それだけで不信を表明する気にはなれません。おたがいさまだと思うからです。
が、その人が、その国が、自己のエゴイズムを否定する用意がないとき、
その原理をもたぬとき、私はかれを信用できず、危険な相手だと思うのです。

91名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:49:30.53ID:6afvVRGw
★相対主義について
相対主義にとらえられた現象というものは、たえず流動している。
流動しているものしか見えないのが相対主義です。
それは量の世界しか見えない。質の世界とは無関係です。

92名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:49:44.97ID:6afvVRGw
★手段と目的について
一口に手段とか目的とかいっても、そうかんたんに分けられない。
どっちが目的で、どっちが手段などといいきれたものではありません。
さらに重要なことは、私たちがひとたび、ある行為に身をゆだねた場合、
もはや手段と目的との分離は消滅するということです。
それが生きるのは事前の議論のときだけだが、その議論すらひとつの行為であって、
手段と目的との分離のきかぬ点では同様です。

いいかえれば、私たちの手段を考えていることは、それ自身つねに目的であります。
それは、この人生では実験も予行演習もきかないという事実とおなじで、
手段と目的を分けて考え、目的のほうが大事だとかなんとかいうのは、傍観者の思考にすぎません。
民衆にとっては、いや、まともに生きているものにとっては、目的は手段のうちにあり、
手段の遂行そのものが目的なのです。したがって、手段の変更は、目的の変改であり、
裏切りであり、無節操であるわけなのです。

93名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:50:31.41ID:6afvVRGw
★習慣について
初めに私というものがあって、その私が習慣を身につけるのではない。
習慣というものがあって、はじめて私があるのである。頭を切換えたら、私はなくなる。
習慣を習慣なるがゆえに軽蔑して、頭の切換え運動を続けてきた日本の近代史は、
そのまま日本の自己喪失史である。

94名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:51:08.33ID:6afvVRGw
★言語について
言葉は手段であると同時に目的そのものである。
自分の外にある物事を約束にしたがって意味する客観的な記号であると同時に、
自分のうちにある心の動きを無意識に反射する生き物なのである。

一語一語がそういう働きをもっている。
ある人がある時に、「あわてる」ではなく「狼狽する」を選んだことには、
適否は別として、意味とは別の世界に、その人、その時の必要があるはずで、
その限りにおいては、彼自身すら充分に自由、かつ意識的ではありえない。
彼が言葉を選ぶのではなく、言葉のほうがその時の彼に近づいて来て、彼を選ぶのである。

95名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:51:33.41ID:6afvVRGw
★言語について2
よく人は言葉は自分の意や心を他人に伝える道具だというが、
もしそれが道具なら、相手の手もとまで届かぬ梯子の如く不完全なものであり、
人はそのもどかしさに悶え足掻く。意も心も他人には絶対に伝わらぬ。
伝達可能な意や心は伝達するに値しない。言葉は伝達の具ではなく、訴への具である。
そういう言葉だけが生きた言葉であり、生きた言葉で貫かれた文章だけが
有機体のリズムを持ちうる。

96名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:51:53.46ID:6afvVRGw
★芸術について
ユートピアならざる素の人生はなんびとにも芝居を許さない。演戯の自由を与えない。
ひとびとはしかたなく芸術というものにすがりつくのであります。
いくら芝居気の多い芸術家にしても、実生活では、芝居をしとおすわけにはいかぬ。
が、芝居気が多いものは、他人の芝居にすがりつくだけではがまんできないのです。
そこで、自分の芝居気をもっともよく満足させてくれるような架空の世界をつくって、
わずかに自分を慰める。それが芸術というものです。

97名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:52:17.75ID:6afvVRGw
★信頼について
大人は不純で、青少年は純粋だというのは、はなはだ粗雑な考え方のようです。
私は自分の若い頃を憶いだしてみて、
青少年がそれほどに純粋だったとは、どうしても考えられない。

私はいろいろなことを知っていました。また感じていました。
両親の口にのぼるお愛想や、その生活のしかたに、ときどきうそやずるさが混じっているのを、
けっして見のがしはしませんでした。それだからといって、かれらを責める気にはならない。

かれらはうそをつかねば生きられなかったのだし、私自身、かれらのうそによりかかって
生きていたからです。当時、青少年としての私が感じていたことは、大人たちはうそばかり
ついているのではなく、純粋な面もあり、うそはつきたくないと思っているのだということ、
さらに、そのうそのなかにも一片の真実があるということ、
最後に、私自身、その種のうそをつきかねないということでした。
私は総体として大人を信じていいとおもっていました。

そのころも今も、私は、なんどかその信頼を裏切られました。しかし、私は性こりもなく、
また信頼する。人間は総体として信頼していいのだとおもいなおすのです。

もし青春という言葉に真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。
不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。
たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。

98名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:53:11.01ID:6afvVRGw
★人生論について
人生論がときどき復活するのは、目的を見うしなったからではありません。
手段と結びつかない目的論ばかりが亡霊のように横行しすぎるからです。
目的がないからではなく、目的がありすぎるからだ。一般の民衆が社会生活のなかで、
具体的にどう手をつけていいかわからないような目的論が流行すれば、かれらはその目的と
自分との間にギャップを感じてとまどうばかりです。人生論にすがりつくのは自然でしょう。

99名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:53:33.46ID:6afvVRGw
★元号について
元号廃止の動機の一つは天皇制廃止、もしくは軽視の意図であるが、
これは開化主義と同じで、君主制は保守的であり、共和制は進歩的であるという
何の根拠もない浅薄な考え方に基づいている。

そして同様に元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす。
エリザベス朝文化、ウィクトリア朝文化と同様に、
元禄・天明の文化と言わねばならぬ歴史的事実があるのだ。
それを西暦一本で片づけろといわれたら不便きわまりない。
試みにこの私の文章の江戸、明治、大正、戦前をすべて西暦で表記しなけらばならぬとしたら、
どうなるか考えて見るがいい。第一、クリスチャンでない日本人、ユダヤ人、アラビア人が
何でクリスト教紀元にのみ附合わねばならぬのか。現在、国際法と国内法と両建てで
行かねばならぬ限り、西暦と元号の両建ては改めて問題にするまでもなく当然のことであろう。

100名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:54:00.12ID:6afvVRGw
★文明について
文明とは、自然や物や他人を自分のために利用する機構の完成を目ざすもので、
決してそれと丹念に附合うことを教えるものではない。
それは当然「インスタント文明」を招来する。

人々は忙しさと貧しさから逃げようとして、人手を煩わさず、
自分の手も煩わすまいとし、そうするために懸命に忙しくなり、貧しくなっている。
もちろん、今さら昔に戻れない。出来ることは、ただ心掛けを変えることだ。
人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。

101名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:54:35.97ID:6afvVRGw
★劇について
私は個人の主張などというものに、もはやなんの興味も感じない。
個性や心理の、いかに微細な分析も、いまの私にはなんら新鮮な驚異や喜びを与えない。
すべてはわかりきったことだ。それらは季節に開花する路傍の花ほどにも、
私の目を惹かぬであろう。

が、作者の思想と現実の分析となくして、現代文学はなりたたぬ。
問題は、それが路傍の花にどう道を通じているかである。
私ばかりではあるまい。私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、
生きた花なのではないか。シェイクスピアから私たちが受けとるものは、
作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。
シェイクスピアは私たちに、なにかを与えようとしているのではなく、
ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。
それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものなのだ。

102名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:54:53.28ID:6afvVRGw
★役割について
一口にいえば、現実はままならぬものなのだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。
現実の生活では、主役を演じることができぬ。いや、誰もが主役を欲しているとはかぎらぬ。
誰もがその能力に恵まれているともかぎらぬ。
生きる喜びとは主役を演じることを意味しはしない。端役でも、それが役であればいい。
なにかの役割を演じること、それが、この現実の人生では許されないのだ。

103名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:55:12.55ID:6afvVRGw
★無意識の教育について
真に人間教育と呼びうるものは、教師が意識しなかったところで授受される。
教室で算数を教える教師は、そして二プラス二は四という純粋な知識だけを教えている教師は、
どうして他のことを教えずにすませるでしょうか。「民主主義」や「平和」を教えても、
先生自身がそれを身につけていないならば、生徒は結構、利己心や闘争心を養成される。
そういう影響力は教場においてもっとも強力に働くものです。

それなら、知識だけを教える過程において、同時に、
知識にたいする態度がおのずと生徒に伝わるということも否定できますまい。
そこから注意力や判断力が、さらに公正、誠実、忍耐などの美徳が生れてきましょうし、
お望みとあれば、「親孝行」の美徳も「社会性」の美徳も養われるといってもいい。

教科における徳目としてではなく、こうして教える側の無意識のうちに
授受される人間教育こそ、大事なのではないでしょうか。
ここに、教育は知識教育にとどまるべきだという現実主義的なペシミズムと、
真に教えるに値するものは知識ではなく「人間的なるなにものか」であるという
理想主義的なオプティミズムとは、充分に両立しうるのであります。
一方が無ければ、また他方も生じないでしょう。

104名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 14:55:28.83ID:6afvVRGw
★自己犠牲について
道徳の根本は自己犠牲という観念をおいて他にない。
自己犠牲も観念なら、利己心も観念であり、そして道徳もまた観念である。
言換えれば、すべては言葉に過ぎぬ。あるいは夢だと言ってもよい。
人間の心に自己犠牲という夢が宿った時、その夢の中に利己心というものの形が
見えてきたのである。両者は陽画と陰画との関係にあって、一方が無ければ他方は無い。
のみならず、自己犠牲という果てしない夢を見始めると、
自己犠牲そのもののうちにさえ利己心を見ずにはいられなくなるものなのだ。

完璧な自己犠牲など見たことがない、そんなものは偽善に過ぎぬ、
「立派な幻想などは抱かないで、自分に出来る程度の行為を」考えたほうが良いと言うが、
「自分」もまた夢であり、「自分の出来る程度」というのも夢である。
「自分の生活を豊かにする」というのも、それが「人生の目的」だというのも夢である。
もし夢という言葉が文学的で気にかかるなら、それを独断という言葉に置換えてみるがよい。

一体、「自分の出来る程度」というのを、誰が、どういう物差しで割出したのか。
自分はこれしか出来ぬと決めるのは独断ではないか。
それにしても、これしか出来ぬというのは、それ以上したい善があっての上の話である。
善という夢が無ければ、そしてその最高善の自己犠牲という夢が無ければ、
「自分の出来る程度」即ち身の程すら解らず、自分というものもまた存在しないのである。

105名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 15:32:37.40ID:6afvVRGw
★躾について
もし言葉遊びや居ずまいのような躾が、戦争中、あるいは敗戦後の混乱時に何よりも
大事なことだと考える政治家や学者や教育者が何十人かいたら、
あのような大学騒動は決して起こらなかったであろう。
躾は理窟ではない。無条件の強制である。なぜ膳の上に足を乗せてはいけないのか、
なぜ「行って参ります」といわなければならないのか、三歳や五歳の子供に向って、
誰がそれを論理的に説明しうるか。強制的な繰返しを以てするほかは無いのである。

106名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/08(木) 15:33:10.70ID:6afvVRGw
★紀元節について
かつて私は「建国記念の日」反対運動に反対した。
お蔭で売物の保守反動を通り越し極右翼扱いされるに至った。
私が望んだのは「建国記念の日」などという「休日」ではなく、
紀元節という「祝日」なのであり、
これを突破口としての祝祭日の再検討と制定し直しなのである。
戦後の「祝日」と称するものはほとんどすべて「休日」に過ぎない。
それだけの事なら、そんなものは全廃して毎週土日連休にしたほうが
働くにも遊ぶにも遥かに効率がよい。

祝祭日が休日と違うのは、それに儀式や行事が伴い、それを通して国民、あるいは集団が
連帯感を確認することにある。その点で多少とも「祝日」の名に値する戦後の「祝日」は
メーデー一日あるのみと思うが如何。「建国記念の日」は憂国という国民的連帯感の
養成については、階級的連帯感の目覚めを促すメーデーに遠く及ばなかった。

保守革新を問わず政治家諸君には文化というものがまったく解ってないらしい。
解っているのは文化政策という名の政治至上主義だけである。
が、政治は文化の一分枝ではあっても、文化は政治の一翼を担うものではない。
とすれば、次の選挙の時は、保守革新両政党とも、一年の祝祭日をどう決めるか、
その形式をどうするか、何よりもその一事を明らかにしてもらいたい。
そのほうが聞き倦きたイデオロギーや政策を繰返されるより、それぞれの政党の
「人格」が余程よく解り、これ以上便利な「選挙案内書」はないというものである。

107 ◆L4RBdHor8B20 2018/11/25(日) 18:01:22.81ID:Xpa5nB9L
★集団的自我と個人的自我について
人間のうちには、二つの相反する傾向がある――すすんで他とかかわりあい、
他を支配したり他に支配されたりすることをとおして自己を生かそうとする集団的自我と、
逆に他と絶縁し自己のうちに閉じこもることによって
己れを完成せしめんとする個人的自我との二つである。

いうまでもなく職業とは集団的自我の生きんとする通路であるが、
より重要なことは、この通路が充分に開かれていることによって
個人的自我の平静と純粋とが保たれるという事実なのである。

108名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:01:47.80ID:Xpa5nB9L
★平和の享受について
ヨーロッパでは平和を論じるものはほとんどいません。
なぜなら、現在、彼等は平和のうちにいるからです。
そして彼等はその平和を享受しています。大げさにいえば、貪るように享受しています。
彼等は知っているのです。今日の状態を平和と見なさなければ、
永遠に平和の世界はやってこないであろうことを。

彼らの生活態度は、百円しかないときは百円で買えるものを買って、
最大の効果を発揮するということです。私の眼にヨーロッパが健全と見えたゆえんです。
平和を真に愛するものは、平和を享受するものであって、
平和を合言葉にするものではありますまい。平和論者たちは、なぜ日本の青年に、
いまのうちに平和を充分享受しろといわないのでしょうか。

109名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:02:12.49ID:Xpa5nB9L
★全体感について
われわれは全体のなかに埋没していても自由は無い。
そうとて全体から遊離し、それを眺めわたす位置に立っても自由は無い。
前者においては、われわれはただ動物のように生きているだけであり、
後者においては、われわれは神のように認識しているだけであります。

人間としての自由は、認識しながら同時に生きることに、すなわち全体感に浸る喜びにある。
そしてそのためには、判断と生活とを停止させて時空を一定限度に区切る型が必要なのであります。

110名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:03:15.46ID:Xpa5nB9L
★真の自由について
人間に生れる自由、生れない自由は無い。死ぬ自由、死なない自由は無い。
なるほど自殺の自由はあるが、結局は他動的、受動的であることを免れぬ。
生という出発点において自由のない者が、死において自由でありうる訳がない。
人間は与えられた条件の中に無意味に投げ出され存在するだけで、
その存在そのものの中に如何なる目的もないのである。
人間は在っても無くてもよい。偶然に在らしめられたのであり、
偶然に無くさせられるだけの話である。

その点、人間は他の生物や物質と何の相違も無いのであるが、
ただ人間は自己がそういうものであることを自覚することが出来る。
その自覚の働きが精神であり、その働きによって、
人間は精神と物質とに分裂した二重の存在になる。
同時にそのことによって、人間は自由になる。あるいは自由の意識を所有する。

それは言換えれば、人間には自由が無いということの自覚に過ぎず、
その自覚に徹した時にのみ、人間は人間としての自由を獲得するということである。
本来の意味の自由とはそういうものなのである。
その意味で、自由とは人間存在そのものの二重性を端的に表しており、
人間であることと同義語をなすと言ってもよい。
人間は自由であって自由ではない。人間は自由ではありえないが自由でありうる。
この自由という言葉の両義語的性格にまつわるアイロニーとパラドックスのために、
私たちはマクベスのように惑わされるのである。

111名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:04:06.64ID:Xpa5nB9L
★隠居について
江戸時代について、考慮に入れておくべきことがある。
それは隠居という一種の制度、乃至は慣習である。

この観衆は室町時代から戦国時代にかけて定着したものらしいが、
少なくとも江戸時代においては武士と町人、農民と漁民との別を問わず行われていた。
年齢はだいたい四十歳以上であるのが普通だったが、寿命が著しく延びている今日、
定年後十五歳や六十歳で隠居させられたらどうなるか。
封建時代の人々はみずから隠居して老後を楽しむ知恵を身につけていたが、
今日の「若い老人」は隠居生活を楽しむ術を知らない。
彼等こそ生き甲斐を何処に求めるべきか。

隠居して公の社会集団、あるいは家族集団から離別した時、
その人の私的生活の安定度はほとんど零に近くなる。
吾々は公のうちにばかりでなく、私のうちに生き甲斐への通路を
見いだしておかなければならないのではないか。なぜそれが出来ないか。

112名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:04:40.00ID:Xpa5nB9L
★しらふで酔うことについて
ぼくは生活をもたぬ。手を汚さぬ。あえて生活を抹殺し、手を洗い、口をぬぐう。
ぼくは酒を飲まず、酔いを知らぬ。が、ぼくはあえてしらふで酔ってみせる。
生涯を酔いとおしてごらんにいれる。

酒飲みが酔ってはじめて真実を語るなら、ぼくはしらふでかれのいいにくい真実を
語ってみせよう。酒飲みが酔いさめて仮面をつけるというなら、
ぼくはしらふのまま死ぬまでうそをつきとおしてもみよう。

113名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:05:04.28ID:Xpa5nB9L
★批評の真髄について
ぼくがいまここに用いようとする方法は、
対象にむかってべたぼれにほれぬいてみようということだ。
阿諛し追従し、背なかを流させてもらい、脚をさすらせてもらおう、というのである。

元来、ぼくは長所をほめ、そのあとでぬかりなく弱点を指摘して引きあげるという
やりかたがきらいである。みみっちく、貧乏くさくてやりきれないのだ。
そんなことをするくらいなら黙っているがよい。
徹底的に愛するか、徹底的に憎むか、そのいずれかだ。
対象を愛しきったとき、その弱点が、また対象を憎みぬくとき、その長所が、
ぼくの眼にうつっていないわけではない。が、そこにかかずらわずにはいられないというのは、
つまりは自己の愛憎の真実に信をおけないからではないか。

対象にほれぬくこと――太宰治の場合、それはことに必要なのだ。
かれの表現がきざにみえるのは、かれがきざな性格のもちぬしだからではなく、
他人がかれをきざと見なし、そうした他人の眼をかれの神経が感受するからにほかならない。
かれは自分の苦悩の真実を信じてくれる他人の存在を予想できず、
それゆえにうろたえ、はにかみ、それがきわまってポーズになるのだ。
ぼくたちはかれを信じきればいい、愛しきればいいのである。

114名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:33:06.61ID:Xpa5nB9L
★葉隠について
戦争中に「葉隠」が盛んに読まれ、その死生観が滅私奉公という当時の国策に
利用されたことがあります。また、戦後は正反対に、それは権力の前に人命を軽視する
封建思想として排撃され、その名を口にすることさえ憚られるようになりました。
が、この二つの態度はまったく「葉隠」の与り知らぬことであります。
その著者山本常朝はもとより、当時の人々さえ、ほとんど関係のないことと言ってよい。

なるほど、そこには「武士道というは死ぬ事と見つけたり」という言葉がある。
しかし、この思想ないしは覚悟が、常麻のうちにおいてどの程度の重みをもっていたか、
彼の生き方や考え方の全体において、あるいはその時代の在り方や風潮にたいして、
どういう意味をもっていたか、それが問題です。

「葉隠」を虚心に読んでごらんなさい。「死ぬ事と見つけたり」の一句にしても、
戦争中、それが人々の心に投じた陰惨な影は少しもないし、
また今日、人々の目にそう見えるほど馬鹿馬鹿しいものでもなく、
そこにあるのはむしろ明るい智慧であります。
それはたえず死によって脅されている戦時に、あるいは平和の崩壊を
身近に感じている不安な時代に、身を処するせっぱつまった覚悟ではありません。
そこには、平穏な日常生活を送るものが、その中に内在する頽廃からいかに
身を守るべきかという、その努力の、自然で素直な姿勢しか感じられません。

115名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:34:45.05ID:Xpa5nB9L
★理想について
理想というものは、かならずしも現実に化せられるあてのあるものではなく、
実現不可能のものであればこそ理想と称しうるのではないか。
いや、理想は、はじめから現実化の可能を考慮したうえで発生したものではなく、
そんなこととは無関係に、ひょっとわれわれの頭に宿ったものであります。
厳密にいえば、われわれの内部から生れた欲望のひとつであります。
食いたい飲みたいという肉体的欲望とおなじように、ほとんど生理的なものなのであります。

問題が提起されたということは、それが解決されることを意味する。
とすれば、同様にして、われわれの頭に、ある理想が宿ったことはいつしかそれが
実現されるということであります。ただ実現ということばにいろいろ問題があるので、
永遠の愛というような欲望は、飲み食いの欲望のような形で実現はしないでしょう。
ふつうの意味では実現しないといわれるような形で、それは実現されるかもしれない。
というのは、とうてい現実化されないながらも、ただ理想としてそういう観念が
存在するというだけで、りっぱに役割をはたしているかもしれないのです。

116名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:34:59.18ID:Xpa5nB9L
★言葉の誤用について
意識の歪みは存在の歪みによって決定される前に、まず言葉の誤用から始まる。

117名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:35:26.48ID:Xpa5nB9L
★絶対者について
いったい信用とはなにか。それは相手を一個の人格として認めるということでしょう。
まさか私たちは他人が自分のために利益をもたらしてくれるからといって、かれを信用しはしない。
たとえ自分にとって不利でも、信用しうる人間というものがあります。そこに人格があるからです。

そしてこの人格の凝固度は、自己を客観視しうる能力によって定まるのです。
個人は全体のうちにおいて、つねにある場所に位置づけられております。
が、位置づけられているだけではなんにもならない。人格は発生しない。
位置づけられている自分を見ることができて、はじめて人格が存在しうるのです。

さらに問題になるのは、全体とはなにかということです。
個を集めたものが全体であるのか。それは数量の観念か。そうではありますまい。
全体と個とは質の相違であります。そこには次元の差があるのです。
私たち人間が全体の観念をもちうるのは、私たちが個人でありながら、
そのうちに全体を含んでいるからです。それが精神というものでしょう。
その内にあるものを外にとりだし、万人共通の人格神として
客体化したのがクリスト教であります。

それはいわば携帯用の「全体」であります。
西欧人はそれを磁石のようにポケットに隠し持ち歩いてきたのです。
その磁針の動きによって、個人は人格という明確な輪郭をもちうるし、
その所在を明らかにしうるというわけです。またそれが他人の眼にも、
はっきりした存在を示すのです。

118名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:35:42.77ID:Xpa5nB9L
★性の秘匿について
知ったために犯す過ちよりは、知らぬために犯した過ちのほうが、
心の衛生にははるかにいいのです。もちろん好奇心というものはだれにもあることです。
それを殺せとは申しません。ただ、その好奇心のために
未知の性の働きを殺してしまわぬように注意しなければなりません。

性の科学などなくても、性について私たちは必ず知るのです。
私たちは生きかたについて知って、それから生きはじめるのではありません。
生きながら知り、そして知らぬものは知らぬままに残して死んでいくのです。

119名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:36:05.56ID:Xpa5nB9L
★「消費ブーム」について
昔の人の生活が、今日では免れている日々の雑事に追われながら、
それでも落着いて見えるのは、迷いが無いからである。
女房は亭主や自分の着物を仕立てながら、衣服の目的は暖を取ることにあるのだから、
その手段に一所懸命になるのは馬鹿馬鹿しいなどとは考えなかった。
着るのが目的で縫うのが手段だとも考えなかった。
縫うことが目的で、そういうことが自分の人生だと考えていたのである。
女房は亭主の着物を作ることを通じて亭主と附合っていたのだ。

それでは女房だけが損をしたのか。そんなことはない。
亭主はそれを着ることで女房と附合っていたのだ。造る側が損をして、
着る側が得をするというのは、消費が目的で生産が手段だという今様の考え方である。
昔はそういう考え方は、少なくとも家庭の内部にまでは侵入していなかった。

今日では夫婦生活の目的は精神的な理解にあるとか、性生活にあるとか、
そんなことを考えて、夫婦水入らずの二人きりの生活を欲し、家庭内のあらゆる生産手段を
雑用と称して最小限に切捨て合理化して、その後に何が残ったか。
おたがいに相手に附合う切掛けもよすがも失ってしまったではないか。
人間は生産を通じてでなければ附合えない。消費は人を孤独に陥れる。
その点では、共産主義国家も福祉国家も同様の過ちを犯している。
いずれにおいても、生産は消費の手段と化していて、そういう前提のもとでは、
いかに生産の意義を強調し讃美しても、すべてはごまかしになる。

120名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:36:24.35ID:Xpa5nB9L
★高貴さについて
高貴な精神でも平凡なせりふを吐くことがあるかもしれないが、
高貴なせりふだけが高貴な精神の存在を証明するのです。
高貴なせりふを聞いた以上、われわれとしてはその発言者を
高貴な精神と見なす以外に方法はない。
実地検証は不可能でありますし、意味のないことでもあります。

121名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:36:42.36ID:Xpa5nB9L
★人格について
私たちが半可通の観念や知識にわずらわされず、じかにものを見る習慣を
身につけていさえすれば、人間もまた茶碗と同様、
私たちの眼にたんなる物の形として映ってくるでしょう。
重い、軽い、厚い、浅い、あるいは鋭い、鈍い、弱い、硬い、柔い、
その他、土や石という物質で形づくられた茶碗に当てはまる形容詞は、
そのまま、私たちの人柄を現すことばになりうるのです。

したがって、私たちは他人と接触するばあい、なによりも自分の美意識と感覚とを
頼りにしなけらばならぬし、同時に、自分というものが、他人の眼に、
その外形を通じてしか受けいれられぬということも覚悟していなければなりません。

私自身、ひとにたいする好悪を決めるのに、いままでつねに人相に頼ってまいりました。
それでまちがったことは一度もありません。もちろん、私のいう美しい人相は
映画俳優的な美男美女を意味しはしないこと、お断りするまでもないとおもいます。

122名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:37:02.20ID:Xpa5nB9L
★家庭について
家庭における信頼感と愛情とは、私たちに献身を教えるが、それと同時に、
個人の独立を教えもします。個人の独立のために家庭から逃避するというのはまちがいで、
それは家庭が家庭としての機能を充分に発揮していないことから生じる現象にすぎません。

ロレンスのいうとおり、家庭が一小王国でありうるならば、それは当然の結果として、
外部のいかなる勢力の介入をも排除しようとするでしょう。家庭はその成員に、
自己を他と区別し、他と対立する自覚と能力とを要求するのです。
一つの家庭はそれ自体として完結し、異質物の介入を許さないからです。

123名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:37:20.66ID:Xpa5nB9L
★古典について
古典を研究の対象としてはならない。古典は文化遺産でもなければ、単なる知識でもない。
歴史は現代の生き方にたいする教訓でもなければ、現代の優位についての保証でもない。
古典はそれを生きてみるべきもの、体験してみるべきものであります。
それを鑑として自分を矯め、それに習熟すること、
それ以外に古典とのつきあい法はなく、それ以外に古典を理解する道はないのです。

古典に接して、そこに現代に通じる道がないなどと文句を言うことほど、無意味なことはありません。
またその反対に、古典を再評価し、現代的意義を発見して喜ぶのも、同様に無意味なことです。
それはまったく勝手な話で、私たちの心がけなければならないことは、
現代のなかに、私たち自身のなかに、古典に通じる道をさがすことです。
古典に強いてはならない。自分を強いて古典にならうことが肝要です。
ならふことはなれることです。古典は無心に慣れ、習うに限ります。

124名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:37:48.93ID:Xpa5nB9L
★過去の共有について
第一に、歴史、あるいは歴史教育について過った考え方が流布されているので、
それを排除しなければならない。過った考え方というのは、
歴史を、現在もしくは未来のための行動指針にしようという態度を指す。

なるほどそういう動機を自分のうちに意識してかかる歴史家もいる。
秀れた歴史家ほどそうかもしれない。だが、小説の場合と同じで、
動機と創作行為とは、また動機と作品の出来栄えとは、おのづから別個の事柄なのである。
私たちが史書を読むのは、ただ純粋に過去を知るためではないか。過去とつきあうためではないか。
もしそこから何か学びとれるとすれば、過去の中に自分を見出し、自分の中にその過去が
生きていることを自覚すルコと、それを措いて他にないはずである。

第二に、歴史とは共有された過去であり、歴史教育とは同じ過去の共有を課することである。
夫婦や親子が他人ではない夫婦親子でありうるのは、一緒に暮らして同じ過去の生活を
共有しているからである。愛といったところで、そうご大層なものではない。
それは生活体験共有の上に築かれる。それが無ければ一つ屋根の下に起居するいわれはない。
国家や民族の場合にしても同じことである。歴史の書きかえというのは、不用意に
行えることではない。また行うべきではない。それは国民に共通の過去の所有を
不可能ならしめることであり、大人たちの過去を奪うことだからである。

125名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:38:04.35ID:Xpa5nB9L
★いい文章について
いい文章を書くということが、いい政治をするとということと同様に、あるいはそれ以上に、
人間の未来にとっていかに大切であるかを、あなたがたは知らないのです。
政治が悪ければ国が亡ぶとは考えても、一国の文学が亡びれば、また国が亡ぶとは考えない。
政治家も啓蒙家も、もうすこし文章というものに想いをひそめていただきたいとおもいます。
よく考えてみてください。文学者の政治的な無智と、政治家、あるいは啓蒙家たちの
文学的な無知とどちらがひどいか。

が、世人は文学者の政治にたいする無知は世を誤るもののようにおもいながら、
政治家の文学にたいする無理解は大したことではないと考えている。
それは現代日本の文学者にろくな作品がないからというのではなく、
文学そのものの人生における効用を知らないからです。
ぼくにとっては、そのほうが由々しき問題です。

ぼくはむしろそういう世間にたいして、文学の効用を説くことこそ、
文学者の社会的な責任のひとつだと考えております。
もちろん世間を文学からそっぽをむかせたのは、文学者の責任です。
文学者が文学の効用を信じていないからこそ、問題は文学者の政治的責任という形で
あらわれてくるのであり、ますます混乱をはげしくするのではないでしょうか。

126名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:39:45.06ID:Xpa5nB9L
★カタルシスについて
人生は不完全であります。いかにしても完全にはなりえないのです。
が、人間は、精神は、あくまで完全であろうとする。心臓は正しく、しかも力強く脈うち、
肺臓は静かに、しかも深く呼吸し、星辰の運行や樹木の生理と合一して、
まったく無為に横たわりながら永遠を感受する瞬間――このゼロの状態において、
星辰は、無為なるがゆえにもっとも強烈に醒めている。
それこそ芸術がカタルシスによってわれわれに与える完全なる静止の状態であります。

127名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:40:33.48ID:Xpa5nB9L
★学問について
吾々にって大事なことは何かを知ることではない。知ることより生きることのほうが余程大事である。
人は行為を通じてしか何も知ることが出来ない。といって言行一致などと早合点されては困る。
もし何かを知ることが大事なことであるなら、それは何かが知られて来るように行動し、
生きられるからである。知った結果が知識となるのではなく、
知ることが生の体験になるような、そういう学問や読書でなければまったく意味がない。

そういうことになれば、学問は学者の人格、志、生き方を離れては存在しないはずである。
吾々が道を歩いている時、一里先の山道に目を奪うような桜の大樹があることを吾々は知らない。
それに出遭った時の喜びが人に伝わらぬような書物は、真の書物とは云えない。
その時の喜びが、あるいは尋ねて巡り遭えぬ辛さが伝わってくる書物だけが古典なのであり、
そういう生きた人間の姿に接する喜びや辛さが経験としての学問の醍醐味なのである。

128名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:41:10.11ID:Xpa5nB9L
★文化の厚みについて
政治、経済、外交などと異なり、文化に関するかぎり、私たちは優劣や希望、絶望の観点から
ものを見ないほうがよい。文化に関するかぎり、長所は必ず短所に通じるものなのだ。
一番大切なことは、自分の長所を知ってそれを助長し、短所を知ってそれを
抑制するということよりも、長短とは関わりなく、日本の文化は私たちの「生き方」
なのだからという、ただそれだけの理由でそれを愛し、それに自信をもつことである。
が、その態度はおそらくこうした説得によって得られるものではなく、
そういう風にして生きている人を見つけることによってしか得られ葉しまい。

もし私たちが、ものを愛し造る職人を、それを意義づけし、目的を強いる文化人よりも
尊重するように心がけさえしたら、日本の文化は今よりも「良く」なるであろうとは
言わない。「深く」なり、「厚み」を増すであろう。

129名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:41:35.67ID:Xpa5nB9L
★やさしさについて
ロレンスは性の秘密ではなく、性のつつしみを強調します。結婚を、精神的な愛だけで、
あるいは肉体的な愛だけで、割り切らないで暗いつつしみのなかに戻せということであります。
ロレンスが苦しんで到達した人間結合の原理は、したがって理解ということではありません。
それは「やさしさ」ということであります。

「やさしさ」とは俗にいう人あたりのよさや、ものわかりのいい寛大さとはちがいます。
理解の原理はあらゆる対象の輪郭を破壊すること、たとえていえば、時計に用いられている
歯車とエンジンに用いられている歯車とが同一法則によるものであることを知り、
すべての個を抽象化してしまうことでしょうが、「やさしさ」の原理とは、
あくまで対象の輪郭を尊重し、それを守ることを助けてやることであります。
もちろん、自分にたいしても同様でなければなりません。

そうすることによって、結婚においても、
男と女とは、おたがいに汲みつくしえぬ泉を保存しうるでしょうし、
それ自体完結した、すなわち浮気の相手を必要としない統一体を形成しうるでしょう。

ロレンスは、その意味において、ひとりの男とひとりの女との結婚こそ、
人間結合の最小限の――最小限であるがゆえに、ここにおいて破れれば
他の人間結合は絶対に不可能であるような、いわば社会関係のもっとも純粋な
――単位であるといっております。

福田恒存『現代人は愛しうるか』より

130名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:41:52.95ID:Xpa5nB9L
★倹約について
私は倹約について語るのに最もふさわしくない人間かも知れません。
むしろ浪費家と言われても文句の言えないことがしばしばあります。
しかも、倹約を美徳と考える点では、おそらく人後に落ちまいという一面も持っております。

私は今「倹約の美徳」と申しました。なぜなら倹約ということは道徳的要請であって、
経済的必要事ではないと考えるからであります。いうまでもなく、道徳とは附合いの精神に発し、
その規則の遵守を意味します。この「附合う」という言葉が訛って出来た「使う」と「仕う」は、
立場が上と下と全く正反対のものですが、根本義は同じで、相手の心を思遣って、
それに「附き、合う」という気持ちから生じたものであります。

しかし、この「附合い」の精神は単に対人関係において、すなわち人間に対してのみ
発露するものとは限りません。私たちは物を「使う」し、金を「使う」のであります。
言い換えれば、物に附き合っているのであります。

あるいは反問する人がいるかもしれません。同じ附合うにしても、対象が人と物とでは
次元が違う、人は生きているが、物は死んでいるというかも知れません。
果してそうでしょうか。物は死んでいるでしょうか。
倹約に限りません、今日道徳観があらゆる面で麻痺していることの原因は、
この「物は死んでいる」という誤った固定観念の一般化にあると私は考えます。

131名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:42:16.24ID:Xpa5nB9L
★宗教と知識教育について
日本では仏教は貴族の狭い世界に閉じこめられ、そのなかで主として美的に作用し、
儒教のようには広く教育的な効果をもちえなかった。
儒教との差について併せ考えておくべきことは、仏教のほうが儒教よりも、
はるかに深い世界認識をもち、それだけ知識としての純粋度が高いので、
容易に政治や教育に利用されにくかったということであります。
元来、儒教は政治的であった。一歩ゆずって、儒教は道徳にすぎず、仏教は宗教だった。
宗教は国家権力に太刀打ちできるが、道徳にはそれはできません。

知識教育にたいする軽視と不信は、もとを考えれば、私たちの生活の背景に
宗教が無いということから起こるのです。宗教があれば、私たちは安心して、
教育は知識教育にとどまるべきだといいきることができるからです。
が、今日、私たちにその宗教がない以上、どうにも仕方のないことですし、
また知識教育のみによっても、かなりのことがなしうると思います。

132名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:42:35.87ID:Xpa5nB9L
★歴史教育について
歴史という科目は他の科目と異なって、そのもののうちに教育的な働きを
もっていることは見逃せぬ事実である。親というものは、ただそこにいるだけで、
子供に絶えず教育を施しているのと同様に、歴史はただそこに存在するだけだが、
私たちはそれに教育されずにそれを学ぶことは出来ない。
それだからこそ、そこから何かを学ぼうとしたり、
学ばせようとしたりする下心を捨ててかからなければならぬのである。
(中略)
歴史教育なくして、道徳教育は効果的に行われぬのみか、第一、その徳目さえ
決められぬはずだ。歴史とは、私たちの祖先がいかなる道徳観によって生きたか、
何に情熱を賭け、何を争い、何に殉じたか、そういう物語のことではないのか。
今日の徳目をあらかじめ定め、その目で彼らを裁くのは本末転倒である。

133名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:42:54.63ID:Xpa5nB9L
★神について
個人は唯一人で完全な存在であり、唯一人で全体である。
人間は個人においてしか存在しない。個人は一人で他の全人類を代表する。
個人は質料であって、全人類は数でしかない。
この思想は、九十九匹をさしおいて一匹を救うというイエスに通じている。

神と語り、神と契約しうるのは個人であり、神は個人を通じて、その意思の実現を計る。
個人は被表現者であるが、それを自覚するがゆえに、神の意思を探り、
それに合致する自由を保有する。そうすることによって、人間は人格になり、
自分自身になりうるのだ。

また、その意味において、他人が個人として完結しており、
彼のみの知る神との契約があることを認めなければならない。
クリスト教道徳において最も許しがたいことは、他人を物として利用することだ。
それは他人のうちにある神を否定することだからである。

134名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:43:16.36ID:Xpa5nB9L
★少数派について
真の意味での少数派は、自分が少数派か多数派かという勘定を、そうは気にしないはずであります。
かれにとって最大の問題は、自分の行動に論理の筋を通すということにあるのです。
その結果、敗けても勝っても、しかたはない。

いまは敗けても、いつかは、あるいは、自分の死後にでも、
自分の主張が容れられるときがくるかもしれない。
それとも、永遠に自分の敗北に終るかもしれない。自分がまちがいをおかしたのかもしれない。
それでもいい、まちがいはまちがいなりに、自分の行動に筋が通っていれば、そう考えるはずです。

それでは救いがないという人が出てきましょう。が、当人は、神の救いを信じているでしょうし、
また、神の罰を信じているでしょう。巣食ってくれるにせよ、罰するにせよ、
かれはその神に信頼しているでしょう。

135名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/25(日) 18:43:38.74ID:Xpa5nB9L
★矛盾について
人はなぜ矛盾してはいけないのか――ひとびとは肯定しなければ否定せずにいられず、
否定しなければ肯定せずにいられrぬであろうか。

ぼくはぼく自身の現実を二律背反のうちにとらえるがゆえに、
人間世界を二元論によって理解するのである。
ぼくにとって、真理は窮極において一元に帰一することがない。
あらゆる事象の本質に、矛盾対立して永遠に平行のままに存在する二元を見るのである。
この対立を消去して一元を見いだそうとするひとびとの性急さが、
じつはぼくにはふしぎに見えてしかたないのである。

ひとは二律背反をふくむ彼自身の人格の統一を信じていないのだろうか。
もし信じているならば、なにをこのうえ知性による矛盾の解決を求むることがあろうか。
矛盾を放置してかえりみず、矛盾をそのままあらわにしてしかもののいえぬぼくは、
この矛盾をいちおう解決した形において述べる科学にいささかの関心ももちえない。

福田恒存全集 第一巻『一匹と九十九匹と』より

136名無しさん@お腹いっぱい。2018/12/30(日) 19:08:27.12ID:CC3AIKZk
967 名前:名無しさん@介護・福祉板[] 投稿日:2012/05/25(金) 08:14:55.98
  辞めたい辞めたいと思い続け、9年経ってしまった俺は未だ平社員。
  モチベーションも能力も低いやつは出世出来ないよい例だ。
  そういうやつは早々に転職するのをお薦めする。
  もう介護以外出来ない人材になってしまったからな。
  俺みたいになるなよ、みんな…

968 名前:名無しさん@介護・福祉板[] 投稿日:2012/05/25(金) 10:18:08.82
  >>967さん。
  9年も続いたなんてスバラシイ!
  ただ9年もやって平社員じゃあそこの施設は辞めた方が良いかも知れない。
  後は>>967さんの取得している資格かなとも思います。
  自分など恥ずかしながらリーマンショック後失業して、中年になってから介護業界に
  流れ着いたけれど、最初パートで働いたデイは半月で辞めてしまったし、その後有料も
  3ヶ月持たず辞めてしまったし、今は登録(パート)の訪問だけれど、それだって前の
  訪問事業所は嫌な利用者断ってしまい、2ヶ月ほどで首になった様なもの。
  履歴書には書けず、今も空いた時間に就活しているけれど、ハロワ職員に空白期間の
  こと良く聞かれるよ。
  確かに介護に来てしまうと時間には追われるけれど成績や売上げ関係なくぬるま湯で、
  仕事内容は報酬に見合わずきついけれど、他の業種に行く潰しが利かなくなる。

137名無しさん@お腹いっぱい。2018/12/30(日) 19:08:50.37ID:CC3AIKZk
74 名前:名無しさん@介護・福祉板[sage] 投稿日:2012/05/31(木) 12:21:42.53
  うちの施設、数年前誰かがサービス残業や待遇について労基所に訴えたら、
  監査が入って、ある程度改善された。
  内容は
  ・会議等のサービス残業代の支給
  ・休憩時間の確保
  ・有給もとりやすくなった

  その後の実態調査も入って、きちんと改善されているかの確認もあった。
  不満があるなら、労基所に訴えるといいよ。少しは改善される。

75 名前:名無しさん@介護・福祉板[] 投稿日:2012/05/31(木) 13:50:25.56
  金銭面で解決は簡単だと思うけどね
  何処の福祉施設の経営者に自宅前には高級外車が並んでるって結構聞く話だし
  うちの施設は複数病院経営している中の一つなんだけど、全体の収益の半分がでている
  と聞いて驚いたけどね、収入の半分を出してる施設職員が病院看護師の半分の給料だからね

76 名前:名無しさん@介護・福祉板[] 投稿日:2012/05/31(木) 15:32:49.18
  この業界に入ってびっくりしたのは組合が存在しないってことかな。
  いやあるところもあるのかな、もしあったらゴメン。
  賃金も昇給も人事異動も全て上の意向で決まり、下々の人間は口さえ挟めない
  ってのがすごいと思った。
  でも経営者側からすればストライキなんてやられたらたまったもんじゃないだろうけどね。

138名無しさん@お腹いっぱい。2018/12/30(日) 19:10:57.01ID:CC3AIKZk
下のスレの誤爆。あーあ。
役に立ちそうなレスを転載するスレin介護・福祉板 1
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1546158606/

139名無しさん@お腹いっぱい。2018/12/30(日) 23:18:10.37ID:CC3AIKZk
825 名前:名無しさん@介護・福祉板[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 12:00:50.21
  やっと辞めたぞーーーーー!!
  退職願出してからきつかった…
  昨日なんか女職員に前の日の夜間と当日の日中の申し送りをされた後、
  「あんたもう辞めるんだからこれ以上申し送り必要ないから」
  って無愛想な言い方で言われて腹立ったわ
  女職員ってホント性格悪い奴しかいねーな
  製造とか女の多い職場を体験したことあるけど、こんなの見たことねぇぞ??
  もう辞めた以上、街で会ってもシカトしてやるわ

  長く居る利用者に挨拶しようか、黙って静かに去ろうか迷った
  迷った挙句、一応一言だけ言うことにした
  「ありがとう」とか「次も頑張ってね」などと言われ、黙っていなくならなくて良かった
  一人の利用者は俺なんかのために涙を流してくれて、
  「どこに行っても人間関係は大変だけど頑張って」
  「孫も何度も仕事変えたことあるから大丈夫だよ」
  などの励ましや、お礼の言葉をいただいた
  人だからイラつくこともあったけど、その利用者にはホントお世話になった
  その時は何とか堪えたが、今思い出すだけで涙が出てくる…
  何度もお菓子をくれたり、愚痴を聞いてくれたり、「最近元気ないね」って声かけてくれたり
  何度も何度も断ったんだけど、これで弁当でも買って食べろと言われてお金を頂いた
  最後の最後まで貰ってばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいだった

  ありがとう。いつまでも元気でいてください。
  次の仕事で挫けそうになった時は、あなたの言葉を思い出して乗り越えて見せます。

  長文スマン

140名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 16:15:44.73ID:Io28tHo/
☆★☆【神よこの者たちはもはや人間ではない悪魔であるこのような悪魔どもを一匹残らず殺してくださいお願いします】★☆★

《超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪首謀者の実名と住所/死ねっ!! 悪魔井口・千明っ!!》
【要注意!! 盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪工作員】
◎井口・千明(東京都葛飾区青戸6−23−16)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
 低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である

【超悪質!盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者の実名と住所/井口・千明の子分たち】
@宇野壽倫(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202)
※宇野壽倫は過去に生活保護を不正に受給していた犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
A色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志は現在まさに、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください

【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111

B清水(東京都葛飾区青戸6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
 清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
C高添・沼田(東京都葛飾区青戸6−26−6)
※犯罪首謀者井口・千明の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
D高橋(東京都葛飾区青戸6−23−23)
E長木義明(東京都葛飾区青戸6−23−20)
F若林豆腐店店主(東京都葛飾区青戸2−9−14)
G肉の津南青戸店店主(東京都葛飾区青戸6−35ー2

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