【米土】米国大使館がテロ組織のツイートに「いいね」トルコ外務省が抗議の呼び出し「これは間違って起こったこと」 [10/06]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
・米国大使館がテロ組織のツイートに「いいね」 トルコ外務省が抗議
在トルコ・アメリカ合衆国大使館(以下「アメリカ大使館」)がテロ組織のツイートに「いいね」をするという事態が発生した。トルコ共和国外務省はアメリカ大使館を呼び出した。
トルコ共和国外務省のハミ・アクソイ報道官から得られた情報によると、アンカラ駐在のアメリカ合衆国特命全権大使のデイヴィッド・マイケル・サッターフィールド大使がアンカラ県外にいるため、代わりにジェフリー・M・ホーヴェニア大使代理がトルコ共和国外務省に呼び出された。
アメリカのホーヴェニア大使代理は、トルコ共和国外務省のセダト・オナル副大臣と面会した。
ホーヴェニア大使代理は、昨日(10月5日)テロ組織のツイートに「いいね」をしたことについて明確な説明をするよう求められた。
《経緯》
トルコ時間の昨日(10月5日)、アメリカ大使館のツイッター(Twitter)のアカウントが、テロ組織フェト(フェトフッラー派テロ組織)の一員で逃亡中のエルグン・ババハンが民族主義者行動党(MHP、読み「メーヘーペー」)のデヴレト・バフチェリ党首を標的にしたツイートに「いいね」をした。
アメリカ大使館はトルコ時間の昨日(10月5日)夜遅く、ツイッター(Twitter)上から、無関係の投稿に間違えて「いいね」をしてしまったと表明し、謝罪をした。
アメリカ大使館はトルコ時間の今日(10月6日)の夕方、改めて謝罪のツイートをした。
アメリカ大使館は、トルコ時間の今日(10月6日)の夕方に行ったツイートで、「昨日(10月5日)、ツイッター(Twitter)のアカウントで発生した誤ちを謝罪する。エルグン・ババハンと我々との関係はなく、エルグン・ババハンのツイート内容への支持も同意もしていない。この誤ちについて、再度謝罪する」と述べた。
《トルコからの反発の声》
トルコ共和国外務省のメヴリュト・チャウショール大臣は、アメリカ大使館がテロ組織のツイートに「いいね」をしたことについて、「外務副大臣が、アメリカの大使代理と外務省で面会した。アメリカの大使代理は、これは間違って起こったことであり、その後、誤ちを正したと言った。我々は必要な抗議を行った後、さらに明確な説明を求めた」と述べた。
トルコ共和国大統領府通信局のファフレッティン・アルトゥン局長は、「アメリカ大使館には、トルコの内政問題に口を出す用はない。アメリカ国務省は、この事件を捜査し、責任がある者についてすべきことをしなければならない」と述べた。
公正発展党(AKP、読み「アーケーペー」)も、アメリカ大使館を強い言葉で非難した。
公正発展党(AKP)のオメル・チェリキ広報本部長は、この問題は口先だけの謝罪で終わりにすることはできないと表明し、「人道的な観点から容認できないように、我が国の内政問題に対する醜い干渉の企てだ。アメリカ大使館に雇用されている一部の人物が両国の関係に害を及ぼすために特別な力を注いでいることを示している。混乱を超えた状態にある」と述べた。
・US embassy’s account ‘liked’ tweet about nationalist politician who was recently ill
https://www.theguardian.com/world/2019/oct/06/turkey-us-diplomat-twitter-like
(画像)
https://cdn.trt.net.tr/images/large/rectangle/193d/40df/ac5f/5d91a1d2d1eef.jpg
06.10.2019 TRT
https://www.trt.net.tr/japanese/toruko/2019/10/06/20191006-010-1282732 トルコつーかEUの悪党が作ってる殺人兵器はどう説明するのか。 トルコって、アメリカに対しては結構強気だよね。
日本では考えられない。 いいねやフォローなんて、見ましたの意味しかないんだから、くだらないことで騒ぐなよ >>8
日本に災害が起こったときに韓国がいいねしたら日本人ぶちギレしてるしな
同じようなもんやろ >>6
米軍がシリアから撤退したからだよ
日本だって、在日米軍と在韓米軍が撤退したらアメリカに対して強気に出られる 秘密裡のハルノート
1941年11月26日、ルーズベルト大統領は、日本に対し最後通牒を送り、
日本軍のインドシナおよび中国(満州)からの全面撤退を要求した。
この最後通牒により、日本を開戦に追い込んだ責任が
ルーズベルトにあるというのは、歴史的事実である。
対日懐柔策に徹底していたイギリス政府は、ヒットラーのロシア侵攻後、
またたく間にその政策を変更したが、
これは、チャーチルがルーズベルトから、
極東における英国の権益を擁護するとの約束をとりつけたことによる。
かくして、チャーチル、スターリン、オーエン・ラティモア、
スティムソン、およびロックリン・カリーは、いわば“裏口”から
米国を第二次大戦に参戦させることを促す役割を果たした。
日本に対し秘密裡に最後通牒を送ることに関与した人物の行動は、
情け容赦なく調査され、暴露のもとにさらされるべきである。
キンメル提督およびショート将軍は、職務怠慢または、
誤った判断を行ったというようないかなる責にも問われるべきではなかった。
ハルゼー提督がいみじくも述べたように、彼らは、上層部のために
「スケープ・ゴートとなった殉教者」であり、この上層部こそが、
パールハーバーの悲劇における3000名の米水兵およびその他の米軍人の死の責任を負っている。
何年か後になって、キンメル提督は、歯に衣を着せることなく、次のように述べている。
「ルーズベルトなどの指導者たちは、パールハーバーにおける米軍を故意に裏切った」(『ニューズ・ウイーク』1966年12月12日号)
「ルーズベルトがすべての計画の責任者であった。彼はおそらく“マーシャル以外の者は
日本艦隊の動きに関しパールハーバーへ一言も連絡してはならない”旨指令したと考えられる。
その後マーシャルに対しては、いかなる連絡もしないよう命令した」(『ニューヨーク・タイムズ』1966年12月7日号) ルーズベルトの嘘と偽善
1940年の大統領選挙の終盤になって、民主党首脳は、
平和支持者の票が強力であることを恐れて、
ルーズベルトに平和への強いアピールを行うことでこれに対処するよう進言した。
これがルーズベルトに歴代大統領の中で他に類を見ない、
最もショッキングで、卑劣かつ真実に反する
国民向けの発言を行わせるもととなった。
それは、大統領選挙投票の一週間前の1940年10月30日、
ボストンにおいて行われた。
「私は、母であり、あるいは父であるあなた方に話すにあたって、
いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べたことがあるが、
今後何度でも繰り返して言うつもりである。“あなた方の子供たちは、
海外のいかなる戦争に送り込まれることもない”」
とルーズベルトは発言した。
さらに、ウェンデル・ウィルキーを破り、三期目の大統領に選出される数日前
の11月3日、ルーズベルトは次のように付け加えた。
「われわれの外交政策の第一の目的は、米国を戦争に参加させないことである」
米国津々浦々の市町村の選挙民は、合衆国大統領によってなされたこれらの
公然たる和平の約束と保証を信じ、これに拍手喝采を送った。 選挙前に、米国の父親と母親に対し、彼らの子供たちは、海外のいかなる戦争に送られることもない、
という約束をしたその二ヵ月後に、
ルーズベルトは、無二の親友であるハリー・ホプキンスをロンドンに送り、
この約束とは違うことをチャーチルに伝えた。
「われわれが共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意している。
これを間違わないでいただきたい。大統領はいかなる犠牲をはらっても、
あらゆる手段を用いてイギリスを勝利達成まで援助する、
ということをあなたに伝えるために、私をここに派遣した。大統領は人事のすべてをつくす」
・・・略・・・
事実、駆逐艦50隻のイギリスへの貸与、アイスランドへの軍隊駐留および、
ルーズベルト自身による臨戦体制の指令発出の時点から以後の
彼の外交政策のすべては、議会の承認を得ずして遂行された。
今となってみると、ルーズベルトが1941年1月6日に議会において行った
米国国民向けの演説内容と、実際の彼の政策との間に一貫性を見出すことはむずかしい。 >>1
トルコ=ロシアだよなぁコレにアメリカも握手
またオトモダチ同士協力して虐殺強奪だ
『日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか』 より
私はルーズベルトを許すことができない。
彼はアメリカ国民を欺き、全く不必要な日本との戦争にアメリカを導いた。
日本の指導者が開戦の決断をすることになった最後通牒ハル・ノートは
ルーズベルトが真珠湾攻撃を「恥ずべき行いの日」と呼んだことにちなみ、
「恥ずべき最後通牒」と呼ぶのが適切と思われる。
日本は、面積がカリフォルニアにも満たない人口八千万人の比較的小国であった。
天然資源はほとんど保有せず、
また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。
日本はフィリピンおよび
その他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。
しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行
および海軍のための石油なしには存立できなかった。
日本は、コメおよび石油の購入を平和的に保証されたならば
どのような条約にでも署名し、南方に対するいかなる侵略も停止したであろう。
ただ、自由貿易を認めるだけでよかったのだ。
どうしてイギリスが極東における数多くの領土を
保有する絶対的な権利を持つべきであり、
その一方で日本が近隣諸国からコメ、石油、ゴム、錫
その他の商品を購入することさえもできないくらいの制限を
米国によって課せられなければならないのか。
こんな理不尽な話はあり得ない。 天皇および近衛首相は、平和を維持するために
信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。
非常に平和愛好者である首相の近衛公爵は、ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していた。
在日米国大使であったジョセフ・グルーは、
日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたか承知しており
首脳会談を強く要請した。
日本は米国との開戦を避けるためならば何でもする用意があったであろう。
しかし、ルーズベルトはすでに対日戦、対独戦を行うことを
決意していたというだけの理由で日本首相との話し合いを拒否した。
ルーズベルトおよびその側近の介入主義者たちは、
策謀とごまかしとトリック(これには当時、蒋介石の軍事顧問でありソ連のスパイといわれている
オーエン・ラティモアらの妨害工作があったといわれている)
を用いて、全く不必要な戦争へわれわれをまきこんだのである。
日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。
これは共産主義の脅威をより恐れていた日本にとって悲劇的であった 我々は、友好的だった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。
イギリスは、それ以上に多くのものを失った。
イギリスは中国に対して特別の利益と特権を失い、
マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失った。
日本人は、高度な忠誠心、愛国心に満ちた、
非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族である。
このような民族に『恥ずべき最後通牒ハル・ノート』を突きつければ、
必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。
私はルーズベルトを許すことができない。
この大戦は米国に三十万人の死亡者と七十万人の負傷者、
そして五千億ドルの出費を米国にもたらした。
日本には軍人、民間人合わせて三百万人以上の死亡者をもたらした。
日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。
その責任はルーズベルトが負っているのだ。 日本ーアジア各国の独立支援
欧米シナ露ー世界各地に育成したテロリスト派遣・虐殺・お助けマン笑偽装で侵攻・虐殺・乗っ取り
今村中将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。
かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」
それから、独立国への準備が始まった。
300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、
州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、
さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。
これらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタはすかさず独立宣言を行う。
18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
インドネシア人達は、これで独立かと喜んだが、
再びインドネシアを植民地支配するために、イギリス軍とオランダ軍が戻ってきた
日本軍は、ポツダム宣言受諾以降、
連合軍が来るまでの現地の治安維持と武器の管理を命じられていたが
秘密裏に武器を流すなどして、自らが育てた義勇軍を支援
武器庫の番をしていたある日本兵は、暴徒と化したインドネシア人に無抵抗を貫き殺されるが、
彼は自らの血で「インドネシアの独立に栄光あれ」と壁に書いて息絶え、
こうした日本人の姿勢もインドネシア人に衝撃を与えた 自ら軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多かった。
その一人である熊本県出身の古閑正義中尉は、スマトラのアチエ州で
地元の青年達を「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。
昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、
インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加した。
戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をした
日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1〜2千名の日本兵が、
独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した
オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。
兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。
オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会笑や米国議会笑も撤兵勧告を行った。
全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである。 「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れません」
日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、
義勇軍設立と幹部教育に尽力し、独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。
オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。
日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、
それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。
...もし義勇軍がなかったならば、
インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。
スリナム共和国は、オランダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。
インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています