信濃町本部はカトリック真生会館の真ん前
アニメ映画「君の名は」で一躍有名になった信濃町ですが
昭和28年に創価学会が本部を移転してくる前から信濃町にはカトリック施設の真生会館があったんだってな? ちなみに昭和38年の今日は創価学会本部会館が建て替えられた日です
戸田時代にできた2階建てから一気に地上4階地下1階と倍以上の規模に >>1
君の名はって創価のプロパガンダなの?
マジかよ
20世紀少年を再放送しろ >>1
君の名は、のデスノート版は実質仏敵リスト
名前を書かれたものは集スト
みたいな
信濃町とは知らなかった https://mnsatlas.com/?p=14216
『君の名は。』聖地巡礼で大騒ぎ、信濃町の学会員も困惑、飛騨地方パニック? 宮水三葉の口噛み酒とやらが実在したら間違いなく戸田会長の墓前にお供えする学会員いそう >>7
アル中の戸田城聖の素顔
〔一部引用〕
幕あきは教祖であった。
(中略)
そして、想像もしなかったことばかりが起きた。
「グイッとあけな。グイッと」
「……いえ、これから撮影……。仕事中ですから」
「なにィ? それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ」
黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にするのも勇気が要った。尋常ならぬ量のウィスキーなのだ。
こんなに荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコップのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しのビールを垂らして割って、机の上に溢れさせるのだ。その濡れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押してよこして、飲め! とこんどは大声の命令である。
縁側の籐椅子にただひとり坐って、親の仇のように矢つぎばやに酒をあおっているのは、創価学会第二代会長となって六年目の戸田城聖氏。
(中略)
そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ちあがった。ネクタイは右の肩の上にはね上がり、ズボンは下がってシャツの裾が半分以上出て、みるからに酔漢の姿である。
何によらず、この姿を克明に捉えることが肝要だと、先まわりするため私は講堂へ走った。
(中略)
気になったのは、ひっきりなしに病人が運び出されていることであった。担架もあったが足りないらしく、戸板が使われていた。その上に乗せられ、身をよじったり痙攣したりしている人を、青年たちが運び出すのと次つぎにすれちがった。もともと病人なのか、薄暗い会場の異様な熱気で気分がわるくなるのか、舞踏病のような症状の人が続出しているのである。
(中略)
そして、演台にたどり着いて両手を突くなり、いきなり「説法」ははじまったのである。
「おろかものが!」
開口一番の獅子吼が、この言葉であった。
(中略)
しかも、戸田会長はそれきり口をつぐんで虚空をにらみ、一言も発しない。
(中略)
大音声である。病人が続々と戸板で運ばれた。(中略)
(NHK吉田直哉著『映像とは何だろうか』より引用) 創価をやたらと大きく見せようとする輩が居るようだな
創価なんかしょーもねーからさw >>4
20世紀少年みたいね
モデルは創価だっけ? 正義・・・地対空ミサイル、旅客機破壊、空港破壊 ←プーチン
悪・・・・航空機、騒音、観光、公務員、税金泥棒 ←公明党
https://dotup.org/uploda/dotup.org2792046.jpg 昔は学生運動の本拠地 その後非正規の溜まり場を経て今は上流階級のサロンになった 渋谷警察署=白金高輪駅
青山一丁目交差点=三田二丁目交差点
【慶応信濃町キャンパス(慶応病院)=慶応三田キャンパス東門】
鶴巻町=桜田門
江戸川橋=日比谷
護国寺駅=大手町駅
上富士前=日本橋駅
【駒込=日本橋】
王子駅=新日本橋駅
新荒川大橋=言問橋 爺婆しかいないし、椅子に変なシミがあってひいた。2度といかない。 どう考えても参加してる人少なすぎて採算とれているとは思えない。寄附をたくさんしている強力なカトリック関係の人でもいるのかね。 私がいったときは小金持ちそうな爺婆と貧乏そうな若者と病んでそうな中年女性の組み合わせで地獄だった アメリカのカトリック聖職者は精神世界を二つに区分し、一方には聖書に啓示された教義をそのままに置いて、議論の余地なくこれに服するが、政治の真理はもう一つの世界にあるとし、ここでは神はこれを人間の自由な探求に委ねたと考える。
アメリカの聖職者は市民的自由を全面的に支持し、信教の自由を認めぬ人々をさえそれから除外しない。しかしながら聖職者が特定の政治体制に支持を与えることはない。彼らは注意深く政治問題の局外に立ち、党派的関係に巻き込まれない。
私自身の信仰から、カトリックの聖職者にはとくに近づき、その中の何人かとはやがて親しい間柄になった。そのうちの誰に対しても、私は自分の驚きを語り、疑問を打ち明けた。すると、これらの人々の意見が違うのは細部に関することだけであるのが分かった。誰もが、この国における宗教の平穏な支配の主要な原因を、宗教と国家との完全な分離に帰した。私は、アメリカ滞在中、この点で考えを異にする人間には、聖職者と平信徒とを問わず、ただの一人も出会ったことがないと言って憚らない。
聖職者自身の考えを調べてみると、この人々の多くは自発的に権力から遠ざかっているようであり、その外に立つことに一種の職業的矜持をもつように見えるのに気がついた。
彼らは野心と不誠実に対しては、それがどんな政治的意見を装おうとも、口を極めて非難した。だが、彼らの話をよく聞いてみると、人が真面目に信じるものであれば、政治的見解を理由に神の前で罪とされることはありえず、政治において過ちを犯しても、家の建て方や畝のつけ方を間違えるのと同じく、なんら罪ではないと言うのであった。
彼らはすべての党派から注意深く距離をとり、個人のあらゆる利害を傾けて、党派との接触を断っていた。
『アメリカのデモクラシー』トクヴィル 宗教がその力を、万人の心を等しく捉える不滅への希求の上にのみ基礎づけようとするとき、それは普遍性を目指しうる。だが宗教が一つの政府と一体化してしまえば、特定の国民にしか適用できない教えを採用しなければならぬ。こうして宗教は、一つの政治権力と結ぶことで、ある人々に対する力を増大させ、万人を支配する望みを失う。
宗教があらゆる不幸を隔てなく慰める感情にのみ支えられる限り、それは人類の心を引きつけうる。宗教が現世の恨みつらみと混じり合うと、愛というより利益で結びついた宗教の同盟者を守るだけのものになってしまうことがある。そしてしばしば、宗教をなお愛しながら宗教の同盟者と激しく戦う人々を、敵に回さねばならなくなる。宗教が為政者の物的なカを分かちもてば、必ずや為政者のかきたてる憎しみの一部をも身に引き受けねばなるまい。
ある宗教がその力の源を、歴史のあらゆる時代に同じように繰り返し現れる感情、本能、情熱に見出している限り、それは時の挑戦をものともしない。少なくとも、別の宗教によってしか滅ぼされぬであろう。だがそれが現世の利益の支持を得ようとすると、地上のあらゆる権力とほとんど同じように脆弱になる。独りでいれば、永遠を期待できるのに、束の間の権力と手を結ぶと、その運命の後を追い、しばしば権力を支える一時の情念とともに滅びる。
だから宗教は種々の政治権力と手を結んでも、厄介な同盟関係に入るだけである。宗教が生きるために政治権力の助けは要らず、政治権力に仕えれば、宗教は死ぬかもしれない。
アメリカの聖職者は他の誰よりも前にこの真理を認識し、行動をこれに一致させた。彼らは、政治的権力を得ようと思うならば、宗教的影響力を放棄しなければならぬことを理解し、政治の有為転変を共にするよりは、その支持を失う方を選んだのである。
ヨーロッパの不信仰者は、キリスト教徒を宗教上の敵というより、政治的な敵として追及している。彼らは誤った信仰という以上に、一党派の意見としてキリスト教を憎むのである。聖職者の中に権力の友を見てこれを退けるのであって、神の代理人を拒むのではない。
『アメリカのデモクラシー』トクヴィル