日蓮ってver.57
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前スレ日蓮ってver.56 https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1601903872/ 「日蓮って」過去ログ http://hyakkimaru.nukenin.jp/ 創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。 創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。 コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。 スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。 スレ違いの話題はほどほどにして下さい。 初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。
>>171 自分が三大秘宝…は偽書、と主張してたんじゃん。 だから、ご真筆さまに(国立)戒壇が書いてあるよと教えてあげたのに、 こんどは、ふつーに読んだら三大秘宝は法華経、だとか、 三大秘宝が戒壇なのを否定したいだけの、精神病のタワゴトが始まって…、 戒壇 → 宗派、と妄想変換されんの? 戒壇と宗派はぜんぜん違う文字に見えるな、意味も違うよーな気がするし…、 なんで大聖人さまが戒壇と書いてんのに、後世の末端信者ふぜいが、 日蓮化義とかのへんな理屈で、勝手に御書の文字を改ざんできんのかね? というか鎌倉時代の戒壇は、東大寺と比叡山の二つで、 どちらも最初は朝廷の許認可を受けて運用がはじまった、 僧侶に公的な資格を授与するための、公的なシステムでしかない。 だからとーぜん、戒壇 = 官製戒壇 = 国立戒壇、でしょ。 創価が国会に持ち込んだときの、文字変換は正しいと思うよ、 ただし使い道に、邪悪な下心が混じってるけどな…。 そんで対告衆だとか、法華取要抄の結びは…、とか権威ぶってるけど、 この末尾にも上行菩薩の名前があるわなw …後に『上行』等の聖人出現し、本門の『三つの法門』之を建立し…。 ほー大聖人さまはやっぱりご真筆で、上行菩薩が戒壇を建立するといってて、 ファンタジーお花畑じゃん。ということに気が付きませんか? 化義だと、戒壇 → 寺だとか、↑上の戒壇 → 宗派、のデタラメも ここまで元原稿の文字の改ざんが許されるなら、日蓮御書なんて必要ないわな…。 >>256 ,257,258 ↓元ネタこれよ。 (法華経普門品) 念彼観音力、刀尋段段壊。 観音さまのお力で助けて―、と心の中でお願いすると、 処刑される首切り刀がバラバラに折れる。 それでこの法華経の記述を利用して、 じっさいの史実とブレンドして作られたのが、 平家物語・長門本に書かれている、平盛久首座の話で、 2020年現在も、鎌倉由比ガ浜海岸に石碑が建ってるから、 画像検索してみたら詳細なストーリーもわかる。 そしてこの平盛久首座のものがたりを、さらにパクったのが、 種種御書にある、日蓮師匠の江ノ島の空に火球が流れて、 腰越海岸、龍ノ口の処刑寸前で危うく助かった創作話になるわけで、 ※平盛久首座の話と、龍ノ口の話を比べると、 〇観音さま → 法華経守護の三光天使 (助け人の変更) 〇刀が折れる → 光球で首切り人の目がくらむ (助け方の変更) と観音経から → 法華経バージョンに改ざんしてるのがポイントだよ。 しかも種種御書には首切り処刑のシーンなんて書かれていませんよ、 鎌倉御所から由比ガ浜を通って相模の庄屋宅へ、 テロ扇動犯の日蓮を送り届ける途中に、明け方の龍ノ口で、 一行が休憩してただけなんだよな、そこで何かが光って…。 日蓮と金吾はここで首切られると大騒ぎしてんだけど、 平左衛門一行はそれをガン無視してて、なにやら相談中で、 夜が明けると、道がわからなくて相談してたことがわかり…。 >>253 >法華経という経典を読んで感じた事 >何となく本編はどこ?そういう疑問が湧いてくる。 >本編は実証。そんな気もする。 法華経を読む人は大別して3つのタイプがあるよ 1つ目は、単純に法華経のエピソードを受けがってしまう人、その信心を持つ人 2つ目は、何処をどう読んでもファンタジーでしか無く内容が無いと非難する人 3つ目は、なんでこんな修辞が必要だったのか?その奥にあるのは何なんだ?と探求する人 そのタイプも否定も批難もされるべきでは無い。皆一人一人の自由意志を尊重しなければならないからだ。 ただ 1つの窓を開けた所や別アングルからインスタに上げる事によって多義性に気づく部分もある 興味がある人だけで良いから蓮實重彦氏の「表層批評宣言」や 松岡正剛の「千夜千冊ブログの法華経」を読んで見てはいかがだろう? https://1000ya.isis.ne.jp/1300.html それから大切な事を言いたい。 もし貴方が創価学会員さんで、法華経を独自に様々な文献にあたり図書館通いをして 法華経への知見を高めても、創価学会員の前では法華経を語らない方が良い。 知り合いで信濃町本部から法華経について語るなと勧告を受けた人を多い。 さらに、その勧告を無視して学会員に法華経を広宣流布しようとした人で除名された人がいる。 日蓮が鎌倉在住時に何をして口を糊したか? 私の推測、当時の庶民の葬いを引き受け、経を上げて、埋葬に付きそう。 その様な小集団を為すある日、某日念仏衆の暴漢に襲われる。 念仏衆は南無阿弥陀佛と唱えて弔いを済ますが、法華の頭目日蓮の題目が耳障り、つまり 営業妨害と受け取られたのではある在るまいか?暴力事件の因は金銭関係が引き金。 日蓮一行が場所代未納、顔役に仁義を切らず、碌な挨拶も無しに阿弥集団の縄張りを侵す。 と思うのだが。 それから創価学会員さんにアドバイスしたい 学会員のなかで 決して 日蓮や法華経の話をいけない 何でも、ハイハイと黙ってうなづくのがベスト。 変な所で主観を呈すると、我見だ!実践が全てだ! と、人間関係が悪化するからね。 会合では余計な事は喋らないように >>269 全く推測なのですが、僧形の阿弥達がこいつは憎いやつと 日蓮の掘立小屋?粗末でも雨露をしのげる住まいを 焼き討ちするのは只事じゃ在りませんね、 営業妨害への報復の可能性が大きいと思います。 日蓮氏は何と記していますか?乞食(こつじき)のみで日を送っていたとは 思われません。 >>262 これは1271年9月13日未明の龍ノ口の出来事あれこれから、 昼には相模の庄屋宅まで、金吾が日蓮につき従っていって、 その日の夜に、鎌倉から通達の書状がやって来ると、 とりあえずは、まだお咎めが決まってなくて、 早まって処刑しないように、という命令が書いてある。 そこで金吾は安心して、警護を屋敷の兵たちにまかせて、 帰ってしまい、日蓮師匠はその庄屋の屋敷に二週間ほど 留めおかれて、そのあとに評定所で流罪が決定して佐渡送りとなる。 そしてとりあえず死罪ではなさそうなんで安心して、 龍ノ口から8日後の21日付で、金吾に宛てた手紙が 池田せんせスピーチのこれで、引用してるのは手紙の末尾のあたりで。 (四条金吾殿御消息) 三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、 明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、 いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、 ※法華経を守る三光天子が龍ノ口/月天子、庄屋宅/明星天子とあらわれて、 あとは三番目の日天子のみと、作り話のシリーズ化を相談してるみたい。 法師品に云く「則遣変化人為之作衛護」疑あるべからず、 安楽行品に云く「刀杖不加」普門品に云く 「刀尋段段壊」此等の経文よも虚事にては候はじ、 ※池田せんせは、この三つの法華経からの 引用フレーズの意味を説明してるところだね。 これらの3つの法華経フレーズと種々御書の記述をシャッフルして、 創作話として作り上げたのが、龍ノ口の光りもの伝説みたいだけど…。 >>272 そんですこし前、夜中のあたりをもう少し詳しく書けば、 龍ノ口に到着すると金吾が、ここが処刑の場でしょうね、 日蓮師匠が首を切られるなら、わたしもここで 腹を切ってお供しましょう、といってめそめそ泣きだすと、 日蓮師匠は、金吾のような立派な若殿が そんなことではいけませんよ、となだめて見せるんだけど、 で、そのときに江ノ島の上空を光の球が東南から北西に流れて、 夜明け前の真っ暗な中で、光物があらわれて、 その場にいた人々の顔がはっきりと見えるぐらいの明るさで、 なんだなんだ?と一同騒然としているとこで、 太刀持ちがバッタリと倒れているとあり、 この太刀持ちを首切り処刑人と思ったらしく? その場の騒然としてるのが収まってくると、 日蓮師匠が、遠くでなにやらひそひそ相談中の 護送の兵士たちに向かって、あんたら処刑をするなら さっさとやらんかい!もうすぐ夜明けだから血だまりが出来て、 見苦しいことになりますよ、と大声で怒鳴ると、 兵士たちは、一瞬おどろいて日蓮と金吾を見るんだけど、 すぐに二人を完全スルーして、また相談を始めるんよ、 で、これは後で相模の庄屋宅への道がわからないと説明され…。 とにかく種種御書の中には、該当するような 首切り処刑が行われるシーンなんて書かれてなくて、 日蓮と金吾が二人で首切られると思い込んで 大騒ぎしてるだけなんだな…。 >>271 日蓮の草庵が焼き討ちされたのは江戸時代に書かれた 本化別頭高祖伝からだよ 立正安国論を提出して1ヶ月後の8月27日に怒り狂った 念仏衆に草庵を焼き討ちされたって言うんだけど 8月27日って誰が決めたんだ?幕府のお膝元で大規模な 襲撃事件があったらなら目撃者がいたんだよねって聞いても 誰の証言で確定したのか教えてくれない >>1 【全スレ連絡 注意喚起 】【拡.散.希.望 】 コピーリンク転載自由 ◆ ◆ 札幌のライブハウス Sound Lab mole は危険 ◆ ◆ 店長 の大嶋(おおしま)は創価学会の集団ストーカー ネット工作員 卑猥投稿、客叩き、アーティスト、バンド潰し、自殺に追い込むネット工作 次々に人を自殺泣き寝入りに追い込む殺人鬼 店長 の大嶋 ( おおしま)は詐欺師 配信ライブで卑怯にお金を巻き上げる ※ソースあり ずさんなコロナ対策で35人感染者のクラスターを発生させた※ソースあり http://otototabi.com/2020/shared/img/interview/manabu_02_06.jpg @ohshima0040 https://mobile.twitter.com/ohshima0040 @soundlabmole https://mobile.twitter.com/soundlabmole 詳細は↓ 専用スレで 大嶋智洋の悪事を一挙大暴露! https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/4649/1590645255/l50 udod, 「 大嶋智洋 創価集団ストーカー 」で検索 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 日蓮を学問的に語る、此れ大変に困難なんですね、 彼方此方から学問上の批判や欠陥が出て来る理由とは、 彼の学力不足が露呈するからなのです。 素人は其れなりに言いくるめても、現代水準の仏教学からすると 「天台智の五時教判が明らかに仮説であって、その仮説は誤りでした」 そのような結論が出た五時教判を仏教徒の通常概念と常識的な 教学に位置付けしたら、日蓮氏の存在価値が消えるのです。 手厳しい言い方を許容して貰えると好いのですが、日蓮って骨董の使えない置物。 日蓮が存在したと言う事実論題と 日蓮が説いた仏法と言う価値論題が交錯する中 日蓮を正確に捉える事は不可能 聖骸布。オックスフォード。アリゾナ。スイス連邦工科大学。3つの大学が共同でプロジェクト。 放射性炭素年代特定法により聖骸布は13世紀に作られた物と結論受けられた。 ローマ教皇庁は、聖骸布の真贋認識を改め、信仰の対象にはしない事を決めた。 しかし、その翌年、ローマ教皇庁は たとえ偽物であったとしても この聖骸布への信仰を持つ人達の為 そんな信者の心の慰めになるなら 聖骸布は真なる信仰の対象にする。と発表。 物理学的にはニセモノ でも 信心を持つものにはホンモノ どのように存在したのか? よりも 何の為に存在したのか? これが宗教の信仰だよ じゃあ、そんな日蓮ちゃんがなぜ流行って多くの人に求められるのか?存続し続けているのかってのが重要ってことだよね。 時代を超えて日蓮の教えは存在し続けているってことは、結局は人類が必要としてる代物ってことなんだからさ。 本来時代を超えて沢山の人に求められるってことは、何でもそれは重要で普遍性があるっていう風に見なされる。 時代を超えて用いられたり愛される偉大な文学や哲学や芸術なんかがそうだ。 じゃあ、日蓮の普遍性は日蓮の偉大な証明なんだろうか? 私見になるが、それはちょっと違う気がする。 日蓮は偉大ではないし多くの仏教上の誤りがある。 しかし、その誤りこそが人を引き付け続ける要因の気がする。 日蓮が人を引き付け続ける理由は、その仏教上の誤り、つまり日蓮のアンチ仏教性にあると自分は推測している。 ここからは強引な仏教解釈を行うが、私見では仏教とはゼロの思想だと思っている。 ゼロとは何も無いということ。 ただ何も無いが、ゼロから1やら何千億やら無限の数値がそこから生じる。 これを仏教で表現すれば空。 空からあらゆる無限の色が生じる。 ただ、人間というのは世の中にゼロや空を見ない。 人間は常に物事に1以上という「有」を見ている。 人間はh、物事の実態とは実はゼロから生じている事であったり、物事は必ずゼロに返る性質(万物は流転する)に気づくことはない。 この人間の錯視をただす、つまりあらゆる物事の根本はゼロや空であることを人間に身を持って教え諭すのが仏教の本質だと思っている。 しかし人間はゼロや空が怖い。ゼロや空は虚無を連想させる。つまり死だ。 人間は自分が有であると思っている為、有にしがみつく。 しかし仏教は容赦なくこの人間の有へのしがみつきを否定する。 あらゆる物事は諸行無常でしがみつけるようなものは何も無いと、仏教は常に人間をゼロ次元に叩き落とす。禅の公案なんかはこの典型。 そして仏教は人間のこの有へのしがみつきを煩悩と例えて、輪廻転生の原因はこの煩悩への執着、つまり生への希求が原因と説く。 言い換えるならば、有への執着は迷いであり転生、逆に有の消去が悟りであり転生の終焉というゼロへの帰還。 仏教の本来の修行の目的とは、人間を有へのしがみつきからゼロに戻すこと。 その象徴は、ゼロ次元を人間の姿勢で表現した只管打坐。 その他、唱うれば我も仏も無かりけりなんかもそうだ。 こういった仏教の人間をゼロ次元に戻そうとする修行にあって、日蓮は正反対のことをしているように思う。 具体的には、日蓮は仏教に反してゼロを嫌う。 そうして有への固着を見せる。 例えば優劣への強烈な執着、そうして特定経典を祭り上げ、法華経が唯一正しい経典とする。 南無妙法蓮華経とは、絶対的な滅びざる有(ここでは法華経)を求めて、その絶対性質に自己同一化を求めている態度。 この態度はゼロの根本否定であり有の賛美。 これらの日蓮の態度は、言い換えればゼロに返りたくない自我による抵抗だ。 なぜならば、ゼロ次元とは1やら兆やらの数値を帳消しにする事であり、あるいはあらゆる色が空に飲み込まれてしまうこと。 空に飲み込まれるとは、実際は消えるのではなく、自己の無限の可能性に自己を明け渡すこと。つまり自分が万物の根本であることに戻ること、あるいは気づくこと、その気づきは悟りと表現されている。 自我とは、数値や色のようなガラクタをファッションのように身につけて存続が成り立っている架空の存在。 数値やガラクタとは人間世界に直せば、私の学歴はこうで家柄はああで身長はどれくらいでなどという執着対象。 日蓮に直せば、日蓮の自我に囚われた行動とは、私は法華経という最高の教えを信じているという特定の教えへのしがみつきと教えへの自己同一化。 じゃあ、最初の問いに戻ってみることにしよう。 日蓮はなぜ時代を超えて人類から求められるのか? その答えは、人類によるゼロへの抵抗。 人類は煩悩から生じる苦しみから逃れるために、悟りという自分の根源への希求を求めるがゆえに、宗教を求める。 ただ、悟りの本質を理解した宗教ならば、その宗教は人間にゼロ次元を要求する。 それは当たり前だ。 人間の本質は空なんだから。 これに対し人間は抵抗してしまう。 自分を有だと思い込んでしまっている人間は、ゼロにはなりたくない。 自分をゼロに戻そうとする宗教はちょっと困る。 じゃあ人間は何を求めるかというと、自分を有のままいさせてくれるというか、自分の有を強化してくれる宗教を求める。 その有を強化してくれる典型的な宗教が日蓮の教え。 最高の選りすぐった優の教えが法華経であり、それゆえにその絶対的な法華経に帰命することが成仏への唯一の方法だという。 これは自我にとってはしがみつき先として最高の有だ。 自我は学歴やら過去の栄光やらという権威的な有にしがみついて自己同一化する。 なぜなら自我にとって、これが自分を確実にしてくれるような気がするから。 ただ、法華経という権威は、宗教によって保証された、学歴や過去の栄光以上のお墨付きだ。 本来の仏教により空に消されたくない自我は、日蓮に帰依すれば仏教という権威を維持したままで最高の法華経という有にしがみつき続けることが出来る。 日蓮の教えとは、悟りを欲しながら自分が消えることを恐れる自我の避難所。 悟りというゼロに向かう振りをしながら、いつまでたっても有にしがみついていられる。 スポーツをしたい者が、スポーツに挑戦したもののそのキツさにねを上げ、テレビゲームのスポーツソフトを使ってスポーツをやっているように自分を誤魔化しているのと同じようなものだ。 苦しみから逃れて自分の故郷である空に戻りたいと思い宗教修行に取り組むことにしたものの、本当に戻る決意の固まらない意思の弱い人間は必ず出てくる。 そういった人間は、修行をやめるのは決意を固めたはずの自分が敗残者のように感じて恥ずかしい。 実際は敗残者でありながら、本気で悟りを求めているような振りを続けたい。 そのようななんちゃって宗教修行者が駆け込む自我の避難所として、日蓮の教えは時代を超えて需要があり続ける。 >>282 簡単に言うと 日蓮の自己同一性が他者に(直弟子から)先立たれている 「違い」と「遅れ」を兼ね備えた差延がある。 この立場からは、先だった他者の排除によってその痕跡(差延)を残しつつ 作り出されたものとして自己同一性を対象とした脱構築が語られる様になる。 デリダやドゥルーズ、ジャックラカン、ミシェルフーコーが言うように 宗教的アイコニックな実在した人物は(ナザレのイエスも、釈尊も日蓮も全て) 「哲学的ゾンビ」と呼び、 観測できるのは物理的の一切であり、唯名論と実念論の個人的審美的価値観により より低いレベルでの普遍論争が起こりやすいのだよ。 これは文学部哲学科にて最初に学ぶ自己同一性の問題として取り上げられている。 ナザレのイエスも、日蓮も、そして釈尊の自己同一性であれ 「ジョージワシントンの斧」や「テセウスの船」のように 人間というのは思考の身勝手さにおいて、同一律と無矛盾律と排中律のリージョンを跳躍し 自己複製としてのゲシュタルトには自己言及性を持つに至る。 注意点は2つ 1つ目は私は仏教については語っていない事を読み取る事。 2つ目は、私が語った自己同一性の観点から学会員さんや、その他の日蓮系の信者さんの前では決して語ってはいけない事 宗教活動に熱心な人とは、哲学的視座と知見を絶対に持っていない人達だからだ。 こちらからは何も言わず、彼らをメタフォリカルでイマジナリーな日蓮のそばに私達は残してあげよう。 あえて他者の心の幸福を奪う事は、人として道義的に間違っているからだ。 くれぐれも信者さんの前で語らないでくれ。 アナタが正しい事を言っているにも関わらず、仏敵認定され 不愉快になるのはアナタなのだから 人は裸で生まれ来る、裸で死んでお終い、つまりゼロから生まれゼロに帰す。 ゼロとゼロその間を人生と言うわけで在ります。 人は本来が不生死(ふしょうじ)とはまさしくこれか。 虫や獣ではない人道の境涯ですから、いろんな付属品や智慧が付着します。 282さんのお話を日蓮に振ると、日蓮は何故、俺の人生はマイナスに甘んじなければ 成らぬのか?頭脳明晰でありながら浮かび上がられない不平不満、日蓮を駆り立てた動機は 己の持ち点がマイナスを恨む心性でありましょう。 せめてゼロならまだしもでしょう。 あまり指摘する方は居ませんが、何事かを成し遂げる人には生まれながらの祝福、人徳が 必須でそれが無ければ物には成りません。 仏道修行とて同じことです、生来のプラス得点を握って生まれる人も居ます。 その代わりに家族になす徳分を仏道に振り向けるそんなものでしょう。 日蓮は性急に形ある成果を求め過ぎました。 曰く、寺領地、弟子口分、法華宗を認めよ、なのですが、如何せん彼は只の私度僧でした。 彼の脳裏には、上の三件を短期間で達成する空海の姿があると思います。 >>285 あなたはオカルトが好きなのですね それは、それでいいでしょう でも、あなたの言葉を聞きたがらない人に対しては 相手の事を考えて、行動してあげて下さい 法華経は、「全ては平等に価値がある」 と、語り終わる経典んだよ。 そして 第四の壁を乗り越えて読者の真ん前に接地する ただ1つの、唯一のスートラだよ わからない人は、それで良い。 法華経が読みにくいと言う人も、平等に価値ある存在なんだ。 まあ抵抗できるだけ>>280-282 の知見に抵抗してみることだな 覆そうとする試みがお前の苦しみを大きくし長引かせることになると思うが 間違った教えを捨てようと決意するにはそういうのが必要なのかもな >>289 ある人曰く、法華経は仏教入門の為に学ぶ初期段階のお経です。 尤もらしく巧く制作して居るそうです。 このお経の本尊は何方でしょうか?明瞭にお答えする方は居ません。 題目本尊って対象は誰に呼びかけるのでしょうか? 最澄が空海に膝を屈して学び、弟子を送って迄も学ぼうとした。 その後に遣唐使船に比叡山は弟子を乗船させる。 日蓮は口を極めて非難するが、最澄が誇りを捨ててまでも空海に学んだ理由は、 法華経のみで自宗を維持できない為。 法華経というのは第四の壁を乗り越えて読者にせまるメタフィクション手法で書かれている。 ゲームの、MOTHER2やUNDERTALE 映画のライフ・オブ・パイやパラサイト半地下の家族(特にポスターの人物に表れている) 教養小説のソフィーの世界の様に クロスオーバー作劇と自己言及作劇を特徴とする唯一の経典 そしてメタフィクションからパラフィクションに位相が変化する構成になっている。 何を言っているのか?分からない人が居ても良い。 ただ、わかる人には分かる。 法華経は文学的価値が非常に高い。 問題は、その法華経を信仰の中心に据えたことにより、各信者さんが 文学的なアナリーゼが出来ないまま、「多分こういう事言ってるんじゃない?」 「多分こういう事しか言ってないいんじゃない?」 という共同幻想を生み出す危険なキッカケになりやすいという事だ。 何れにしても1人で法華経を読む事が大切であり、感銘を受ける。 チョロっと読んだ人の、ペロっと解説した文言を読んで、「法華経ってそういうお経なんだ」 と、集合的認知不協和に陥って欲しくないが 法華経を真面目に読んだ人も、宗教団体の教学からインプットされた人も 何処かの日蓮系の信者さんなら、その宗教団体の中で法華経を語るべきでは無い。それは危険だからだ。 桐島、部活辞めるってよ 「お前は何でいつもカメラ回しているの?将来映画監督にでもなりたいの?」 「え?、、、、そんな事考えた事も無かったよ、、、ただ好きだからカメラ回してるだけだよ」 信仰は信仰、史実は史実で区別してるなら問題は無いのだが 松葉ヶ谷の法難の日付を調べてて発見 中尾堯 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/5/6/5_1/_pdf/-char/ja 中尾は、ふたつの面を持ち、史学者としては、 「当時の幕府は社会の安定に心を 配り、幕府のお膝元での焼き打ち事件が起こるはずがなかろう。 当時の寺院とその堂舎は独立度が高く、たやすく攻撃されたり、破壊されるもので はない」 取意 と、この法難を暗に否定している 『日蓮』 80 頁 。 しかし日蓮 宗僧侶として、一般信徒向けの文では、「当時の鎌倉において次第に数を増していた 浄土宗の信者たちは、日蓮聖人のこのような主張に憤慨し、文応元年 一二六〇 八月二十七日の夜、聖人の松葉ヶ谷の草庵を襲撃して火を放った」 「絵でみる日蓮聖人の 生涯」『大法輪』第 48 巻第 6 号、 93 頁 とか、「八月二七日の夜、月明かりもない闇の中を、 武具に身を固めた念仏の信者たちが、ひそかに松葉谷の草庵を取り囲んだ。ときの声を あげて庵室めがけて攻撃を加えたかれらは、日蓮を守る僧侶や信者を散々に打ちのめし、 堂に火を放った。これを『松葉谷の法難』とよび、日蓮とその弟子・信者が蒙った最初の法難で ある」 「日蓮の生涯―法華経の旅人」『日蓮と法華経 信仰』 36 頁と述べている。 立正安国論を歴史の教科書に書くなら日蓮宗信徒は 幕府に提出したと信じているだろうw 客観的な証拠が何もないのに また性懲りもなく例のシッタカコピペ野郎がしゃしゃり出てきたのか。 恥の感覚が皆無な奴だな。 このスレは大別すれば3っつの人が混在してるんだな 1つ目、史学的な興味を持つ人 2つ目、信仰の教義教条に興味を持つ人 3つ目、文学的または哲学的にに興味を持つ人 1つ目は事実論題 2つ目は政策論題 3っつ目は価値論題 これはルカによる福音書の中の「善きサマリア人の喩え」に関する論争と同じだ 日本人はキリスト教に関しては関わり合いが薄く どれだけ多くの宗派や教会が有るのかさえ知らないから 誰も話題にはしないけど >>297 さんは何方の意見に申されるか?無駄ですね >>299 多分>>297 さんはオマエさんに言っているのだよ。 IDを変え、文体を変えて書き込みしてもわかるんデス。w オマエさん虚しい生き方しているんだね。 シッタカ君、宿谷君、梵字君 今まで拝見できなかったが、 長文の三人でレス交わしてみww 大乗戒壇である比叡山延暦寺の根本中堂の御本尊は薬師如来である。 法華経の本尊は釈迦牟尼如来ではないのか? 南無釋迦牟尼佛 (如來神力品第二十一) それでどうしたと? >>304 説法の主役が釈尊なのだから法華経の本尊は釈尊で正解だろう。 >>264 >これで証明完了? お釈迦さまという人は現実の歴史上の人物と、 >法華経のにせものサギ師が、二人いるってことでしょ。 >まあでも、日蓮教/法華宗じゃない一般人からみれば、 >上行菩薩も竜女も多宝塔も単なるファンタジーに過ぎないんで、 >法華経もただのおとぎ話で、フィクションじゃーん、で終わりだよね。 法華経は恒真命題と恒偽命題の間に揺蕩うメタフィクション構成で書かれてるんだよ マーベルの映画デッドプールと似ているし、桐島部活やめるってよ、のパラフィクションである 法華経は良く読むと 釈尊は3人いて 法華経というお経は4っつ在る事をアナグラム的またはタングラム的に修辞で表している 作品としては物凄く手が込んでいて、故に理解できる人と、理解できない人が真っ二つに割れるんだよ ほら村上春樹の「騎士団長殺し」を読んで感動した人と文句をいい貶す人に二分されたでしょ? 「あの作品の何処が嫌う理由なの?」 「だってさあ、膨らみかけた少女の胸について語る描写がロリコンぽくて気持ち悪いじゃん」 「え?そこ?」 法華経は大部過ぎるし、その文章構成やメタフォリカルな表現の大洪水だ。 法華経を読みなさい。と言えるのは、法華経の修辞と叙述トリックが理解出来る人にだけだよ。 法華経は誰にでも勧めるべき物では無い。 「膨らみかけたら少女の胸」以外何も心に残らない人も多いのだから。 >>305 >説法の主役が釈尊なのだから法華経の本尊は釈尊で正解だろう。 法華経の誤読の1番の難しい所は 方便品で退場していった5千人の弟子が 何故、戻ってきたのか? という暗喩と寓意を、読めない人が多いという所なんだよ。 以前、宮台真司と宮崎哲弥が語っていたが 「法華経のお釈迦さんは、あなたが思っているお釈迦さんとは別の形で存在する釈迦なんですよ」 と、意見が一致していて、この2人の読解力はやっぱり凄いなと感心した。 私は宮台真司も宮崎哲弥も嫌いなんだけど、ここだけはリスペクトしたよ。 法華涅槃時の三周説は末に向かう程、信が厚くなるからだろ 始めに増上慢は立ち去れと言ったのもその為 一応、増上慢とラベリングして退場させ、これから始まる例え話の為のスペースを 確保してるんだよ。 例え話を始めるや5千人の弟子は「そんな例え話、おとぎ話なんて聞きたくねぇよ」 と、さっさと立ち去るんだけど、法華経の後半に彼らが戻って来ると 何故、あの時立ち去ったのか?を説明してるよね。 この説明が素晴らしい。彼らは増上慢でも何でも無く 方便品の最初に釈尊が「絶対に教えてやらない」そして「そんなに言うなら例え話で教えてやる」 という、釈尊自体の分水嶺つまり下位概念にコミットする為に相対的二項対立を、敢えて出す。 これに呼応するように「ならば私達は退場します」というあの弟子達は 最初の釈尊の言葉「お前らには理解出来ないから、絶対に教えてやらない」の方に付いた人達。 これにより船は大きくなり、より多くの人達を乗せる事が出来た。 法華経は読むたびに感動するよ。 >>309 所がですね、その説法以前にお釈迦様が弟子に説き修行させた内容が 未完成であり、ひょっとしたらその弟子たちが全て地獄へ堕落の可能性があり お釈迦様ご自身の言説に不備がありと自ら認める事になります。 つまり救済に失敗しながら堂々と布施を受け取る「偉そうな供養詐欺仏陀」行脚 君が感動している場合じゃないですよ、被害者が結束するべきです。 だからして40年未顕真実は法華小説の名作小話、騙されちゃいけませんな。 同じような手口を東京立川市に大本殿を構える真言系某新興宗教団体も仰る、涅槃経はお釈迦様が最後に説いた真実のお経なり、ではそれ以前のは真実味が薄いのか? どうしても水臭いらしく、本場カレー味がない理屈です。 他の水臭いお経は見直さなくても大丈夫!信者を囲い込む言訳が初手から用意すみ とても上手なものです。 正宗寺と切れる以前の創価と運営がそっくりなので、動向を見逃せません。 >>309 >法華経の後半に彼らが戻って来ると >何故、あの時立ち去ったのか?を説明してるよね。 どこに書いているかを抜粋しなさいと以前のスレでも指摘していたはずだが、 どうした? >>310 オマエさんは>>309 の五千起去の者達が帰って来たということを確認して、 納得されている上でレスを書いているのだろうな? >>309 >>311 氏と同じく回答を求めたい。 戻ってきた五千増上慢の話は聞いたことがない。 >>312 恐らくではありますが、>>309 の頭の中では、 その法華経後半で語られているという過去世千五百人の増上慢と、方便品五千増上慢とを混同しているのでしょう。 二日ぐらいは回答を待ちましょうか。(言い訳を考えさせるにもですw) >>311 40年未顕真実の嘘臭さを指摘するのみ 法華経以前40年間わたくしの説法は未熟でした。 そりゃいかんでしょうが。 明治維新まで、「お経は全てお釈迦様が説いた」これが定説で通りました。 然し明治維新後に新情報が到来し、いわゆる大乗経典はお釈迦様の説法ではない、 阿難尊者の如是我聞からの伝言は何処の誰とも知れぬ者たちの創作と露見しました。 この判釈は学問的に認定され、何処の仏教大学でも歴史過程の教授が新入生への 初段階で基本概念としてなされます。 不審な方は、仏教史年表を広げてみるべきです。 釈迦誕生、入滅、七葉窟で一度めの結集目、二度、三度の結集と記されます。 その後にこの頃に阿弥陀経に成立。法華経成立、大日経成立。 などと在りますのでよく思案すべきは、結集と成立の違いと思われます。 わたくしのこの記述などは、入学して一か月目に習う初歩の初歩課程なのです。 学問の成果を教学に反映させず、江戸時代の教学を教え込む不誠実な教学部の方々。 日蓮氏が現代に生存なら絶対に採用しないだろう五時教判を筆頭に多くの 矛盾を抱え込んだまま、此れが真正の仏教とやって来たツケを見せられております。 日蓮氏がどれ程偉大な人格であろうと、現代に通用しない論の枝葉は刈り捨て破却すべきです。 上の此れらを指摘すると必ず、 お前はロンドン仏信徒なり!と奇妙な指摘者がひょっこりとお出ましになる。 日本の仏教は「文明開化の恩恵に浴する」その方が一層に賢かろうと思われる次第です。 医学や化学でも習い始めの一時限目は、その学問の通史を教えるのですが、仏教も当然に それに従うべきです。 >>314 >法華経以前40年間わたくしの説法は未熟でした。 法華経のどこに釈迦が反省してる文があるというのかね? 指摘をするなら勝手に解釈をしないようにし、原文を最初に提示しなさい。 方便=未熟 と、読み手に思わせるオマエのクオリティでは>>309 との話が合うだろうがな。 なぁ〜教えてくれよ、どこに五千起去の者達が帰って来たということを? 知らなければ知らないと素直に言える人間になろうね、日蓮信仰者じゃなければw >>316 315を熟読し考えたまえ、未熟な仏陀じゃ言い過ぎかもしれんが、 釈尊が己の至らぬ40年間の説法であったと法華経で云うとる訳だが、それもガセ説法認定。 何処かの誰かが勝手に枉げて作った引き寄せ文章で御座いますよ。 私は、日蓮フリー仏教が望ましいと思うのです。 この場合のフリートは無添加の意味になります。 シュガーフリー、ソルトフリー、アルコールフリーと同じ意味。 >>317 >未熟な仏陀じゃ言い過ぎかもしれんが 法華経を読んでいないからして、そのような勝ってな解釈になる。その学者面は醜い。 >釈尊が己の至らぬ40年間の説法であったと法華経で云うとる訳だが そんでまたこれかw “法華経で云うとる”とはどの文なのだ? オマエ、恥の上塗りだな。 >>318 21世紀の仏教は日蓮フリーが 主流です。 日蓮離れの解釈をするのがトレンド。 クリアーさせた仏教が望ましいのです。 >>318 ナウなヤングは法華経と日蓮は切り離して トライするでしょう。 オッサンの貧乏臭いのがワシャ好かんそうです。 それは宗派によりけりだろうね。天台ならフリーでいいだろうけど、日蓮系団体はそうはいかないだろう。 日蓮系の信者さんでも 誰にも言わず、1人で独自に法華経を勉強すればいいんじゃないか? 教団の教学は置いといてだ(教団の教学は一応そういう物だと理解してあげて) 教団と無関係の学究が記した法華経に関する本を読んで、自分1人だけで法華経を学ぶ というか、法華経に対しての興味を持ち続ける。 そして、絶対に教団内では自分が学んだ法華経については一切語らないようにする。 これが1番、法華経を理解出来るポジショニングだと思う。 他人に語れば、必然的に社会心理としてのノイズが生じるからね。 そういうの、メンドくさいでしょ。 法華経って、仏教経典の中の神智学だと思う。 神智学って、ヨーロッパでは初めて体系的に霊的な進化論を提唱した学問。 キリスト教に霊的な進化論は含まれていないわけじゃないけど、キリスト教は宗派によって解釈が違いすぎるのでそこら辺は主観的な解釈しか出来なかった。 なので、神智学が登場するとキリスト教から神智学に乗り換える信者が多数出現。 霊的進化教義ってすごい分かりやすい。 人類は低次から高次に進むという考えは、勉強でいえば勉強すればするほど偏差値が下から上に上がるようなイメージなので、教義の実践に明確に取り組むことが出来る。 仏教は霊的な進化など説かない。 凡夫から悟りに至るという進化イメージはあるけど、それは低次から高次へという感じじゃない。 自分は低次や高次ではなく元から全く同じままで、ただ煩悩を取り除く前と後という煩悩があるか無いかの違いのみがあるという、進化とは異なったイメージ。 しかし、法華経はそのような仏教の中にあって、迹門と本門という高低的な捉え方があって、低い迹から高い本に進化するという誤ったイメージを作り出す。 発迹顕本ってやつがそれで、法華経は他の経典と違って釈迦の境地を最も深く理解したもの、つまり本の境地という他の経典では得られない高次な境地を会得出来るものとのイメージを作り出す。 よってもし仏教経典を偏差値順に並べるならば、一番高いところに来るのが法華経というイメージが作り出されやすい。 これを実際やったのが中国の天台大師。 天台のやったことは、実際は教えに高低など存在しない仏教を誤解させる愚行だと思う。 霊的進化論を説いた神智学は、ルドルフシュタイナーを始めとして様々なフォロワーを生み出していった。 そのほとんどがカルト化していく。 何故ならば霊的進化論は、オウム真理教のように人類の進化と退化の理論を両方作り出すことが出来る。 この教えを信じれば人類は進化して救われるが、この教えを信じなければ人類のレベルが下がってハルマゲドンが生じるなどに象徴される、人類の進化・退化理論を作り出す。 この人類の進化・退化の教えは、人類に希望と恐怖という飴と鞭を使って、特定の教えに従わせる特徴を作り出す。 法華経はどうだろうか。 法華経を採用した日蓮は、オウム同様に人類の進化・退化理論を作った人だ。 法華経を信じる日蓮に衆生が従えば、末法を免れるという人類進化を生み出すことが出来る。 法華経を信じる日蓮を誹謗すれば、日本は邪宗の蔓延により末法の症状が酷くなるという退化が生じると。 この日蓮の法華経進化論は、神智学と同じでカルト思想を生じさせやすい。 この教えを信じれば人類は進化、信じなければ人類は退化。 よって、信じる者が正義であり、信じない者は人類を退化させる邪悪だと。 この正邪理論は人間をコントロールするにはうってつけだ。 お前は進化したければこの正しい教えに従え、従わなければお前は邪となり退化するぞと。 この日蓮による、法華経を利用した霊的進化・退化論の側面を最も色濃く採用したのが、弟子では日興のように思える。 その日興の系譜宗教はどのような行動を起こしたか? この教えを信じなければ地獄に落ちるといった強引な折伏に象徴されるカルト行動を行った。 その縁源は、法華経の発迹顕本に進化思想を見てとりたい、自分を高次だとか正義だとかに見なしたい人間の醜い欲望にある。 まぁ確かにカルト生みやすいというのはあるだろうな。故に解釈と教団の実際の姿がどうなのかがやはり重要になる。 原理主義的になり異教徒は排斥、駆逐となってくるとやはりカルトに行ってしまったという事だろう。 しかし何もかも同じとはいえ、やはり違うという事でないと、現実に人間と魚では扱いが違うし、 鬼平に出てくる押し込み盗人みたいなのと、一般町民はやはり違う。 なのでこういう話にはなってくると思う。 >>324 >>325 法華経のコンテンツ解釈の比較や、宗教団体については言及しない方がいいですよ。 あなたが、どれほど法華経を理解していようと 法華経を理解していない人は 確実に、法華経を理解している人に噛み付いて来ますから 常に敵を作らないと、心が充実しないという可哀想な精神の持ち主は多いのです。 理解ってのは、実際は存在しないと思います。 解釈、あるいは理解したつもりなら分かりますけど。 全て人間は、あらゆるものごとを主観的に解釈することしかできない。 それは法華経であっても赤子の表情であっても全てが対象。 私がやっていることは当然解釈です。 まぁ、理解したつもりというのが一番やばいですね。 理解=正しいや正義という概念をつくりやすい。 法華経を一番理解しているのが仏教を正しく理解していることであり、法華経を理解していないのは仏教を理解していないことであるといったように。 このように思い込みたい人間の欲望が、宗教を始めとしてあらゆる物事に正邪を生み出していく。 私が言いたいことは、学問や宗教の内容は一見客観的に見えるが、実際は人間が「こうありたい」という欲望を反映させてつくられているということです。 多分に客観的に見える科学であったとしても、実際はパラダイムという人間の思考の枠組みやその時代特有の観測方法に束縛されている。 このような宗教や学問に対して、空の概念に象徴されるように、あらゆる物事の恣意性、無意味性に気づいていたのが仏教の徒であったように思います。 どうも残念ながら、日蓮に限っては物事の恣意性や無意味性に全く気づいていないというか、仏教徒としては明後日の方向、つまり空とは真逆の、正邪や優劣といった確定判断基準を求めて確実なものごとを追い求める人生だった。 日蓮がそのように確実を追い求めた先が、法華経の発迹顕本解釈であるように私は思います。 確実を欲しがる日蓮、正しい理解を欲しがる日蓮。 空の概念を把握できないゆえに、人間の欲求行動にあからさまに左右されているような気がします。 それゆえに、自分の欲求行動を肯定したい人達が仏教を求めると、日蓮教義に必然的にシンパシーを感じて日蓮教義を選択するように感じます。 これは敵味方を表現しているのではなく、人間の傾向性を表現しています。 >>327 >どうも残念ながら、日蓮に限っては物事の恣意性や無意味性に全く気づいていないというか、仏教徒 ここから後がダメだと言ってるんですよ。 この1センテンス以前のあなたの書き込みは素晴らしい事を言っているのに。 恣意的解釈と意図的解釈において乖離が生じるのが信者さん達なのです。 今まで日蓮系の信者さんを見ていてわかったでしょ? 日蓮系の信者さんのリージョンに入っちゃダメですよ。何を語っても あなたがおっしゃるようなチェリーピッキング、正常性バイアス、確証バイアスを持って 法華経のアナロジーなんて理解出来ない、というか理解したく無い人達ばかりなんですから。 それから法華経の理解と言うのは、普遍性を持つものを見出すという意味ではありませんよ。 去年マリエンバートで、や、ゴドーを待ちながら、や、ライフオブパイ、や JOKER、や、パラサイト半地下の家族、の様に作品の構成から、それらの要素である フラグメントまで、どの様な縁起で生じて滅するのか?という意味の「理解」で 法華経という作品のフィクションとメタフィクションとパラフィクションの 全てを「理解」という語に包摂させて使いました。 一般的に言う「理解」では無く、小林秀樹、蓮實重彦、宮台真司が言うような意味での「理解」です だがしかし、ここで「理解」という定義について多言は不必要として流して書きました。 1番大切なのは、あなたがシッカリと法華経を読んでいる、という事ですから。 アフガニスタン料理のシャカタブーレを今、生まれて初めて食べようとしている人に対して シャカタブーレの味を説明しなくても良いでしょ? 今食べて、教えてもらわなくても、自分でその味がわかるのですから ポストモダン表現を誰でも理解できると思っていたら大間違いですよ。 ここは哲学スレじゃないんだから。 自分の本音で言えば、全てはドゥルーズでいうところの差異であり、人間は反復される差異の中に自分の好き勝手に意味を投影して、その自分の投影した意味を実体と勘違いしたり理解したと思っているつもりってことだけです。 世の中の物事というのは、全ては欲望の連鎖が作り出す網の目の結接点、つまり関係性、縁起性。 法華経も何もかも、この結接点という一時的に現れた関係性、縁起につけた名称でしかない。 人間は自分が見たいものを、その関係性に投影して見ているだけ。 その一時的に現れる関係性の結接を、人間は恒久的な物事として記憶する。それが物事。 しかし、仏教はこの人間の錯視を破壊する。本来全ては無常で、恒久的なものなどないと。 この人間の物事の認識、つまり錯覚の仕方を仏教では唯識と表現していますね。 ただ、錯覚というか、人間の心、あるいは九識こそがあらゆる物事を生み出す映写機のようなものですが。 自分が腹が立つのは、仏教はこのように現代学問が解明しつつある人間の認識形態をすでに高度に解明済みというのに、日蓮は仏教の唯識や縁起や空を悉く外した探求方法をとっているということです。 外したというか、ただ単に日蓮に把握能力がないだけなんだけど。 法華経という経典は、そんな仏教が解明した人間の認識の底にあるもの、つまり人間を空の世界に誘う仏教の導きを理解しない人が行き着きやすい。 なぜなら法華経は、仏陀との約束とか、これが本当の仏陀の言いたかったこととか、人間のセンチメンタリズムに訴える内容が強すぎる。 空や縁起を学んだ上で法華経を読むならば誤解は少ないと思います。 しかし、仏教の基礎概念を把握せずに法華経を読むと、日蓮のようなセンチメンタリズム仏教徒が生まれやすいと思います。 「法華経を弘める私が迫害されるのは、法華経に書かれている通りに私が正しい証拠」などの自己憐憫症状に浸る中二病を僧侶を、私は日本を代表する仏教僧侶とは見なしたくない。 それでも、イギリス経験論のように人は自分の経験が全てだから、誰にとってであっても各人が法華経を読んだ感想が、その人にとっての絶対的な真実なんでしょうけど。 >>330 ジル・ドゥルーズの差異と反復は肯うよ。むしろドゥルーズ・ガタリの リゾームや千のプラトーより文脈を埋めようとする臨場空間の部分において。 錯視を破壊する事は良い。ただ私はソーカル事件そのものに価値は置いてないよ。 あなたの思惟と私の見解は、ほぼ同じだと思う 維摩経からの引用、カッチャーナが釈尊へミッションを断る言い訳。 「空」「無我」「寂滅」についても解説しました。 そこへ維摩氏がやってきて、こんなことを言ったのです。 「違う違う!そんな解説の仕方ではダメじゃ!! お前さんの解説は、まだ「生滅」というものにとらわれている。 いいか?よく聴きなされ。 あらゆるものごとは、生まれもしないし滅びもしない。それが「無常」の正体じゃ。 人間の様々な精神作用の本質は「空」なのであって、それが起こるということはありえない。それが「苦」の正体じゃ。 これが全てで、維摩経のラストは文殊の質問に対して、「沈黙」で答える。 もし、維摩が文殊の質問に答えたら、そこに自己言及のパラドクスが生じてしまうからだ。 カントやハイデッカー出現以前に仏教(という言葉は嫌いだが、東洋思想の一派)は ハイパーテクストとしてスートラを作っていた事に、アジアの思想哲学の斬新さに驚く 特に法華経は250年をかけて完成された思想書であり文学作品だ。驚いても驚き足りない。 サルトルは哲学か?文学か? カミュは文学か?哲学か? 高校の倫理や文学部哲学科の教科書の話じゃない 仏教が用いる沈黙というのは、私にとって言い換えれば言葉が発生する以前というか、言葉が世界を作り出す前のポテンシャルというか、それは九識論で言うならば阿頼耶識、あるいは不生禅で言うところ不生の状態、あるいは西田哲学の主客未分なんだけど、これはとにかく難しい。 座禅でもしたことがある人ならば想像がつくかもしれないが、深い瞑想に入ったことがなければ絶対に想像すらつかない。 なぜならば、この沈黙というのは決して無ではなくダイナミズム。 まるで、爆発を待つ沈黙したマグマのようなもの。 ここら辺は絶対に言葉では表現できないから、仏教では、沈黙とか、麻三斤とかワケわからん表現をせざるを得ない。 そこが仏教の欠点と言えば欠点かな。 仏教以外の宗教だと、ここら辺をヤハウェとか、三位一体とか、創造・維持・破壊とか、プルシャ・プラクリティとか、陰陽とか、上手く沈黙との表裏一体のダイナミズムを表現できている。 このダイナミズムの強調として表されているのが怒れる神なんだけど。 ただ、人間はどうしても沈黙よりもダイナミズムの方が分かりやすいので、神偏重の教えがウケて、仏教が沈黙で表現する部分が見失われてしまう。 日蓮さんを少しでも弁護するならば、日蓮は空が内包する沈黙と爆発の両面において、爆発のみを感じた人かな。 こういう意味では、日蓮は西洋の一神教徒の感覚が強い人。 某宗教団体は、日蓮思想は一神教ではなく法(ダルマ)だと必死に反論するだろうけど。 しかし、本来はダルマでさえも存在しない。 某宗教団体が説くダルマは、西田哲学で表現するならば、主客が分化した後の状態。 我々は主体と客体との関係を当たり前に思っている。 しかし、これは錯覚というか、これは爆弾で例えるならば爆弾が爆発した後の残骸だけ見ているみたいなもん。 その爆弾の爆発や残骸は事実と言えば事実なんだけど、基本は爆発前の沈黙の状態が真実というか、全てはそこに戻るというか、実際は爆発しているようで本当は爆発していない。 爆発というのは、言葉が表現されて世界が現れる、つまりシニフィアンが登場すると同時にシニフィエが世界を紡ぎだし、シーニュという意味世界が完成する。 これが世界の誕生、細かく言うと言語阿頼耶識が爆発して登場した記号によって表現された表象世界。 でも、言語なんてものは発せられればすぐに消える代物であり、よって言語によって現れたように見える世界は一時的な戯れに過ぎない。 発せられた言語は、言語阿頼耶識に常に帰るというか、そこにはあらゆるものを生み出す言語マグマが、実際は決してなにも生み出さずにダイナミックに眠っているという感じかな。 爆発なんてものは瞬間ですぐ消える。 爆発は恒久的なものではなく、爆発を起こすマグマの可能性を表現したもの。 これが私なりの、仏教が例える沈黙の解釈・表現。 物事の爆発面という表象しか見れず、その一時的な爆発を恒久的なダルマなどと勘違いしている日蓮は瞑想が足りんと言えばそれまでだが、日蓮は阿頼耶識の沈黙部分に到達できなかった人。 この日蓮の性質が一神教と傾向が同じゆえに、主客が分かれたあとという表象世界部分のみに注目強調する。 この表象世界は正邪や優劣で成り立っているから、日蓮の教えは表象に生きる人達にとって分かりやすいんだけどね。 >>326 醜いね、オマエ>>309 だろう。 さっさと回答しろ。 >>332 >ただ、人間はどうしても沈黙よりもダイナミズムの方が分かりやすいので、神偏重の教えがウケて、仏教が沈黙で表現する部分が見失われてしまう。 スティーブ・ジョブズが第二の白隠慧鶴や鈴木大拙の様に世界中に禅を広めたけど 世界中の若者が認識している禅を通じての沈黙の理解は、不思議な事に日本人の受け取り方と違うんですよね。 マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」も日本人の文学好きの人達と違った捉え方をしています。 キリスト教では19世紀までは(エフェソス公会議以降のネストリウス派批判から始まる) 三位一体の論争が実は続いていて、スコラ哲学的な解を得ようとエヴァンゲリズムをおろそかにして エキュメニズムに一生懸命になっています。日蓮系の各宗派が論争するみたいに。 主客の問題にはシニフィエとシニフィアンが関与するものですが、これは言語論理学の世界で論じるべきで 宗教という枠の中では意味が無いというか、今そこに無い問題を、誤謬により作り出してしまう不全が生じます。 おっしゃるように日蓮系の信者さんは、表層批判的なテクスト論的解釈を望みます。 ちょっと悪い言い方で言いますと、言語や認知、また弁証法的な真意を見る事がメンドくさいんですよ。 「なぜ仏教を語るのに、そんな難しい哲学を持ち出すんですか?」と言われた経験が貴方にもあるでしょ? 例えば禅宗の、無一物中無尽蔵、趙州無字、隻手音声、大死1番絶後に蘇生す これらの言葉は表象に生きる日蓮系の信者さんにとっては 「なに訳の分からない事言ってカッコつけてるの?自分が知性的だとアピールしたいの?」 という人が多いですよね。 >>332 しかし禅宗や原始仏教から勉強している人にとっては土手っ腹にズドーン!と響く言葉であり さらに続く、そして永遠に終わらない仏教探求のイニシエーションとして尊ぶ人もいる訳です。 書こうとすれば、私は何処までも書いてしまうので、ミニマムなパラグラフで書くようにマインドセットしていますが これで分かっていただければ嬉しいのですが 日蓮系の信者さんの前で特に法華経(本当は禅でも原始武侠でも)を語る事は とても形而下の問題の生成が目の前に現れ、真面目に仏教を勉強してる人にとっては 無産の時間になります。だから私は日蓮系の信者さんに法華経を語らない方が良いと言っているのです。 それは、それとして 貴方の文中と行間に現れている、言語論理と社会心理(認知心理や行動心理を包含する) 知見が見て取れるので、私は好感を持っています。 真面目に法華経を語ると、噛み付いてくる表彰世界にのみコミットする日蓮系信者の 様な方ばかりが、私に噛み付いてくるので 貴方の様な知性的な方の言葉を聞くのは、賛否は置いといても私にとっては大変気持ちが良いです。 >>332 無心定を修した体験は在りますか? その前に無分別観に住する技法が在ります。 この心を練習していると不生死、プラス,マイナス ゼロが知覚されます。 次の段が有るのですが、其れは夢見の技法とでも言いますか。 日蓮さんが全く触れられなかった観ですね、まだまだ先が在ります。 小難しい事は俺には分からん。まぁ日蓮が空とかあんまわかってなかったか、意識してなかった感じはしなくもない。 ただ空の概念を一応学んだとしても、やっぱどのみち人間はなるようにしかならないと思う。 だって生きてると苦が多いし、苦を受け入れられる人は少なく多くの人は苦から逃避、苦を免れたいと思うからね。 そこだけ追求すると仏教じゃなくなくなるだろうが、そこも同時に求めながらより仏教的な部分も求めていくしかないんやろな。 人間なんてそこまでインセンティブというか人参を鼻先にぶら下げてやらないと信心できんのだろうと思う。 言葉(テクニカル・ターム)というのは馴染みが無いだけで、特に難しく複雑な 概念をしみしているのでは無く、むしろ皆んなが見逃している単純な概念の 言語だったりする。 東京大学の講義だったか?哲学者の中島義道先生が面白い事を語ってくれた。 多様性・多義性、ダイバーシティと言っても、それは何処にあるのか? それはアナザーセルフやアルターエゴとのリレーションシップが全くない事はご存知でしょう? 日本の最高学府で学んでられる貴方達が、もしコレが分からなければ掛け値無しの大バカです。 (中島先生得意の辛辣なジョーク) 広義での文化をレセプトする人格は、今更変える事は出来ません。 ただ、貴方達は今まで自分の周りに見えども見えず、匂いを嗅ぐことも出来ない コンディンジョントに薄々気づいていたはずです。 そのモデルと昵懇になりたがる成長、インチュイション、悟り、アイデアスケッチ が現れる時期が人間にはあって(努力を放棄しない人にだけ) この時、コンティジェントは、別様の可能性になる。 この中島先生の講義は後々、私に ニーチェの永劫回帰が哲学的に高尚なものであり、何も考えずありがたがってしまう人を見ていると そういう人達が作り出した「大衆の為に作られたリーズナブルな価値」を実存主義の立場から批判的な立場を私に与えた。 そして、これらと相似的、トポロジカル的、同値的に 宗教教団の教学と言うものも 「大衆の為に作られたリーズナブルな価値」 の様に思えてならない このような理由から 日蓮系の宗教団体の信者さんの前で 法華経を語るのは 極めて危険である パリに住んだ事が無い人が集まり 皆んなで「パリって、きっとこんな街なんだろうな?」 という共同幻想が、いつしか 「パリって、こういう街なんです!私達はパリの事をよく知っています!」と 語ってしまうような パリに一度も済んだ事が無い人達が作り上げた、現実に存在しないパリを語る人達の前で 「私は実際、3年間パリに住んだ事がありますけど、、、、」なんて彼らの前で言ったら 袋叩きにされるのは必至ですよ。 真面目に法華経を学んでいる皆さん。 絶対に、日蓮系信者の前で法華経について語らないで下さい。 彼らは徒党を組んで、貴方を潰しに来ます。 「そんな話は、教学部長から聞いた事が無い!」と噛み付いてきますから 彼らとは距離をとって下さい。法華経を真面目に勉強している人は。 で、法華経法華経いうは構わんけど何処産のニセ法華経の入れ知恵? いつ誰が何の為に著された法華経学べば、その法華経が正しくよろしい事なのか? 最前提として法華経を学び了え、更に所に応じ法華経を開けば分かること 全ての宗教団体の弱点は アンチノミーを解消する事がない所で 更に、元々アンチノミーに対する論理的整合性を説明しようという意志が全くない事。 ただし それによって宗教団体に心が救われていると思う人は多い。 自分1人で難しい事は考えたくないよー!それより誰かがリーダーになって手を引っ張ってくれる方が自分には合ってる。 と、こう言う人が多いから宗教団体やスピリチャル・ビジネスは利益を上げている。 これらは個人の主観と信条のものだから、それを持って批判する厚かましさは 人として持ってはいけない。 スヤスヤ安眠している羊たちにただ「Dream On 」と言えるだけだけ しかしココだけは真剣になって欲しい、子供の成長と心の包摂だけは、広い社会通年を持って接して欲しい。 それさえ出来れば、人間は何を信じても良いのだと思う。 >>345 私は、法華経の解説は 故清水谷恭順師、生前は金龍山浅草寺住職の著が参考。 名文章家でもあります。 >>346 法華経の解説とはいえ日蓮等の悪口やらは書いてないよな? 少なくとも純粋に法華経を説くのが道理というもの 出処不明のホケキョウの解釈によっては日蓮仏法を理外とする為のホケキョウとやらもあるようだ ルドルフシュタイナーの人智学は、そのフォロワー学究のパブリシティの下手さ により集団的認知不協和を広めてしまったんだよ だからオカルト信者の様になってしまった 大学の先輩が2年前文藝春秋のハーバード大学と東京大学の違いについて寄稿していたが およそ学者とは思えない程のオカルト信者になっていた。 日蓮がどういう人なのか詳らかでは無いのは現時点での集合的な知である だからこそ僅かな手がかりとして日蓮遺文のレトリック解釈と 文脈の恣意的分断をタングラム的に再構成するしか無いのだが 「御書には末法においては法華経も意味が無い」と書いてあるから法華経は読まなくてもいいんですよwwww という信者さんが相当数いる。 ここでだ、なぜ末法においては法華経も、、、、のくだりの前に、何が書いてあるのか? どういう気持ちで、法華経は意味がないと日蓮が言ったのか?を教えない教団幹部達の責任は大きい。 ルドルフシュタイナーも日蓮も、勉強としようとすれば一般の知性で市井で生きる人には 難しいし、メンドくさいし、そこまで時間をかけられないし、答えだけ先に教えてよ!という人ばかりの中 日蓮を信仰している信者さんほど、日蓮から遠ざかり ルドルフシュタイナーの人智学を知っている!という人ほどルドルフシュタイナーを誤解している 去年某予備校から大学入試ヒアリング英語の案件を頂いたのだが、断った。 リエゾン、リダクションを徹底的に教える事により受験ビジネスの差別化を図ろうという考えだった。 それはそれでいい。テケマウtake him up , プリラウ put it out 、アッスーナザイ as soon as I 入試である以上GE語のリエゾンだけ覚えれば良いのに、それ以外のイディッシュリエゾンやアイリッシュリエゾンまで教えたいというのだ! こういう調子にのる弟子によって、本質は誤解される。 南無 本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳大慈大悲宗祖日蓮大聖人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為めに >>347 天台宗の大阿闍梨様ですから、悪口は仰らない。 >>348 君は我則於慳貪の如くでひたすら釈無き単語を並べてるだけなんだよな 文上本門文上顕本の日蓮御書の名を自ら名指してる割には実を開けんまま 諦の一文字、また仏語一字の釈名も弁えられんヤツは仏法を学ぶ事は厳しいだろう >>332 >我々は主体と客体との関係を当たり前に思っている。 >(中略)その爆弾の爆発や残骸は事実と言えば事実なんだけど、基本は爆発前の沈黙の状態が真実というか、全てはそこに戻るというか、実際は爆発しているようで本当は爆発していない。 >爆発というのは、言葉が表現されて世界が現れる、つまりシニフィアンが登場すると同時にシニフィエが世界を紡ぎだし、シーニュという意味世界が完成する。 >これが世界の誕生、細かく言うと言語阿頼耶識が爆発して登場した記号によって表現された表象世界。 今哲学の世界でデビッドベネターやシオランなどの分析哲学的実存主義やマルクスガブリエルの新実在論って流行ってるじゃないですか? 私には主客の構造を中心に据えてしまう誤謬の中で、どうしても哲学徒はシニフィエとシニフィアンの相互関係について悩んでしまって それは再び、ウィトゲンシュタインへの回帰の必然性を感じるのですが よろしかったらご意見をお聞かせください。 訳わからん表現を使うのは、確かに仏教の欠点ではありますが 仏教徒にとって、その「欠点」つまり、概念の自律的、また、自己複製的、また、合目的的という ヴィジョンを持てるとも思いません。 ですので、仏教の欠点も認めてあげても良いのでは無いでしょうか? 所詮は八百屋で肉売ってますか?なんで肉を置いてないんですか?っていう主客問答である 釈無き不道理な単語だけを並べて意見ください、だとよ クレーマーがクレーマー同士でクレーマー自体を容認していくだけの縮図だな 一生無知とはどうも破折という真実だけは縁がないような思考してる もともと実の事理のない人ってのは会話が不自由なんだよな 登山で迷うなら、高い場所に登って降りる道を探す。 日蓮で迷い惑うなら? 登山に迷わずを登山という 山を知るから登るを知るというものだろう 本初仏ってのちに本仏論に行きつくんだろうけど多分法身のことで 人格を持たない存在かな 日蓮スレにいるんだから寿量品ぐらい読んでるよ 日蓮本仏論みたいな下らない話 アンチ日蓮正宗は普段どんな生活してるのか何を考えながら生活してるかは知らんが 盲亀浮木の喩えだったりスリハンドクの成仏の話でも聞いたらいいんじゃないか? 何も恨むより邪義邪宗を折伏して一人でも正法に帰依させたらそれで済む話だと思うが それが仏法でいう誉れだよ わざわざアンチの為に生活しててもその時間は戻ってこないだろうに 日蓮大聖人ならなんて答えて下さるだろうかを意識していけばアンチ思考が如何に何の役にも立たんかが見えてくる >>273 、272 それでさ、種種御書に書かれている龍ノ口というのは、 まったく違う2つの理解が、同時進行してるわけで、 A. 日蓮と金吾はここで処刑されると思ってる。 B. 鎌倉御所から護送してきた兵士たちは、龍ノ口に止まるけど、 そこから先の庄屋宅への道が分からずに、立ち往生していただけ。 ぜんぜん話が噛み合ってないんだけど、 日蓮師匠にすれば龍ノ口のあの時に、完全に死んだな、 と思ったのは事実らしく、それ以後の御書にたびたび書かれているのは、 実際の処刑ではなくて、一回死んだなという気分の問題でしょ。 現代の皆さんでも、あの時は死ぬかと思ったわ、 みたいな言い回しがあるじゃん、そういう感じと思うけどね。 そして日蓮さんが龍ノ口で休憩したときに、斬首で間違いないと 思い込んだ理由は、評定所に呼びつけられてお奉行さまに聞かれた、 訴状の内容のことで、ここを日蓮教団が全員でスルー省略してるとこで。 (種々御振舞御書) 1.故最明寺入道殿極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、 2.建長寺寿福寺極楽寺長楽寺大仏寺等をやきはらへと申し、 3.道隆上人良観上人等を頚をはねよと申す、 ※※1. 今は故人である北条時頼、北条重時の二人が、地獄に堕ちたと 吹聴してまわっていること。2. 鎌倉の有力な寺に放火しろと煽っている、 3. 時宗が帰依している建長寺の蘭渓道隆と、北条重時の菩提寺である 極楽寺の良観上人の首をはねろと煽っていること…。 >>362 (種々御振舞御書) 御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、 ※評定の結果はまだ出てないけれど、 日蓮に、なにがしかの罪はまぬがれないだろう。 (種々御振舞御書) 但し上件の事一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、 奉行人の云く上のをほせかくのごとしと申せしかば 上件の事一言もたがはず申す、 ※そしてお奉行さまが、なにか弁明があれば聞いてくれると いうことになって、呼び出され、お奉行が1.2.3.のような 訴えが上がってきているが? と日蓮師匠に聞くと、 それら1.2.3.のことは確かに言いました、と日蓮さん認めてしまう。 そうすると放火殺人は、鎌倉でも重罪なので、それを煽った罪で、 斬首の死罪はまちがいないだろう、と自分で予想しているから、 龍ノ口に到着したときに金吾が、ここが処刑の場所です、 と思わず口にしてしまう、それが訴状の内容を認めたことの罪らしく。 ◎◎ 放火殺人を扇動した罪だよねー…。 これは種種御書にある相模の庄屋宅に滞在中の記述にもこうあって、 (種々御振舞御書) 依智にして二十余日、其の間鎌倉に或は火をつくる事七八度、 或は人をころす事ひまなし、 ※相模の庄屋宅に滞在して二十日あまりのあいだに、 鎌倉では七-八回ほども放火があり、殺人事件は頻繁です…。 >>363 それで種種御書のこの流れからすると、 1. 日蓮さんは鎌倉の寺に放火して、坊さんの首を切れと煽ってる、 2. 鎌倉では現実に放火と殺人事件がひんぱつしている。 この1-2の話を合わせてみると、テロ扇動の罪が、 日蓮一門にかけられた嫌疑であって、 逆に立正安国論提出のせいで幕府に恨みを買ったとか、 ぜんぜんそんな話は御書には書いてないんだよな。 安国論で幕府に恨みをかった話は、御書の何ページ?? 日蓮教団のコスプレ坊さんと、なんちゃって学者さんたちは、 御書とは無関係の話をペタペタはりつけて、 なんかよくわからん日蓮ストーリーを創作ねつ造してるけど、 肝心の御書に書いてある、この記述は まったくなかったことにして、完全スルーしてんのな。 それでテロ扇動罪は、貞永式目には明確な罰則規定がなくて、 評定所で評議の上で決定するという文章があって、 龍ノ口の9月13日から庄屋宅に居続けて、10月10日に 佐渡に向けて出発したとあるから、約一か月ほど 罪が確定するまで時間がかかってる御書の記述と、 そのあいだ評定されてたとすれば、時間のつじつまはあってる…。 さらに死罪でなくて流罪に減刑なったのは、北条時宗の長男を、 奥方が懐妊した恩赦なのでは? と日蓮さん本人が種々御書に推理してて…。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる