「日蓮に反省して欲しい」というのは表現としては(表現者としては、またはパフォーミングアーティストとしては)
善いも悪いも無く、正しいも間違いでも無い。

ただ日蓮が思想を持ち何らかの表現者である事は事実だが
「時の流れ」を無視しては論題を成立せしめない。
こう想像してみよう。タイムマシンに乗り鎌倉の日蓮に会いに行く。
私達は2018年の現在のwifiに繋がるiPhoneを日蓮に与える。
私達が現在へ戻る(back to the future)
その時、何かが変わっているかもしれない。

あの時代の日蓮をまるで冷凍保存した日蓮として崇め奉るのも不毛だが
あの時代の日蓮をまるで冷凍保存した日蓮として、日蓮そのものを否定するのも不毛だ

元々、仏教とは無常、無我、空、縁起だけが教理なのに
時間を止めてしまっては、もはや仏教ですらない。

ドラバーへのナビ
ナビ「100m先、次の信号を右折です」
ナビ「80m先の交差点を左折です」
ナビ「チワワを散歩させている女性の後ろを左折です」
ドライバー「チワワなんていないじゃん!動くものをカーナビの指標にするなよ!」
ナビ「私がプログラムされた時点では、ここにチワワを抱いた女性がいました。」
ナビ「到着点です」

現代の人間が日蓮を批判する事は出来ない。ヒトラーでもスターリンでも毛沢東でも。私達は時間の文脈を把握出来ない以上ただ共感ゲームにコミットする事しか出来ない。