【大阪】出た!大阪・梅田に”亡霊たち”が[01/19]
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建設ニュース 2018.01.19
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JR大阪駅北側の「うめきた」2期計画の準備が進んでいる。2024年夏の街開きを目指す約16fの大型再開発事業だ。都市公園を中心に医療や健康産業を誘致して最先端のビジネス拠点にするという”未来の健康都市プラン”だが、その足元から200体を超える人骨が出て来たのだからびっくりだ。300年以上の眠りから覚めた江戸時代の”亡霊たち”。その突如出現した顛末は──。
「うめきた」は旧国鉄梅田貨物駅の跡地約24fを新しい街に変える壮大な事業。東側の1期区域では、13年にグランフロント大阪が完成した。2期事業は25年開催を目指す「大阪万博」との相乗効果を狙って財界、大阪府・市が一体になり、「関西再生」の目玉にしようと力を入れている。
白骨が出てきたのは、関空特急「はるか」が通過する2期区域の南西隅で、「北梅田駅」(仮称)が設置される予定の地域。江戸時代から「梅田墓」と呼ばれていた約3000平方bと想定される墓域の一部約700平方bを発掘調査したところ、身を屈めて棺桶に入った土葬の人骨や骨壺に収められた火葬の人骨、土をかけて投げ込まれただけの人骨などが続々と出てきた。
人骨の周囲からは数珠玉、六文銭、かんざし、土人形など副葬品も数多く見つかり、中には子どもの骨もあって、生前遊んでいたものらしい「おはじき」が一緒に埋められていて、発掘作業の人たちの涙を誘った。
「梅田墓」は「曾根崎村千日墓地」と呼ばれ、江戸から明治の初めまであった「大坂七墓」の一つだ。この時代、大坂の町には蒲生、千日、飛田など7カ所に墓地があり、盂蘭盆会(うらぼんえ)の旧暦の7月16日には町民たちが7つの墓を巡る「七墓巡り」が流行っていた。夕方から翌日の未明にかけてすり鉦(がね)や木魚、鈴を鳴らし、扇子や団扇を手に提灯をぶら下げて練り歩いたそうだ。
近松門左衛門の代表作と言えば『曾根崎心中』だが、近松が得意とした実話を基にしたこの心中物語にも「梅田墓」が出てくる。男と女が死に場所を求めてさまよう道行きで「梅田堤の小夜烏、明日は我が身を」というセリフはここを指している。
「七墓巡り」とは考えようによっては随分と不気味な行事だが、発掘調査にあたった大阪文化財研究所の高橋工・調査課長の説明はこうだ。「もともとは肝試しとして始まったのでしょう。それがレジャーになり、若者にはデートコースになったりして流行り、そのうち供養になったと思われます」。7つを全部回ると自分の葬式の時は晴れるともいわれたらしいが、墓地巡りというけったいな”ミステリーツアー”を考えつく浪速っ子の怖いもの知らずというか好奇心の強さには舌を巻く。 「梅田墓」はもともと天満周辺に点在していた墓を、曾根崎村の今の大阪駅前第1ビル周辺に集めたところから始まっている。貞享年間(1684−1688年)の地域整備に伴って移転したのだが、「梅田」は名前の由来が「埋田」から来ていると言われているように泥田の埋め立て地で、アシが茂り、夏場は蚊の大群がすごくて近づけない土地だった。利用価値のない人里離れた場所にできた「梅田墓」のそばには火葬場もあったという。
それが明治になって鉄道が敷かれ、大阪駅がつくられることから状況が一変する。と言ってもそれにもまた事情がある。
汽笛一声の新橋−横浜間に続き、大阪−神戸間にも「陸(おか)蒸気」を走らせることが計画され、発着の大阪駅は当初、都心に近い堂島付近が候補地にあがった。だが、「”火の車”が走りよったら火事になりよるやないけ」と地元が猛反対。しかたなく、比較的近いが人家がない場所ということで「梅田墓」が選ばれた。1874年(明治7年)に完成した初代大阪駅は今の大阪駅より少し西側の旧大阪中央郵便局の辺りで、イギリス人技師の手によって赤レンガのゴシック風の2階建てのオシャレな洋館が建てられると、すぐに人気の的になった。
とは言え、周辺はまだ一面たんぼで、菜の花が咲くだけ。満足な道路も出来ておらず、堂島に近い桜橋から先は人力車も行ってくれない寂しい駅だった。今の大阪駅舎は4代目で、梅田貨物駅は1928年(昭和3年)につくられた。
200体以上の人骨は目下、大阪市立大学の名誉教授のもとで鑑定・分析作業が進められている。男女別、大きさ、病歴などを調べていて、「この作業が終われば丁重に供養して処分することになるでしょう」(高橋課長)という。
では人骨はもう出てこないかというとそうではない。対象地域の4分の1を調査しただけだから、残り4分の3は手つかずのままである。単純に推計しても全部掘れば600体以上は出てくる計算になる。「あくまで発掘調査だったので、あとはそのままにしておきます」と大阪文化財研究所。身元も定かでない江戸の人骨は”未来都市”の下でさらに眠り続けることになる。
さて、「うめきた」2期が完成すれば周辺の地価はまたハネ上がるに違いない。ちなみに地価公示価格(17年)でみると、大阪駅周辺は平均で1坪(3・3平方b)当たり4016万5000円、一番高い地点(北区大深町4−20)は4628万1000円と目玉が飛び出るような超一等地だ。しかし、「梅田すてんしょ」と呼ばれた開設当時の地価は坪25銭だったそうだ。はがきが1銭、米1升(1・4`c)が5銭の時代である。25銭は今なら2000円から3000円というところか。それでも買い手がつかなかったという。
”化けた”のが地下に埋まっていた人骨ではなくて、地上の土地の値段だったとは、”亡霊たち”もさぞ驚いたことだろう。 =文・ATOM 学生のころの話。友人に「大阪駅前第3ビルの金券ショップが安い」と聞き、
買い物ついでに金券ショップへ向かった。
JRで大阪駅に降り立ち、駅前第3ビルへ向かう。案内表示を見ながら順調に
目的地へと進むかに見えたが、途中で案内表示がなくなり迷子になった。
あっちへこっちへと歩いているうちにホームレス風の男性に声をかけられた。
「兄ちゃん、迷たか?」
藁にもすがる思いでその男性に道を尋ねたが「わからん。ワシも同じやw」と歯を見せて
笑った。歯はボロボロに欠けていた。
話を聞くと男性は東京の一部上場企業のサラリーマンだった。
しかし大阪出張の途中、梅田で迷子になりそのまま15年が過ぎ今に至るという。
その間に言葉も標準語からすっかり大阪弁に変わってしまったという。
「ええもん見せたるわ。」
男性の後をついていくと鉄の扉があった。扉の脇にあるセンサーに男性は指をかざした。
指ぬき手袋から伸びたひとさし指の爪は栄養不足のためだろうかボコボコとしていた。
扉が開くと泥人形のようなものが積み上げられていた。
「これな、みんな遭難者の遺体。梅田はその辺の山より多いんや。」
何ともいえない恐怖を感じた。私は無言で泥人形に向かって合掌していた。
あれから10年が過ぎた。人生とはわからないものである。私は梅田遭難者の
遺体管理を生業としている。
私も梅田で遭難した。駅前第3ビルは未だ見ていない。ここで骨をうずめる覚悟である。 神奈川県の伊勢原駅徒歩2分のマンション予定地にも、ワラワラ人骨出てたわ。今、住んでる人は知らないみたい。ナンマンダブ そういや最近、梅田でも難波でもホームレス見なくなったなあ
彼らはドコに消えたんだろう たんなんる「白骨」を「亡霊」と呼ぶのはカルト的ミスリードだわな。
歴史的資料として別途保管研究すればよいだけ。 >>7
堺東
堺市は反維新の共産系市長だから
ホームレスや日雇いが集中している そこそこ年数開いたとはいえ元々墓場に埋葬されていたのはしっかりお寺で供養しないと駄目だぞ。
そこら辺ちゃんと出来ないと元墓場に建つ建物はマトモに使えなくなる。 いや、わかるわ。 梅田は、冷んやりな。 冷んやりしとる。 うす暗い、寒い感じするもん。 大阪の奴ら、わかるやろ? 賑やかになって、高いビル建っとるけど、 やっぱし、どっか寂しい感じするで、 行ってみ。 わかると思うわ。 以前、梅田阪急ビル前の茂みでホームレスの白骨が見つかったとかあったな。 梅田が怖いというが、飛田のあたり、九条松島のあたり、京橋外れのあたりはもっと殺風景で怖いよ。 >>19
京橋は砲兵工厰があって大阪大空襲の一番被害が大きかったとこやからな >>1
公園にして
ミステリースポットとして解放してよ 火葬が一般的になったのは近世。
土葬が主流だったんだから今回のケースは普通にあること。 梅田の墓や難波の刑場より
現代の西成の方が事実として怖いで >>9
堺東へは電車で移動?
それともヒッチハイクして移動したの? 千日前デパートは火事になったなー
ちゃんと供養せなあかん 凄いね。。 まさに「歴史」を感じさせる現場でした
しかしこう言うbのがあった以上、付近はあまり開発などしないほうが
祟りトカナくて良いのではないか。公園にでもして。以前小倉工藤会北九州の
小倉駅側にお寺や墓地があったのを無理矢理どけで旧そごうビルを建ててたが
北九州一なとしんだと言う小倉駅前でテナントが短期間で10も潰れて入れ替わっていた 田舎だとどこも似たり寄ったりだろうけど
うちの里山もちょっと歩くと昔の墓石が転がったり半ば埋まってたりする
不要になったのを遺棄したのか、下に誰か埋まってるのか判然とせんからどうにもしようがない 人がこんなにいっぱい…
昔から繁華街だったんだね〜 環状線京橋駅−桜橋駅付近は人骨(WW2)が埋まってるそうな
電車止めてまで掘り出せないからね 大阪(ダイハン)大虐殺の証拠ニダー
同胞達は皆殺しの末埋められた―
という妄想が聞こえてきそうだw 昔は、お棺を運ぶ手間がないので近場に埋葬した、
粗末にしないでそっとして置くのが供養です。
江戸は浅草近辺に焼き場が有った為に、吉原まで荼毘の臭いが
届いたそうだ。 曾根崎とかあの立地でなんにもないからな
地価も異常に安くてラブホとアパートしかない
梅田駅徒歩5分なのに。
あと具合わるくなるんだよあの辺歩くとさ >>27 ホームレスの連中はヨボヨボのじじいでも余裕でキタ〜堺くらいは歩く、
自転車持ちも多いしな。 なぜ大阪の死亡事故だけ気になるんだろうか?
桜木町事故 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E6%9C%A8%E7%94%BA%E4%BA%8B%E6%95%85
死者, 106人. 負傷者, 92人. テンプレートを表示. 桜木町事故(さくらぎちょうじこ)は、1951年(昭和26 年)4月24日13時45分頃、神奈川県 ... 事故当時、 桜木町駅付近の架線に電気を供給していたのは ...
三河島事故 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E6%95%85
三河島事故(みかわしまじこ)は、1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅構内で発生した列車 ...
鶴見事故 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E4%BA%8B%E6%95%85
鶴見事故(つるみじこ)は、1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に日本国有鉄道(国鉄)東海道本線鶴見駅 - 新子安駅間の滝坂不動踏切(神奈川県 ...
戦後だけでもこれだけあるのに 戦時中だともっと多くの人が亡くなっているのに
東京大空襲 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。
なぜか大阪・京橋のことばかり取り上げているが 大阪でこの程度だから、京都や奈良はもっとすごいし
ローマとか土葬だったロンドンとか、歴史が古い場所はだいたい死者の上にできている
田舎の方は山に埋めたりするから都市部にまで及ばないだけのこと
東京なんかだと浅草とか麻布とか バブル
ジュリアナ東京が大阪で復活 「あの高揚感」
毎日新聞 2018年10月26日 20時29分(最終更新 10月27日 13時05分)
https://mainichi.jp/articles/20181027/k00/00m/040/074000c
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「ジュリアナ東京in大阪」がオープンし、店内で踊る女性たち=大阪市北区で2018年10月26日午後8時50分、幾島健太郎撮影
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ジュリアナ東京in大阪がオープンし、店内で盛り上がる客たち=大阪市北区で2018年10月26日午後7時41分、幾島健太郎撮影
バブル経済時代に一世を風靡(ふうび)したディスコ「ジュリアナ東京」が26日、大阪・梅田で復活した。人気絶頂期を知る40〜60代が再び踊れる場をつくろうと、大阪府内の男性経営者が手掛けた。
元祖と同じお立ち台も再現。踊りながら振る「ジュリ扇」と呼ばれた羽根付きの扇子も先着100人に無料で配られ、駆け付けた客らは往時の雰囲気を楽しんだ。
ジュリアナ東京は1991年5月、東京・芝浦で誕生し、最盛期は1日約2000人が詰めかけた。「ボディコン」と呼ばれる、体のラインを強調する派手な服装も話題になったが、バブル崩壊後の94年夏に閉店した。
今回、阪急東通商店街(大阪市北区)のビルで開業した「ジュリアナ東京in大阪」は、大阪府松原市の不動産会社社長で、別のディスコ経営の経験を持つ神田健二さん(47)がオープンさせた。
「子育てが一段落した世代が再び踊れる場を提供したい」。ディスコの代名詞といえるジュリアナの名にこだわり、商標権を持つ東京のレジャー会社とライセンス契約を結んだ。
延べ800平方メートルの店は最大で1000人収容できる。メインホール中央に幅5メートルほどのお立ち台を備え、床もシンボルカラーの紫色に。入場料は男性3500円で、女性は無料。
開店初日の26日夜、「ダンシングクイーン」など、懐かしいダンスナンバーが大音量で流れ始めると、ジュリ扇を振った女性客らが次々とお立ち台で踊り始めた。
ジュリアナで踊るため20代の頃に初めて上京したという兵庫県西宮市の永田律子さん(47)は、持ち込んだ金色の服でお立ち台に。「この高揚感が忘れられず、今日を待ちわびていた。昔に戻ったようで最高です」と笑顔だった。【土田暁彦】 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています