【長野】絵で残した「インパール作戦」 飯田出身男性の回想録[01/07]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
インパール作戦から生還した牧内さんが残した回想録。険しいアラカン山脈を物資をかついで行軍する様子を描いている
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/news-image/IP180104TAN000209000.jpg
長野市の赤塩園(その)さん(75)が昨年、太平洋戦争中の1944(昭和19)年、旧日本軍のインパール作戦に参加し、生還した父親の回想録を見つけた。同年1月7日に計画が発令され、3万人以上が戦死・病死したとされる無謀な作戦の様子を絵で表現している。専門家は兵士が絵で残した史料は貴重と評価。戦争体験者が年々減り、関係資料が重みを増す中、赤塩さんは「回想録を戦争の悲惨さを伝えることに役立てたい」としている。
赤塩さんの父親は飯田市出身の故牧内寛末(ひろすえ)さん。43年に召集され、現在のベトナムを経てビルマ(現ミャンマー)に送られた。陸軍兵長として作戦に参加した。46年に帰国、2000年に82歳で亡くなった。
昨年5月の命日に、生前、牧内さんが暮らした伊那市の家に親族が集まった際、牧内さんの思い出の品を探し、戸棚の中から見つかった。
A4サイズほどの紙で54枚。一部は破れ、無くなっていたが、旧制飯田中学校(現飯田高校)在学中から油彩画に取り組んでいたという牧内さんは戦後、戦場での記憶を思い返して描いていた。
回想録の絵には、戦線に赴く丸い眼鏡をかけた牧内さん自身とみられる人物の姿もある。作戦の場面では、荷物を背負った兵や馬が一列になり、2千メートル級のアラカン山脈の険しい山道を進む様子や、包帯を巻いた負傷兵や片手を失った兵士らも描いている。飢えに苦しみ、主食だったミョウガやタケノコも登場する。
親族によると、回想録が描かれたのは戦後間もなくとみられる。妻の芳美さん(98)=伊那市=は、家に戻った牧内さんが玄関で突っ伏し、「大勢の部下を亡くしてしまった」と肩をふるわせ泣いていたのを覚えている。
「戦争は絶対してはいけない。よく覚えておくように」。長女の赤塩さんは子どもの頃、牧内さんからよく聞かされた言葉を改めて思い返し、回想録を通じて戦争の悲惨さを伝えたいと思うようになったという。昨年12月、長野市出身のシンガー・ソングライター清水まなぶさんが戦争体験者の証言をまとめた「追いかけた77の記憶 信州全市町村 戦争体験聞き取りの旅」(信濃毎日新聞社発行)の出版記念報告会が長野市の信毎本社で開かれると知り、回想録を手に会場へ。清水さんらに見せ、親族以外に初めて公開した。
県立歴史館(千曲市)の青木隆幸・学芸部長は「インパール作戦は生還者が少なく、あまりにも凄惨(せいさん)な体験だったため、体験を語らない兵士が多かった」と指摘。「絵を中心とした証言記録は珍しい。兵士の目に焼き付いた戦争の実相を、世代を超えて多くの人に分かりやすく語り継ぐ力になる」としている。
信濃毎日新聞 (1月7日)
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180107/KT180106FTI090002000.php >>3
牟田口も大概だが、補給その他で成功できないとわかっていて実行を許可した南方軍、大本営のバカ参謀どもも死んで良いレベル。 「戦争は絶対してはいけない。よく覚えておくように」
支那は白人植民地側に付いたようだが、東洋平和(東洋の白人植民地からの独立)ための聖戦を勝手に歪曲するなよ。 戦時中自分がなるなら超無責任な大本営参謀がいいよね。 信濃毎日ってのは 東京新聞 カナロコと並ぶ反日洗脳新聞だからな
このインパール戦をインド人がどれほど 感謝しているか 完全スルーだ
最新ミリタリー関連記事.
http://yamatotakeru999.jp/index.html
★日本の】ハイパー行軍カルタ【新装備紹介
★南シナ海 軍事化認めた中国 台湾進攻準備も着々
★離島防衛に新戦力 F-35B導入へ 搭載はいずも改修 大体ロジスくテクスなく、行軍さきで食料奪って調達なんて牟田口なんてあほは真っ先に
銃殺なんだけど、移動で日本に逃げ帰ったみたいだな >>8
しかも、戦後に自分の正当性を講演会で喋って大儲けをしたのだろ。 >>1
平成の牟田口廉也。
避難指示の誤りによって、乳幼児、児童生徒を始め県民の多くを、
避けることのできた放射線量の下にさらす曝す結果を招きました。
枝野官房長官の会見〈2011年3月25日午後4時過ぎ〉
――枝野氏は2週間前には「基本的に原発は大事に至らない。 放射能は飛んでくることはない。
爆発しても問題ない」と、大丈夫で安心だと言い続けてきた。
結果そうなってない。きちんと訂正すべきだ。
確認した情報だけ出すと言ったことと矛盾しているのではないか。
私のこの2週間の発言、記者会見の内容はすべてホームページでも公開されている。
私は、今(記者が指摘したことを)申し上げたことは、申し上げたことはないと思っている。
その都度、あらゆる可能性があること、
現状その都度その都度の時点において今何をしなければならないかということについて、
その時点での状況を踏まえながらそれぞれの時点における政府の判断を申し上げてきている。
今、ご指摘されたような発言の内容は、私はしてない。 いろいろ言っても核兵器ができた時点でもうどうにもならなくなったんだよな 戦争してはいけない ×
日本のエリートバカを信用してはいけない ◯ 牟田口も河辺も死刑、佐藤に詫びろ
うちの会社のバカの4乗役員どももガダルカナルとインパールに学べ まんまと、「反戦平和」洗脳教育の材料に利用されてるわ。
「信毎」なんてそういう書き方しかしない新聞社なんだって。
まるで、子会社の役員にでもなるかのように、朝日新聞から
論説委員が送り込まれてくるところだからな!
コラムニストには姜尚中とか落合恵子とか筋金入りのパヨク系
をラインナップし、「寄稿」とやら銘打って護憲派学者を3人も
用意して特集記事を組む。
わざわざ3人もの憲法学者に寄稿してもらうなら、三者三様で、
異なる意見の学者らの夫々の見解を、比較できるように最初から
人選すりゃあいいものを、全員が「護憲」「反改憲」ときてる。
多様な意見の存在を紙面を通じて読者に提供することで、政策選択
の判断醸成に寄与するという、メディアの持つ本来の重要な役割を
放棄してるのが、この「信濃毎日新聞」。 戦後も牟田口廉也や上官の河辺正三を日本人自らが裁かなかった
日本人は優れた民族だと自負するけど、こんな所は米なんかと
比べて劣っていると思う その辺が先の大戦に敗れた要因の一つかと思う 陸軍上層部の無能が良く分かる実例。
牟田口は戦死もせず、のうのうと余生を生きた。本当に腹が立つ。まともな司令官なら切腹して
るだろう。こんなやつが出世した軍部ってのはやはり相当問題があったんだろな。まともな思考
ができないで、戦争に勝てるわけがない。 次は勝てるように周到な計画が必要だな
というか、戦争はダメって、喧嘩吹っ掛けてくるゴロツキに言え 2か月ぐらい前に教育テレビでやっていた
庶民は国のため
上のほうは国のためと言いつつ、自分のための抜け道を作って逃げの一手を打てた 他国の軍隊なら、立案さえしない悪条件だろう。
ガタルカナルも同じだけど、現地の様子さえ知らずに立案する幹部も異常だよ。 >>20
喧嘩吹っ掛けてきても、こちらには鈴之助の真空切りがあるから大丈夫 >>22
現地の様子さえ知らずに立案
小池にも言えないか
月28万なんかそのものずばりだろ 敵軍のアメリカ兵が、「日本軍はバカを選んで上官につけるのか?」と言ったとか。
しかしタテ組織の軍隊では、下からどうにもできないわな。
せめて平和な時代に生まれた我々こそは、その辺のメリハリつけようよ!
信濃毎日なんか潰れるくらいの判断力を示してほしい。 しかもその牟田口はインパール作戦後に切腹どころか予備役編入にもならなかった。
帰国後に陸軍士官学校の校長に着任したんだよ。
こいつに将来のエリート士官たらんとする若者たちに何を教えられるというのか。
もはや軍上層部の腐敗、馴れ合いはどうしようもないレベルのものだったのだろう。 なんでお祭りのような明るい露出と色合いなんだ
背景の天候もめでたい晴れで人や山に影を使った重々しさがない
愉快なピクニックかなw 牟田口みたいなやつは、戦後、インパールでの生き残りの兵士とかが
564にきてもおかしくないレベルだと思うが、そういう人って出てこないもんなんだね 帝国陸軍も海軍も指揮官は卒業年次が最も重要視された。
牟田口は陸大卒でもないのに陸台をトップ級で卒業した佐藤や他の師団長よりも
古参で選ばれた節がある。しかも牟田口以外の師団長は皆、中将なのだから余計に
指揮系統が乱れたのではないか。
海軍でもミッドウエイの指揮官の南雲中将は大砲屋で航空戦の素人なのに
総指揮官をしていた。飛龍の山口多門少将であったらもう少し機敏に作戦を遂行して
あの悲劇は生まれなかったと思われる。山口少将は航空屋だったのである。
将は作戦能力で決定しなければならないのである。 人の命が掛かっているのだから。 ●牟田口は 連合軍から評価されている。
ディマプールは攻略できた。そして、それで日本軍はインパール作戦で勝利出来た。
というのが連合軍の一致した見解
★アーサー・スウィンソン大尉(英軍第二師団参謀)『コヒマ』
牟田口の方が、実際には正しかったのである。何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。
★スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」
★アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当)
「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」
★マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)
「英印軍に非常に幸運だったのは、日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。」
「すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、
そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。 」
★スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』
日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残、,師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。
★ストップフォード中将(第33軍団司令官・ディマプール担当)
「このときもし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら英国に勝利はなかった。(作戦全体において)」
★デリック・タラク准将(英ウィンゲート部隊参謀長)
彼(牟田口)はその最後の作戦(インパール作戦)を除いて、その主要な戦闘の全てにおいて勝利を収めている。
インパールの戦いはワーテルローの戦いと同様に「非常に際どい」時期があった。
しかし、牟田口将軍はナポレオンの場合よりもはるかに優勢な敵を相手にして戦ったのである。
私は彼が生前、その戦いぶりについて日本国民から評価されたことを知って、うれしく思う。 ★インパール作戦が失敗したのは、佐藤がアホだったから
連合軍を利する無能の佐藤は、殺すなと
連合軍が特命www
全くの話し、ストップフォードのごときは、英空軍が佐藤の本部を発見し、それを爆撃しようとしたとき、
爆撃しないように特命した事について話してくれました。
それは佐藤がもし殺されたら困る(もっと利巧な者が佐藤の代わりになってくるからだ)
とストップフォードは言ったそうです。
第四軍団参謀アーサー・バーカー中佐
私は、私の部下の不屈の勇気によって、敵のコヒマ侵入の能力を過小評価
した私の過誤の重大な影響から救われた事を前に述べたが、それが必ず
そうなるためには敵の局地の指揮官の愚鈍を必要とした。
後になってそれが明らかになったとき、佐藤司令部への航空攻撃を計画している
熱心な英空軍の幾人かの将校を見出したことがあった。
彼らの意図する犠牲者を私は最も頼りとなる将軍の一人として考えていたので、
彼らにその計画を放棄すべきであることを私が勧告したとき、彼らは驚いた。
第14軍司令官スリム中将 インパール作戦で最大の試練を味わった松村連隊
その公式連隊記録で当事者らが声を大にして主張しているのが、
驚くべき話だが、そうなった責任は佐藤師団にあるという事で、その佐藤を美化した
高木 俊朗「抗命―インパール 2」を部外者による創作だと激しく批判ししている。
『二つの河の戦い―歩兵第六十聯隊の記録 ビルマ篇』
「隣接友軍の無通告退却のために、直接の被害者となったわが右突進隊は、腹背の敵から挟撃されて、
推定260名以上に及ぶ犠牲者を出す運命の日となった。」
「損害の主因が戦場のルールと道義を無視した隣接部隊の友軍にあったという紛れも無い事実によって、
戦後なお敵に対するよりも、さらに激しいある種の感情を捨てきれない宿命を背負っている。」
「同じ戦場で同じ目的のために、死力を尽くしあってきた同胞に対し、ここに問題を提起して
新たな対立感情を起こすことは回避したいと思うし、この記録の目的とするところではないが、
「わが連隊の記録」への投稿者の戦友のうちには、この間の感情に対し、激烈な非難をこめた
ものが少なく無い異常さがあった。」
「歴史が単に局外者の推理やエゴイズムによって、創作されるとしたならば、それは恐るべきことである。
しかもこの形式が、ひとたび活字となった場合には公刊、非売、限定等の形式に関わらず、また内容の
当否は別として、既成事実化し、真実は葬り去られるのが世の常である。」 インパール作戦で飢餓に苦しむ悲惨な状況となったのは
撤退時以降だが
そのような結果を招いた要因は佐藤師団の敵前逃亡だと
軍では結論が出ている
陸軍第六十連隊 公式連隊史
『二つの河の戦い―歩兵第六十聯隊の記録 ビルマ篇』
※この連隊史がインパール作戦の記録としては
もとも価値のある唯一の資料だと言われている。
その中にこういう記述がある
「抗命部隊」 第二大隊砲小隊 桑原真一
『6月下旬、私は師団輜重連隊の本部と行動をともにしていた。
宿営地のそばのフミネ方面に通ずる道路をガヤガヤと大勢が通る
足音に目覚め、天幕外に飛び出して驚いた。
見ると松明をかざした野盗に見まごう一団が歩いている。』
『その後、輜重連隊にも転進命令が下り、フミネに到着したが、そこには一粒の米も無かった。
耳に入ったのは6月下旬に烈の兵隊の襲撃を受け、否応無しに少ない糧秣を奪われたという情報であった。
友軍である列の徒党を組んだ襲撃の情報は信じたくなかったが、タナンに向かう撤退行軍の苦難の日々が重なるにつれて、
烈の兵隊に対する憎しみの感情が起るのは、やむを得なかった。
戦後20数年を経た今日でさえ、捨てられた弁当箱にご飯粒が
残っているのを見ると、あの山の中で、この米粒があったらと思うと同時に、「あの時の米は烈に奪われたのだ」という思いが、
頭をかすめてくるのである。』 ということで
マスコミ、インチキ作家、ほらふき評論家、海軍信者らにだまされてはいけない
インパール作戦は
@牟田口中将が 皆の反対を押し切って強引に強行した
A補給を無視した卑劣な作戦で
B勝算が全く無く、やる意義も無い作戦だった
と宣伝流布されてきた。
しかし詳しく検証すれば、これらの批判は全て大嘘。
文芸春秋社などの商売目当てのエセ保守勢力である
半藤一利ら主導による、政治的作為と利権にからんだ
悪意と捏造と曲解による大嘘ばかり。
これらは東京裁判史観と陸軍悪玉論を定着させ責任転嫁したい
戦後の権力者に迎合し、地位と名誉と利権を得ようとする
商売作家が創作したプロパガンダ小説の作り話しでしかない。
バカ作家、エセ保守、平和ボケ団塊左翼らがいい加減に流布してきた大嘘の近代史は、
全てを再検証し見直す必要がある。
日本を大敗させたアホの戦犯は、独断でハワイ奇襲を強行し
アメリカを本気で怒らせ、全面参戦を決意させた史上最悪の愚将・山本五十六である。
山本が主導した太平洋戦線の作戦全てこそが、
インパール作戦より全ての面で遥かに愚劣、補給も勝算も考えない
無茶苦茶な作戦で、展望のない無駄な戦いであった。
インパール作戦こそが開戦前に国が決定した 「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」
に示された大東亜戦争の本来の国家方針に従った国運をかけた大儀ある重大な作戦である。
連合軍側の見解から見て牟田口の指揮は、その通りやれば作戦は難なく成功しており、
無謀な作戦だったとは言えない。 >>30
おい、ホラふきやろう
その話が本当かどうか、話しを聞こうじゃないか。 敵より怖い牟多口中将ってやつか
しかし、東芝や東京電力やフジテレビを見てると日本人は変わらないよね
馬鹿がトップにいるとボロ負けするんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています