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明治元年(1868)9月22日の開城後
10月1日に民政局が設置されるが
2000余の会津藩士の遺体は賊軍という
汚名のもと埋葬することも許されず
腐乱するがままになったと巷間
言われているが、同月4日には
郭外に放置されている遺体を
城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と
長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた
「遺体埋葬令」が出された。
(会津若松史6巻)

だが降雪と12月までに頻発した一揆のため
作業が中断されたとするのが実情で
この間「彼我の戦死者一切に対して
決して何等の処置をも為すべからず
もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との
会津若松での明治新政府通達が出された。

こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など
16ヶ所に総数1634の遺体が、2ヶ月にわたり
埋葬された。

見せしめに会津人の死体を野晒しにしたとか
言ってるくせに会津が出してる史料には
埋葬されたと記録されてんじゃねーか!!
どうなってんだ会津は!?