【京都】新選組、野営でなく豪農に下宿 禁門の変の新史料[07/18]©2ch.net
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1864(元治元)年7月の「禁門の変」で、新選組の動向を記した新史料が見つかり、
18日、京都女子大の中村武生非常勤講師(幕末政治史)が発表した。
当時の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川家当主の日記で、
新選組が村の農家に下宿しながら街道警護に当たったことが分かったという。
禁門の変は、京都での勢力挽回を目指す長州藩と、京都を守護する会津をはじめ在京諸藩が
京都御所などで軍事衝突した事件で、京都は大規模な火災に見舞われた。
日記は同家の蔵で2015年に見つかり、中村講師が調査した。
6月25日付には、会津勢と行動を共にしていた「壬生浪士組」(新選組)が、
東九条村の農家に分かれて「御下宿」したとあり、別の日付で「非番」の記述もあった。
従来は長州勢の北進を食い止めるため、竹田街道と鴨川が交わる
「九条河原」に約1カ月間野営したと考えられていたが、村を拠点に交代制で警護したとみられる。
禁門の変が起きた7月19日付には、長州勢約30人が正午ごろ、
京都中心部から退いて東九条村に迫り、新選組が鉄砲を撃ち合って追い払ったと記されている。
中村講師は
「禁門の変は京都中心部での戦争と思われがち。
新選組の京都南部における開戦前の行動や戦闘の様子が初めて分かった」と評価している。
写真:禁門の変の際、新選組が旧東九条村で戦闘したことが記された豪農の日記
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2017/07/20170718220619sinsen450.jpg
以下ソース:京都新聞 2017年07月18日 23時20分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170718000258 >2
だよねぇ?
八木さんちに世話になっていたのだよね?
何を今さら感が半端ないのだが、、 昨日久しぶりに燃えよ剣を読み返した俺にとってライムリーなニュースだな >>1
× 村の農家に下宿しながら〜
○ 百姓の家に押しかけて勝手に居座り色々略奪した 当時はまだ東九条も人間が住める土地だったことを示す貴重な資料 >>8
そうだよなw
日本の歴史って何か侍を美化しすぎてて萎える
みかじめ料要求するヤクザと大差ないのにな 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、
従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、
清河八郎による献策で浪士組の結成を企図。
江戸で求人した後、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(後述)を知った、近藤勇や芹沢鴨らが反発、
京都守護職の会津藩主、松平容保の庇護のもと、新撰組として発足した。
同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、
新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。
隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。
任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。
その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、
同戦争終戦と共に解散した。 NETの新選組血風録、芹沢鴨とかほんと憎たらしかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています