2018年03月27日 09時00分00秒
1972年にマグナボックスから「オデッセイ」が発売されて以降、家庭用ゲーム機は世代を重ねながらさまざまな機種が登場しました。
1980年代に発売された任天堂のファミリーコンピュータやセガのメガドライブなどは、今なおレトロゲームファンから人気の高いゲーム機ですが、
一方で家庭用ゲーム機の長い歴史の中に埋もれてしまい、人びとの記憶から失われつつある不遇のゲーム機も存在します。その一例として「ピピンアットマーク」が、技術系メディアのars technicaで紹介されています。

The Mac gaming console that time forgot | Ars Technica
https://arstechnica.com/gaming/2018/03/the-mac-gaming-console-time-has-forgot/

1993年中頃、Appleは、6億ドル(約630億円)の費用を投入して開発したレーザープリンター・カラーモニターなどが全て不振に終わり、業績は低迷していました。
1993年当時のPC市場ではAppleのシェアはおよそ12%でしたが、AT互換機はMacintoshの10倍の売れ行きを見せ、Appleのシェアはどんどん縮小していく一方でした。
起死回生の策として出したPDA端末「Apple Newton」はPDAとしては大きすぎるサイズ・操作性の悪さなどで酷評を受け、完全に失敗に終わりました。

(写真)
by guccio@文房具社

そこで、それまでAppleが占有していたMacシステムのライセンスを解放し、Apple以外の企業もMacintoshのハードウェアを製造できるようにし、
同時にMac OSに対応したゲームソフトを市場に投入することで、市場のシェアをMicrosoftから奪うことができるだろうと、
Appleの取締役や経営幹部は考えました。なお、Apple創立者の一人であるスティーブ・ジョブズはこの時既にAppleから追放され、取締役から退いています。

そんな時、マッキントッシュOEM製品のディレクターであるエリック・サーキン氏は、日本のおもちゃ会社であるバンダイからMac OSベースのゲーム機を作りたいというアプローチを受けました。

1994年、バンダイはパワーレンジャーをアメリカでヒットさせ、関連商品の売上げから約3億3000万ドル(約350億円)の利益を得るなど、順調に世界的大企業へ成長していました。創業者の長男である山科誠氏は、
バンダイを単なるアクションフィギュアのおもちゃ会社としてではなく、ディズニーや任天堂のようなグローバルエンターテインメント企業としてマルチに展開させていく構想を描いていました。
バンダイは「セーラームーン」「ドラゴンボール」「パワーレンジャー」など、自社が抱えているキャラクターのゲームをプレイできるMac OSベースのマルチメディアマシンの開発を計画したというわけです。

(写真)
by heath_bar

そこで、サーキン氏は日本へ飛び立ってリサーチを行い、バンダイと話し合いを進めて、「ピピンプロジェクト」を立ち上げました。
しかし、Appleのゲーム機開発担当部署であるパーソナルインタラクティブエレクトロニクス(PIE)が、日本の企業とのゲーム機製造に全く乗り気ではありませんでした。
そのため、Appleは携わるのはハード開発の協力のみで、製造・マーケティング・ブランディングには一切関与しないという契約を交わしました。

しかし、Appleとバンダイは計画当初から足並みがそろいませんでした。バンダイは「安価でMacに互換性のあってインターネットが可能なマシン」というコンセプトを掲げていたのですが、
「インターネットは金にならない」と考えていたAppleはこのコンセプトに懐疑的だったとのことです。さらに、「他社製の安価なMac互換機によって現行のMacintoshの売上げが下がるようなことがあってはいけない」と考えていたため、
ハード開発の段階でAppleが現行のMacintoshに近いシステムを要求し、予定よりもコストが跳ね上がってしまいました。

     ===== 後略 =====
全文は下記URLで

https://gigazine.net/news/20180327-history-of-pippin-atmark/