>>825
書き方が漠としていて永山の判決は1979、1981、1983、1987、1990で
どこを指しているのか、はっきりしない。

事件が起きた頃は60年代でいろいろ左派の影響が大きく、永山自身が裁判を
一種の体制との闘争に置き換えていったのも拘置所でそのあたりの洗脳を
受けたからであり、貧困が関わっていることから、左派的な大衆から同情を
受けたのもあるだろうし、当時の知識人から同じような李珍宇などの死刑囚の
減刑、支援運動などおきた土壌もあった。

オウムや東の頃にはそういう一種の幻想時代が終了して、彼らはプロレタリアート
というよりむしろ多くは中流以上であり、そういう意味での同情はなかったし、
例えば死刑廃止、難民救済といったキリスト教的な価値観に基づいた社会運動は
またしても日本では普及しなかったので、そういう抵抗運動も一部の法学部大学
教授の教育を受けた法曹を中心とした死刑廃止運動に限られ、一定以上には
普及しなかったといっていいだろう。

したがって、オウムは宗教という要素はあったにしてももはや死刑囚は大衆にとって
同情すべき要素に乏しく、清和会に牛耳られる自民党の右傾化も手伝って日本の死刑
廃止運動は青息吐息にも見える。
そういう社会情勢に反発して日弁連は死刑廃止を目指すと公然に発表したものの、
足下からも批判がでてくる状況であり、国会議員の議連も死刑廃止を下げざるえず、
日本の死刑廃止運動の将来的な状況は暗い。

まあ、個人的にはもうちょっと元気になって論争すれば面白いとは思うが、
結局、アメリカが宗旨替えすれば、それほど熱心に死刑存置でもないから、
先進国でお仲間がいなくなれば、あっさり死刑廃止になるのだろうのだが、
当面はそれもないだろうから、日本では死刑制度が維持されるだろう。