ビットコイン、イーサリアム、リップル…。いまや“仮想通貨”と呼ばれるこれらが経済紙誌に載らない日はない。それほどまでに注目されている半面で、その実像を正確に理解している人は意外に少ないのではないだろうか。仮想通貨はその取り上げられ方にパターンがある。ひとつは投資対象としてどうか、という視点。ほかにも、その利用に対する税制や周辺の規制といったルール作りに関するもの、それらに関係する事業を始めるといった関連ビジネスの話がよく取り上げられている。しかし、この仮想通貨は、そうした従前の概念では理解も予想もできないほどの大きな可能性を秘めている。しかも、ここから始まる変化には、だれも抗することはできないかもしれないのだ。2017年は後の世から“仮想通貨元年”といわれることだろう。その一端をのぞいてみよう。(青山博美)



 「ビットコイン」に代表される“仮想通貨”には現物の貨幣などが存在しない。それどころか、ビットコインについては中央銀行のような発行主体もない。サイバー上にある無数のコンピューターにデータが記録され、それがプログラム通りに営々と動いている。すべてはコンピューター上のデータの話なのだ。

 現代人は貨幣価値がデータ化していることには慣れており、一見違和感はないかもしれない。銀行通帳に書いてある数字がまさにそうだからだ。ただし、それらはいつでも現金として引き出すことができる。仮想通貨はそれができない。

 とはいうものの、それらのやり取りで買い物ができる。ビットコインは現に決済の機能を果たしはじめているのだ。好むと好まざるとにかかわらず、すでに日本円などと同じような機能を有しているのである。円のような法に基づく強制通用力がないにもかかわらず、だ。

 こういう説明だと、クレジットカードや電子マネーをイメージするかもしれない。これらも現金のやり取りなどない。キャッシュレスであるという点では、確かにそう見える。でも、例えば電子マネー。その単位は日本円などだ。これは現行の通貨が形を変えたものにすぎない。JR東日本の電子乗車券としてスタートしたスイカは、新たな通貨ではなく日本円を電子化して決済の利便を高めている、というものなのである。

では“仮想通貨”とは、それ以前に、そもそも通貨とはなんだろうか。

 通貨は中央銀行が発行・管理する、というのが一般的な認識だろう。少なくとも、17世紀に中央銀行ができ、19世紀にくまなく“普及”した後はだれもがそう思うのではないだろうか。中央銀行ができる前だって、いつも誰かしら発行者や管理者がいた。つまり通貨はだれか管理者がいるもの、と考えがちだ。

 紙幣の場合、偽造防止などでいろいろと細工がしてあるとはいえ、それ自体はただの紙だ。そこにいろいろ数字が書いてあり、その数字に応じて買い物ができる。そういうものだとみんなが信じているから成立している。

 中央銀行が発行している通貨は、その価値を国が裏付けている。もともと通貨は貴金属など普遍的な価値を持つ財貨そのものでできた貨幣でスタートしたが、重量があるため持ち運ぶのも不便だからと、貴金属との交換を保証した債務証書に置き換わっていく。英国の通貨、ポンドは重量の単位だが、これはかつてはその通貨が1トロイポンドの高純度の銀の価値を持っていたことのなごりだ。

 紙幣も、もともとは現物の貴金属の価値を裏付けにしていた。だからみんなが信用し、そういうものだと考えて使うようになった。そういう意味では、通貨は価値の化身なのだ。でも、だれもが価値のあるものだと認めている必要がある。このため、債務証書の要領で貴金属の裏付けといった工夫がなされてきた。とはいえ、現在の通貨にはそうした貴金属などの裏付けはない。裏付けがなくなっても通用する。これは、多くの人が裏付けなしに価値を認めるようになったことによる。

 肝心なのは、みんなが認めているということ。通貨をより根源的に一言でいえば“信用”ということになる。

 こうした考えからすると“仮想通貨”は通貨だといえる。
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/171117/eca1711170500002-n1.htm