債券市場で奇妙なことが起きている。新発10年物国債の取り引きが成立しない。何日にもわたって利回りが変わらない。これでは、もはや、市場ではない。

 取り引きが活発で、取り引き対象の値段がくるくるコロコロと変動する。それが市場だ。債券市場であろうと、何市場であろうと、同じことである。築地市場も、商い閑散なら値動きは小さい。商い不成立なら、市場の体をなさない。

 債券市場はなぜ、商い閑散なのか。それは日本銀行のせいである。日銀は10年物国債の利回りをゼロ%程度に誘導するという「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」をやっている。中央銀行が政策的な金利誘導水準を明示し、それを達成すべく、大量の国債買い入れを連綿と続けている。こんな状態の中で、市場が盛り上がるわけがない。

 最も威勢がいいはずの株式市場でも、いまや“官製相場”状態がすっかり支配してしまっている。日銀とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)がビッグプレーヤーとして存在感を強め過ぎている。管理された株式市場。これは定義矛盾だ。

債券市場も株式市場も、経済活動の感度高き体温計であってこそ、その存在に意味がある。壊れた体温計に、価値はない。

 問題は市場でなくなった市場だけではない。安倍政権は、「働き方改革」に次ぐ政策の柱として「人づくり革命」なるものを打ち出した。5月には、「生産性向上国民運動推進協議会」なるものが開催された。人々が働き方を改革され、革命的な人づくりに小突き回され、生産性向上にむけて国民運動の中にのみ込まれていく。こんな有様のどこが経済活動なのか。

 経済学の生みの親が、アダム・スミス大先生だ。著書『国富論』の中で、彼がかの「見えざる手」という言葉を使った時、彼は決して新自由主義や市場原理主義の礼賛論を唱えていたわけではない。国家権力がいらざる介入をしなくても、経済活動は収まるところに収まり、生むべき結果を生み出す。政治の「見える手」は、経済の世界にしゃしゃり出るな。これが、大先生が言いたかったことである。経済学の父が、政治による経済殺しに発した警告だ。今の日本への警告だ。
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