「中国大虐殺史ーなぜ中国人は人殺しが好きなのか」石平著
17世紀半ば、反乱軍を率いて四川省を占領した張献中(チョウケンチュウ)は
僅か数年で、当時600万人の四川の人口をほぼ絶滅させた。
山奥に逃げ、難を逃れた者はわずか1万8千人程度だという。
大殺戮の過程で、食料不足が発生すると、殺した住民たちの首を切り捨て、
その体は豚肉や羊肉のように大なべで調理し、兵士の食料とした。

住民が残り20万人程度となったころ、次の食料を求めて軍を移動するため、
張は、残り20万人の住民全員を、燻製や塩づけの兵糧とするよう兵士に命じた。
成都の街全体が「人肉加工場」に化したと云う。
石平氏によると、この張献中と毛沢東とは、その時代やイデオロギーは全く異なるとしても、
人民に対する残虐性や心の深層において酷似するという。
そして、そのキーワードが社会から排斥された「遊民」であり、主流社会にたいする恨みと報復心なのだと。
本書は日本人にわかりにくい、かの国の社会構造の一端を知る手がかりともなるだろう


<王朝交代期に数千万もの人口が大激減する理由> ちなみに日本が食糧増産技術を教える近代まで人口上限6千万人

(1)自然災害の他に、政府軍と反乱軍との抗争で、農業労働の主役である男が兵隊として駆り出され
さらに、補給などせず現地調達の略奪のすえに農地が荒廃して人の居ない荒野へ変わり大飢饉に陥る。

(2)儒教の君主に殉ずることを美学とする「大義思想」により、旧王朝は新王朝に最後まで抵抗して徹底的に殺戮された。
更に、城郭都市のために侵攻軍が街全体を包囲し、侵攻軍が城郭内に突入すれば、
旧王朝軍に協力したという理由で一般市民も殺戮・虐殺の対象にされた。
中国には「屠城」という言葉があり、これは城(都市)の住民を殺し尽くす大虐殺をいいます。

(3)戦国時代の末期、秦軍と趙軍が大会戦した「長平の戦い」のように、捕虜は釈放すれば危険で食料がない時は
処刑より手のかからない「生き埋め」が、降伏した趙軍40万人に実行され、
今でも人骨が多数でてくる古戦場跡のすさまじさが「史記」に残されている。

(4) 前王朝の人や物を完全否定して新王朝と旧王朝との違いを人民に示す支配上の必須条件として、
前王朝に所属する人間を徹底的に殺戮するに止まらず、建物や備品、美術品そして墳墓にいたるまで、
前王朝の影響や保護を受けたものすべてを破壊の対象とした。このために、寺院や歴史的建造物も破壊され、
万里の長城等の石の建造物以外には中国には前王朝の遺品が何も残っていない。