学者たちを駁して   人文書中心の読書感想文
htt ps://web.archive.org/web/20170521030515/http://rodori.hatenablog.com/entry/2014/11/09/000351
奴隷制がダメである8つの理由   2014年11月09日

資本主義の限定づけ
古代の奴隷制社会は、生産手段である人間が奴隷として商取引の対象となっている点で「資本主義的」である。
そもそも資本主義とは何だろうか。さまざまな人物がさまざまなことを好き勝手に語っているのが現状だが、
問題は、「資本主義」というこの曖昧な概念をどのようにして限定づけるかという点にかかっている。
だが、それは決して簡単なことではない。資本主義の限定=定義づけというこの難問に関して、
ドイツの経済史家であるマックス・ウェーバーは、『古代農業事情』*1という書物の中で次のように述べている。
*1:1909年。邦題は『古代社会経済史』。
〔資本主義について〕どのように限定づけを行おうとも、つぎの一事だけは間違いないものと考えてよかろう。
それは、いやしくも術語というものがなんらかの識別的価値を持たなければならないとするならば、
〈資本〉のもとに理解さるべきものは常に私経済的〈営利資本〉でなければならない、ということである。
〈資本〉は、〈営利資本〉である以上、この術語の背景には、〈経営〉という考え方が前提としてあることがわかるだろう。
しかも、ウェーバーによれば、この〈経営〉は同時に、流通経済的な基礎を持っていなければならない。
では、〈流通経済〉とは何だろうか。それは、少なくともこの二つの条件を満たしているような経済のことだ。
@.生産物が取引の対象である。
A.生産手段が取引の対象である。
資本主義において、〈資本〉とは常に〈営利資本〉のことであり、
その背景には〈経営〉の概念がすでに前提として組み込まれているということ。
さらに、資本主義下の〈経営〉は、生産物が取引の対象となり、
他方で同時に、生産手段(人間・土地)までもが取引の対象となるような〈流通経済〉に基づいているということ。
つまり、資本主義経済においては、農作物や工業製品のような生産物ばかりか、土地や人間のような生産手段までもが自由な「取引の対象」として流通していなければならないというわけだ。
それゆえ例えば、ヨーロッパ中世における領主の農民支配のように、或る特定の人間(=農民)を、年貢(=不労所得)や手数料の源泉として領主が自分のために利用するような〈家計〉を資本主義と言ってはならない。
というのは、この〈家計〉においては、生産手段であるところの土地や農民が、「取引の対象」になってはいないからだ。
言い換えれば、これらが共に〈営利資本〉ではないからだ。土地を「所有」し、そこに住む農民たちを自らの支配下におき、不労所得(=年貢)の獲得を目指す中世の領主たちの営みは、伝統の束縛によるものであって、自由な取引による〈営利〉の結果として成立したものではない。
それは〈家計〉であって〈経営〉ではなく、全く「資本主義的」ではない。
それに対して、自分が所有する農地で、市場から調達した「購買奴隷」を用いて行う古代人の農場経営を資本主義に含めてはいけない理由はどこにもない。
というのは、奴隷制下においては、土地(農地)も人間(奴隷)も古代ローマにおいては、自由な取引の対象であり、どこからどう見ても〈営利資本〉であるからだ。
「購買奴隷」を用いた農場経営を、自由人労働を用いた現代の経営と比べて見た場合、異なるのは、労働力が「購入」されるのであって賃貸(=雇用)されるのではないということぐらいだろう。