>>838
これ


「──こういうのってさ、健康体な私が漕ぐべきなんじゃない?」
「いやいや、今健康体なのは私のほうじゃん? 任せとけって、よんちゃん」
後部の荷台に腰掛けたよんちゃんは「そもそも2人乗りってありなのか?」と呟きながら、私の腰に腕を回す。そのあまりにもやせ細った手首に気づかない振りをして、地面を強く蹴り込んだ。

海に行きたいなぁ。そうボヤくよんちゃんを誘って、自転車に飛び乗った。2人乗りをしたのは初めてかもしれない。ワルだ。本物のワルだ。よんちゃんにそう言うと「程度が低いなぁ」と呆れられた。
ペダルを踏み込むたびに、足が重くなる。息が切れる。生唾を飲み込んで、また大きく息を吐く。
「ねごちゃん、大丈夫?」
よんちゃんが後ろから心配そうに声をかけてくる。「だ、だいじょうぶらよ」とたどたどしく返すと、「交代しようよ」と言ってくるので、ムキになって大声を上げた。
「大丈夫だって! なんならあの坂だって登り切れるよ!」
道は一度下った後、踏切を渡ってから緩やかな登り坂となっている。あの丘を越えれば、青く煌びやかな大海原が見えてくるはずだ。
「いや、あの坂を2人乗りでは絶対無理だって!」
「いや、助走つければいけるよ。見てな──」
私は勢いよく漕ぎ出して、下り坂を猛スピードで駆け下る。風を切る。景色が、音が、後ろに後ろに遠のいて、そして──。

警報が鳴り響いた。
両手のブレーキレバーを強く握り締める。耳に障る錆びついた金属音を立てて自転車が停止した。
無常にもスズメバチ色の遮断機が降りてきた。カンカンと無機質に響く警報を聞きながら、目の前の坂をにらみつける。下唇を突き出して唸った後、「まあひと休憩ってね」と努めて明るくよんちゃんに話しかける。
焦らすように赤光が点滅する。右ハンドルを人差し指でトントンと叩く。いつになったら電車はくるんだ?
「──ねごちゃん」
警報音にかき消されそうな、よんちゃんのか細い声がした。
「なに!?」
大声で返事する。線路の右奥から電車が見えた。なにをちんたら走ってるんだ──

「私たち、もう、終わっちゃったのかな?」

カンカンカンカン。

「──っバカ! バカヤローだよ! よんちゃん!」
寂しく放り投げられたよんちゃんの言葉を零さないように、詰まりながらも言葉を返す。なんて、なんて言えば言ってあげればいいんだ──

「まだ──まだなにも始まっちゃいねぇよ!」

言葉を言い終わると同時にゴウと風を切り裂きながら快速電車が通り過ぎた。舞い上がる髪を抑える振りをしながら頭をかきむしる。なにを言ってるんだ私は! まるで意味がわかんないじゃん! 
電車は轟音を立てて過ぎ去った。耳障りな警報が鳴り止み、ガチャンと遮断機が上がる。
さて行きますか。私が漕ぎ出そうとした時。

「……くふふっ」
たまちゃんの笑い声が聞こえてきた。

「アッハッハッハッハ!」
お腹の底から湧いて出てきた笑い声だった。
久しぶりに、本当に久しぶりに聞いたよんちゃんの、いや、かいちょーの笑い声だった。
少し掠れたような、込み上げる喜びを隠せないその笑いに、私はとてもとても嬉しくなった。
「ニャハハッ! よんちゃん! よんちゃん!」
「フフッ、──オラッ、漕げ漕げねごちゃん!」
「──ッしゃあ、ワルの爆走見せてやるぜ! しっかりつかまってろよ、よんちゃん!」
そう言って、私は勢いよく地面を蹴り出した。
登り始めに差し掛かる。がくんと地球の引力が体にのしかかる。重い。苦しい。心臓の鼓動が高鳴る。それでも、私は漕ぎ続けた。よんちゃんも、下りずにしがみついてくれている。大丈夫。きっと登り切ってみせるから。

私は腰を浮かして、ギアを2つ上げた。

いまだ坂の上の青空は遠い。それでも、それでも私たちは──。