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、赤土のような顔に大きい鋭い目を明いて、戸外に降り頻る雨をじっと見ていた。 時雄は例刻をてくてくと
牛込矢来町の自宅に帰って来た。 渠は三日間、その苦悶と戦った。渠は性として惑溺することが出来ぬ或る
一種の力を有っている。この力の為めに支配されるのを常に口惜しく思っているのではあるが、それでもいつ
か負けて了う。征服されて了う。これが為め渠はいつも運命の圏外に立って苦しい味を嘗めさせられるが、世
間からは正しい人、信頼するに足る人と信じられている。三日間の苦しい煩悶、これでとにかく渠はその前途
を見た。二人の間の関係は一段落を告げた。これからは、師としての責任を尽して、わが愛する女の幸福の為
めを謀るばかりだ。これはつらい、けれどつらいのが人生だ! と思いながら帰って来た。 門をあけて入る
と、細君が迎えに出た。残暑の日はまだ暑く、洋服の下襦袢がびっしょり汗にぬれている。それを糊のついた
白地の単衣に着替えて、茶の間の火鉢の前に坐ると、細君はふと思い附いたように、箪笥の上の一封の手紙を
取出し、「芳子さんから」 と言って渡した。 急いで封を切った。巻紙の厚いのを見ても、その事件に関し
ての用事に相違ない。時雄は熱心に読下した。 言文一致で、すらすらとこの上ない達筆。先生――実は御相
談に上りたいと存じましたが、余り急でしたものでしたから、独断で実行致しました。昨日四時に田中から電
報が参りまして、六時に新橋の停車場に着くとのことですもの、私はどんなに驚きましたか知れません。何事
も無いのに出て来るような、そんな軽率な男でないと信じておりますだけに、一層甚しく気を揉みました。先
生、許して下さい。私はその時刻に迎えに参りましたのです。逢って聞きますと、私の一伍一什を書いた手紙
を見て、非常に心配して、もしこの事があった為め万一郷里に伴れて帰られるようなことがあっては、自分が
済まぬと言うので、学事をも捨てて出京して、先生にすっかりお打明申して、お詫も申上げ、お情にも縋って
、万事円満に参るようにと、そういう目的で急に出て参ったとのことで御座います。それから、私は先生にお
話し申した一伍一什、先生のお情深い言葉、将来までも私等二人の神聖な真面目な恋の証人とも保護者ともな
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でも卒業してくれッて、この間初めに申して来た時に達って止めて遣ったんですけれど……もうすっかり独断
でそうして了ったんですッて。今更取かえしがつかぬようになって了ったんですッて」「どうして?」「神戸
の信者で、神戸の教会の為めに、田中に学資を出してくれている神津という人があるのですの。その人に、田
中が宗教は自分には出来ぬから、将来文学で立とうと思う。どうか東京に出してくれと言って遣ったんですの
。すると大層怒って、それならもう構わぬ、勝手にしろと言われて、すっかり支度をしてしまったんですって
、本当に困って了いますの」「馬鹿な!」 と言ったが、「今一度留めて遣んなさい。小説で立とうなんて思
ったッて、とても駄目だ、全く空想だ、空想の極端だ。それに、田中が此方に出て来ていては、貴嬢の監督上
、私が非常に困る。貴嬢の世話も出来んようになるから、厳しく止めて遣んなさい!」 芳子は愈※(二の字
点、1-2-22)困ったという風で、「止めてはやりますけれど、手紙が行違いになるかも知れませんから
」「行違い? それじゃもう来るのか」 時雄は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)った。「今
来た手紙に、もう手紙をよこしてくれても行違いになるからと言ってよこしたんですから」「今来た手紙ッて
、さっきの端書の又後に来たのか」 芳子は点頭いた。「困ったね。だから若い空想家は駄目だと言うんだ」
 平和は再び攪乱さるることとなった。 一日置いて今夜の六時に新橋に着くという電報があった。電報を持
って、芳子はまごまごしていた。けれど夜ひとり若い女を出して遣る訳に行かぬので、新橋へ迎えに行くこと
は許さなかった。 翌日は逢って達って諌めてどうしても京都に還らせるようにすると言って、芳子はその恋
人の許を訪うた。その男は停車場前のつるやという旅館に宿っているのである。 時雄が社から帰った時には
、まだとても帰るまいと思った芳子が既にその笑顔を玄関にあらわしていた。聞くと田中は既にこうして出て
来た以上、どうしても京都には帰らぬとのことだ。で、芳子は殆ど喧嘩をするまでに争ったが、矢張断として
可かぬ。先生を頼りにして出京したのではあるが、そう聞けば、なるほど御尤である。監督上都合の悪いとい
うのもよく解りました。けれど今更帰れませぬから、自分で如何ようにしても自活の道を求めて目的地に進む