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【急騰】今買えばいい株9406【建てろよ】
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0151豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/17(水) 01:04:21.56ID:mMfIsHDY0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0152山師さん (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/17(水) 23:59:06.97ID:mMfIsHDY0
ジンズ
0153豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/19(金) 01:56:46.59ID:shvIMwae0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0154山師さん (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/20(土) 04:25:04.62ID:wir7KWXE0
セイノー
0155豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/21(日) 00:08:27.48ID:dZtQHTs80
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0157豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/22(月) 00:56:08.94ID:+pOzCDmH0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0158山師さん (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/22(月) 22:31:30.03ID:+pOzCDmH0
ベルク
0160豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/22(月) 23:09:15.23ID:+pOzCDmH0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0161山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:46:26.80ID:kQvXahQw0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
0162山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:46:42.73ID:kQvXahQw0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0163山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:46:58.74ID:kQvXahQw0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0164山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:47:14.84ID:kQvXahQw0
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0165山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:47:30.78ID:kQvXahQw0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
0166山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:47:46.80ID:kQvXahQw0
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
0167山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:48:02.84ID:kQvXahQw0
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0168山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:48:18.77ID:kQvXahQw0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
0169山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:48:34.64ID:kQvXahQw0
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
0170山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:48:50.81ID:kQvXahQw0
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
0171山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:49:06.82ID:kQvXahQw0
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0172山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:49:22.79ID:kQvXahQw0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0174山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:49:54.85ID:kQvXahQw0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0175山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:50:10.87ID:kQvXahQw0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0176山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 00:50:26.84ID:kQvXahQw0
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
0178山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:23:08.86ID:kQvXahQw0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
0179山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:23:24.96ID:kQvXahQw0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0180山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:23:40.92ID:kQvXahQw0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0181山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:23:57.06ID:kQvXahQw0
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0182山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:24:13.03ID:kQvXahQw0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
0183山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
垢版 |
2018/01/23(火) 18:24:29.03ID:kQvXahQw0
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
0184山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
垢版 |
2018/01/23(火) 18:24:45.04ID:kQvXahQw0
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0185山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
垢版 |
2018/01/23(火) 18:25:01.12ID:kQvXahQw0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
0186山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:25:17.02ID:kQvXahQw0
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
0187山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:25:33.10ID:kQvXahQw0
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
0188山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:25:48.96ID:kQvXahQw0
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0189山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:26:04.97ID:kQvXahQw0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0191山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:26:37.11ID:kQvXahQw0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0192山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:26:53.13ID:kQvXahQw0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0193山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:27:09.12ID:kQvXahQw0
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
0194山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:27:25.14ID:kQvXahQw0
、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで
0195山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:27:41.00ID:kQvXahQw0
あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
0196山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:27:57.11ID:kQvXahQw0
 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
るや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
0197山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:28:13.24ID:kQvXahQw0
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
0198山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:28:29.03ID:kQvXahQw0
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
0199山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:28:45.00ID:kQvXahQw0
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
0200山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:29:01.05ID:kQvXahQw0
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて
0201山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:29:17.18ID:kQvXahQw0
、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客
よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い
水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切っ
0202山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:29:32.98ID:kQvXahQw0
た。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。そ
れで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋
に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
0204山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:30:04.99ID:kQvXahQw0
 私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した
。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく
0205山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:30:21.00ID:kQvXahQw0
ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着
0206山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:30:37.03ID:kQvXahQw0
ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと
0207山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:30:53.22ID:kQvXahQw0
見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
0208山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:31:09.17ID:kQvXahQw0
二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いてい
るものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山と
を照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたり
0209山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:31:25.18ID:kQvXahQw0
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促し
0210山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:31:41.03ID:kQvXahQw0
た。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私は
すぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
0211山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:31:57.19ID:kQvXahQw0
 それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時
、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない
私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答
0212山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:32:13.21ID:kQvXahQw0
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
0213山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:32:29.17ID:kQvXahQw0
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
0214山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:32:45.07ID:kQvXahQw0
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
0215山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:33:01.08ID:kQvXahQw0
かと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんし
たあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は
変に一種の失望を感じた。
0217山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:33:33.19ID:kQvXahQw0
 私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は
先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかん
にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりで
0218山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:33:49.22ID:kQvXahQw0
いたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返
事が少し私の自信を傷いためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く
0219山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:34:05.12ID:kQvXahQw0
気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く
気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺うごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった
。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私
0220山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:34:21.25ID:kQvXahQw0
は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先
生に対してだけこんな心持が起るのか解わからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって
、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
0221山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:34:37.25ID:kQvXahQw0
素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったので
ある。傷いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止よせと
いう警告を与えたのである。他ひとの懐かしみに応じない先生は、他ひとを軽蔑けいべつする前に、まず
0222山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:34:53.30ID:kQvXahQw0
自分を軽蔑していたものとみえる。
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数
ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経たつうちに、鎌倉
0223山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:35:09.24ID:kQvXahQw0
かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶
の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
0224山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:35:25.24ID:kQvXahQw0
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
0225山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:35:41.31ID:kQvXahQw0
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
0226山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:35:57.27ID:kQvXahQw0
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
0227山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:36:13.27ID:kQvXahQw0
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしが
やの墓地にある或ある仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分
0228山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:36:29.16ID:kQvXahQw0
になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ
出た。賑にぎやかな町の方へ一丁ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵きびすを回めぐらした。
0230山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:37:01.30ID:kQvXahQw0
 私わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方に楓かえでを植え付けた広い
道を奥の方へ進んで行った。するとその端はずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出
て来た。私はその人の眼鏡めがねの縁ふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生
0231山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:37:17.28ID:kQvXahQw0
」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二遍へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼の中うちに異様な調子をもっ
0232山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:37:33.28ID:kQvXahQw0
て繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっ
0233山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:37:49.38ID:kQvXahQw0
きりいえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
0234山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:38:05.11ID:kQvXahQw0
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだ
から」
0235山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:38:21.18ID:kQvXahQw0
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかっ
た。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼ
0236山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:38:37.36ID:kQvXahQw0
くロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた
塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の
前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と
0237山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:38:53.29ID:kQvXahQw0
いって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニー
も認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげの碑ひだのを指して、しきりにか
0238山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:39:09.43ID:kQvXahQw0
れこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面
目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高
0239山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:39:25.29ID:kQvXahQw0
い梢こずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、こ
こいらの地面は金色きんいろの落葉で埋うずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ず
この木の下を通るのであった。
0240山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:39:41.18ID:kQvXahQw0
 向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、鍬くわの手を休めて私たちを見て
いた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより
0241山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:39:57.34ID:kQvXahQw0
口数を利きかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行っ
た。
「すぐお宅たくへお帰りですか」
0242山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:40:13.36ID:kQvXahQw0
「ええ別に寄る所もありませんから」
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
0244山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:40:45.47ID:kQvXahQw0
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町ちょうほど
歩いた後あとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
0245山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:41:01.36ID:kQvXahQw0
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
「そうです」
 先生はその日これ以外を語らなかった。
0247山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:41:33.43ID:kQvXahQw0
 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どす
うが重なるにつれて、私はますます繁しげく先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり
0248山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:41:49.25ID:kQvXahQw0
変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は
最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければ
いられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの
0249山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:42:05.40ID:kQvXahQw0
人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証
拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自
分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人
0250山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:42:21.35ID:kQvXahQw0
、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――
これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る
0251山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:42:37.88ID:kQvXahQw0
事があった。窓に黒い鳥影が射さすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその
曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であっ
た。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一
0252山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:42:53.22ID:kQvXahQw0
時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分と経たたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎ
り暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽
きるに間まのない或ある晩の事であった。
0253山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:43:09.42ID:kQvXahQw0
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょうの大樹たいじゅを眼めの前に
想おもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょう
ど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午ひるで終おえる楽な日であった。私は先生に向かって
0254山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:43:25.36ID:kQvXahQw0
こういった。
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
0255山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:43:41.28ID:kQvXahQw0
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった

「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時にお伴ともをしても宜よござんすか。私は先生といっしょにあ
0256山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:43:57.43ID:kQvXahQw0
すこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」
0257山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:44:13.32ID:kQvXahQw0
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、ど
こまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私に
はその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
0258山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:44:29.22ID:kQvXahQw0
「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがち
ょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられな
0259山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:44:45.26ID:kQvXahQw0
い微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く
思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあす
0261山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:45:17.43ID:kQvXahQw0
 私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではな
かった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
0262山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:45:33.46ID:kQvXahQw0
尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができた
のだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つ
なぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚し
0263山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:45:49.45ID:kQvXahQw0
ていなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が
二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究
されるのを絶えず恐れていたのである。
0264山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:46:05.57ID:kQvXahQw0
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時
のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
0265山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:46:21.45ID:kQvXahQw0
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事
0266山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:46:37.62ID:kQvXahQw0
を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないとい
う事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
0267山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:46:53.51ID:kQvXahQw0
「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからな
ぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
0268山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:47:09.53ID:kQvXahQw0
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」
といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押
0269山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:47:25.33ID:kQvXahQw0
さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出る
や否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
0270山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:47:41.38ID:kQvXahQw0
「ええ来ました」といって自分も笑った。
 私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれ
た時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
0271山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:47:57.51ID:kQvXahQw0
「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、
ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいら
れるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつ
0272山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:48:13.51ID:kQvXahQw0
かりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るので
0273山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:48:29.55ID:kQvXahQw0
すか」
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために
0274山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:48:45.53ID:kQvXahQw0
その淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今
に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。
0276山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:49:17.55ID:kQvXahQw0
 幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中う
ちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちい
つの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならない
0277山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:49:33.37ID:kQvXahQw0
ようになった。
 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇か
らいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問
0278山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:49:49.56ID:kQvXahQw0
だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその
前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった
。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
0279山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:50:05.39ID:kQvXahQw0
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知
れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の
夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ
0280山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:50:21.61ID:kQvXahQw0
、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美し
いという外ほかに何の感じも残っていない。
 ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。
0281山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:50:37.57ID:kQvXahQw0
先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃
さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さん
は綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと
0282山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:50:53.67ID:kQvXahQw0
先生の間に下しものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」
0283山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:51:09.62ID:kQvXahQw0
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上が
ると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
0284山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:51:25.60ID:kQvXahQw0
「今夜はいかがです」
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」
0285山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:51:41.82ID:kQvXahQw0
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
 先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑
0286山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:51:57.69ID:kQvXahQw0
い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気
がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。し
0287山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:52:13.65ID:kQvXahQw0
かし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさい
もののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。
0288山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:52:29.62ID:kQvXahQw0
「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った
0290山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:53:01.67ID:kQvXahQw0
 私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として
暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざして
0291山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:53:17.66ID:kQvXahQw0
いる時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静
しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさ
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうにな
0292山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:53:33.75ID:kQvXahQw0
って、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出される
ようであった。
 先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行を
0293山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:53:49.58ID:kQvXahQw0
した事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持
っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外が
0294山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:54:05.69ID:kQvXahQw0
あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
0295山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:54:21.74ID:kQvXahQw0
分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
いるようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿
0296山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:54:37.52ID:kQvXahQw0
へ帰った。
 妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ば
かりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下
0297山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:54:53.66ID:kQvXahQw0
から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私
は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
 その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで
0298山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:55:09.71ID:kQvXahQw0
飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
0299山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:55:25.51ID:kQvXahQw0
 私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時の
ように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする
動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
0300山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:55:41.69ID:kQvXahQw0
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分り
ますか」
 私は何の答えもし得なかった。
0301山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:55:57.53ID:kQvXahQw0
「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしま
ったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
0302山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:56:13.61ID:kQvXahQw0
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです
0303山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:56:29.73ID:kQvXahQw0
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
0305山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:57:01.59ID:kQvXahQw0
 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき
出した。
0306山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:57:17.76ID:kQvXahQw0
「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなも
のですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移
0307山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:57:33.74ID:kQvXahQw0
って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映ります
かね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
0308山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:57:49.82ID:kQvXahQw0
「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はま
た口を閉じて、無言で歩き出した。
 先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で
0309山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:58:05.75ID:kQvXahQw0
分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といっ
た。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
0310山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:58:21.82ID:kQvXahQw0
 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言
葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言
葉を忘れなかった。
0311山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:58:37.79ID:kQvXahQw0
 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多
めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それど
ころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。
0312山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:58:53.76ID:kQvXahQw0
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えな
いのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって
、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
0313山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:59:09.86ID:kQvXahQw0
 私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせた
のか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んで
いたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人
0314山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:59:25.62ID:kQvXahQw0
間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あ
るべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生
の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、
0315山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:59:41.63ID:kQvXahQw0
それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一
時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ
0316山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 18:59:57.77ID:kQvXahQw0
の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九
0317山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:00:13.79ID:kQvXahQw0
時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
0319山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:00:45.83ID:kQvXahQw0
 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで
0320山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:01:01.70ID:kQvXahQw0
忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
断っておきたい事がある。
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい
0321山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:01:17.87ID:kQvXahQw0
う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密
0322山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:01:33.67ID:kQvXahQw0
切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも
0323山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:01:49.85ID:kQvXahQw0
聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ
0324山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:02:05.85ID:kQvXahQw0
調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気
0325山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:02:21.75ID:kQvXahQw0
が出なかった。
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし
0326山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:02:37.85ID:kQvXahQw0
ょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
0327山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:02:53.89ID:kQvXahQw0
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
0328山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:03:09.90ID:kQvXahQw0
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか
0329山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:03:25.88ID:kQvXahQw0
らないから気の毒でたまらないんです」
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう
0330山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:03:41.84ID:kQvXahQw0
にまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
んです」
0331山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:03:57.92ID:kQvXahQw0
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
0333山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:04:29.91ID:kQvXahQw0
 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である
0334山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:04:45.91ID:kQvXahQw0
のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし
0335山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:05:01.96ID:kQvXahQw0
た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善
0336山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:05:17.93ID:kQvXahQw0
意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限
らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題にな
0337山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:05:33.96ID:kQvXahQw0
ると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった
。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかっ
0338山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:05:49.75ID:kQvXahQw0
た。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見
惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる
。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊して
0339山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:06:05.95ID:kQvXahQw0
しまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛につ
いては、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎
0340山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:06:21.88ID:kQvXahQw0
みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえ
のへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添
0341山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:06:38.64ID:kQvXahQw0
って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あ
った。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
0342山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:06:53.74ID:kQvXahQw0
「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私に
こう聞いた。
0345山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:07:41.95ID:kQvXahQw0
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
0346山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:07:58.78ID:kQvXahQw0
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
0348山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:08:29.96ID:kQvXahQw0
 我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見
えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。
0349山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:08:46.00ID:kQvXahQw0
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに
0350山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:09:01.80ID:kQvXahQw0
恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何
にもなかった。
0351山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:09:17.99ID:kQvXahQw0
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
0352山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:09:33.97ID:kQvXahQw0
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので
0353山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:09:50.02ID:kQvXahQw0
す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特
0354山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:10:05.79ID:kQvXahQw0
別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
…」
0355山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:10:22.05ID:kQvXahQw0
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだあ
りません」
0356山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:10:37.85ID:kQvXahQw0
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もない
が、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
0357山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:10:53.94ID:kQvXahQw0
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味
は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで
0358山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:11:09.89ID:kQvXahQw0
切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらし
ていたのだ。私は悪い事をした」
0359山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:11:25.99ID:kQvXahQw0
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまか
ら広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていま
0360山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:11:42.00ID:kQvXahQw0
すか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく
承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
0361山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:11:57.92ID:kQvXahQw0
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを
焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪で
すよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
0362山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:12:14.08ID:kQvXahQw0
 私には先生の話がますます解わからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。

十四
0363山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:12:30.02ID:kQvXahQw0
 年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っ
ていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思
0364山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:12:46.05ID:kQvXahQw0
想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもた
だ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
0365山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:13:02.00ID:kQvXahQw0
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯う
けがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに
0366山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:13:18.04ID:kQvXahQw0
思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお
苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
0367山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:13:34.14ID:kQvXahQw0
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿
0368山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:13:50.10ID:kQvXahQw0
つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。
0369山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:14:06.10ID:kQvXahQw0
大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの
通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さ
んの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
0370山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:14:22.10ID:kQvXahQw0
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないよう
0371山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:14:38.15ID:kQvXahQw0
になっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんで
0372山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:14:54.09ID:kQvXahQw0
す」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」とい
う奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
0373山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:15:09.98ID:kQvXahQw0
間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与
えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報
0374山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:15:26.16ID:kQvXahQw0
に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせ
0375山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:15:42.10ID:kQvXahQw0
ようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今
より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おの
れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょ
0377山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:16:14.01ID:kQvXahQw0
十五

 その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度
0378山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:16:30.14ID:kQvXahQw0
に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会が
なかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と
0379山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:16:45.97ID:kQvXahQw0
奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷た
い眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人で
0380山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:17:02.14ID:kQvXahQw0
あった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか
。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石
造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれど
0381山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:23:38.23ID:kQvXahQw0
「そりゃ嘘うそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
0382山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:23:59.25ID:kQvXahQw0
「あなたは学問をする方かただけあって、なかなかお上手じょうずね。空からっぽな理屈を使いこなす事
が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同お
んなじ理屈で」
0383山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:24:15.40ID:kQvXahQw0
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空からの盃さかずきでよくああ飽きず
に献酬けんしゅうができると思いますわ」
0384山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:24:31.17ID:kQvXahQw0
 奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なも
のではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さ
んは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
0386山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:25:03.33ID:kQvXahQw0
 私わたくしはまだその後あとにいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒いたずらに議論を仕掛
ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底を
覗のぞいて黙っている私を外そらさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を
0387山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:25:19.32ID:kQvXahQw0
奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数かずを聞いた。
0388山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:25:35.11ID:kQvXahQw0
奥さんの態度は私に媚こびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉を力つとめて打ち
消そうとする愛嬌あいきょうに充みちていた。
 私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
0389山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:25:51.31ID:kQvXahQw0
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
0390山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:26:07.19ID:kQvXahQw0
 二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした

「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空からな理屈と聞こえるか
0391山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:26:23.18ID:kQvXahQw0
も知れませんが、私はそんな上うわの空そらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
0392山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:26:39.23ID:kQvXahQw0
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外ほかに仕方がないじゃありませんか。
私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
0393山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:26:55.38ID:kQvXahQw0
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺
っていい質問ですから、あなたに伺います」
0394山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:27:11.39ID:kQvXahQw0
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
0395山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:27:27.42ID:kQvXahQw0
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを
向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃ
ない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
0396山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:27:43.22ID:kQvXahQw0
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれ
ば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになる
ようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっ
0397山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:27:59.44ID:kQvXahQw0
ても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いてい
られるんです」
「その信念が先生の心に好よく映るはずだと私は思いますが」
0398山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:28:15.34ID:kQvXahQw0
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう
0399山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:28:31.22ID:kQvXahQw0
。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにん
として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑のみ込めた。
0401山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:29:03.48ID:kQvXahQw0
 私わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意
に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはその頃ころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほ
とんど使わなかった。
0402山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:29:19.17ID:kQvXahQw0
 私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、
異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の
雲を眺ながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出
0403山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:29:35.32ID:kQvXahQw0
ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、
その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出
なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さ
0404山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:29:51.21ID:kQvXahQw0
んの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に
、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
0405山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:30:07.28ID:kQvXahQw0
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
0406山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:30:23.10ID:kQvXahQw0
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
0407山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:30:40.01ID:kQvXahQw0
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんと解わかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛つらいんですが、私にはどう考えても、考えよ
0408山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:30:55.33ID:kQvXahQw0
うがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分り
ゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
0409山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:31:11.31ID:kQvXahQw0
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、
取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさ
0410山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:31:27.29ID:kQvXahQw0
せなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
0411山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:31:43.15ID:kQvXahQw0
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいっ
た。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
0412山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:31:59.23ID:kQvXahQw0
 奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんに注さした。鉄瓶は
忽たちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいっ
0413山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:32:15.31ID:kQvXahQw0
て下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点は
おれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなお
の事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
0415山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:32:47.43ID:kQvXahQw0
 始め私わたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうち
に、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始め
0416山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:33:03.16ID:kQvXahQw0
た。自分と夫の間には何の蟠わだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに
眼を開あけて見極みきわめようとすると、やはり何なんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった
0417山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:33:19.24ID:kQvXahQw0
 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われている
のだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、か
えってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭いやになったのだろうと推測
0418山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:33:35.21ID:kQvXahQw0
していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度
はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いの塊かたまりをその日その日の情合じょう
あいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
0419山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:33:51.41ID:kQvXahQw0
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかん
とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい」
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答え
0420山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:34:07.16ID:kQvXahQw0
が何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるもの
があると信じていた。
「私には解わかりません」
0421山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:34:23.38ID:kQvXahQw0
 奥さんは予期の外はずれた時に見る憐あわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を
継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通り
0422山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:34:39.21ID:kQvXahQw0
を奥さんに伝えるだけです。先生は嘘うそを吐つかない方かたでしょう」
 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
0423山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:34:55.39ID:kQvXahQw0
「先生がああいう風ふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれる
んですが、……」
0424山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:35:11.39ID:kQvXahQw0
「どんな事ですか」
 奥さんはいい渋って膝ひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
0425山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:35:27.41ID:kQvXahQw0
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱しかられるから。叱られないところだけよ」
 私は緊張して唾液つばきを呑のみ込んだ。
0426山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:35:43.47ID:kQvXahQw0
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いいお友達が一人あったのよ。その方かたがちょうど卒業する
少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうし
0427山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:35:59.38ID:kQvXahQw0
て」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後のちなんです。先生の性質が段々変って
来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれ
0428山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:36:15.40ID:kQvXahQw0
どもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化
0429山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:36:31.42ID:kQvXahQw0
できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪たまらないんです。だからそこを一つあなたに判断し
て頂きたいと思うの」
 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
0431山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:37:03.47ID:kQvXahQw0
 私わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私に
よって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと
事の大根おおねを攫つかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂ただよう薄い雲に似た疑惑から出
0432山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:37:19.44ID:kQvXahQw0
て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆
すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、
ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断に縋
0433山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:37:35.37ID:kQvXahQw0
すがり付こうとした。
 十時頃ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、
前に坐すわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出
0434山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:37:51.28ID:kQvXahQw0
合であい頭がしらに迎えた。私は取り残されながら、後あとから奥さんに尾ついて行った。下女げじょだ
けは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のう
0435山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:38:07.49ID:kQvXahQw0
ちに溜たまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変
化を異常なものとして注意深く眺ながめた。もしそれが詐いつわりでなかったならば、(実際それは詐り
とは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手
0436山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:38:23.33ID:kQvXahQw0
に拵こしらえた、徒いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそ
れほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
0437山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:38:39.45ID:kQvXahQw0
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないん
で張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰つぶさせて気
0438山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:38:55.45ID:kQvXahQw0
の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥
さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂たもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむの小路こうじを曲折して賑にぎやかな町の方へ急いだ。
0439山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:39:11.41ID:kQvXahQw0
 私はその晩の事を記憶のうちから抽ひき抜いてここへ詳くわしく書いた。これは書くだけの必要がある
から書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰もらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を
重く見ていなかった。私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の
0440山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:39:27.42ID:kQvXahQw0
上に載のせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラ
を出して頬張ほおばった。そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女な
んにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
0441山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:39:43.52ID:kQvXahQw0
 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅うちへ出ではいりをするついでに、衣服の
洗あらい張はりや仕立したて方かたなどを奥さんに頼んだ。それまで繻絆じゅばんというものを着た事の
ない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のな
0442山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:39:59.33ID:kQvXahQw0
い奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの
薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ手織ておりね。こんな地じの好いい着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪にくいのよ
0443山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:40:15.48ID:kQvXahQw0
そりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭かげで針を二本折りましたわ」
 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。
0444山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:40:31.50ID:kQvXahQw0
二十一

 冬が来た時、私わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中
0445山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:40:47.45ID:kQvXahQw0
に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できる
なら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病やまいは慢
0446山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:41:03.48ID:kQvXahQw0
性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現
に父は養生のお蔭かげ一つで、今日こんにちまでどうかこうか凌しのいで来たように客が来ると吹聴ふい
ちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機はずみに突然眩暈めまいがして
0447山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:41:19.33ID:kQvXahQw0
引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。後
あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎
臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
0448山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:41:35.52ID:kQvXahQw0
 冬休みが来るにはまだ少し間まがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと
思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配し
ている顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗なめた私は、とうとう帰る決心をした
0449山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:41:51.46ID:kQvXahQw0
。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、
要いるだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎
0450山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:42:07.47ID:kQvXahQw0
の硝子戸ガラスどから冬に入いって稀まれに見るような懐かしい和やわらかな日光が机掛つくえかけの上
に射さしていた。先生はこの日あたりの好いい室へやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸け
た金盥かなだらいから立ち上あがる湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
0451山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:42:23.51ID:kQvXahQw0
「大病は好いいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえって厭いやなものですね」といった先生は、苦笑し
ながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
0452山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:42:39.50ID:kQvXahQw0
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。
試みにやってご覧になるとよく解わかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹かかりたいと思ってる」
0453山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:42:55.53ID:kQvXahQw0
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何か
0454山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:43:11.42ID:kQvXahQw0
の抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね
」といった。
「何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
0455山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:43:27.42ID:kQvXahQw0
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
0456山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:43:43.54ID:kQvXahQw0
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても好いいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
0457山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:43:59.52ID:kQvXahQw0
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。
0458山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:44:15.56ID:kQvXahQw0
二十二

 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床とこの上に胡坐あぐらをかいて、「み
0459山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:44:31.55ID:kQvXahQw0
んなが心配するから、まあ我慢してこう凝じっとしている。なにもう起きても好いいのさ」といった。し
かしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性
ふしょうぶしょうに太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気
0460山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:44:47.57ID:kQvXahQw0
が強くおなりなんだよ」といった。私わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなか
った。
 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちはは
0461山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:45:03.60ID:kQvXahQw0
の顔を見る自由の利きかない男であった。妹は他国へ嫁とついだ。これも急場の間に合うように、おいそ
れと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしてい
る私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放ほうり出して、休み前に帰って来たという
0462山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:45:19.59ID:kQvXahQw0
事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだか
らいけない」
0463山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:45:35.64ID:kQvXahQw0
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床とこを上げさせて、いつものよ
うな元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
0464山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:45:51.53ID:kQvXahQw0
 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極きわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった
0465山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:46:07.60ID:kQvXahQw0
。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格
別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待って
0466山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:46:23.64ID:kQvXahQw0
くれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈
も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞を
附つけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
0467山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:46:39.57ID:kQvXahQw0
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂うわさ
などをしながら、遥はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
0468山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:46:55.64ID:kQvXahQw0
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨うまくはないが、別に嫌きらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
0469山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:47:11.63ID:kQvXahQw0
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、
驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一
本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なか
0470山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:47:27.70ID:kQvXahQw0
ったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない
事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰もらっていない。その一通は
0471山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:47:43.65ID:kQvXahQw0
今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは
出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、
0472山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:47:59.60ID:kQvXahQw0
私が引き添うように傍そばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑っ
て応じなかった。
0473山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:48:15.64ID:kQvXahQw0
二十三

 私わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなの
0474山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:48:31.62ID:kQvXahQw0
で、炬燵こたつにあたったまま、盤を櫓やぐらの上へ載のせて、駒こまを動かすたびに、わざわざ手を掛
蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまを失なくして、次の勝負の来るまで双方
とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしで挟はさみ上げるという
0475山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:48:47.46ID:kQvXahQw0
滑稽こっけいもあった。
「碁ごだと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好
いいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
0476山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:49:03.64ID:kQvXahQw0
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要す
るに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、こ
の隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経たつに伴つれて、若い私の気力
0477山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:49:19.51ID:kQvXahQw0
はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私は金きんや香車きょうしゃを握った拳こぶしを頭の
上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうして漲みなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを
0478山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:49:35.90ID:kQvXahQw0
聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分
0479山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:49:51.64ID:kQvXahQw0
らないほど大人おとなしい男であった。他ひとに認められるという点からいえばどっちも零れいであった
。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊
興のために往来ゆききをした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に
0480山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:50:07.79ID:kQvXahQw0
影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなか
に先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私に
は少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの
0481山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:50:23.51ID:kQvXahQw0
他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのご
とくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。
0482山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:50:39.67ID:kQvXahQw0
これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも
置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろ
そろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがち
0483山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:50:55.72ID:kQvXahQw0
になるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解わか
らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンの臭にお
いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。
0484山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:51:11.66ID:kQvXahQw0
けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留とまった。
私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠く
0485山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:51:27.76ID:kQvXahQw0
から相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められ
なかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も
母も反対した。
0486山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:51:43.65ID:kQvXahQw0
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分の極きめた出立しゅったつの日を動かさなかった。
0488山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:52:15.83ID:kQvXahQw0
 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを
見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 私わたくしは早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った
0489山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:52:31.79ID:kQvXahQw0
。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置
いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次の間まへ立つ時、そ
の折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意にな
0490山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:52:47.73ID:kQvXahQw0
ると、こんなところに極きわめて淡泊たんぱくな小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった
0491山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:53:03.86ID:kQvXahQw0
「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気を
つけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうの病やまいについて私の知らない事を多く知っていた。
0492山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:53:19.96ID:kQvXahQw0
「自分で病気に罹かかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある
士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全く嘘うそのような死に方をしたんですよ。何しろ傍そばに
寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいとい
0493山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:53:35.79ID:kQvXahQw0
って、細君を起したぎり、翌あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思っ
てたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
0494山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:53:51.82ID:kQvXahQw0
「私の父おやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
0495山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:54:07.81ID:kQvXahQw0
「それじゃ好いいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかも
それがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化を凝じっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
0496山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:54:23.71ID:kQvXahQw0
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死に
ようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出いでですか」
0497山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:54:40.48ID:kQvXahQw0
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間まに死ぬ人もあるでしょ
0498山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:54:55.77ID:kQvXahQw0
う。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解わからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
0499山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:55:11.82ID:kQvXahQw0
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭かげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬ
0500山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:55:27.84ID:kQvXahQw0
とか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後あとは何らのこだ
わりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文
を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
0502山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:55:59.66ID:kQvXahQw0
 その年の六月に卒業するはずの私わたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに
書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し
自分の度胸を疑うたぐった。他ほかのものはよほど前から材料を蒐あつめたり、ノートを溜ためたりして
0503山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:56:15.87ID:kQvXahQw0
、余所目よそめにも忙いそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年
が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽たちまち動
けなくなった。今まで大きな問題を空くうに描えがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考え
0504山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:56:31.92ID:kQvXahQw0
ていた私は、頭を抑おさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思
想を系統的に纏まとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょ
っと付け加える事にした。
0505山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:56:47.85ID:kQvXahQw0
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を
尋ねた時、先生は好いいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛
けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与え
0506山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:57:03.85ID:kQvXahQw0
てくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫ごうも私を指導
する任に当ろうとしなかった。
「近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好い
0507山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:57:19.88ID:kQvXahQw0
でしょう」
 先生は一時非常の読書家であったが、その後ごどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなった
ようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、
0508山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:57:35.78ID:kQvXahQw0
そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでし
0509山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:57:51.83ID:kQvXahQw0
ょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥
0510山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:58:07.84ID:kQvXahQw0
のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出した
ものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い
込んだのです」
0511山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:58:23.91ID:kQvXahQw0
 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私に
はそれほどの手応てごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに
帰った。
0512山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:58:39.94ID:kQvXahQw0
 それからの私はほとんど論文に祟たたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年前ぜん
に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人いちにんは締切しめきりの日に
車で事務所へ馳かけつけて漸ようやく間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後おくらして
0513山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:58:55.92ID:kQvXahQw0
持って行ったため、危あやうく跳はね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理しても
らったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据すえた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でな
ければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。私の眼は好事家こうずかが
0514山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:59:11.88ID:kQvXahQw0
骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々向むきを南へ更かえて行った。それが一仕切ひとしきり経たつと、桜の
噂うわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭むち
0515山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:59:27.95ID:kQvXahQw0
うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨また
がなかった。
0516山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:59:43.91ID:kQvXahQw0
二十六

 私わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉が霞かすむように伸び
0517山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 19:59:59.75ID:kQvXahQw0
始める初夏の季節であった。私は籠かごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡し
ながら、自由に羽搏はばたきをした。私はすぐ先生の家うちへ行った。枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の
上に、萌もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔ら
0518山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:00:15.79ID:kQvXahQw0
かそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るよ
うな珍しさを覚えた。
 先生は嬉うれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「
0519山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:00:31.97ID:kQvXahQw0
お蔭かげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
 実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って
遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足
0520山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:00:47.79ID:kQvXahQw0
をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。先生はいつもの調子で、「
なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足
りないというよりも、聊いささか拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循いんじゅん
0521山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:01:03.97ID:kQvXahQw0
らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。私は青く蘇生よみがえろうとする
大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好いい心持です」
0522山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:01:19.85ID:kQvXahQw0
「どこへ」
 私はどこでも構わなかった。ただ先生を伴つれて郊外へ出たかった。
 一時間の後のち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛あても
0523山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:01:35.98ID:kQvXahQw0
なく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎ
取って芝笛しばぶえを鳴らした。ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ
自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづける
0524山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:01:52.00ID:kQvXahQw0
と、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
 やがて若葉に鎖とざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細い路みちが開ひらけ
た。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだ
0525山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:02:08.01ID:kQvXahQw0
ら上のぼりになっている入口を眺ながめて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」
と答えた。
 植込うえこみの中を一ひとうねりして奥へ上のぼると左側に家うちがあった。明け放った障子しょうじ
0526山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:02:23.98ID:kQvXahQw0
の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が
動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
0527山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:02:39.89ID:kQvXahQw0
「構わないでしょう」
 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅つつじが燃えるように咲き乱れ
ていた。先生はそのうちで樺色かばいろの丈たけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」と
0528山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:02:55.88ID:kQvXahQw0
いった。
 芍薬しゃくやくも十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けてい
るのは一本もなかった。この芍薬畠ばたけの傍そばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字な
0529山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:03:12.08ID:kQvXahQw0
りに寝た。私はその余った端はじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。先生は蒼あおい透すき徹と
おるような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺ながめ
ると、一々違っていた。同じ楓かえでの樹きでも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉
0531山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:03:43.94ID:kQvXahQw0
 私わたくしはすぐその帽子を取り上げた。所々ところどころに着いている赤土を爪つめで弾はじきなが
ら先生を呼んだ。
0532山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:03:59.97ID:kQvXahQw0
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
 身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、
0533山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:04:16.31ID:kQvXahQw0
変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家うちには財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
0534山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:04:32.17ID:kQvXahQw0
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 先生が私の家いえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ
0535山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:04:47.93ID:kQvXahQw0
先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして
遊んでいられるかを疑うたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな
露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲
0536山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:05:04.08ID:kQvXahQw0
れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
0537山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:05:20.18ID:kQvXahQw0
 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かないは小人数こにんずであった。した
がって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私
の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰
0538山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:05:36.01ID:kQvXahQw0
めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家う
0539山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:05:51.85ID:kQvXahQw0
ちでも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹の杖つえの先で
地面の上へ円のようなものを描かき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっす
0540山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:06:07.91ID:kQvXahQw0
ぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分独ひとり言ごとのようであった。それですぐ後あとに尾ついて行き損なった私は、つ
0541山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:06:24.02ID:kQvXahQw0
い黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも
何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他よそへ移し
0542山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:06:40.05ID:kQvXahQw0
た。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡
0543山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:06:56.05ID:kQvXahQw0
単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。
その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫ふるえが少しも筆の運はこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好いいんでしょう」
0544山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:07:12.03ID:kQvXahQw0
「好よければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
0545山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:07:28.22ID:kQvXahQw0
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かん
だままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付
ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。
0547山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:08:00.07ID:kQvXahQw0
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余
計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰もらうものはちゃんと貰っておくようにしたら
どうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
0548山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:08:16.33ID:kQvXahQw0
「ええ」
 私わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に
限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまり
0549山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:08:32.10ID:kQvXahQw0
に実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気
に触さわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬ
0550山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:08:48.10ID:kQvXahQw0
か分らないものだからね」
 先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
0551山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:09:04.10ID:kQvXahQw0
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじや叔母おばの様子
を問いなどした。そうして最後にこういった。
0552山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:09:20.07ID:kQvXahQw0
「みんな善いい人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
0553山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:09:35.95ID:kQvXahQw0
 私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞ
の中うちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間
0554山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:09:52.06ID:kQvXahQw0
が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずが
ありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという
間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
0555山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:10:07.92ID:kQvXahQw0
 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後うしろの
方で犬が急に吠ほえ出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍そばに、熊笹くまざさが三坪みつぼほど地を隠すよ
0556山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:10:24.26ID:kQvXahQw0
うに茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十とおぐらい
の小供こどもが馳かけて来て犬を叱しかり付けた。小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子を被かぶったま
ま先生の前へ廻まわって礼をした。
0557山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:10:39.92ID:kQvXahQw0
「叔父さん、はいって来る時、家うちに誰だれもいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
0558山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:10:56.17ID:kQvXahQw0
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来ると好よかったのに」
 先生は苦笑した。懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた
0559山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:11:12.33ID:kQvXahQw0

「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧りこうそうな眼に笑わらいを漲みなぎらして、首肯うなずいて見せた。
0560山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:11:28.07ID:kQvXahQw0
「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」
 小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の
後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方
0562山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:12:00.23ID:kQvXahQw0
 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要
領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々うんぬんの掛念けねんはその時の私わたくしには全くな
0563山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:12:15.98ID:kQvXahQw0
かった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地
がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないた
めでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
0564山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:12:32.18ID:kQvXahQw0
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるとい
う言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解わからない事はなかった。しかし私は
この句についてもっと知りたかった。
0565山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:12:47.98ID:kQvXahQw0
 犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再び故もとの静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖
とざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前
にある樹きは大概楓かえでであったが、その枝に滴したたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなっ
0566山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:13:04.04ID:kQvXahQw0
て行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植
木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそ
うから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。
0567山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:13:19.99ID:kQvXahQw0
「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうち
には、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝た痕あとがいっぱい着いていた。私は両手でそれ
0568山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:13:35.96ID:kQvXahQw0
を払い落した。
「ありがとう。脂やにがこびり着いてやしませんか」
「綺麗きれいに落ちました」
0569山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:13:52.37ID:kQvXahQw0
「この羽織はつい此間こないだ拵こしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻さいに叱
しかられるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂ざかの中途にある家うちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えな
0570山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:14:07.99ID:kQvXahQw0
かった縁えんに、お上かみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金
魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえお構かまい
申しも致しませんで」と礼を返した後あと、先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
0571山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:14:24.20ID:kQvXahQw0
 門口かどぐちを出て二、三町ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰だれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれ
はどういう意味ですか」
0572山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:14:40.21ID:kQvXahQw0
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体ど
んな場合を指すのですか」
0573山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:14:56.03ID:kQvXahQw0
 先生は笑い出した。あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風ふうに

「金かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」
0574山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:15:12.07ID:kQvXahQw0
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰つまらなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜
けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後おくれがちになった。先生
はあとから「おいおい」と声を掛けた。
0577山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:16:00.28ID:kQvXahQw0
 その時の私わたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい
事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態
0578山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:16:16.08ID:kQvXahQw0
度に拘泥こだわる様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行
くので、私は少し業腹ごうはらになった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
0579山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:16:32.26ID:kQvXahQw0
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮し
たのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
0580山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:16:48.10ID:kQvXahQw0
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。また的まとが外はず
れたようにも感じた。仕方がないから後あとはいわない事にした。すると先生がいきなり道の端はじへ寄
って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、裾すそをまくって小便をした。私は
0581山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:17:04.23ID:kQvXahQw0
先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段
0582山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:17:20.28ID:kQvXahQw0
々賑にぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畠はたけの斜面や平地ひらちが、全く眼に入いらな
いように左右の家並いえなみが揃そろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんど
うの蔓つるを竹にからませたり、金網かなあみで鶏にわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静に眺ながめ
0583山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:17:36.30ID:kQvXahQw0
られた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなく擦すれ違って行った。こんなものに始終気を奪とられがちな
私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどり
をした時、私は実際それを忘れていた。
0584山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:17:52.12ID:kQvXahQw0
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです
0585山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:18:08.12ID:kQvXahQw0
。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、
十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むし
0586山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:18:24.29ID:kQvXahQw0
ろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私に
も全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだ
かつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処とこ
0587山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:18:40.12ID:kQvXahQw0
ろに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾たてを突いてみようとした私は、
この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他ひとに欺あざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私
0588山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:18:56.49ID:kQvXahQw0
は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しが
たい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負
しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないん
0589山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:19:12.48ID:kQvXahQw0
だから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にや
っているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を
覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
0591山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:19:44.56ID:kQvXahQw0
 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅく
して、先へ進む気が起らなかったのである。
0592山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:20:00.33ID:kQvXahQw0
 二人は市の外はずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もな
く別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これか
ら六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」と
0593山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:20:16.14ID:kQvXahQw0
いった。私は笑って帽子を脱とった。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人
間を憎んでいるのだろうかと疑うたぐった。その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影は射さし
ていなかった。
0594山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:20:32.34ID:kQvXahQw0
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、
利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。先生の談話は時と
して不得要領ふとくようりょうに終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例と
0595山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:20:48.28ID:kQvXahQw0
して私の胸の裏うちに残った。
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解わかってるくせに、はっきりいってくれないの
0597山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:21:20.42ID:kQvXahQw0
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませ
んか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏まとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。
隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉ことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなる
0598山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:21:36.26ID:kQvXahQw0
と、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを
切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられ
0599山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:21:52.26ID:kQvXahQw0
ただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風ふうに、私の顔を見た。巻烟草まきタバコを持っていたその手が少し顫ふる
えた。
0600山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:22:08.50ID:kQvXahQw0
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐あばいてもですか」
0601山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:22:24.39ID:kQvXahQw0
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響ひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐すわっている
のが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼あ
おかった。
0602山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:22:40.43ID:kQvXahQw0
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人を疑うたぐり
つけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るに
はあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いいから、他ひとを信用して死にたいと思っ
0603山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:22:56.55ID:kQvXahQw0
ている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
0604山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:23:12.32ID:kQvXahQw0
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その
代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ
0605山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:23:28.37ID:kQvXahQw0
。聞かない方が増ましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さ
い。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
0607山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:24:00.43ID:kQvXahQw0
 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り
及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にな
らぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封さ
0608山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:24:16.35ID:kQvXahQw0
れた自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょにな
った。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのように
0609山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:24:32.18ID:kQvXahQw0
ぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放
り出した。そうして大の字なりになって、室へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた
。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意
0610山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:24:48.27ID:kQvXahQw0
味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
 私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさん
はよそで喰くわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
0611山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:25:04.39ID:kQvXahQw0
 食卓は約束通り座敷の縁えん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊のりの硬こわい卓布
テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちで飯めしを食うと、
きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸はしや茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそ
0612山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:25:20.20ID:kQvXahQw0
れが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそ始はじめから色の着いたものを使
うが好いい。白ければ純白でなくっちゃ」
0613山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:25:36.47ID:kQvXahQw0
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓
着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気に
0614山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:25:52.40ID:kQvXahQw0
しないようですよ」と答えた事があった。それを傍そばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神
的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」と
いって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという
0615山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:26:08.37ID:kQvXahQw0
意味か、私には解わからなかった。奥さんにも能よく通じないらしかった。
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前に坐すわった。奥さんは二人を左右に置いて、
独ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
0616山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:26:24.40ID:kQvXahQw0
「お目出とう」といって、先生が私のために杯さかずきを上げてくれた。私はこの盃さかずきに対してそ
れほど嬉うれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをも
っていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私の嬉うれしさを唆
0617山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:26:40.43ID:kQvXahQw0
そそる浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯さかずきを上げた。私はその笑いのう
ちに、些ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲くみ取る事がで
きなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語
0618山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:26:56.36ID:kQvXahQw0
っていた。
 奥さんは私に「結構ね。さぞお父とうさんやお母かあさんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突
然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
0619山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:27:12.64ID:kQvXahQw0
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
0621山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:27:44.29ID:kQvXahQw0
 飯めしになった時、奥さんは傍そばに坐すわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじ
の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。始めの一、二回は私
0622山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:28:00.59ID:kQvXahQw0
わたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくな
った。
「お茶? ご飯はん? ずいぶんよく食べるのね」
0623山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:28:16.28ID:kQvXahQw0
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そ
んなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」
0624山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:28:32.49ID:kQvXahQw0
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。
「これは宅うちで拵こしらえたのよ」
0625山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:28:48.47ID:kQvXahQw0
 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。私はそれ
を二杯更かえてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をず
0626山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:29:04.46ID:kQvXahQw0
らして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじに靠もたせていた。
 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。返事に
ためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
0627山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:29:20.48ID:kQvXahQw0
役人やくにん?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくら
いなんですから。だいちどれが善いいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解わからないんだ
0628山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:29:36.45ID:kQvXahQw0
から、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられ
るのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
0629山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:29:52.27ID:kQvXahQw0
 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事
実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
0630山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:30:08.75ID:kQvXahQw0
「碌ろくなかぶれ方をして下さらないのね」
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分け
0631山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:30:24.51ID:kQvXahQw0
てもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅つつじの咲いている五月の初め
を思い出した。あの時帰り途みちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳
0632山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:30:40.55ID:kQvXahQw0
の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄すごい言葉であった。けれども事実を知らない私
には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅たくの財産はよッぽどあるんですか」
0633山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:30:56.54ID:kQvXahQw0
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
0634山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:31:12.54ID:kQvXahQw0
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にし
ますから聞かして下さい」
0635山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:31:28.35ID:kQvXahQw0
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかっ
た。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。―
0636山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:31:44.59ID:kQvXahQw0
―そりゃどうでも宜いいとして、あなたはこれから何か為なさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生の
ようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
0638山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:32:16.34ID:kQvXahQw0
 私わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座
を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。
0639山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:32:32.36ID:kQvXahQw0
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来
0640山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:32:48.38ID:kQvXahQw0
て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃ごろになるでしょう」
「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずい
0641山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:33:04.52ID:kQvXahQw0
ぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
 先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
0642山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:33:20.57ID:kQvXahQw0
「何まだ行くとも行かないとも極きめていやしないんです」
 席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。
私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうく
0643山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:33:36.52ID:kQvXahQw0
らいに考えていた。
「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目
だめなんだから」
0644山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:33:52.34ID:kQvXahQw0
 尿毒症という言葉も意味も私には解わからなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私は
そんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻まわるようになると、もうそれっ
0645山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:34:08.72ID:kQvXahQw0
きりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
0646山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:34:24.60ID:kQvXahQw0
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
 奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶おもい出したのか、沈んだ調子でこうい
ったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
0647山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:34:40.57ID:kQvXahQw0
 すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静しず、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
0648山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:34:56.42ID:kQvXahQw0
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己おれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦
那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう極きまった訳でもないわ。けれども男の方ほうはどうしても、そら年が上でしょう」
0649山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:35:12.47ID:kQvXahQw0
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事にな
るね」
「あなたは特別よ」
0650山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:35:28.62ID:kQvXahQw0
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩わずらった例ためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたっ
て私の方が先だわ」
0652山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:36:00.64ID:kQvXahQw0
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
 奥さんはそこで口籠くちごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったら
0653山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:36:16.68ID:kQvXahQw0
しかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更かえていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」
 奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。
0655山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:36:48.58ID:kQvXahQw0
 私わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私は
0656山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:37:04.69ID:kQvXahQw0
ただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極きまった年数をもらって来るんだから仕方
0657山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:37:20.66ID:kQvXahQw0
がないわ。先生のお父とうさんやお母さんなんか、ほとんど同おんなじよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
0658山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:37:36.46ID:kQvXahQw0
 この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
 奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮さえぎった。
0659山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:37:52.66ID:kQvXahQw0
「そんな話はお止よしよ。つまらないから」
 先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「静しず、おれが死んだらこの家うちをお前にやろう」
0660山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:38:08.46ID:kQvXahQw0
 奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他ひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆みんなお前にやるよ」
0661山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:38:24.69ID:kQvXahQw0
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰もらっても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
0662山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:38:40.51ID:kQvXahQw0
 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった
。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわい
のない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
0663山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:38:56.65ID:kQvXahQw0
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもう好い
い加減にして、おれが死んだらは止よして頂戴ちょうだい。縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何
でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
0664山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:39:12.65ID:kQvXahQw0
 先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭いやがる事をいわなくなった。私もあまり長
くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事だいじに」と奥さんがいった。
0665山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:39:29.08ID:kQvXahQw0
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もく
せいの一株ひとかぶが、私の行手ゆくてを塞ふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二
0666山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:39:44.53ID:kQvXahQw0
、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被おおわれているその梢こずえを見て、来たるべき秋の花と香を想
おもい浮べた。私は先生の宅うちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように
、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹きの前に立って、再びこの宅の玄関を跨またぐべき次の秋に
0667山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:40:00.77ID:kQvXahQw0
思いを馳はせた時、今まで格子の間から射さしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥
へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃
0668山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:40:16.68ID:kQvXahQw0
袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑にぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であ
った。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに
会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気※(
0669山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:40:32.72ID:kQvXahQw0
「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎ
であった。
0670山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:40:48.64ID:kQvXahQw0
三十六

 私わたくしはその翌日よくじつも暑さを冒おかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受
0671山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:41:04.72ID:kQvXahQw0
けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中
で汗を拭ふきながら、他ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを
憎らしく思った。
0672山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:41:20.65ID:kQvXahQw0
 私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらか
じめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日
を丸善まるぜんの二階で潰つぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から
0673山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:41:36.76ID:kQvXahQw0
隅まで一冊ずつ点検して行った。
 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはく
れるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価あたいが極き
0674山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:41:52.67ID:kQvXahQw0
わめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると
、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付
かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わずらわさなか
0675山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:42:08.81ID:kQvXahQw0
ったかを悔いた。
 私は鞄かばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしてい
るので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。
0676山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:55:45.68ID:kQvXahQw0
卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさいの土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわ
ざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんが解わか
らないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
0677山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:56:01.83ID:kQvXahQw0
 私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った
。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にあ
りながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想
0678山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:56:17.46ID:kQvXahQw0
像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟してい
たに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とても故もとのような健康体に
なる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一
0679山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:56:33.46ID:kQvXahQw0
度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定さだめて心細
いだろう、我々も子として遺憾いかんの至いたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際
心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
0680山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:56:50.02ID:kQvXahQw0
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののよう
に思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想おもい浮べた。ことに二、三日前晩食
ばんめしに呼ばれた時の会話を憶おもい出した。
0681山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:57:05.66ID:kQvXahQw0
「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰
も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたな
0682山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:57:21.78ID:kQvXahQw0
らば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外
ほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事も
できないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽
0686山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:58:25.62ID:kQvXahQw0
 宅うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来る
0687山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:58:41.53ID:kQvXahQw0
から」
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのために括
くくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻まわって行った
0688山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:58:57.68ID:kQvXahQw0

 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私わたくしは、それを予期以上に喜んで
くれる父の前に恐縮した。
0689山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:59:13.57ID:kQvXahQw0
「卒業ができてまあ結構だ」
 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の
家うちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってく
0690山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:59:29.67ID:kQvXahQw0
れながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉うれしがる父よりも
、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した
0691山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 20:59:45.67ID:kQvXahQw0
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
 私はついにこんな口の利ききようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう
0692山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:00:01.71ID:kQvXahQw0
少し意味があるんだ。それがお前に解わかっていてくれさえすれば、……」
 私は父からその後あとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会
0693山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:00:17.53ID:kQvXahQw0
った時、ことによるともう三月みつきか四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどうい
う仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業し
てくれた。だから嬉うれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなった後あとで卒業
0694山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:00:33.71ID:kQvXahQw0
してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。大
きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは
余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に
0696山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:48:02.55ID:kQvXahQw0
 父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみ
えた。家のものは運命の宣告が、今日下くだるか、今日下るかと思って、毎夜床とこにはいった。
0697山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:48:18.58ID:kQvXahQw0
 父は傍はたのものを辛つらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむし
ろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に
各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸うな
0698山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:48:34.71ID:kQvXahQw0
るような声を微かすかに聞いたと思い誤った私わたくしは、一遍ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念の
ため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかし
その母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人
0699山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:48:50.65ID:kQvXahQw0
のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れ
た座敷に入いって休んだ。
0700山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:49:06.82ID:kQvXahQw0
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんより
0701山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:49:22.63ID:kQvXahQw0
も兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
 兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないと
0702山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:49:38.60ID:kQvXahQw0
いう考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っ
ているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうし
てお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
0703山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:49:54.48ID:kQvXahQw0
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うとい
って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自
0704山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:50:10.74ID:kQvXahQw0
分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強
0705山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:50:26.81ID:kQvXahQw0
しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない
私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学
0706山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:50:43.03ID:kQvXahQw0
にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。
私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、
兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさし
0707山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:50:58.47ID:kQvXahQw0
い心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人
に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
0708山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:51:14.65ID:kQvXahQw0
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高た
かの知れたものだろう」
0709山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:51:30.65ID:kQvXahQw0
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
0710山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:52:02.70ID:kQvXahQw0
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの
説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
0711山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:52:18.59ID:kQvXahQw0
 兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理
解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少な
0712山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:52:34.91ID:kQvXahQw0
くとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をも
っているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから
遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つ
0713山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 21:52:50.84ID:kQvXahQw0
まらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は
自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
0714山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:18:43.91ID:kQvXahQw0
野でした。私の知ったものに、夜中よる職人と喧嘩けんかをして、相手の頭へ下駄げたで傷を負わせたの
がありました。それが酒を飲んだ揚句あげくの事なので、夢中に擲なぐり合いをしている間あいだに、学
校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃ
0715山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:18:59.15ID:kQvXahQw0
んと、菱形ひしがたの白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少し
で警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰おもてざたに
せずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞か
0716山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:19:15.20ID:kQvXahQw0
せたら、定めて馬鹿馬鹿ばかばかしい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼ら
は今の学生にない一種質朴しつぼくな点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰もらっ
ていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥はるかに少ないものでした。(無
0717山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:19:31.08ID:kQvXahQw0
論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生の
うちで、経済の点にかけては、決して人を羨うらやましがる憐あわれな境遇にいた訳ではないのです。今
から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極きまった送金
0718山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:19:47.27ID:kQvXahQw0
の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から
請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
 何も知らない私は、叔父おじを信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいも
0719山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:20:03.24ID:kQvXahQw0
ののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありま
しょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格か
らいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に
0720山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:20:19.29ID:kQvXahQw0
守って行く篤実一方とくじついっぽうの男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩
集などを読む事も好きでした。書画骨董しょがこっとうといった風ふうのものにも、多くの趣味をもって
いる様子でした。家は田舎いなかにありましたけれども、二里りばかり隔たった市し、――その市には叔
0721山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:20:35.09ID:kQvXahQw0
父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、わざ
わざ父に見せに来ました。父は一口ひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いい
のでしょう。比較的上品な嗜好しこうをもった田舎紳士だったのです。だから気性きしょうからいうと、
0722山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:20:51.12ID:kQvXahQw0
闊達かったつな叔父とはよほどの懸隔けんかくがありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったの
です。父はよく叔父を評して、自分よりも遥はるかに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自
分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹さいかんが鈍にぶる、つまり世の中と
0723山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:21:07.50ID:kQvXahQw0
闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父
はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好いい」
と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父か
0724山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:21:25.62ID:kQvXahQw0
ら信用されたり、褒ほめられたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただで
さえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には
、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。
0726山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:31:45.32ID:kQvXahQw0
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居すまいには、新しい主人として
、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残
された私が家にいない以上、そうでもするより外ほかに仕方がなかったのです。
0727山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:32:01.41ID:kQvXahQw0
 叔父はその頃ころ市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅
きょたくに寝起ねおきする方が、二里りも隔へだたった私の家に移るより遥かに便利だといって笑いまし
た。これは私の父母が亡くなった後あと、どう邸やしきを始末して、私が東京へ出るかという相談の時、
0728山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:32:17.39ID:kQvXahQw0
叔父の口を洩もれた言葉であります。私の家は旧ふるい歴史をもっているので、少しはその界隈かいわい
で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒ゆいしょのある家
を、相続人があるのに壊こわしたり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思
0729山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:32:33.61ID:kQvXahQw0
いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家うちはそのままにして置かなければなら
ず、はなはだ所置しょちに苦しんだのです。
 叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。しかし市しの方にある住居す
0730山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:32:49.41ID:kQvXahQw0
まいもそのままにしておいて、両方の間を往いったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといい
ました。私に[#「私に」は底本では「私は」]固もとより異議のありようはずがありません。私はどん
な条件でも東京へ出られれば好いいくらいに考えていたのです。
0731山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:33:05.39ID:kQvXahQw0
 子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固
よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。休みが来れば帰
らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は
0732山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:33:21.22ID:kQvXahQw0
熱心に勉強し、愉快に遊んだ後あと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
 私の留守の間、叔父はどんな風ふうに両方の間を往ゆき来していたか知りません。私の着いた時は、家
族のものが、みんな一ひとつ家いえの内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生へいぜいおそら
0733山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:33:37.31ID:kQvXahQw0
く市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といった格かくで引き取られて
いました。
 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑にぎやかで陽気になった家
0734山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:33:53.27ID:kQvXahQw0
の様子を見て嬉うれしがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の
男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数かずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構
わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅うちだからといって、聞きませんでした。
0735山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:34:09.40ID:kQvXahQw0
 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外ほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家
族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影
を投げたのは、叔父夫婦が口を揃そろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。
0736山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:34:25.58ID:kQvXahQw0
それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
二度目には判然はっきり断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなく
なりました。彼らの主意は単簡たんかんでした。早く嫁よめを貰もらってここの家へ帰って来て、亡くな
0737山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:34:41.42ID:kQvXahQw0
った父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと
私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰もらう、両方とも理屈としては一通
ひととおり聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解わかります。私も絶対にそれを嫌
0738山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:34:57.46ID:kQvXahQw0
ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を
見るように、遥はるか先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた
私の家を去りました。
0740山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:35:29.41ID:kQvXahQw0
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲ぐるりを取り捲まいている青年の顔を見ると、
世帯染しょたいじみたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉ことごとく単独らしく思われ
たのです。こういう気楽な人の中うちにも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされ
0741山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:35:45.43ID:kQvXahQw0
て、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした
。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたりに気兼きがねをして、なるべくは書生
に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後あとから考えると、私自身がすでに
0742山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:36:01.49ID:kQvXahQw0
その組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
 学年の終りに、私はまた行李こうりを絡からげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。そうし
て去年と同じように、父母ちちははのいたわが家いえの中で、また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔
0743山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:36:17.46ID:kQvXahQw0
を見ました。私は再びそこで故郷ふるさとの匂においを嗅かぎました。その匂いは私に取って依然として
懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き
0744山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:36:33.44ID:kQvXahQw0
付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。た
だこの前勧すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心かんじんの当人を捕
つらまえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いと
0745山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:36:49.44ID:kQvXahQw0
こに当る女でした。その女を貰もらってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中ぞんしょうち
ゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそ
ういう風ふうな話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始
0746山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:37:05.73ID:kQvXahQw0
めて気が付いたので、いわれない前から、覚さとっていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解わかりました。私は迂闊うかつ
なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであった
0747山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:37:21.31ID:kQvXahQw0
のが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。私は小供こどものうちから市しにいる叔父の家うち
へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時
分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立した例ためしのない
0748山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:37:37.52ID:kQvXahQw0
のを。私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過
ぎた男女なんにょの間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えていま
す。香こうをかぎ得うるのは、香を焚たき出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹
0749山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:37:53.50ID:kQvXahQw0
那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われ
ないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴なれれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経は
だんだん麻痺まひして来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹いとこを妻にする気にはなれませ
0750山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:38:09.31ID:kQvXahQw0
んでした。
 叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急
げという諺ことわざもあるから、できるなら今のうちに祝言しゅうげんの盃さかずきだけは済ませておき
0751山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:38:25.50ID:kQvXahQw0
たいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父
は厭いやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し
込みを拒絶されたのが、女として辛つらかったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛
0753山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:38:57.36ID:kQvXahQw0
「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経たった夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試
験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あな
0754山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:39:13.72ID:kQvXahQw0
たにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂においも格別です、父や母の記憶
も濃こまやかに漂ただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中に包くるまれて、穴
に入った蛇へびのように凝じっとしているのは、私に取って何よりも温かい好いい心持だったのです。
0755山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:39:29.60ID:kQvXahQw0
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断
る、断ってさえしまえば後あとには何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに
意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托
0756山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:39:45.49ID:kQvXahQw0
くったくした覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好いい顔をして私を自分の懐ふところに
抱だこうとしません。それでも鷹揚おうように育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました
0757山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:40:01.58ID:kQvXahQw0
。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母おば
も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、
手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
0758山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:40:17.66ID:kQvXahQw0
 私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう
。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世
の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくな
0759山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:40:33.59ID:kQvXahQw0
った後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっ
ともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊
かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
0760山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:40:49.38ID:kQvXahQw0
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半
は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ
握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私
0761山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:41:05.75ID:kQvXahQw0
も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかっ
たのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には
0762山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:41:21.77ID:kQvXahQw0
、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました
。そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろ
けの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができた
0763山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:41:38.12ID:kQvXahQw0
のです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいた
のです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです
0764山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:41:53.58ID:kQvXahQw0
。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私
の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先ゆくさきがどうな
るか分らないという気になりました。
0766山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:42:25.75ID:kQvXahQw0
「私は今まで叔父任まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちは
はに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所
に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、
0767山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:42:41.56ID:kQvXahQw0
両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいとい
う言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っ
ていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。け
0768山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:42:58.49ID:kQvXahQw0
れども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見る
と、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕つらまえる機
会を得ませんでした。
0769山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:43:13.79ID:kQvXahQw0
 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生
であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪あやしむに足らな
いのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はそ
0770山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:43:29.60ID:kQvXahQw0
の外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひと
から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私
の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
0771山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:43:45.58ID:kQvXahQw0
 私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、
話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ち
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔
0772山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:44:01.58ID:kQvXahQw0
父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ
0773山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:44:17.75ID:kQvXahQw0
へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
0774山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:44:33.64ID:kQvXahQw0
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人
0775山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:44:49.66ID:kQvXahQw0
に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
0776山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:45:05.59ID:kQvXahQw0
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
0777山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:45:21.60ID:kQvXahQw0
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事
ができるからです。
0779山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:45:53.86ID:kQvXahQw0
「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば
本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか
0780山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:46:09.62ID:kQvXahQw0
。私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
口惜くやしくって堪たまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰っ
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ
0781山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:46:25.66ID:kQvXahQw0
との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした
0782山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:46:41.89ID:kQvXahQw0
ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ
0783山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:46:57.63ID:kQvXahQw0
を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ
0784山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:47:13.89ID:kQvXahQw0
さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと
0785山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:47:29.67ID:kQvXahQw0
ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金
0786山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:47:45.71ID:kQvXahQw0
額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修
0787山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:48:01.64ID:kQvXahQw0
業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき
0788山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:48:17.66ID:kQvXahQw0
ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永
久に見る機会も来ないでしょう。
0789山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:48:33.68ID:kQvXahQw0
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの
0790山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:48:49.63ID:kQvXahQw0
でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ
0791山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:49:05.71ID:kQvXahQw0
れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
生生活が私を思いも寄らない境遇に陥おとし入れたのです。
0792山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:49:21.67ID:kQvXahQw0


「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気
0793山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:49:37.68ID:kQvXahQw0
になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
0794山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:49:53.72ID:kQvXahQw0
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
0795山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:50:09.59ID:kQvXahQw0
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
0796山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:50:25.52ID:kQvXahQw0
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
0797山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:50:41.73ID:kQvXahQw0
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
0798山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:50:57.78ID:kQvXahQw0
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
0799山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:51:13.62ID:kQvXahQw0
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
0800山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:51:29.83ID:kQvXahQw0
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
0801山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:51:45.79ID:kQvXahQw0
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
0802山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:52:01.64ID:kQvXahQw0
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
0803山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:52:17.67ID:kQvXahQw0
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
0804山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:52:33.84ID:kQvXahQw0
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
0805山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:52:49.84ID:kQvXahQw0
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
と疑いもしました。
0806山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:53:05.80ID:kQvXahQw0
十一

「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
0807山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:53:21.68ID:kQvXahQw0
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
0808山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:53:37.77ID:kQvXahQw0
ぎるくらいに思われたのです。
 室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日
0809山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:53:53.81ID:kQvXahQw0
がよく差しました。
 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、
0810山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:55:21.83ID:kQvXahQw0
損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して
0811山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:55:45.89ID:kQvXahQw0
私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ
0812山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:56:02.13ID:kQvXahQw0
の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました
0813山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:56:17.95ID:kQvXahQw0
。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨うまい方ではなかったのです。
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても
0814山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:56:33.93ID:kQvXahQw0
同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの
0815山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:56:49.91ID:kQvXahQw0
です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
 私は喜んでこの下手な活花を眺ながめては、まずそうな琴の音ねに耳を傾けました。
0816山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:57:05.92ID:kQvXahQw0
十二

「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだと
0817山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:57:21.80ID:kQvXahQw0
いう観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじ
だの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽
車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもする
0818山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:57:37.79ID:kQvXahQw0
と、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくな
る事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。
0819山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:57:53.98ID:kQvXahQw0
金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私
ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
 私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませ
0820山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:58:09.81ID:kQvXahQw0
んでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にも
よく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家うちのものの
様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だ
0821山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:58:26.02ID:kQvXahQw0
と思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切き
んちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
 あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもって
0822山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:58:41.98ID:kQvXahQw0
いるか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じ
く下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であ
ったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。解釈は頭のある
0823山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:58:58.03ID:kQvXahQw0
あなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐ
ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、
また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
0824山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:59:13.94ID:kQvXahQw0
 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんとい
います。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれま
した。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
0825山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:59:29.98ID:kQvXahQw0
気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解わかりませんが、何しろそこにはまるで注
意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうような方かただといって
、さも尊敬したらしい口の利きき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言
0826山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 22:59:45.97ID:kQvXahQw0
葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面
目まじめに説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅うちへ置くつもりではなかったらしい
のです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼ん
0827山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:00:02.03ID:kQvXahQw0
でいたらしいのです。俸給が豊ゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だ
からという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸
に描えがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒ほめるのです。なるほど
0828山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:00:17.97ID:kQvXahQw0
そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれ
は気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥
さんはまた女だけにそれを私の全体に推おし広げて、同じ言葉を応用しようと力つとめるのです。
0830山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:00:49.98ID:kQvXahQw0
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ
付かなくなりました。自分の心が自分の坐すわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれ
ました。要するに奥さん始め家うちのものが、僻ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合
0831山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:01:05.95ID:kQvXahQw0
わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないた
めに段々静まりました。
 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風ふうに取り扱ってくれたものとも思われますし
0832山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:01:22.03ID:kQvXahQw0
、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき
方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化
ごまかされていたのかも解わかりません。
0833山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:01:38.02ID:kQvXahQw0
 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょう
だんをいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室へやへ呼ばれる日もありました。また私
の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖ふえた
0834山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:01:53.87ID:kQvXahQw0
ように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰つぶされる事も何度となくありました。不思議に
も、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。
お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがま
0835山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:13:17.34ID:kQvXahQw0
た案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっ
しょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室へやの前に立つ事
0836山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:22:14.47ID:kQvXahQw0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
0837山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:22:30.52ID:kQvXahQw0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0838山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:22:46.53ID:kQvXahQw0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0839山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:23:02.56ID:kQvXahQw0
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0840山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:23:18.53ID:kQvXahQw0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
0841山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:23:34.60ID:kQvXahQw0
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
0842山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:23:50.52ID:kQvXahQw0
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0843山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:24:06.56ID:kQvXahQw0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
0844山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:24:22.54ID:kQvXahQw0
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
0845山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:24:38.73ID:kQvXahQw0
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
0846山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:24:54.37ID:kQvXahQw0
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0847山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:25:10.56ID:kQvXahQw0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0849山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:25:42.47ID:kQvXahQw0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0850山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:25:58.54ID:kQvXahQw0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0851山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:26:14.39ID:kQvXahQw0
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
0852山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:26:30.61ID:kQvXahQw0
、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで
0853山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:26:46.58ID:kQvXahQw0
あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
0854山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:27:02.47ID:kQvXahQw0
 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
るや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
0855山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:27:18.43ID:kQvXahQw0
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
0856山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:27:34.58ID:kQvXahQw0
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
0857山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:27:50.79ID:kQvXahQw0
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
0858山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:28:06.64ID:kQvXahQw0
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて
0859山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:28:22.47ID:kQvXahQw0
、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客
よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い
水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切っ
0860山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:28:38.60ID:kQvXahQw0
た。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。そ
れで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋
に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
0862山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:29:10.65ID:kQvXahQw0
 私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した
。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく
0863山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:29:26.68ID:kQvXahQw0
ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着
0864山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:29:42.67ID:kQvXahQw0
ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと
0865山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:29:58.65ID:kQvXahQw0
見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
0866山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:30:14.64ID:kQvXahQw0
二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いてい
るものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山と
を照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたり
0867山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:30:30.68ID:kQvXahQw0
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促し
0868山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:30:46.69ID:kQvXahQw0
た。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私は
すぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
0869山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:31:02.56ID:kQvXahQw0
 それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時
、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない
私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答
0870山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:31:18.73ID:kQvXahQw0
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
0871山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:31:34.71ID:kQvXahQw0
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
0872山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:31:50.77ID:kQvXahQw0
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
0873山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:32:06.69ID:kQvXahQw0
かと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんし
たあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は
変に一種の失望を感じた。
0875山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:32:38.48ID:kQvXahQw0
 私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は
先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかん
にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりで
0876山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:32:54.67ID:kQvXahQw0
いたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返
事が少し私の自信を傷いためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く
0877山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:34:14.63ID:kQvXahQw0
かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶
の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
0878山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:34:30.75ID:kQvXahQw0
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
0879山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:34:46.88ID:kQvXahQw0
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
0880山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:35:02.86ID:kQvXahQw0
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
0881山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:35:18.57ID:kQvXahQw0
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしが
やの墓地にある或ある仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分
0882山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:35:34.70ID:kQvXahQw0
になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ
出た。賑にぎやかな町の方へ一丁ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵きびすを回めぐらした。
0884山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:36:06.86ID:kQvXahQw0
 私わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方に楓かえでを植え付けた広い
道を奥の方へ進んで行った。するとその端はずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出
て来た。私はその人の眼鏡めがねの縁ふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生
0885山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:36:22.81ID:kQvXahQw0
」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二遍へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼の中うちに異様な調子をもっ
0886山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:36:38.84ID:kQvXahQw0
て繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっ
0887山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:36:54.74ID:kQvXahQw0
きりいえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
0888山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:37:10.80ID:kQvXahQw0
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだ
から」
0889山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:37:27.70ID:kQvXahQw0
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかっ
た。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼ
0890山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:37:42.78ID:kQvXahQw0
くロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた
塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の
前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と
0891山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:37:58.78ID:kQvXahQw0
いって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニー
も認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげの碑ひだのを指して、しきりにか
0892山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:38:14.87ID:kQvXahQw0
れこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面
目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高
0893山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:38:30.81ID:kQvXahQw0
い梢こずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、こ
こいらの地面は金色きんいろの落葉で埋うずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ず
この木の下を通るのであった。
0894山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:38:46.61ID:kQvXahQw0
 向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、鍬くわの手を休めて私たちを見て
いた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより
0895山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:39:03.03ID:kQvXahQw0
口数を利きかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行っ
た。
「すぐお宅たくへお帰りですか」
0896山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:39:18.68ID:kQvXahQw0
「ええ別に寄る所もありませんから」
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
0898山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:39:50.95ID:kQvXahQw0
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町ちょうほど
歩いた後あとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
0899山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:40:06.86ID:kQvXahQw0
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
「そうです」
 先生はその日これ以外を語らなかった。
0901山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:40:38.85ID:kQvXahQw0
 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どす
うが重なるにつれて、私はますます繁しげく先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり
0902山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:40:54.70ID:kQvXahQw0
変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は
最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければ
いられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの
0903山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:41:11.07ID:kQvXahQw0
人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証
拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自
分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人
0904山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:41:26.73ID:kQvXahQw0
、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――
これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る
0905山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:41:42.90ID:kQvXahQw0
事があった。窓に黒い鳥影が射さすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその
曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であっ
た。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一
0906山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:41:58.98ID:kQvXahQw0
時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分と経たたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎ
り暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽
きるに間まのない或ある晩の事であった。
0907山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:42:14.95ID:kQvXahQw0
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょうの大樹たいじゅを眼めの前に
想おもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょう
ど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午ひるで終おえる楽な日であった。私は先生に向かって
0908山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:42:30.77ID:kQvXahQw0
こういった。
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
0909山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:42:47.07ID:kQvXahQw0
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった

「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時にお伴ともをしても宜よござんすか。私は先生といっしょにあ
0910山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:43:02.92ID:kQvXahQw0
すこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」
0911山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:43:18.73ID:kQvXahQw0
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、ど
こまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私に
はその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
0912山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:43:34.91ID:kQvXahQw0
「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがち
ょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられな
0913山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:43:51.22ID:kQvXahQw0
い微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く
思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあす
0915山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:44:22.93ID:kQvXahQw0
 私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではな
かった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
0916山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:44:38.94ID:kQvXahQw0
尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができた
のだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つ
なぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚し
0917山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:44:54.92ID:kQvXahQw0
ていなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が
二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究
されるのを絶えず恐れていたのである。
0918山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:45:11.08ID:kQvXahQw0
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時
のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
0919山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:45:27.04ID:kQvXahQw0
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事
0920山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:45:42.92ID:kQvXahQw0
を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないとい
う事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
0921山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:45:58.77ID:kQvXahQw0
「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからな
ぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
0922山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:46:15.05ID:kQvXahQw0
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」
といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押
0923山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:46:30.81ID:kQvXahQw0
さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出る
や否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
0924山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:46:47.07ID:kQvXahQw0
「ええ来ました」といって自分も笑った。
 私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれ
た時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
0925山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:47:02.99ID:kQvXahQw0
「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、
ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいら
れるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつ
0926山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:47:19.09ID:kQvXahQw0
かりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るので
0927山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:47:35.04ID:kQvXahQw0
すか」
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために
0928山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:47:51.14ID:kQvXahQw0
その淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今
に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。
0930山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:48:22.86ID:kQvXahQw0
 幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中う
ちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちい
つの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならない
0931山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:48:39.12ID:kQvXahQw0
ようになった。
 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇か
らいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問
0932山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:48:55.05ID:kQvXahQw0
だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその
前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった
。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
0933山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:49:10.88ID:kQvXahQw0
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知
れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の
夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ
0934山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:49:27.05ID:kQvXahQw0
、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美し
いという外ほかに何の感じも残っていない。
 ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。
0935山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:49:43.01ID:kQvXahQw0
先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃
さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さん
は綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと
0936山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:49:59.07ID:kQvXahQw0
先生の間に下しものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」
0937山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:50:15.03ID:kQvXahQw0
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上が
ると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
0938山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:50:30.88ID:kQvXahQw0
「今夜はいかがです」
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」
0939山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:50:47.02ID:kQvXahQw0
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
 先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑
0940山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:51:03.44ID:kQvXahQw0
い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気
がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。し
0941山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:51:19.12ID:kQvXahQw0
かし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさい
もののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。
0942山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:51:35.05ID:kQvXahQw0
「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った
0944山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:52:07.07ID:kQvXahQw0
 私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として
暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざして
0945山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:52:23.13ID:kQvXahQw0
いる時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静
しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさ
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうにな
0946山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:52:39.26ID:kQvXahQw0
って、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出される
ようであった。
 先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行を
0947山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:52:55.14ID:kQvXahQw0
した事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持
っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外が
0948山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:53:11.03ID:kQvXahQw0
あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
0949山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:53:27.24ID:kQvXahQw0
分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
いるようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿
0950山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:53:43.16ID:kQvXahQw0
へ帰った。
 妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ば
かりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下
0951山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:53:59.03ID:kQvXahQw0
から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私
は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
 その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで
0952山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:54:15.26ID:kQvXahQw0
飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
0953山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:54:31.25ID:kQvXahQw0
 私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時の
ように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする
動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
0954山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:54:47.25ID:kQvXahQw0
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分り
ますか」
 私は何の答えもし得なかった。
0955山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:55:03.21ID:kQvXahQw0
「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしま
ったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
0956山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:55:19.19ID:kQvXahQw0
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです
0957山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:55:35.17ID:kQvXahQw0
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
0959山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:56:07.12ID:kQvXahQw0
 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき
出した。
0960山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:56:23.33ID:kQvXahQw0
「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなも
のですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移
0961山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:56:39.12ID:kQvXahQw0
って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映ります
かね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
0962山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:56:55.23ID:kQvXahQw0
「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はま
た口を閉じて、無言で歩き出した。
 先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で
0963山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:57:11.38ID:kQvXahQw0
分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といっ
た。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
0964山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:57:27.26ID:kQvXahQw0
 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言
葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言
葉を忘れなかった。
0965山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:57:43.14ID:kQvXahQw0
 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多
めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それど
ころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。
0966山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:57:59.29ID:kQvXahQw0
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えな
いのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって
、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
0967山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:58:15.25ID:kQvXahQw0
 私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせた
のか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んで
いたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人
0968山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:58:31.11ID:kQvXahQw0
間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あ
るべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生
の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、
0969山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:58:47.26ID:kQvXahQw0
それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一
時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ
0970山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:59:03.38ID:kQvXahQw0
の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九
0971山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:59:19.25ID:kQvXahQw0
時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
0973山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/23(火) 23:59:51.14ID:kQvXahQw0
 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで
0974山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:00:07.35ID:CS/nVfsv0
忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
断っておきたい事がある。
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい
0975山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:00:23.29ID:CS/nVfsv0
う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密
0976山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:00:39.35ID:CS/nVfsv0
切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも
0977山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:00:55.32ID:CS/nVfsv0
聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ
0978山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:01:11.27ID:CS/nVfsv0
調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気
0979山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:01:27.31ID:CS/nVfsv0
が出なかった。
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし
0980山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:01:43.19ID:CS/nVfsv0
ょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
0981山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:01:59.19ID:CS/nVfsv0
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
0982山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:02:15.35ID:CS/nVfsv0
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか
0983山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:02:31.37ID:CS/nVfsv0
らないから気の毒でたまらないんです」
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう
0984山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:02:47.35ID:CS/nVfsv0
にまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
んです」
0985山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:03:03.33ID:CS/nVfsv0
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
0987山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:03:35.41ID:CS/nVfsv0
 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である
0988山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:03:51.37ID:CS/nVfsv0
のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし
0989山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:04:07.53ID:CS/nVfsv0
た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善
0990山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:04:23.49ID:CS/nVfsv0
意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限
らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題にな
0991山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:04:39.53ID:CS/nVfsv0
ると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった
。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかっ
0992山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:04:55.44ID:CS/nVfsv0
た。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見
惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる
。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊して
0993山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:05:11.45ID:CS/nVfsv0
しまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛につ
いては、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎
0994山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:05:27.40ID:CS/nVfsv0
みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえ
のへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添
0995山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:05:43.48ID:CS/nVfsv0
って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あ
った。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
0996山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:05:59.25ID:CS/nVfsv0
「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私に
こう聞いた。
0999山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:06:47.25ID:CS/nVfsv0
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
1000山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:07:03.50ID:CS/nVfsv0
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
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