【アカツキ】今買えばいい株8643【超絶決算漏れ】 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
実況はコチラへ
市況1板
http://hayabusa3.2ch.net/livemarket1/
・証券コード、銘柄名を併記してください。
・判断材料をできるだけ明確にお願いします。
・注目銘柄の事実に基づいた情報共有が目的なので、単なる買い煽りや自慰行為は控えてください。
*コテハンを付ける方は投資一般板やみんかぶ、ブログやツイッターを強く推奨しています。
*ブログの宣伝行為、スレの私物化は控えてください。
*コテハンなどの話は別のスレでお願いします。
●風説、店板、インサイダーなどの通報はこちら
証券取引等監視委員会 情報提供窓口
https://www.fsa.go.jp/sesc/watch/index.html
〇2ちゃんねる初心者の方は必ず使用上のお約束をお読みください。
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0
避難所
http://jbbs.shitaraba.net/business/5380/
●次スレは原則>>700が立てること。
※スレ番が正しいか確認してから立てること
※700がスレ立てできないことが分かった時点、或いは800以降次スレがなければ有志が立てること
(乱立防止のためスレ立て宣言推奨)
※スレタイに特定の銘柄名をつけるのはやめましょう。トラブルの原因です。
※スレタイの先頭には【急騰】を、途中には通し番号をつけるのをお忘れなく。 いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家うちはそのままにして置かなければなら
ず、はなはだ所置しょちに苦しんだのです。
叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。しかし市しの方にある住居す まいもそのままにしておいて、両方の間を往いったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといい
ました。私に[#「私に」は底本では「私は」]固もとより異議のありようはずがありません。私はどん
な条件でも東京へ出られれば好いいくらいに考えていたのです。 子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固
よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。休みが来れば帰
らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は 熱心に勉強し、愉快に遊んだ後あと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、叔父はどんな風ふうに両方の間を往ゆき来していたか知りません。私の着いた時は、家
族のものが、みんな一ひとつ家いえの内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生へいぜいおそら く市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といった格かくで引き取られて
いました。
みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑にぎやかで陽気になった家 の様子を見て嬉うれしがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の
男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数かずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構
わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅うちだからといって、聞きませんでした。 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外ほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家
族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影
を投げたのは、叔父夫婦が口を揃そろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。 それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
二度目には判然はっきり断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなく
なりました。彼らの主意は単簡たんかんでした。早く嫁よめを貰もらってここの家へ帰って来て、亡くな った父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと
私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰もらう、両方とも理屈としては一通
ひととおり聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解わかります。私も絶対にそれを嫌 ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を
見るように、遥はるか先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた
私の家を去りました。 「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲ぐるりを取り捲まいている青年の顔を見ると、
世帯染しょたいじみたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉ことごとく単独らしく思われ
たのです。こういう気楽な人の中うちにも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされ て、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした
。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたりに気兼きがねをして、なるべくは書生
に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後あとから考えると、私自身がすでに その組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
学年の終りに、私はまた行李こうりを絡からげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。そうし
て去年と同じように、父母ちちははのいたわが家いえの中で、また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔 を見ました。私は再びそこで故郷ふるさとの匂においを嗅かぎました。その匂いは私に取って依然として
懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き 付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。た
だこの前勧すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心かんじんの当人を捕
つらまえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いと こに当る女でした。その女を貰もらってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中ぞんしょうち
ゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそ
ういう風ふうな話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始 めて気が付いたので、いわれない前から、覚さとっていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解わかりました。私は迂闊うかつ
なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであった のが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。私は小供こどものうちから市しにいる叔父の家うち
へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時
分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立した例ためしのない のを。私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過
ぎた男女なんにょの間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えていま
す。香こうをかぎ得うるのは、香を焚たき出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹 那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われ
ないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴なれれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経は
だんだん麻痺まひして来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹いとこを妻にする気にはなれませ んでした。
叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急
げという諺ことわざもあるから、できるなら今のうちに祝言しゅうげんの盃さかずきだけは済ませておき たいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父
は厭いやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し
込みを拒絶されたのが、女として辛つらかったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛 していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
七 「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経たった夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試
験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あな たにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂においも格別です、父や母の記憶
も濃こまやかに漂ただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中に包くるまれて、穴
に入った蛇へびのように凝じっとしているのは、私に取って何よりも温かい好いい心持だったのです。 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断
る、断ってさえしまえば後あとには何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに
意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托 くったくした覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好いい顔をして私を自分の懐ふところに
抱だこうとしません。それでも鷹揚おうように育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました 。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母おば
も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、
手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。 私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう
。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世
の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくな った後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっ
ともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊
かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半
は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ
握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私 も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかっ
たのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には 、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました
。そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろ
けの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができた のです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいた
のです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです 。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私
の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先ゆくさきがどうな
るか分らないという気になりました。 「私は今まで叔父任まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちは
はに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所
に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、 両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいとい
う言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っ
ていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。け れども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見る
と、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕つらまえる機
会を得ませんでした。 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生
であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪あやしむに足らな
いのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はそ の外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひと
から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私
の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。 私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、
話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ち
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔 父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人 に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在 し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭 で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事
ができるからです。 「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば
本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか 。私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
口惜くやしくって堪たまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰っ
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう
。
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金 額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修 業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永
久に見る機会も来ないでしょう。 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
生生活が私を思いも寄らない境遇に陥おとし入れたのです。 十
「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気 になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした 。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全 く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考 え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん 学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子 に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
と疑いもしました。 十一
「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。 そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過 ぎるくらいに思われたのです。
室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日 がよく差しました。
私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、 唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶な
まめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃに されてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって
もらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来
ました。私は移るや否いなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いっ た琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後あとから聞いて始めてこの花が
私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも
琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあった のでしょう。
こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。移った私にも、
移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を 損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して いたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さ
いくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行
きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。そうして 私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました 。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨うまい方ではなかったのです。
それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても 同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な活花を眺ながめては、まずそうな琴の音ねに耳を傾けました。 十二
「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだと いう観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじ
だの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽
車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもする と、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくな
る事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。 金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私
ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませ んでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にも
よく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家うちのものの
様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だ と思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切き
んちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもって いるか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じ
く下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であ
ったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。解釈は頭のある あなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐ
ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、
また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんとい
います。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれま
した。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。