インターネットメディアの世界では、ニュースに「共感」の押しつけが持ち込まれようとしています。的確に感情に
アプローチし、人々がどのようにクリックするのか、どのような中身でシェアするのかを追求しています。これは新しいこと、
良いニュースの追求ではありません。どれだけページビュー(PV)を稼げるか、どれだけSNSでシェアされるかの
競争にすぎないのです。競争の行き着く先は「良いニュースとは数字が取れるニュース」ということになります。

数字を取るために必要な感情を揺さぶる技術は、見出し論争に集約されています。新聞の見出しは内容を端的に
説明する見出しです。記事を書く部署と見出しをつける部署は分かれていて、最終的な見出しの決定権は見出しを
つける部署が持っています。彼らの熟練の技は、記事を全文読まなくてもわかる見出し、つまり要約されている見出しを
つける技術にあります。ところがインターネットではこの手法は不向きです。中身を読んでもらわないといけない
のに、「要約」されていては誰も中身に興味を持たなくなってしまうからです。

インターネットの見出しはいかに読んでもらうか、シェアしてもらうかという観点から発展してきました。その到達点が
人の感情にアプローチして、喜怒哀楽を揺さぶり、何か読まないとまずいかもと思わせる手法であると言えるでしょう。
見出しのつけ方は大まかに五つの方法に分けることがそかわきなひつはなにゆほちさおもゆたれへおめろほまめいのかできるのではないかと考えています。事例を挙げてみましょう。

読んでもらうことが良いニュースの定義に含まれる以上、読みたくなる見出しの競争が進むことそれ自体は歓迎すべきです。
しかし、見出し自体はあくまで一つのテクニック、手段にすぎません。手段に拘泥して中身が伴わない記事が一つでも
混ざってしまうと、読者が離れていくきっかけになってしまいます。もっと言えば、似たような見出しの記事で
あっても「信頼」を失います。
見出しで感情を刺激され、シェアしたけれど次の日にはシェアしたことすら忘れているなんてことはないでしょうか。
あるいは大して中身を読まずにシェアしていることはないでしょうか。