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明治期の廃仏毀釈は、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告[5](通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」[6]などの負担軽減策[注釈 1]が転機であり、そして政策の解釈の在り方による民衆の暴徒化から、寺院(宗教施設)の破却となったことを指すものである。

当時、政府の神仏分離令や大教宣布は、あくまでも神道と仏教の分離が目的の行政改革であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破棄といった、廃仏毀釈運動(負担軽減運動)が全国的に発生することとなった。特に長年仏教に弾圧されてきたマイノリティの神職者や民衆は、仏教を非難する契機ともなり、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至った地域も多いとされる[1]。これには、西欧列強の外圧による危機的状況や、平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不信感が、既得権である仏教への非難につながった側面がある。一方の廃仏毀釈の結果としての神道は、いわゆる神祇官復興運動へと結びついてゆき明治維新となったが、伝統的に農耕祭の場であった神社の非宗教化・新たな教派神道の宗教化へと分けて落ち着いたが、近代に即さない神祇官制は結実しなかった。